Saudade



 波の音が、心地好い。
 暗い汀を歩いていた。
 空には満天の星――と、ゆきたいところだが、墨をこぼしたような群雲が空のあちこちに斑を成す。冷たい銀の帳がこぼれている雲の奥には、月が顔を隠しているのだろう。
 ふと、顧みる。
 自分はいつこんなところに来たのだろうか。
 久方ぶりの主上との逢瀬に、身も心もとろけきっていた。それなのに、自分は、いつの間に、主上の傍を離れたのか。
 はやく、主上の元へ帰らなければ。
 一歩進むたび、浜辺の砂が、大きく、抉られる。
(おや、あれは)
 海に張り出した桟橋の上、佇むのはひとりの少年だった。
 風が出てきたようだ。
 群雲が、ゆるゆると、空を移動する。
 顔を出した月光の銀に照らされて、佇む人影が振り向いた。
 見覚えのある少年だった。
 しかし―――。
(ああ。これは、夢なのか)
 そう思ったのは、その少年が、既にこの世にないひとであったからだ。
 最後に見たときとは違う、質のよさそうな薄物に、その肉の薄いからだが折れそうなほど弱々しく見える。
 伏せられていた顔は、白々とした月光のせいか、怖ろしいほど精気に乏しい。
(いや。死者だったな)
 少年は、主上登局後のあの大きな反乱に巻き込まれた、数多ある死者のひとりに過ぎない。
 会ったのは二度。一度は獣身の時だ。もう一度は、少年が死ぬ、少し前。
 俺にとって少年が他の死者と違うところがあるとすれば、それは、少年が蓬莱と呼ばれる世界で主上の学友であったという、ただそれだけだろう。
 水面に踊る、銀鱗めいた小波。
 少年のうつろな双眸が、揺らぐ。
 チリン――
 かすかな鈴の音が聞こえたような気がした。
 何が、少年を駆り立てたのか。突然、少年は怯えたように走り出そうとし、いくばくもゆかず、倒れた。
 チリン!
 先よりも大きく、鈴の音がする。
 目を眇めて見やれば、薄物から剥き出しになった少年の足首に、不釣合いなほど頑丈そうな鎖が巻きつけられている。鎖の一方は、桟橋の手すりに繋げられているらしく見えた。
 少年が、ゆっくりと、起き上がる。
 先ほどの怯えは、少年からは拭い去られているようだった。
 着物の裾を払うと、チリチリと忙しなげに、鈴が鳴る。
 うつむく少年の胸元に、金の鈴が下がっていた。
(あれは)
 少年は、桟橋の手摺に背もたれた。諦めたような、乾いた笑いを、表情に貼りつけたまま、月の方向を見上げている。
 少年の見上げる先に、なにがあるのか、俺もまた、少年と同じ方向へと顔を向けた。
 白い月があるばかりだと、そう思われた空に、群雲よりも黒い影があった。
 見る見る大きくなるそれが巨大な魚影であると見て取って、俺は、その場に凝りついた。
 巨大な魚影と見えたのは―――そう、帆船ほどの大きさの、それは、妖魔だった。羽もなく、長い胴をくねらせて、雲間をするすると泳ぐように移動する。
 呆けたように見惚れていた俺は、かつて、金の鈴が妖魔への生贄の印―――――であったと、不意に思い出した。
 鎖を――。
 しかし、習いで泳いだ俺の手は、愛剣の柄を探り当てることはなかった。
 俺は、丸腰だったのだ。
 夢とはいえ、丸腰とは。気付いてしまえば、落ち着きが悪い。何か、代わりになるものはないのか。探る視線に、棒切れのひとつも見当たらない。
 クソッ。
 吐き捨てる俺の目の前で、妖魔は少年に近づいている。
 夢の中であれ、襲われているものがいれば、助けてやりたい。
 しかし、夢の中の俺には、それができないのだ。
 金縛ったように、みじろぐことすらできない自分に気付き、俺は、呆然となった。
「逃げろ」
 不可能とわかっていて、叫ばずにいられなかった。
 手をこまねいているのは性に合わないというのに。
 焦れる俺の目の前で、少年は、運命を受け入れるというのか、近づく妖魔を見上げている。
 チリチリと、少年の震えに合わせて、鈴が鳴る。

 妖魔が、その赤い口を開いた。

「……たい。桓堆」
 名を呼ばれて、俺は、目覚めた。
「しゅ……陽子」
 ふたりきりの時だけに許された、主上の名を口にする。目の前には、主上の心配そうな緑の双眸があった。
 心臓が、まだ、激しく波打っている。
「どうした、酷くうなされていたぞ」
 灯しに陰影を刻んだ、なめらかな顔が、目の前にある。
「悪い夢でも見たのか」
 主上の手が、俺の額に伸ばされる。
「ええ」
 額に触れた主上の掌の感触に、頬にかかる赤い髪に触れて、俺は、やっと、目覚めたことを確信した。肩先にこぼれた髪を束ねる組紐の先に、小さな金の鈴が下がって、かすかな音をたてている。
「大丈夫か」
 主上の頬に手で触れて、そのなめらかさに、
「はい」
 俺は、主上を抱きしめていた。
「かんたいっ」
 主上の狼狽したような声が、耳に心地好く響く。
「ったく、びっくりするじゃないか」
 体勢を入れ替えて、今度は俺が主上を見下ろしている。
「っ!」
 主上を抱きしめ、
「大丈夫です」
 俺は、目を閉じた。主上の体温と、焚き染める香の匂いにつつまれる至福を感じていながら、同時に、俺は、ほんの少しだけ、罪悪感のようなものを感じていた。それは、夢に現れた少年に対して抱いた憐れみが、まだ心の片隅にくすぶっていたからだろう。

 赤楽二年の和州の乱を平定して数ヵ月後、ひとりの大罪人が刑に処された。
 罪人の名を、籍恩。字を昇紘と言った。
 天意を図るために悪逆非道を繰り返した、郷長である。
 彼の処刑の数日前、桓堆は、主上につき従い、男のいる牢へと向かった。
 主上と男との間で交わされた会話を、思い出す。
 最後に、思い残すことはないのかと、主上のかすかに強張りついた声が、牢の中に響いた。
 ない――と、答えた男に、主上は背中を向けた。
 数歩、主上が男から遠ざかる。
『―――浅野くんは……死んだ』
 小さくつぶやいた主上のことばに、男は、
『存じております』
と、答えた。
 足を止め振り返った主上は、その刹那だけ、ひとりの少女の顔をしていた。
 心の中で決着をつけたとはいえ、ご自身の運命に友人を巻き込んでしまったという後悔が、時折り、顔を覗かせるのだろう。まして、その友人が、目の前の男に、騙され、弄ばれていたというのであれば。
『あれは、死んで尚、私のもののようです』
 その時、ほんの少し、男が笑ったように、思った。天井に近い位置にある、小さな明り取りから射し込むかすかな光の中、慄きを感じずにはいられない、そんな、笑いを、男は、口角にはりつけた――ように、見えたのだ。
『あれは、ここにいるのですよ』
 ――夜が来るたび、ただ、黙ってそこに立っている。だから、私が、逃げられないように、捕らえてやりました。
 歌うように付け足して、指差す先は、ただの壁だ。
『私の死を、待っているでしょう』
 ――そう。私が、あれのところへ行くのを、ね。
 埃の舞うかすかな陽射しを弾いて光るまなざしは、熱病病みのように潤んでいる。
『私は、あれを、愛しているのですよ。この私が………信じられませんが』
 狂っているのか?
 男は、静かな囚人だった。しかし、見えざるところで、狂っていたとしても、おかしくはない。自身が犯した罪の重さ、やがて迎えるだろう、断罪の時。それらを思って、発狂した囚人の例を、俺は、いくつも知っていた。
 コツ―――主上の足音が、俺を、現実に立ち返らせる。
『浅野くんには、迷惑な話だ』
 男だけを残し、主上は、牢を後にした。

 じりじりと、蝋燭の燃える音が聞こえる。
 夜のしじまは、まだ、深い。遙かに過ぎ去った記憶の断片を思い出したのは、夢のせいだろう。あの数日後、男は、首を刎ねられ、首級は、慣例にしたがって城門の外に曝されたのだった。
(せっかくの逢瀬に、なにむさいことを思い出しているのやら)
 俺は、静かに、頭を振った。隣で眠る、主上を起こさぬようにだ。
 ぼんやりとした明かりの中で見る、主上の寝顔は、あどけない。
 張り詰めた絃のような昼間の顔を、そこに見出すことは、難しい。
『陽子……愛しています』
 そっと、くちびるに触れ、俺は、もう一度、目を閉じた。

 チリチリと、鈴が鳴る。
 主上の動きに連れて奏でられるかすかな音色とは違って、その鈴はまるで、悲鳴をあげているかのようだった。
 海に張り出す桟橋の上で、少年は、救いを求めるように、手を伸ばしていた。
 生贄の鈴が鳴る。
 黒い妖魔に絡みつかれて、少年が、涙を流す。
 やがて、妖魔の姿が、ひとりの男へと変貌を遂げても、尚、少年は、怯えたように、震えるだけだった。


おわり



start from 14:30 2005/08/13
to end 9:23 2005/08/14
あとがき
 うわ〜〜〜ごめんなさい。誰に謝ればいいのやら。
 変な話。
 タイトルからして、淋しい話をイメージしてたんだけど、書けば書くほど墓穴堀になってしまいました。
 なんじゃね〜これは!
 た、楽しめます?
 とりあえず、浅野くん、ごめん。
 イメージは、シュぺルビエルの短編『沖の小娘』だったりするのですが。漫画少年版『夢幻紳士』の中の、同短編からインスピレーションを貰ったらしい一話だったりするのですが。切なさより、不条理さのほうが目立つような。
 Saudade サウダージ  郷愁という意味です。念のため。ちなみにポルトガル語だそう。フランス語かな〜と、勝手に思ってたんですが。
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