嫉 妬
「ね、いいの?」
明蘭が、オレの顔を覗き込んでくる。
「いいんだ」
オレの手の中には、明蘭に借りた金がある。それを懐にしまいながら、オレは、立ち上がった。
「金、絶対返すからな」
「それはいいんだけど………」
心配そうな明蘭の顔に、迷惑かけて悪いなと思いながら、でも、今回、オレは、まじで、腹が立ってるんだ。
誰に?
って、あいつに決まってる。
あいつ―――――オレの旦那っつーか、夫っつーか。
うううう。
頭を掻き毟りたい。
「だいじょーぶ?」
オレの顔を見上げて、槙々が言った。
「あ? ああ。大丈夫だ」
置いて出ようと思ったんだが、やっぱ、一応、母親――なオレが、こどもを置き去りにするのは、可哀想かもと、連れて出た。やっぱ、親に置き去りにされるのって、こどもにとっちゃトラウマになりかねないしな。
うん?
そうだ。
オレは、家を、出てきたんだ。
さっきも言ったけど、オレは、今、めちゃくちゃ腹立ててんだから。だからって腹立ってるって食って掛かったって、あいつは口八丁手八丁だから、どうせなんやかんやで丸め込まれるのが、簡単に想像できちまう。
だから、オレは、覚悟を決めたんだ。
止水から、出てやるってな。
だってなぁ……あいつからまじで隠れようと思ったら、地元なんてとんでもない。すぐばれちまうのが目に見えてる。なんたって、あいつは、この辺の郷長だからな。まぁ、規模は違うが、言ってみりゃ、お代官さまみたいなもんだろうし。だから、オレは、止水から出るつもりだったんだ。それで、路銀を明蘭に借りに立ち寄った。だって、オレ、金なんて持ってねーもん。『ほしいものがあれば、言え』って、あいつは、持たせてくれない。槙々ですら、小遣い貰ってるのにだぜ。そんなオレに金を貸してくれそうな人物は、昔馴染みの明蘭くらいなもんだ。
そうだ。もっかい、言っとかないとな。
「槙々」
「はい」
「こっから先、オレのことは、兄さんだぞ」
ちょっと真面目な顔で、見下ろすと、
「はい。兄さん」
生真面目に返してきた。
「よっし」
オレは、槙々の頭を撫でた。
黒い髪に、目の色は黒に近い紫紺だ。派手な髪や目の色が多いこの世界では、シックな取り合わせだよなと、思わないでもない。
「あ……長居しちまったな。ほんと、明蘭、悪い。迷惑かけて。落ち着いたら、連絡入れるから」
いけないいけない。ぼんやりしてて、時間食っちまった。オレは、明蘭を拝むように手を合わせると、不安そうな明蘭の声を背中にしたんだ。
ちょっと明蘭とこで、長居しちまい過ぎたかな。もう昼だ。
あいつが郷城に行くのを見計らってから出てきたから、一時間ちょっと、明蘭とこにいたってことになる。まじで急がないとな。もうじき、あいつが昼に戻ってくる時間だ。せめてこのあたりからは離れておかないと。
「ちょっと急ぐけど、大丈夫か?」
「はい」
「昼飯は、もうちょっと我慢な」
明蘭が持たせてくれた弁当が、ほんと、ありがたい。
オレは、槙々の手を引いて、ペースを上げた。
「ああ〜なまっちまってる。まじ、運動不足だ」
町から出るために、通らないといけない門があるなんて、オレは、知らなかった。関所みたいなもんだろうか。町自体が高い壁に囲まれてるのかもしれない。壁の一か所に、槍を持った見張りが立っている。で、その手前に、ちょっとした広場が広がっている。そこでは、行商人とか旅人とか、ともかく、たくさんのひとがならんで順番待ちをしてる。オレと槙々は列にはいった。
身分証明書とか、いるんだろうか?
不安になってきょろきょろとようすを見ていると、なんか後ろのほうからざわざわと、ざわめきが伝わってきた。
「おかーさま」
小さな声で、槙々がオレを呼んだ。回りの声が大きくて、他のヤツには聞こえなかっただろうけど、
「兄さん――だろ」
見下ろすと、
「でも」
槙々が、指差す先を見て、オレは、息が止まるかと思った。
「槙々。こっちだ」
ふたりの従者を連れて、馬の手綱を捌いてるのは、あいつ、だった。
あいつから隠れるように、オレは、順番待ちの列から抜けようとした。
どうも、それが、まずかったらしい。
馬の上からオレたちを探してたあいつは、目ざとく見つけて、馬を駆った。
おいおい。
やることが、派手なんですけど。
突込みを入れながら、でも、オレとしたら、必死だ。
こんなに速く、追っかけてくるなんて、思ってもなかった。
順番待ちの列が、綺麗に、二つに分かれた。
ああ。
失敗か。
壁際に追い詰められて、オレは、馬上のあいつを見上げた。
あいつのきつい視線が、オレを見下ろしている。
いつもより無表情に見えるのは、怒ってるからなんだろう。
でもな、オレだって、怒ってるんだ。
絶対、折れないんだからなっ!
「帰るぞ」
いきなりかい。
どうして家出をしたんだ――も、なんもない。
大きな手が、伸びてきて、オレの肩を、掴む。
痛い。
肩の骨を折られそうな、怖さがあった。けど、
「イヤだ」
オレは、あいつを、睨んだ。
どれだけオレが本気で怒ってるのか、視線にこめた。
しかし、
「まったく」
溜め息をひとつつくと、あいつは、肩を握っていた手を放し、すぐにオレの二の腕を捕まえやがったんだ。それで、力任せに、馬の上に、引きずり上げた。
イヤだも何にもない。
あっという間の早業だった。
「槙々っ」
伸ばした手は、届かなかった。
こいつは、オレを乗せると、すぐに、馬を走らせたからだ。
槙々が、こいつの従者に馬に抱き上げられるのが、遠ざかってゆく広場の景色の中に、見えた。
連れ帰られたオレは、引きずられたまま部屋に連れて行かれた。
「ヤ……だ」
そのまま、牀榻に放り出されて、血が下がる。
「どうした、怒っているのだろう」
そう。
オレは、怒ってるんだ。
けど、その、怒りの原因が、怖かったからだってことに、オレは、気付いちまった。
一昨日の夜、こいつがしたことが、オレにとっては、最悪に怖いことだった。だから、めちゃくちゃ腹が立って仕方がなかったんだ。
昇紘が、上着を脱ぎ捨てた。
なんで、脱ぐんだ。
背中に、冷たい汗が、流れる。
手が、オレの、肩を、掴んだ。
「いやだっ」
無言のまま、昇紘が、オレの服を脱がそうとする。
「やめろっ」
上半身を捻るようにして、昇紘の手を逃れようとして、逆に、牀榻の上に倒れる羽目になった。
背中に、昇紘の体温と重みとを感じて、オレは、震えた。
「やめてくれ………」
布団の上に顔を伏せて、オレは、馬鹿みたいに拒絶を繰り返すだけだ。
「なぜ、逃げた」
耳もとで、昇紘の低い声が、ささやく。
それだけで、背中が、ぞくりと、震えた。
耳の付け根を舐められて、全身が、逆毛立つ。
布団とからだの間に差し込まれた手が、オレを、力任せに抱き締める。
苦しさに呻いたオレは、次の瞬間、牀榻に腰を下ろした昇紘の膝に抱きかかえられる格好になっていた。
「痛っ」
はだけられた胸元を這っていた昇紘の手が、小さなそれを、抓り上げた。
「なぜ、私から逃げようとしたのか、声にして言え」
弄られているそこから、全身に痺れが広がってゆく。
「イヤだって、そう、言ってた」
声が跳ねそうになるのを必死でこらえながら、それだけを言うのが精一杯だった。
「なにがだ」
ぴりぴりと敏感になった肌の上を、昇紘の掌が、好き勝手に、撫でさする。
その手が、不意に、止まった。
「……と、トラで、した」
「虎……だと?」
こいつ、覚えてないんだ――と、思えば、恐怖と快感に圧倒されていた怒りが、よみがえった。
「一昨日の夜っ。寝てるオレを、酒に酔ったおまえは、トラになって、抱いたんだっ」
あれだけ、トラになって抱くのは止めてくれと、頼んで、こいつは、ならないと、約束していたのに。
「約束破ったじゃないかっ」
トラの姿のこいつに抱かれるのは、まじで辛い。
次の日なんか、丸一日は、動けない。
だから、オレが家出したのに、一日のズレがあってもしかたないと思う。
「トラのおまえは、怖いんだ……辛いし……………それに、おまえ、あの夜は、化粧の匂いさせてた」
酒の匂いの合間に、ふっと、白粉の匂いのようなものが、鼻先をかすめた。
「女とそういうことしたんだったら、なにもオレを抱かなくたっていいなじゃいかっ」
勢いにまかせて見上げた昇紘の顔が、妙に歪んでいるように見えた。
顔が、ひきつっているというか、何かをこらえているというか。
「なんだよ。言えって言うから、言ったんじゃないか」
もういいだろ――膝から下りようとしたオレは、しかし、
「なっ」
再び牀榻の上に、押さえ込まれていた。
昇紘のくちびるが降ってくる。
触れたと思えばすぐに離れて、
「それは、化粧の主に、嫉妬していたということか?」
思いもよらないことを言われた。
嫉妬?
オレが?
「違う」
そんな馬鹿なことあるわけがない。
「違うって言ってるだろ。何してるんだ、やめろっ」
昇紘の手が、背中に回された。
「安心しろ。あの夜は、招かれた酒席に酌婦がいただけだ。浮気などするわけがないだろう」
おまえがいるのに。
そうささやかれて、オレのからだが、固まった。
「郁也。おまえだけを愛しているよ」
にやりと笑って、昇紘は、オレを見下ろしたのだ。
後には、拒絶も何もなく、ただ、昇紘に流されるだけの、オレがいた。
トラになったことを謝ってくれなかった――と、気がついたのは、少ししてからのことだった。
おわり
from 6:55 2005/09/18
to 9:27 2005/09/18
あとがき
朝っぱらから何書いてるんだろう。
ちょっとはバカップルかな?
夫婦喧嘩は家の中でね。ってお話でしょうか。
暗い話が続いたので、ちょっと気分転換に。少しでも楽しんでいただけるといいのですが。