闇の底で





 その子供を見た時、目の前が明るく開けた気がした。
 理由など判らない。
 あたりは相変わらずどうしようもないほどの闇だというのに、その子供だけがどこからか光を投げかけられているかのようにくっきりと目に見えたのだ。
 不安そうに口元に手を当てて、残る片方の手は、服の裾を握りしめている。
 顔立ちは整ってはいるが凡庸だ。取り立てて人目を引くタイプではないだろう。明るめの褐色の瞳が、怯えて揺れる。
 さらさらとした髪に触れてみたいと、やわらかそうなまろい頬に触れてみたいと、そう思った。
 子供が歩く左右が崖の細い道は、一歩足を踏み外せば、それでおしまいだ。
 子供とはいえ、死の魔物に喰らわれて、転生すら適うことはない。
 さて。
 本日最初のお客人だ。
 私は少年の前に姿を現した。
 突然の出現に、少年が足を踏み外しかける。
 それを抱え込む。
 ああ、なんてやわらかくて温かい。
「ありがとう、おじさん」
 泣き出しそうな目を見開いて私を見上げた少年に、大きく心が揺らぐのを私は感じた。
「ここ、どこ?」
 暗く長い道のりではじめて出会った存在に、縋りつくかのように少年は私の衣を握りしめている。
 それが、愛しいと、思った。
 その心の動きに、私自身目を見開かずにはいられなかった。
 なにものにも心を乱されることのない死の番人であるこの私が、このちっぽけな少年のありきたりで些細な言動に感情を見出されているのだ。
 冷酷、冷徹。あげく、残虐非道とまでそしられることのあるこの私が、である。
 さて、どう説明しようか。
 君は死にかけているのだと説明して、まだ五つほどに見える少年に通じるものか。
 このまま進めば、永い眠りの果てに転生を迎える忘却の園がある。
 しかし、この存在を消してしまうことが、私にはしのびなく思えてしかたなかった。
 心が痛む。
 私の衣を握りしめる手も、見上げてくるまなざしも、その凡庸な目鼻立ちも、総てが融け消えて、別の存在へと生まれ変わるのだ。
 とはいえ、この道を引き返せば、少年は私のことを忘れてしまうだろう。
 死の世界を長く覚えていることもない。
 ましてや、そこでたまさか出会っただけの私のことなど。
 本来は、ここで、死者の魂に通達するのだ。
 おまえは死んだのだと。
 それを告げられた者は、諦めて受け入れるか、往生際悪く泣き叫ぶか、逃げようとして足を踏み外し千尋の谷の底で口を広げている死の魔物に喰らわれるか、いずれかの行動に移るのだ。
 もちろん、上手く引き返すことができる者も、稀にではあるが存在する。
 さて、どうするか。
 困惑したままで私が少年を見下ろしていると、
「わかった! ぼく、死んだんだ」
 ぽんと手を打った。
「そうだよね、おじさん?」
 なぜだろう、澄んだ眼差しが、心に痛い。
 今までだとて、さまざまな死様をした人間やさまざまな年齢の死者を見てきたというのに。
「ああ。まだ完全に死んだわけではないが」
「じゃあ、引き返したら、生き返れる?」
 私から逸らされたまなざしを、私に向けたいと、その刹那に渇望する。
 しかし、再度向けられた瞳には、期待が宿っていた。
 そう。
 帰ることができるという期待だ。
 ここからこの少年が居なくなる。
 それを考えるだけで、とてつもない孤独が襲いかかってくる恐怖に、一度だけ全身が大きく震えた。
 ばかな。
 なにが、今更、孤独だと。
 苦笑が、こみあげた。
 なんだこれは。
 こんなちっぽけな人間の子供に、私は魂を文字通り奪われたのか。
 こんないたいけな罪のないさまをしておいて、なんて、罪深い者なのだろう。
 ほんの少し、その事実に、私は苛立った。
「この道を、引き返せるか?」
 私は、苛立ちのままに、闇を払いのけた。
 ほんの少しだけ。
 道とその周囲が詳細に判る程度に。
 少年が息を呑む音が耳を打つ。
 少年が辰場所を認識したのを確認して、私は、闇を再び下ろした。
「やだっ」
 途端、少年が、私の手を握りしめた。
「暗いよ」
 少年の全身の震えが伝わってくる。
「高いの怖い」
 一旦高さを意識すると、動けなくなる。
 しがみついてくる少年を抱き上げて、私は耳元にささやいた。
「私が連れてかえってやろうか」
 本当ならしてはならないことだった。
 それでも。
 この少年を手に入れたかった。
 今はしかたがない。
 この少年は、ただ、前に進むか後ろに戻るか、その選択肢しか許されていないのだから。
 私がこの少年を手に入れるためには、不正な提案を持ち出すよりない。
 一度は、元の世界に戻してやる。
 そう。
 私の心を奪ったその罪深い魂を。
 しかし。
 次は、ない。
 この次私と出会ったとき、少年の魂は私のものだ。
 未来永劫、私の傍らに立つ存在として、この常闇に囚われるのだ。
 泣こうが、喚こうが、それが、この罪深い魂には、相応の罰にちがいないのだから。
 私のことばに全開の笑顔でうなづいた少年を抱きかかえると、私は瞬時に少年の身体が眠る場所に出た。
「約束だ。いいな」
 この次に私と会った時こそ、既に帰る場所はないのだと。
 少年は深く考えることもなく、大きくうなづいて、私から離れて行った。
 慌ただしくひとの立ち働くその部屋の寝台の上、ただ静謐に眠る少年の瞼が、かすかに揺らぐのを確認して私は深い闇の底へと戻ったのだ。


おわり



wrote 2011/06/16 (thu) up 2011/07/19 (tue)




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