ああ、今夜も月がオレを見ている。
何故だろう、オレは月が恐ろしかった。
だれでも一度くらいは考えるだろう、自分は他人とは違う。
自分は、何か特別なことをすることができる人間だなんて考えてしまう、所謂廚二病と言うヤツだ。
それを考えることが実は、自分がどこにでもいる普通の人間ってことなんだろうけど、考えるだけなら別に薬にも毒にもなりはしない。多分な。
うん。
オレも、考える。
ただ、オレは、それに被害者意識がはいってるらしい。
なぜなのか。
思い当たる節がない。
どうせ考えるなら、楽しい妄想に耽りたい。
健全かどうかは別として、やっぱり妄想は楽しいほうがいい。
だろう?
だって、別にオレは嗜虐趣味じゃない。
虐められたいとか、痛いのが気持ちがいいとか、束縛されたいとか、そんな嗜好の持ち主じゃない。
うん。
いたって普通の高校生だ。
だからってわけじゃないけど、妄想だって、どうせするなら最近のラノベとかネット小説とかそういう方面のがいい。
なのに。
なんでなんだろう。
「おい浅野これならどうよ?」
ノックの音に応えると入ってきたのは、果たして、ジャッカルやコヨーテをイメージさせる男だった。
全寮制のこの学校に途中編入してオレと同室になった、椎原だ。
オレと同い年の十七というには大人びて見える椎原は、洗いざらしだろう枯れ草色の髪を梳きあげながら、オレに一枚のディスクを手渡してきた。
酷薄そうな薄いくちびるの端には、にやにやとひとの悪そうな笑いを刻んでいる。
「まったく、こんな地味なの探すの逆に面倒だったんだぜぇ」
「そこまでしてくれって頼んでない」
まったく。こいつどうにかしてくれ。
男子校だから、あるていどあけすけなエロ話とかを休み時間にすることはしかたがない。
たとえ全寮制でも、一年中寮にいるわけじゃないからな。いろんな体験をするヤツはしてたりするわけだ。
オレ?
ほっといてくれ。
ま、リアルでそうそうできるヤツは少ないと言うのが実情でもあるけどな。
男子校生って、意外とナイーブなんだよ。常日頃異性と接してないから、どうしても構えてしまうんだ。妄想過多でそうなる場合もないことはないけどな。
所謂、やりたい盛りってやつだし、しかたないよな。
そんなことを考えながら椎原が渡してきたディスクを見た。
ケースには、ちょっと扇情的なタイトルがついてるが、十五禁の文字も入ってる。まぁ、その、恋愛シミュレーションゲームのちょこっとハードなやつだ。
いや、その、オレがエロゲをやったことないって言ったら、貸してやるといらん世話を焼くと主張したのが、こいつだ。
オレだって、興味はある。
普通のだろうと十八禁だろうと関係なくだ。
けどな〜。
何となくパッケージを見てしまうのってファンタジー系だったりするわけよ。でもって、そういうのって、魔王を倒せ、あんたは勇者! とかっていうのだったりするわけだ。
オレそれが苦手なんだよな。
苦手なのに手に取るって言うのも、わけ判らんけどさ。
でも、取ってしまうのはしかたがない。
すぐに棚に戻すけどな。
それで、だ。
何が苦手って、魔王、神、勇者、女の子が勇者とか、あとは、妊娠とか強姦とか触手とか、そういうキーワードが致命傷なわけだ。
なんか、目の前がくらくらしてくるんだよな。
そんなわけで、オレがするゲームと言えばもっぱらシューティングとか、ハンティングとかだったりする。健全だろ。
それを、椎原は笑うわけだ。
で、このエロゲを持ってきたんだな。
「オレの苦手なシチュエイションはないんだよな?」
念には念を入れて、確認を取る。
「言ったろ、地味だって」
「わかった」
一応椎原は無駄な嘘はつかないヤツだ。
それに、ジャケットを見る限りじゃ、学園ものっぽいしな。
よし、チャレンジだ。
オレは、ドキドキしながら、ドアを閉めた。
鍵をかけるのも忘れなかった。
「ま、がんばんな」
そう言った椎原のにやにや顔だけが、やけに記憶に残ってた。
興味はあるんだ。
ゲーム機をテレビに接続してディスクをセットする。
けどな。
実は、誰にも言ったことはないけど、オレ、実は………。
昔実話とかなんとかで映像化されたホラーの影響で、その、射精ができない。
オレが誰かに呪われてるとかそういう現実はない。けど、なんだろう、あれを見たことで、オレの健全なはずの肉体機能に、ロックがかかってしまったこともまた本当のことで。
あれは、血をこぼすと呪の主が現われて取り殺されるというはなしだったが。血イコール経血だったのがガキのオレには強烈だったのか、男のそれに当たるものを出す行為ができない。
いや、別に役立たずじゃない。けど、できないんだ。
なんというか、苦しいだけだけど、おさまるまで我慢してしまう。
だから、なるべく、その種のものは敬遠してるわけなんだけどな。
けど。
やっぱ、年頃だし。
どうしても、興味はある。
ジレンマと性欲との戦いの毎日です。
はい。
「なにやってんだよ」
かすかな音をたててゲームが起動した。
へ?
「なんで?」
「やっぱりな」
ニヤニヤ笑うコヨーテやジャッカル。
「鍵かけたぞ」
「開けいでか」
カード錠なのに、破ったわけね。
顔が近づいてくる。
クンとオレのにおいを嗅ぐように鼻を鳴らして、
「危機回避能力かね」
訳の分からないことを言う。
「本能的に避けるとはさすが」
「しかし」
「だ」
「待ちくたびれてらっしゃるんだよ」
オレの首を掴んで、椎原が言う。
ちゃらちゃらとした電子音がテレビのスピーカーから流れ出す。
「もちろん、オレたちもだ」
「だから」
「な」
「さっさと見ちまえよ」
「そうして、思い出しちまえ」
月だ。
月がオレを見ている。
月に棲むあいつが。
「騙したな」
いらない嘘をつくヤツじゃないと思っていたのに。
学園を舞台に勇者や魔王が戦うというファンタジーだった。
オレにとって禁忌ともいえるキャラが盛りだくさんの魔王討伐ものというか、勇者陵辱ものだったのだ。
こんなん絶対十五禁じゃない。
湿った音と悲鳴や喘ぎ。
吐き気に何度襲われただろう。
しかし。
その度に椎原に押さえつけられて、ヤツが選ぶ分岐ルートによって開かれる光景に呻きをあげつづけた。
「強情だな」
「もよおさないか」
鼻で笑う。
「やめろっ」
椎原の手が、オレの下半身に触れてきた。
オレのそこは、エロゲの展開に少しも反応してはいない。
「さすが! 苦行僧並みの性生活者の面目躍如だな」
馬鹿にしたような薄ら笑いが耳を打った。
「な、なんでっ」
なんで知っているんだ。
「知ってるさ。お前のことならな」
「おまえの知らないこともな」
「それはともかくだ」
椎原がことばを切る。
「いい加減、出したいと思わないか」
「ほっとけっ」
「というか、出してもらわないと、こっちが困るんだ」
「下手に手を出すとこっちが迷惑を被るんだが。しかたないかぁ」
「ひっ」
わけの分からないつぶやきをこぼしつつ、まだオレのに触れたままだった手が、変な風に動いた。
布地の上からのその動きは、しかし、的確なものだった。
熱が集まる。
駄目だ。
このままじゃ。
手で払おうとするのだが、椎原は一枚も二枚も上手で、オレの動きはことごとく封じられた。
耳の奥、何かが迫ってくる音が響く。
それは、大げさに言うなら、オレの運命。
それから逃げたくて、オレは、決してオナニーをしなかったと言うのに。
してはいけないと。
それは、オレの行動を規制する本能的なオレ自身の忌避だった。
それを、椎原は破ろうとしている。
プレイヤーのいなくなったゲームが同じ場面をエンドレスで流している。
その淫らがましい画面が、音声が、オレの五感を刺激する。
そうしてなにより、いつの間にか直にオレに触れていた椎原の掌が。
「ガキだな」
引きずり出したそれを見て、椎原が嗤う。
「きれいなもんだ」
ちろリと舌先で椎原が自分のくちびるを舐め湿す。
それだけで、オレの体温が一気に上がった。
「お。そろそろか」
「いやだっ」
ひときわ性急な椎原の手の動きに、オレの守り通してきた「何か」は、容易く砕かれた。
音たててそれが床を濡らす。
白く濁った、オレの。
耳の奥、オレに迫ってくる何かの音が大きくなってゆく。
椎原がオレの身繕いをしてオレを解放したのに、オレは気づかなかった。
駄目だ。
見つかる。
何が?
何に?
荒い鼓動。
熱を放って弛緩した四肢(からだ)。
もうだめだ。
そう思った時、ちかちかと照明が明滅をくり返し、落ちた。
ゲーム機も電源が切れ、静寂が部屋に満ちる。
同時に、窓が大きく開かれた。
風が吹き込み、カーテンが翻る。
鼻孔を満たすのは、冷たくも甘い花の匂い。
燻るかおりが、オレの脳を刺激する。
忘れたはずの、捨てたはずの、遥かな記憶。
悪夢にほかならない記憶が、オレの記憶の深淵の底から表層へと浮き上がってくる。
真円の月を背に、それは佇んでいた。
声にならない悲鳴が、オレの喉を破った。
「ごくろう」
低い、ものに倦んだ声が、部屋を支配する。
「父上」
「陛下」
場所とキャラとに似合わない台詞だった。
椎原が、ふたりいる。
月光に照らし出されたよく似た顔は、双子なのか。
まるで西洋貴族のような礼をとる。
光を弾く双眸は剣呑なまでに輝き、なんとか視線を逸らせようとするオレを見下ろす。
三対のまなざしの、なんと良く似ていることか。
オレを見下ろすその瞳の奥にあるものが、オレを恐怖で縫い止める。
「どれほど私を煩わせるか」
いつの間にか陛下と呼ばれ父と呼ばれた男がオレの間近に佇みオレを凝視する。その瞳の冷ややかさにオレの全身は熱を無くす。
逃げたい。
痛いくらいにそう思う。
やっと、逃げることができたのに。
なぜ。
「死ねば逃げられると思ったか」
悪意のこもった笑い声を孕ませて、白い手袋に包まれた手がオレの顎を捕らえた。
そうだ。
オレが逃げつづけてきたのは、この男からだ。
月の裏、異世界の魔王と恐れられるこの男。
だからこそ、オレは、あれほど勇者と魔王のファンタジーを避けつづけたのだ。
月の裏側のその異世界で、何度も死ぬ前のオレは、祭り上げられた勇者だった。
その実少しも強くはなく、魔法も使うことはできない、ただの形の上での勇者だった。
どれほど祈ろうと現われることのない勇者に、王が遂に意を決したのだ。
民の生活を乱すもならず、異世界からの拉致もよしとはせず、ならば我が子をと、末の娘に白羽の矢を立てた。
仮にもその世界の王の末の姫だったオレは、恐れられた魔王討伐の勇者の偶像として立たされたのだ。
周囲を固めるものたちはその世界での一人者ばかりで、オレだけが、ただの素人だった。
及び腰のオレは、流されるままに、旅立った。
王の命令は絶対だったからだ。
待ち受けるのは、己の死だと痛いほどに感じながら。
苦難の旅の末、目の前に立ちはだかる魔王に一矢報いることすらできなかった。
「煩わしい」
そのひとことで、オレたちは力を奪われたのを感じた。
立っていることすらやっとの状況で、ただ、オレは魔王を睨んだ。
オレにできることはそれだけだったのだ。
強大な魔王の力の前では、一騎当千の強者も、世界第一人者である魔法使いも、あらゆることを見通すという大賢者も、聖なる神の御子だと言う聖者も、赤子同然だった。
暗く陰惨な魔王の世界で、魔物たちに群がられるや、オレたちはバラバラに引き離された。
魔族ではなく、ただ本能だけで生きる魔物が群がる。
彼らが蹂躙されるのを、ただオレは見ているしかできなかった。
なぜなら、いつの間にかオレは魔王に囚われていたからだ。
背後を取られ、膝を折らされた。
その無様なさまに、悔し涙すら出ることはなかった。
ただ、オレにできる唯一のこと、魔王を睨みつけていた。
「傀儡の勇者でも気概はあるか」
驚きはない。
先刻知られているだろうことは想像に容易かったからだ。
「なれば、情けをかけてやろう」
かすかに楽しんでいるような口調に、オレの背中は逆毛立つ。
「いらない。一思いに殺せ」
「あせるな。死ぬなど、ひとである身なればいつでも容易くできよう」
それよりも、楽しむがいい。
「我が飽きれば即座に殺してやろう」
笑いを噛み殺しながら、魔王は、オレを押し倒した。
それからの日々は、悪夢だった。
さまざまな趣向でオレは魔王に犯されつづけた。
魔王を楽しませるためだけに奉仕する人形だった。
「孕んだか」
ある時そう指摘されて、オレは愕然とした。
なにも感じない人形でありつづけたオレを驚愕させるのに充分なひとことだった。
魔族と人間との間に子が生まれるなど聞いたことがなかったのだ。
「子など必要ないが、な」
腹の上にある魔王の手が、撫でさするように動いた。
「知っているか? 魔族は滅多なことで子を生すことはない。子はたまさか人間の女が孕む。そうして生まれる子は男と決まっている。母親は最初の異性として我が子に犯される。胎内に残した魔力を取り込むためにもな」
ぞわりと立つ鳥肌をみて、魔王が嗤う。
悪意に満ちた表情に、オレは気がくるいそうになった。
「シィバよ。イバラよ」
「はっ。父上」
「はい。父上」
ふたりの椎原が魔王を見上げた。
「おまえたちの母を連れ戻る」
男の口から放たれたことばに、オレの意識は焼き切れそうになる。
「嫌だ」
「触るな」
オレは、何度も死ぬ前に生んだ双子に、立ち上がらされた。
「やっと。本来の姿でお会いすることができました」
「どれほど、この時を待ち望んだことか」
がらりと変わった口調で、椎原だった双子が言う。
「これでやっと、我らの念願も叶います」
悲鳴が口を裂く。
コヨーテとジャッカルめいた容貌に、満面の笑みがうかぶ。
「今度こそ我らの想いを受け止めてください」
「不在の年月の分もわすれずに」
「性別が変わろうと、妻であり母であるものの義務だ」
魔を統べる王が苦々しげに嗤った。
終わり
from 18:42 2012/05/05 to 15:50 2012/05/07
HOME
MENU