虎 その後
呻く気力もないくらい、からだが痛い。
熱をもって疼くのは、昨夜散々あいつを受け入れさせられた箇所だ。
昨夜のあいつの行為はいつも以上に粘っこくて、どれだけ許しを乞うたかしれやしない。
そのとき自分がどんな情けのない涙声だったのか、思い出す。
虎に戻っているときあいつがオレを貫くものには、猫科の生き物に独特の特徴があらわれるから、怖くて、辛くてならないんだ。
そう。
猫科の生き物の陽物には、たやすく抜けないために返しの棘がある。
だから、雌猫は雄猫が遂精後に引き抜く時に、あまりの痛みに叫ぶのだそうだ。
切り裂かれる痛みだ。
からだの内側から食い破られる、苦痛。
それだとて、あいつたちに食い殺される道士たちに比べれば、まだしもましな痛みには違いないのだけど。
けど。
死ぬわけじゃないオレは、永遠の拷問にかけられているのと変わらない。
虎の姿のあいつがオレを抱くとき、それは、決まって、あいつたちが道士を迎えに行く前の日だってことに、オレは気づいてる。
そうしておけば、独りでオレを残しておいても、オレが逃げる心配はないんだ。
あいつが戻ってくるまで、オレは、立ち上がることができない。
のろのろとからだを起こそうとするけど、あまりの痛みに、地面に突っ伏さずにはおれない。
ため息とも呻きともつかない息をひとつ、肺の中から押し出して、オレは覚悟を決めて、下半身を引きずった。
まるで蛇にでもなった気分で、ずるりずるりとからだを引きずる。
そのとき、熱い痛みがはしって、痛みよりも熱い何かが、痛む箇所から流れ出したのがわかった。
ああ、傷が開いたんだな。
じりじりと焼かれるような疼きが、オレの鼓動と同調する。
この痛みが治らないなんてことはない。悔しいけど、あいつが帰ってくるころには治るんだ。
それは、嬉しい事実なんかではないけど。それでも、痛みが消えるのは、消えないよりもはるかにましだった。
それまでなんだ。
自分で自分に言い聞かせながら、オレは、少しずつ、地面の上を這いずった。
少し引きずるたびに起きる痛みに何度となく休みながら、耐え難い喉の渇きに洞窟の奥へと進む。
洞窟の奥に、ぽっかりと天井が抜けた箇所があって、そこには、湧き水がわいている。
とてもきれいな青色の空間に、今は黄色い花が咲いている。
小さな花が、時折吹き込んでくる風に、揺らぐ。
あちこちから竹の子のように顔を覗かせる六角柱は、水晶だ。水晶に陽射しが降りかかり反射する光が、水面でもういちど反射する。
きらきらと光る、まるで夢のようにきれいな光景だけど、今のオレに鑑賞する余裕などあるはずもない。
たまっている水に顔を突っ込んで、喉を鳴らす。
冷たくて甘い水が、オレの喉を通って、胃の腑に収まった。
熱に犯されているからだに、それは、とても心地よく感じられる。
その瞬間だけ、オレは、傷の痛みを忘れることができた。
だからなんだろう、いつの間にかオレは眠ってしまっていた。
「う……うん」
どれくらい眠れたんだろう。
なにかが、しつこく頬に触る。
つんつんと、先のとがったものでつつかれるような感触だった。
やっとのことで眠れたのに。
眠りから覚めたとたん、また、傷がが疼きはじめる。
目を開いて見上げると、目の前に、人影があった。
赤く黒く染まった洞窟の中、小さなこどもがしゃがみこんでオレを見下ろしている。
なんで――こんなところに…………
これが夢や妄想などではないと、五感が伝える。
ここに、現実に、生きたこどもがいるんだと。
「……………逃げろ」
こんなとこにいちゃ駄目だ。
どうやって迷い込んできたのかは知らない。
そんなことはどうだっていい。
問題は、ここに、人間がいることなんだ。
虎たちは、好んで道士を食べる。
それは、徳を積んだ者を食べれば、自分たちの力が強くなるから――なんだ。
少なくともそう信じているからで、腹が膨れるかどうかは、二の次だ。だから、やつらは、食べる。道士を食べるまでの間に、ほかの生き物を狩ってきては、食べている。
虎たちが狩ってくる獲物のなかには、人間が混じってることだってあった。
徳を積んでいない人間だって、好んではいないらしいけど、平気で食べるんだ。
だから、駄目なんだ。
オレは、虎たちが狩ってくる、人間以外の肉のおこぼれで生きていた――と言ってもいい。
もっとも、最近のオレは、あまり食べていない。
食欲がないんだ。
肉を食べようとすると、吐き気がする。最初のうちは、戻してしまってた。
ここのところは、水と、あいつが採ってくる木の実で生きている。
けど、実を言えば、それすらもほしいとは思わないオレがいる。
木の実ですら、嘔吐しそうになるんだ。
オレが欲しいと思うのは、水だけになってる。
水は、いい。
胸がすっきりするからだ。
オレはいったい、どうなっているんだろう。
オレは、人間なんだ。
絶対。
なのに。
あの恐怖の夜から、いったいどれだけの時間が流れたのか。
髪も、爪も、少しも伸びていないんだ。
本当は、本当のオレはとっくの昔に死んでしまっていて、今ここにいるのは、ただの死霊なんじゃないかって、不安になる。
でも。
からだを犯しつづける疼痛は、現実のもので。
あいつに対する、どうしようもない恐怖すら現実で。
オレの思考は、いつもぐらぐらとおぼつかない。
なぜなら。
白黒つけるのが、何よりも恐ろしくてならないからだ。
もしも――――――――――人間じゃないのだったら、オレは、どうすればいいんだ?
あいつから逃げられるだろう、たった一つの方法すら奪われてしまったとしたら、オレは、どうすればいいんだろう。
まだ怖くてできないけど。
それでも、オレがあいつから逃れられる方法を、ひとつだけ、オレは、知ってるんだ。
それは、一見簡単そうに思えて、けど、めちゃくちゃ勇気がいる。
まだ、オレは、その方法を選ぶことができずにいるんだ。
オレは、まだ、生きていたい。
そう。
どんなにからだが痛んでも、あいつにどんなことをされても、オレはまだ、死にたくないんだ。
死―――は、絶望だ。
オレを逃がしてくれた両親に対する、裏切りなんだ。
オレは、オレの忘れてしまった記憶を取り戻している。
あの堂がある同じ山に、オレの住む村はあった。周りは山ばかりで、村から出るのは、堂のある山を越えるか、反対側のつり橋を渡るかのどっちかっていう、辺鄙な山里なんだ。
今思えば、あのころは、幸せだった。
昔からよく言われるけど、幸せって、その中にいるときは、気づかないものなんだ。
周囲の山から採れる玉やそれを細工したりして、オレたちは生活してた。
家の裏に畑を耕して、山に入って獣を獲ったりしてな。
でも、堂につづく道には、隣の村に行くときしか入らないのが、決まりだった。
修行中の道士たちの邪魔をしちゃいけないっていうのが、理由だった。
あの日、オレは、親父の手伝いをしてた。
町に出てみたいって夢はあったけど、町で何をしたいっていう具体的な目的はなかった。
どっかの金持ちが親父に注文した窓飾りをオレは、玉から彫っていた。
細い窓の格子に、鳳凰の尾を刻むんだ。そうやって彫った尾の目玉柄のところに、別の玉を薄くそいだのをはめ込まないといけない。薄くそぐのが、難しいくて、嫌なんだけど、そんなこと言ってられなくて、必死だ。親父は慣れたもんですっすと仕上げてくけど、親父がひとつ仕上げてるのに、オレはまだ三分の一もできなかった。
そんなオレを見て、親父が、薄く笑う。
台所から漂う夕飯のにおいに気づいて、オレの腹が鳴った。
「飯にするか」
穏やかな親父だった。
親父が怒ったことなんか一度もない。代わりに、お袋がしゃきしゃきしてて、オレのことをよく叱った。
晩飯のときだった。
外が、騒がしくなった。
親父が勝手口を開けて、すぐに閉めた。
甲高い雄叫びが、悲鳴に勝ってた。
「逃げろ」
火の手が上がったのだろう。
外が、夕焼けのように赤く染まっていた。
外から勝手口が蹴破られて、入ってきた男たち。
親父とお袋が、オレを裏口から逃がした。
振り返った視界に、お袋と親父の最期が、焼きついた。
皆殺し。
盗賊の叫びが、耳を打つ。
追っかけてくる盗賊。
オレは、必死に、山に逃げ込んだ。
そうして、盗賊に、斬られるか、射られるか、縊られるか、何かをされたんだろう。
最後の最後、思い出したくないらしくて、オレの記憶は、ぼんやりしている。
けど、めちゃくちゃ怖かったってことは、覚えてる。というか、思い出している。だからなんだろう、死ぬのは、怖い。
怖くてならないんだ。
「どうして、逃げない」
五才くらいに見えるこどもの口が紡ぐのは、愛らしい声音には不似合いな、不思議に威厳のこもったものだった。
夕日の赤に染まった白い簡素な服を着て前髪と横髪だけを残したくりくり坊主の頭をしたこどもの目が、オレを見下ろしている。
普通のこどもじゃない。
黒い瞳が、鋭くオレを見下ろしている。
「人外ごときの玩具に甘んじるのか」
耳に、心に突き刺さることばだった。
それでも。
多分。
痛みに動くことすらままならないという現実なんか、このこどもには、考えられないことなんだろう。
人間なんかその前足の一振りで簡単に殺してしまえる獣に対する恐怖なんか、わからないんだろう。
いつ首を食い破るかわからないあいつに支配されて、ただ苦しむだけというのは、理解の範疇外なんだろう。
非人間的なまなざしにさらされて、オレは、ただ、震えるしかない。
「このままここにいれば、遠からずおまえも、ひとではなくなる。その身が妖魅と化すも、諾と、いうのか」
ああ、やっぱり。
突きつけられる現実に、オレを捕らえようとするのは、諦めだった。
「逃げないのか」
逃げる―――。
そのことばの裏に、このこどもが込めているものを、オレは、やっと理解した。
全身が震える。
じわりにじむのは、脂汗だ。
このこどもは。
オレを。
「今ならば、まだ、おまえは逃げられる」
だが。
この機を逃せば、おまえは妖魅と化して人に仇なすものとなるだろう。
どうする。
「………して」
こみあげてくる涙に、視界がぼやける。
薄暮の中に、ひとならざる神聖なこどもが佇む。
うっすらと光を帯びて、残酷なまでの正しさをつきつける。
「ころして…………オレを、殺してください」
死ぬことでしか逃げられないのは、痛いくらいに感じていた。
それでも、自分で死を選ぶことは出来なくて。
怖くてならなくて。
あまりの恐怖にうずくまってしまったオレに、何かが救いの手を差し伸べてくれたのだろう。
もうおまえには時間が残っていないのだと。
「人間でいられるうちに、人間として殺してください」
諾―――――と。
こどもの口端が、満足そうにもたげられる。
非人間的なその笑いに、いつかあの堂で見た神の像が重なるような気がした。
あれは、魔を屠るという、童子の姿をした神だった。
神が、音もなく剣を引き抜いた。
震えながら、オレは、目を閉じた。
激しい雷だった。
獣の唸り。
洞窟の中、大気がねっとりと濃度を増して渦巻く。
後ろ首をなにかに掴まれたと思った次の瞬間、オレは、背中を岩壁にぶつけていた。
そのままのいきおいで、地面に落ちる。
「グッ」
喉に熱い塊がこみあげ、目の前が真っ赤に染まった。
全身を駆け抜ける灼熱は、痛みに変わり、そうして、氷のように冷たい刃となった。
オレのからだからあふれ出す赤い血が、神と魔が対峙する洞窟の地面を塗らした。
人間のまま死ねるのか。
神が与えてくれるはずだった死ではないけど。
それでも、これも、死には変わりない。
水晶に串刺しにされて迎える死は、もしかして、オレには過ぎたものかもしれない。
まぁ、いいか。
オレは、目を閉じようとした。
その時、ひときわ大きな雷が大気を震わせた。
耳を聾する轟きとともに、洞窟の岩が崩落する。
何が起きたのか。
気がつけば、目の前に、黄色い双眸があった。
虎の目が、ぬるりと解けて、黒い人のまなざしへと変貌を遂げた。
「愛している」
と、
「逃がさない」
と、オレをめちゃくちゃにしつづけたあいつが、ささやいた。
「はは…………」
何ともわからない笑い声とともに、オレの喉から、大量の血があふれ出る。
崩れ落ちる洞窟の中、あいつに抱きしめられて、そうして、オレは死を迎えたのだ。
おわり
start 12:14 2009/04/11
up 10:39 2009 05 04
◇ いいわけ その他 ◇
『虎』が、まぁああいう話だったので、ラストは救いなく終わるのです。
ブログでも書いてましたが、最近の魚里は、少々ストレス過多のため、鬼畜度数がいつもより上がっている模様です。
だから、こうなる。
ごめんね〜〜〜xx
ちなみに、この話の昇紘さんは、神に退治されてます。で、まぁ、この洞窟は、ふたりの墓標になったのでしたという感じで。
こんな内容ですが、少しでも楽しんでいただけると嬉しいです。
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