囚われの 前編




 春。
 うららかな陽射しに眠りこけそうになりながら、オレこと浅野郁也は、がんばって黒板を見ていた。
 白いチョークで書き出された、“正”になりかけなのやなったのや、クラスの人数分の棒線が踊っている。
 今は、図書委員を決めている最中だ。というか、ちょうど最後の棒を担任が黒板に引きおえたところだったりする。
 オレは、二年になったばかりの一学期間中、図書委員だと、決まった。
 ラッキー――と、飛び上がりたい。
 なぜって、もうひとりの委員が、中嶋だったからだ。中嶋陽子、長くて赤い髪と緑の目が印象的な、優等生。去年彼女が同じクラスに転入してきた時から、オレは、なんかいいなと思ってた。
 ふつーオレみたいなヤツって、中嶋タイプを煙たいって思うのかも知れないが、なんでだか、惹かれてる。そりゃ、外見が好みっていうのもあるんだろう。第一印象は、どうしたって外見からのものだしな。ま、オレってば優等生ってタイプじゃないから、ないものに憧れてるのかもしれない。
 ともかく、これから、少しずつ、親しくなれるといいな――と、思ってたのだ。
 いや、オレにしても、まどろっこしいとは思うよ。
 もっとすぱっと告白して、ノーならノー、オッケーならオッケーと、結果を出してしまいたくないわけじゃない。今までだって、ガールフレンドとそうやって付き合ってきたからだ。けど、中嶋には、そんなに軽薄なアプローチじゃ駄目だろうって、オレの中の何かが忠告してくるんだ。
 軽いとよく言われるオレだけど、やっぱり、フられるのってショックだし。
 好きな子には、いい印象を持っててもらいたい。今更か? ま、ともかく、これからだ、焦るなって、オレは、自分に言い聞かせたのだった。

 それが、四月はじめの出来事だ。
 あれから、四カ月がこようとしている。
 その間に、すこしでも、中嶋と親しくなれたかといえば、これが、まったく変わんねーんだよな。
 本当なら面倒な委員会も、中嶋と一緒だと思えば、ワクワクとドキドキが交じり合って楽しい。――はずだったんだ。なのに、今年新しく入ってきた司書の昇紘って男の先生が、オレをじっと見てるのが気になって、それどころじゃない。
 司書の昇紘って先生は、迫力のある男で、顔も声も悪くない。そうだな、ファンタジーとかロープレなら悪役やってそうなイメージだ。そんでもって最後に殺されたりすんだよな。そんなことを考えて気を逸らそうとするんだけど、先生の視線が気になって、結局、見返しちまう。くそっ。中嶋の横顔を見てる暇なんてありゃしない。
 あんまりしつこい視線に、ムッとなった感情を隠さずに見返すんだけど、気まずそうにしもしない。にやりとでもいった風に、笑ってよこす。
 いったい、なんだって言うんだ。
 委員会の間中、いつも、昇紘の存在だけが、やけに目立つ染みのようで、オレは、好きな相手とまともに喋ることもできやしなかった。
 そうして、その日がやってきた。

 もうじき夏休みがやってくるって、そわそわと校内が浮き足立っている。
 オレはといえば、夏休み自体は嬉しいが、その間、中嶋との接点がまるっとないことに、少々落ち込み気味だった。だってな、二学期になったら、委員は変わらなきゃなんねーしさ。まぁ、夏休み中に、ローテ組んでる図書当番があるけど、毎日じゃない。課外がある間だけだしな。夏休みでも毎日学校に来たいって考えるオレって、実は、かなり、けなげだったりするんだろうか。
 だってなぁ。
 一応、これまでに女の子から、告られたこともあるし、付き合ったこともある。告って振られたのと告られて振った比率は、半々くらいか。ほどほどってとこだと思うんだ。まぁ、今フリーということは、それだけ振ったり振られてたりしてるってことにもなるけど。でも、今時のヤローって、こんなもんだよなと、オレは思ったりしてる。フットワークは軽く、性格は明るく、毎日を楽しく――だ。なのに、どうしても、中嶋と話す時って、委員会の内容に終始しちまう。プライベートや雑談って雰囲気にはなんねーんだよ。
 それでも、オレは、やっぱ、中嶋が好きなんだ。
 中嶋といるだけで、なんとなく、ワクワクしちまう。たまに意見が合うと嬉しいし、ふっと中嶋自身意識してないだろうなって笑みがこぼれたりすると、それだけで得した気分になれちまう。なんか、お手軽だよな、オレって。
 そんなオレだったからさ、夏休みなんか来なけりゃいいのにって、ちょっと思ったりしてた。
 そんな、金曜日だった。
 その日は、オレと中嶋の図書当番の日だった――んだけど、中嶋は風邪をひいちまって、休みだった。(夏風邪は――なんて言うなよな。中嶋はそんなんじゃないんだからさ。)当然、当番はオレひとり。そんなことを考えてると、ふっと昇紘の顔が浮かんできてさ、咄嗟にばっくれっちまおうかと思った。けど、そういうわけにもいかないだろ。後でバレて叱られるのはまぁいいけど、正直、中嶋に軽蔑だけはされたくねーもんな。
 当番は、昼休みと、放課後だ。
 オレひとりっつーのは、残念。っつーか、中嶋、大丈夫か? 夏風邪はきついって言うからさ。見舞いに行きたいけど、う〜ん。なんか、緊張しそうだしな。変なこと口走っちまいそうだ。
 えと、うちの学校の図書館って、校外にあんだ。
 ま、校外ったって、校門の外、細い道一本隔てた向い側だけどさ。で、もちろん、平屋だけど一軒家。四DKくらいの広さはあると思う。古い木造平屋だから、案外広い。用務員さんが趣味か仕事かで手入れしてる庭もあるし、冬なんか、今時、ストーブ焚くんだぜ。
 コンクリの三和土(たたき)でも、オレの部屋より広いかもしんね。そこで、靴脱いで、上半分擦り硝子で下半分が木の引き戸をあけると、黒いコールタールかなんかが塗ってある天井が高い本の部屋だ。はいってすぐの左側、スチールの本棚のむこっかわに、司書のセンセやら図書委員が座ってるカウンターがある。その後ろに、司書室があるが、まぁ、オレらには関係ないから、中がどーなってんのかまでは知らない。本棚に囲まれた真ん中に、夏の間は無用の長物……どころか見たくもねーやって、だるまストーブが据えつけられてあって、それを避けるように、古めかしい、分厚い木の書見用の長いテーブルが六つくらい並んでる。パイプ椅子は、まぁそれにふさわしい数が揃えてるな。

   明日が土曜で休みだからか、昼休みの図書館は、なんかしらねーけど、やけに混んでた。
 弁当食う間もなかった。
 残りの授業は楽俊先生の古典と小司馬先生の美術だし、どっちもそんなにカロリー使わない。けど、早弁――っつーか遅弁(?)はできそうにない。しかたないから、オレは、放課後まで我慢して、図書館で食うことにしたんだ。
 昼の混雑が嘘みたいに人気のない、放課後の図書館で、オレは、弁当を食っていた。
 カウンターから見渡す部屋いっぱい、ひとっこ一人いない。
 こんな雰囲気、実は、嫌いじゃないんだよな。
 落ち着くし。
 扇風機なんてないんだけどな。けど、司書室のドアの隙間から、ひんやりとクーラーの冷風が漏れてきて、ほんの少しだけど、微妙に涼しかったりする。ちょっとだけ涼しい思いをしながら、薄暗い室内から、夏の陽射しに照らされてる庭を見るっていうのは、暗い楽しみかも知んないけど、蝉の声なんかが不思議と別世界に思えてくるから、不思議だ。
「ごっそーさん」
 手を合わせて、弁当箱をかばんの中にかたした。んでもって、時計を見る。
 下校時刻までまだ一時間以上ある。
 宿題でもしてしまおうかと、カウンターの上に数学のテキストを広げた時だった。
 ガラリと音をたてて、カウンターの後ろの司書室のドアが開いた。瞬間、冷気が、オレに襲い掛かる。
「あ……」
 現われたのは、うちのガッコ司書は一人しかいないから、当然、
「昇紘先生……いたんすか」
 間抜けなことを口にする。
「ああ。君は………浅野、郁也くんだったね」
 思わず退きそうになったのは、フルネームで呼ばれたからだ。それに、なんか、名前のところだけ、変に強調されたような気がするけど、気にしすぎか?
 鋼色のきつそうな目が、見下ろしてくる。
「今日は、昼も、ひとりだったようだが」
 よくご存知で。
「中嶋なら、風邪で休んでるんですよ」
「そうか」
 そうそう。そういうことです。
 昇紘先生の動きをなんとなく目で追っていた。
 え?
 ちょっと。
「せ、先生」
「なにかな?」
「なんで、休館なんて札出すんです」
「今日はもう閉めようと思ってね」
「そうですか……って。…………な、なんで、戸締り。……入り口、に鍵かけるんです?」
 しかも、内側からって。
 まだ、オレ、オレがいるんすけど。
 音をたてて、オレは、椅子から立ち上がった。
 不穏な空気というか、よからぬ雰囲気というか、――を、振り向いてオレを見る先生の視線に感じた――ような気がしたからだ。



 ガタン。
 大きな音をたてて、椅子が倒れた。
 オレが慌てて立ちあがったからだ。
 まぬけにも、椅子の足に躓いて、バランスを崩す。
 まるで、それを待ち構えていたかのように、先生の腕が伸びてきた。
 そうして――――


 手擦れて飴色の光沢を宿す古い木の長机の上で、オレは天井を見上げていた。
 タールを塗ってあるのだろう、黒い天井が歪むのは、悔し涙のせいだ。
 いやだ、やめろ、バカやろう。
 制止と罵詈雑言は、ことごとく黙殺された。
 昇紘のヤローは、あっという間に、オレの制服を脱がし、ご丁寧にもネクタイで手首を縛りやがったんだ。説明も何もありはしなかった。ただ、黙ったままで、カエルの解剖をする時でも少しは躊躇うというのに、ヤツは、なんの躊躇いもなく、オレから服を剥ぎ取った。
 痛みと熱を持って、噛みつくようなキスが降ってくる。
 大きな手が、全身をなでさする。
 最初のうちは鳥肌を立てていた全身が、熱に炙られているかのように火照っていた。
 声が出そうになるのをくちびるを噛んで堪えていると、とつぜん、指が、オレの口を抉じ開けにかかった。
「くちびるを食い破る気か」
 それだけを言って刺しこんできた指が口腔を蹂躙する感触に、嘔吐(えづ)きあげそうになった。
 流すまいと必死になっていた涙が、刹那閉ざした瞼に、こぼれ落ちた。
 なんで、オレがこんな目に合わなければならないんだ。
 わけが判らない。
 悔しくて、腹立たしくて、同時に、とてつもなく、恐ろしくてならなかった。男の自分が大人の男のそういう対象にされていることもそうだが、自分に襲いかかってきた男が、なによりも、恐怖だった。意思を無視して無理矢理暴かれる快感のツボに、反応をしてしまう自分自身が、いやらしく思えてならない。
 こんなの、オレじゃない。
 奥歯を噛みしめた途端、ぐちりと、厭な感触が歯から伝わり、同時に、頬で爆ぜたのは、男の空いているほうの掌だった。
「あ……」
 間の抜けた声が、オレのくちびるからこぼれ落ちる。
 思わず瞠らいた瞳のすぐ先に、強(こわ)いものを潜めた鋼色の目があった。さっきまでオレのくちびるに合わさっていた、ヤツの口の端に、ほんの少しだけ赤い糸のような血の筋が引かれているのは、オレが、ヤツの舌を噛んだからだ。
 見下ろしてくる視線から、目を離すことが、オレはできなかった。目を逸らしたら最後、頭から食われる。そんな、想像が、オレの全身を震わせていた。
 そんなぶざまなオレを見下ろしたまま、ヤツは、いつもは下がっている口角を引き上げ、ぞっと鳥肌が立つような笑いを形作ったのだ。
 尻でずり上がろうとして、肩を押さえ込まれた。

 その後なにが起こったのか、オレは、記憶に残していたくなどない。
 思い出したくもなかった。



「くそっ」
 力を入れすぎて、ポキッと音をたてて折れたのは、手にしてた木炭だ。
 床に落ちた半分を拾いながら、オレはつい、愛想笑いを口にのせていた。
 忘れてた。
 今は、美術の授業だ。オレは、膝の上にのせた画板に向かって、シーザーだか誰だか、縁もゆかりもない石膏像の首をスケッチしてるのだ。試験がないからって理由だけで、選択を美術にしたのは、甘かった。提出物はしっかり期限以内に出さないと、陰険そうな美術のセンセは、容赦なく減点するらしい。歌と楽器の発表と、レコード鑑賞の感想文だけでテストなしっていう、音楽を選択してたほうが、まだしもだ。そう思ったときには、遅すぎた。
「あっ」
 座りなおしたオレの目の前に、当の美術教師、小司馬先生が立っていた。
 細い、酷薄そうな瞳が、やけにじっとりとオレを見下ろしていて、ぞっと、背筋に粟が立つ。
「静かに」
「す、すんません」
 後頭部を掻きながらへらへらと、笑う。と、細い指先がオレの襟元に突きつけられた。
「ここ……見えそうで見えない位置というのが、いいね。実に」
 指摘されて、今度こそ、オレは、硬直してしまった。
 まさか、見えてる?
 全身が、炙られてるみたいに熱くなった。
 あの日、男にヤられるという最悪最低の経験をした日から、やっと一週間だ。  起き上がれないオレを、あいつは家まで送ってくれた。が、それがなんだってんだ。あんなことをしておいて、いけしゃあしゃあと家まで送れる神経が、信じられない。ヤツは、家までどころか、部屋まで入ってきやがった。
 しまったと思っても、後の祭りだった。
 ひとのいない家の中、ヤツは、感じ取ったかもしれない。オレが、独り暮らしをしているってことをだ。ガキの頃に母さんが死んでから、ただでさえ仕事人間だった親父は、ますます仕事にのめりこんじまった。で、去年だな。親父のヤツ海外に単身赴任になったと思ったら、あっちで、さっさと結婚しちまったんだ。まぁ、生活には困らないし、案外こまめに連絡もくれる。この夏休みにでもこっちに来いとか、高校を卒業したら来いとか、ふたりでいたときよりも、うるさいくらいだしな。
 そんな理由で、この家の中、オレ以外の人間の気配も、匂いも、ない。それを、感じるヤツは感じるらしい。
 だから、入って欲しくなどなかった。けど、オレは、動けなかった。そう、立ってるだけでさえ、辛くてたまらなかったんだ。
 オレの部屋で、オレの目の前にいるのは、オレを無理矢理……抱いた相手だ。
 着替えるなんてもってのほかだし、ベッドになんか、入れやしない。
 早く帰れ。
 そう念じながら、オレは、ベッドに腰を下ろしていた。それだけでも、脂汗がながれおちる。全身が震える。
 明日明後日が休みってことだけが、不幸中の幸いだ。こいつが帰ったら、どうにかしてシャワーを浴びて、そうして、寝てやる。一応全身は濡れタオルで拭われてたが、気持ち悪さは変わらない。
 そんなオレの神経を逆なでするかのように、あいつは――――



 黙ったままオレを見下ろしてくる、ねつい視線。
 帰れ――そのひとことを言いたくて、口にすることができなかった。
 なぜって、逆鱗に触れるのが、怖かったんだ。
 あんなことをした相手だ。下手なことをいったら、なにをするか、わかったもんじゃない。
 それに、ベッドに腰かけたままからだの震えを堪えるので、あの時のオレは、精一杯だったんだ。
 早く帰ってくれ。
 それだけが、オレの考えることができたすべてだった。
 ヤツが何も言わず部屋から出て行った。
 帰ったのか? と、思ったオレの全身から力が抜ける。とたん、ぱったりと、半分倒れこむようにして、ベッドに懐いた。
 全身が、特にある特定の箇所が痛みを訴えてきたが、我慢した。
 なのに……だ。
「風呂入るぞ」
 気分を変えるように、つぶやいたときだった。
 オレの部屋のドアが開いた。
 視線が、全身が、強張りつく。
 帰ったのじゃなかったのか。
 ドアを開けたのは、ヤツだ。背広の上を脱ぎ、腕まくりをして、手に、湯気のたっている小振りの鍋を持っていた。
 近づいてくるヤツに、反射的に身じろいで、オレは、呻く羽目になった。
「食べるんだ」
 スプーンが差し出されたが、オレは、首を振った。
「腹が減っているだろう」
 減っている。
 確かに減っているのだが、どうしても胃のあたりから喉のあたりにかけて、むかついてたまらない。
 尚も粥を掬ったレンゲを口元に近づけられて、オレは、こみあげてくる空嘔吐(からえづ)きに襲われた。
「大丈夫か」
 からだを折り曲げて苦しさを堪えるオレの背中に、ヤツの掌があてられた。刹那、ぞっと、鳥肌が立った。
「触るなっ」
 叫んだ声は掠れていて、威厳も何もありはしない。が、どうにかやつの手を振り払い、勢いにまかせてオレは立ち上がった。
 しかし、すぐに、足が震え、その場に、しゃがみこむはめになってしまう。
 忘れた嘔吐感が、よみがえっていた。
 口元を押さえ、蹲ったオレを、ヤツが、抱え起こす。
 ヤツの体温に、どうしようもない怖じ気を感じてしまう。
 触られると、一層のこと、吐き気が増した。
「ひぅ」
 情けない悲鳴が漏れたのは、抱え上げられたからだった。
 ヤツの腕に抱えられ、オレは、オレの全身は、強張りついた。
 吐き気すらもが強張りつく。
 イヤだ。
 怖い。
 なにをするつもりなんだ。
 ぐるぐると、目が回る。
 思考すらもが、回っていた。
 そうして、オレは、意識を手放してしまったらしい。
 そのほうが、オレにとっても、多分、ヤツにとっても、幸いだったにちがいない。
 なぜなら、ヤツは、オレを、風呂場に連れて行ったのだ。部屋から出て行ったときに、既に湯を張っていたのだろう。ヤツは、意識のないオレの服を脱がせ、そうして、湯船に、浸からせたのだ。意識があれば、オレは、なんとしてでも抵抗をしていただろう。他人に風呂にいれられるだなんて、とんでもない。しかし、オレは、気を失っていた。だから、ただでさえへろへろの上に、いらぬ緊張をせずにすんで、はるかにましだと、そう、思う。――思うことにしたんだ。そうでも思わなきゃ、まじで、やってかれない。ヤツにとっても、抵抗がないという点では、ラッキーだったに違いない。
 もっとも、意識のない人間のからだは常より重いらしいから、くたくたになっているオレの面倒を見るのに多分、昇紘は、苦労しただろう。けど、どんなにヤツが苦労しようが、そんなもの、オレは、知らない。この際、裸をまた見られたとかいろんなことは忘れることにして、むしろ、溜飲が下がる心地がするのだった。
 ヤツが、帰って行ったのは、オレが何とか普通の状態に戻れた、次の日だった。



(シャツのボタン、やっぱり留めたほうがいいか)
 首回りとか苦しいのって、苦手なんだが、やっと薄くなってきたあれを、なんかの拍子に、中嶋に見られたくはない。
 今更の感情だったけど、でも、他人に指摘されちまうと、気になるのが人情ってもんだろう。
 けど、今は、駄目だ。
 指摘されて襟を留めるなんていうのは、あからさまにすぎる。
 小司馬先生の後姿が目に映ってる。
(変なこと言いやがって)
 腹が立つ。が、まさか、得体が知れないところのある小司馬相手に、なにをするのも面倒で、ぼんやりと、画板の上に、視線を移した。
 描きかけのシーザーだか誰だかのトルソが、紙の上で奇妙に歪んでいる。
 思い出したくなかったことを思い出してしまったことで、木炭をもつ手に、力がはいらない。描く気力が萎えていた。
 ただでさえ、この後、図書委員関係の会がある。
 委員会自体は先週あったばかりだが、今回は、月一発行してる図書新聞の係に選ばれてるヤツらだけの集まりだ。そう、その中に、オレも含まれている。
 休めばよかった。
 そんな考えが、頭を掠めなかったわけはない。
 しかし、中嶋も、選ばれてる。つまり、中嶋の近くにいられる、めったにないチャンスでもある。同じクラスにいても、気軽には近寄れない。いつも彼女の近くにいて親しそうに喋っているのは、みんなに一目置かれてるような奴らばかりだ。祥瓊とか大木鈴とか、桓堆とか浩瀚とかだ。彼らと一緒にいる時の中嶋には、気軽には近寄りがたいような、独特の雰囲気があるのだ。だから、大手を振って彼女の隣に座ってられる一時を、棒に振りたくはない。
 見えるか見えないか、ギリギリって、小司馬は言っていた。隣に座ると、中嶋に見られてしまうかもしれない。それだけは、なんとしても、避けたかった。
 シャツの下のTシャツ、その襟ぐりくらいだろうか。そこが、気になってたまらない。
 どれくらい、ぼんやりとしていただろう。
 ふっと顔を上げると、小司馬がこっちを見ていた。
 薄いくちびるが、にやりと笑う。
 その、デ・ジャ・ヴュを伴う感覚に、オレは、くらりと眩暈(めまい)を覚えずにはいられなかった。



「う〜ん」
 手洗いの鏡に映った自分を見て、やっぱり、シャツの襟を開けときたい衝動とオレは闘っていた。
 一応確認したら、あれは、やはり、ちょっとうつむいたりしたら微妙にやばいかもしれない位置だったのだ。ずっと気づいてなかった自分にも、呆れるが、指摘する小司馬もなんだかなと、思わないでもない。
(かろうじてって感じなんだし、黙っていてくれたらよかったんだ)
「よ、浅野。なにめかしこんでんだ?」
 突然肩を叩かれた。
「幡多(はた)〜」
 振り返り、うなるように、名前を呼ぶ。確認する必要もない。鏡には、見慣れた友人の顔が映っているからだ。
「へぇ」
「な、なんだよ」
 目線がほぼ同じくらいのクラスメイトに、じろじろと見られ、思わず、腰が引けた。
「おまえが制服きっちり着てんのって、初めて見た気がする」
「あっそ」
「なんか、らしくないよなぁ」
「悪かったな」
「どうした心境の変化ですか、浅野くん」
 わざとらしい丁寧な言葉に、
「な、んとなく……だな」
 声が、歪(ひず)む。
「そ。ところで、帰り、ゲーセンでも寄ってかないかって話ができてんだけど。確か、新作が入るの今日だったろ」
 それ以上追求されなかったことに、肩の力が一気に抜ける。
 廊下を歩きながらの幡多の誘いに、よろめかなかったわけではない。もともとが、サボりたかったのだ、しかたがない。鋼色の、ねつい視線が、まとわりつく。が、瞬間、頭を過ぎった赤い髪と緑の目が、それらを押しやった。
「わりぃ。パス」
「なんでよ、おまえの好きな、シューティングもはいるはずだぜ」
「委員会」
 そのひとことで、はたと、手を打った。
「まっじめだよな〜。おまえ、図書委員になってから、一度も委員会フけてないだろ。記憶が正しけりゃ、当番もだ。ま、お目当てがいるんじゃしょうがねーか」
 ばしばしと、遠慮なく背中を叩いてくれる。
 幡多には、オレが中嶋に気があるってことを知られてる。感付かれた当初は、『チャッレンジャー』と、からかわれたが、今では、それとなく応援してくれてたりするらしい。ま、面白がってるってーのが大だろうがな。
 で、脈はありそうか?
 耳元でささやかれた質問に、ぞわぞわと、背中に粟が立った。
「うんにゃ」
 それでも、変に思われたくなくて、オレは、短く返したのだった。
「敵は手ごわいからな。気長にいけよ。急(せ)いてはことを仕損じるってな」
 手を振る幡多に、
「わーってる。さっさと行きやがれ」
 しっしと、オレは手を振った。
「さて……と」
 回した肩と首とが音をたてる。
「オレも、ぼちぼち行きますか」
 幡多の後を追うように、オレは、ゆっくりと、図書館に向かったのだった。


 意を決してドアを開けた途端、
「遅いっ!」
 飛んできたのは、委員長の声だった。
「浅野、遅刻だよ。そこ、空いてる席にちゃっちゃと座る」
「わりぃ」
 目くじら立ててる委員長――長岡女史にぺこりと頭を下げた。
 庭に面した長机に、図書新聞のメンバーが座ってる。
 ショックだ。なんたって、中嶋の隣の席が、埋まってるからだ。
 しかも。
 少し離れて……ああ、やっぱり。
 心臓が、痛む。
 責任者だからな、あいつがいないわけない。
 コピー用紙を片手に、昇紘は、悠然と椅子にかけている。
 そんな、ぎゅうと悲鳴をあげている心臓を抱えてるオレに、
「なにやってんの」
 女史の声が、容赦なく、追い討ちをかけてくれた。
 でも、な。
 昇紘がいる場所って、オレが座らないといけない席の、すぐ、横。
 イヤだ。
 躊躇してもおかしくはないはずだ。
 けど、オレとヤツの間になにがあったか、もちろん女史は知りもしない。知られたくもない。けど、活字の鬼と噂されてる女史が、この時ほど、文字通りの鬼に見えたことはない。
「もう!」
 セーラー服の袖をまくりそうな勢いで、焦れた女史がオレの襟首を掴んで、椅子に押し付けた。
「予定が詰まってんだからね。ちゃっちゃと終わらしてくれないと、こっちが困るの」
 そういや、女史は、文芸部の部長で新聞部の副部長とかって聞いた記憶がある。夏休み間近と言うこともある。この後、まだ、どっちかの部か両方の部ででも、会議でもあるんだろう。
 オレは、両手を肩まで上げた、所謂、ホールドアップの体勢で、そんなことを考えていた。
 座ってしまったからには、しかたがない。
 諦めよう。
 大丈夫だ。
 ここには人目がある。
 そう。
 大丈夫だ。
 観念したオレは、女史から手渡されたコピー用紙に目を移した。
 今回の特集は――っと。
 議題の確認をしてたオレの耳に、確かに、右隣に座っているヤツの笑う声が聞こえてきた。
 それだけで、オレの全身が、強張りつく。
 鳥肌が立つ。
 全身が震えて、息が苦しい。
 脂汗が、背中を流れ落ちるのが、やけに、生々しい。
 日当たりのいい窓際なのに、昇紘の影が、オレにのしかかる。
 陽射しが、あんなに、遠い。
 オレだけが、影に、飲み込まれているような不安に、目の前が暗くなりそうだった。
 青く、暗い、虹彩の形をした花が、視界に花開く。
 ぱたりと、音をたてて、コピー用紙の上に、脂汗が滴り落ちた。
 ああ、首が、腕が、もげてしまいそうに重い。
 吐きそうだ。
 やばい。
 そう思った。
 このままでは、手すら動かせずに、机につんのめってしまいそうだ。
 駄目だ。
 我慢しきれず目を閉じたオレの両肩に、誰かの手が、かかった。
「大丈夫か?」
 ああ、中嶋だ。
「貧血だな」
 ヤツの声。
 遠く近く、水の底で聞く声のように、ふたつの声は、揺らいでいる。
「保健室へ」
 中嶋の声が、心配そうに聞こえる。
 へへ、心配してくれるんだ。
 なんか、嬉しい。
 中嶋の手の感触が、とても心地いい。
「連れて行こう。後は、長岡、君にたのもう。戻ってこなければ、浅野を送って直帰したと思ってくれていい。カウンターの当番が最後に戸締りをして出てくれ」
 わかりました――と、焦ったような女史の声が聞こえた気がした。
 膝の裏を掬われて、鼻先を、記憶にあるかすかなコロンの香がかすめる。それは、一週間前の記憶を、目覚めさせる。
 忘れられない、まだ生々しさの残るリアルだ。
 イヤだと、拒絶の手は、動かない。昇紘に抱きかかえられたままで、身じろげない。
 その悔しさに、浅く荒い息しかできない苦しさが混じる。と、ネクタイを引き抜れる音が、鼓動やざわめきを遮った。



 溺れている夢を見た。
 底なし沼だ。
 絡み付く藻が、気色悪くて、目が覚めた。
「気がついたか」
 低い声が、耳を射抜く。
 全身が、たちまち凍りついた。
 目の前に、昇紘が、いる。昇紘は、ベッドサイドまでスツールを引っ張ってきて腰を下ろしていた。
 ついててくれたのか。
 なんだか、奇妙な気分だった。
 図書館でぶっ倒れたんだったっけな。
 いつまでも強張っていてもしかたがない。さっさと起きて、帰ろう。
 なんのつもりなのか、昇紘が手を差し出してくる。それを無視して起き上がった途端、無様にもふらついた。おかげで、伸びてきた昇紘の腕に、抱きとめられるなんていう羽目になってしまった。しかも、
 ドン!
「あっ」
 ほとんど条件反射だった。鼻先を掠めたコロンの香に、ヤツを突き飛ばそうとして、適わなかったのだ。
 やばい………。
 それは、本能だったのかもしれない。
 背中が、後ろ首が、ちりちりと、逆毛立つ。
 クッ………。
 喉の奥で押し殺したような、そんな笑い声が、耳に痛かった。
 怒っている。
 確信だった。
 硬直していたせいで、腕の中から逃げなければと思い至った時には、既に、遅すぎた。
 昇紘の手が、オレの、肩に、かけられている。
「いやだっ」
 遅まき過ぎる抵抗をするものの、貧血起こしてぶっ倒れてた人間の抵抗など、どれほどのものでもないのだろう。反対側の手をオレの腰にずらした昇紘は、容易くオレを封じることができた。そうして、キスをしてきやがったのだ。
「っ」
 口の中に、血の味が広がる。それを吐き出すまもなく、再び、頬を張られていた。
 痛い。
 頭の芯からぶれるような、平手打ちだった。
 二度三度と繰り返され、抵抗する気力が瞬く間に萎えてゆく。
 どさりと、ベッドに、背中があたる。そのままずるずると、床にすべり落ちた。
 頭をベッドの上にのせたまま、オレは、かすむ目で、昇紘を見上げた。
 昇紘の視線が、オレの視線を受け止めて、微塵も揺らがない。
 なぜだ。
 こんなにひどいことをしているのに、なんで、平然としていられるんだ。
 オレを見下ろしてくる昇紘の視線に、熱は、感じられない。いや、違う。瞳の奥のほうに、得体の知れないものが、ちろりと揺れているような気がする。青いような、白いような、それが、こいつの、感情なのだろうか。
 わからない。
 オレには、この男が、まるっきり判らなかった。
 ただ、ひたすらに恐ろしくて、怖くて、嫌でたまらない。
 それは、昇紘に対してなのか、昇紘にされることに対してなのか、ひっくるめてなのだろうか。
 苦しい。
 昇紘の、鋼色の視線が、ただ、憮然とオレに突き刺さってくる。
 無言のまま、昇紘が、オレの前に膝をついた。
 ベッドについた昇紘の手が、スプリングを軋ませる。
 シーツの上、仰のいて天井を見上げている首を、オレは振る。
 やめてくれ――と。
 逃げ場がないことは、わかっていた。
 オレが、こいつに力で適わないことも―――だ。
 助けを呼びたかったが、誰かに知られることが、嫌だった。オレが、男に、抱かれた――だなんて、誰にも知られたくない。決して。
 膝を開かれ、昇紘が、そこに、おさまる。近づいてくるヤツの顔に、涙がこみあげて、ただでさえぼやけていた視界が、溶ける。
 シャツの上を這いずる、掌の感触に、全身が、震える。
 カチャカチャという音で、オレは、絶望に突き落とされた。
「やめろっ」
 じかに感じる冷たい空気に、鳥肌が立った。



 座り込んだままの体勢で抱えあげられ、ヤツを受け入れさせられた。
 その瞬間の激痛は、たとえようのないものだった。
 そのまま、いいようにされ、オレは、いつの間にか、気絶してしまったらしかった。
 気がつけば、車の後部座席だった。革のシートが、オレの体温でぬくもっている。起きようと身じろいだ。と、
「気がついたのか」
 振り返りもせず、ミラー越しに昇紘が、言った。
「なんでっ」
 叫んだせいで喉が軋んだ。それ以外の場所が、悲鳴をあげる。
 しかし、そんなもの。
 こみあげてきた涙ににじむ視界に、ミラーの中のヤツが映る。
 ヤツは、くちびるを引き上げていた。
 その、いかにもひとを小ばかにしたような表情に、オレは、痛みも忘れて、起き上がった。
「停めろ」
 助手席の背凭れを支えに、低く、唸った。
「停めて、どうする」
 面白がっている。
 そう感じて、なおのこと腹が立った。
「下りるさ」
「歩けないだろう」
 なんでもないことのように指摘され、押し殺していた痛みがよみがえる。熱く疼く痛みが、全身に広がってゆく。
 ズクンズクンと、全身が一本の血管になったかのように、痛みに脈打つ。
「誰のせいだ」
 あんなことをしておいて。
「私を煽るからだ」
 前を見たままで、やつが言う。
「おとなしくしていればいいものを、抵抗などするから、そういう目に合う」
 抵抗しなければ、優しくしてやったものを―――そう続けられ、オレの目の前が、朱に染まる。
 こいつは、オレが抵抗しようがしまいが、どちらにせよ、オレを抱くつもりでいたということだ。
「なんでだ」
 それは、この一週間の間オレの中にくすぶっていた疑問だった。
「なんで、オレに、あんなことをした」
 ふう――と、呆れたような、仕方がないといったような、そんな溜息が、ヤツの口から、押し出された。
 カチカチと、ウィンカーを入れる音が、車内に響く。
 昇紘が馴れたハンドルさばきで、車を路肩に寄せて、停車した。
 ハンドブレーキをかけた手で、シートベルトを外した昇紘が、ゆっくりと、オレを振り返った。


つづく



from 16:05 2004/11/14
to 20:18 2004/12/11
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