囚われの 後編




 一度、ヤツの目の前で気絶してからというもの、まるで持病にでもなったかのように、オレは、決まって、ヤツの近くで気を失ってしまう。まぁ、一人暮らしだからな。栄養が何かと足りていないのかもしれないが。ともかく、そうなるたびに、オレは、オレを、自分の手で最悪の状況に追いやっているかの錯覚すらある。
(くそっ)
 オレは、ここまで、弱くなんかなかったはずだ。
 ここまで、墓穴を掘る性質(たち)でもなかったはずだ。
 なのに、どうして、ヤツの前では、そう、一昔前のヒロインのような、寒いことになってしまうのだろう。
 ネクタイが苦しい。
 あの日、あの後、オレは、ヤツの家につれてかれた。ヤツは、オレの家庭事情を把握してる上に、ヤツの車に乗ってるもんだから、オレの拒否は、すべて、きれーに黙殺された。んでもってつれてかれたヤツの家は、めちゃくちゃでかい、西洋建築だった。装飾的な門までありやがった。しかも、家の門から、玄関まで、車で数分は走らなきゃならなかった。でもって、両開きの重そうなドアが、内側から自動的に開いたと思ったのは、オレの勘違いで、今時、使用人が主人の帰宅を見計らって、ドアを開ける――そんな、家だったのだ。
 なんだってそんな金持ちが、司書をやってるのか、自分の状況を忘れて思わず聞いてしまったのは、仕方がないと思う。だれだって、興味を持つだろう。答えるとは思っていなかったものの、そっけなく趣味だ――と返され、オレは、獣の巣に引きずり込まれている状況も忘れて、脱力せずにはいられなかった。
 すぐに、思い出す羽目になったけどな。



 暑い。
 けれど、どんなに暑くても、体中に、狂ったように刻みつけられたキスマークのせいで、オレは、タイをゆるめることすらできないのだ。
『どったのよ、突然真面目になっちまって』
 つんつんと、タイの結び目をつつきながら、幡多が、そうからかってくるのにも、オレは、笑って応えることで精一杯だった。
 誰にも相談できない悩みが、こんなに辛いだなんて、オレは、考えたことすらなかった。
 蝉が鳴いている。
 開け放してる窓から、風はそよとも吹き込まない。
 暑い。
 苦しい。
 誰か、助けてくれ………。
 オレは、気が狂いそうだった。



 明後日から夏休みだ。
 長かったこの一学期が、ともあれ、終わる。
 オレとは対角線上の、廊下側の席に座る、赤い髪を、ぼんやりと眺めていた。
 中嶋が、隣に座る大木の耳打ちに、ほんの少し、笑う。
 あんなふうに、中嶋と接してみたかった。オレの隣で、中嶋があんなふうな屈託のない笑顔を見せてくれたら、オレは、それだけで、幸せだったろう。
 オレは、やっぱり、今でも、中嶋のことが好きだ。
 けれど。
 耳の奥から響く、低い声が、オレを強張りつかせる。
『おまえは、私のものだ』
 なぜ、オレを、抱いたのだ―――との問いに、ヤツが返してよこしたのは、答えになっていないものだった。
 中嶋が、とてつもなく、遠かった。
 車の中、言葉すらなくして、気が遠くなりそうだったオレの耳に、痛いほどに響いていたのは、ウィンカーの音だった。カチカチという音が、よみがえる。
 オレはモノじゃない。おまえのモノなんかじゃない。そう反論したかった。けれど、オレの舌は、度重なるショックに、凍りついてしまっていた。
 まだ充分に明るかった窓の外だけが、人通りの多い路肩で、いい大人のヤツが、何をできるわけもない。それだけが、最悪すぎたあの日のオレにとって、唯一の、ラッキーだったのかもしれない。
(あ〜イヤだ)
 机に懐いて何気なしに視線を泳がした時だ、緑の瞳が、オレを見てるのに気がついた。
 きれいな、緑の目が、オレを見ている。
(中嶋………)
 胸が、絞られたみたいに、苦しくなった。
 少し前までのオレなら、慌てて起き上がるだろう。けど、オレは、ほんの少しだけ、笑ってみせて、そのまま、顔を腕の間に押し込めた。
 中嶋は、遠い存在だ。
 そう。
 きれいな、とってもきれいな、穢れのない存在なのだ。
 とっくに汚れちまったオレなんかは、夜空の星を見上げるように、そっと、気づかれないように、遠くから見てるのがいいんだ。そうすれば、中嶋に、オレが汚いってことは、気づかれずに済むだろうから。軽蔑されることだけはないだろうから。オレは、中嶋のきれいな顔が、軽蔑に歪むのを見たくないんだ。あの澄んだ翡翠のような色の目が、オレを見て厭そうに眇められるなんて、考えただけで、震えがくる。だから、オレは、もう、中嶋には、近づかない。そう、決めたんだ。
 けど。
 けれど、遠くから見てるだけなら、いいだろ。
 それくらいなら、許してくれるだろ?
『郁也と私とがこんなことをしていると知ったなら、彼女は、どんな顔をするだろうね』
 あの日、オレを組み敷きながら、ヤツは、耳元で、そんなことを、ふと思いついたように言ったのだ。
 からだの中にヤツを埋め込まれて煽られた熱が、それだけで、一気に冷めた。
 彼女が誰のことなのかは、すぐにわかった。けど、ヤツは、名前を言わなかった。鎌をかけられてたまるかと、
『か、のじょ?』
 変なふうにひずむ声を必死に押し殺して、オレは、とぼけることに決めた。なのに、
『中嶋陽子くんだよ』
 さらりと、言ってのけたんだ。
 ヤツは、オレが、中嶋のことを好きだって、とっくに知ってたんだ。
『な、なん、の……じょーだ、んっ』
 耳を掴まれて、ただでさえもやっていた視界が、痛みに、霞む。
『郁也』
 わざとらしく穏やかな声で名前を呼ばれて、背筋が、逆毛立つ。
 そうして、ヤツが、悪趣味な冗談を言っているわけではないことを、オレは、知った。
 冗談なんかじゃない。
 ヤツは、オレを、脅したのだ。
『郁也』
 名前で呼ばれることよりも、中嶋に暴露(ばら)されるかもしれないことのほうが、恐怖だった。だから、オレは、決意するしかなかったんだ。
   金土日と、オレは、ヤツの寝室から出ることすら許されなかった。そうして、月曜には、ヤツの家から、直接学校に行く羽目になった。
 教科書類は全部学校においてるからかまわないが、なんで、オレが、同伴出勤みたいなことをしないといけないんだ。
 そればっかりは必死になって拒絶したが、力尽くでこられたら、オレには太刀打ちなどできやしない。もとより、体力は限界に差し掛かってたのだ。車まで引き摺ってゆかれたオレは、それ以上逆らう気力もなくして、むりやり助手席に乗せられた。
 まだ時間的に早くて、部活の早朝練習をしてるやつらぐらいしか学校にはいないってことが、あの朝のオレにとっては唯一の慰めだった。



 ベッドの上でオレを凝視するヤツの視線のきつさをまざまざと思い出し、オレは、ねつい視線を振り払うべく、首を左右に振っていた。と、開け放している窓の外、特別授業棟とこっちの棟とを繋ぐ渡り廊下に、オレの意識は、釘付けになった。
 生物部が世話をしているというインコの巨大ケージが中心にある、円形の、ささやかな睡蓮の池。その向こうで、立っているのは、小司馬と、ヤツのふたりだ。
 昇紘は、手にした紙を見ているらしい。その横で、小司馬が、なにかを喋っている。
 たまらなく暑いというのに、背筋を冷や汗が流れ落ちる。
 小司馬が、昇紘に何を言っているのか、昇紘が何を見ているのか。
 まさか――――。
 小司馬のやつ、まさか、あれを、見せてるのか………。
 あんなものを。
 だめだ。
 オレは、とてつもない恐怖を覚えていた。
 そのせいで、つい、凝視してしまっていたオレは、紙から顔をあげたヤツの視線に、捕まってしまったかの錯覚に襲われた。迷いなく、まるで、二階のこの場所にオレが座っているのを知っているかのように、ヤツの視線は、射らんばかりの鋭さで、ここを見据えていた。
 見えているはずはない。
 ここからだって、表情まではわからないのだ。鋭いと感じるのは、ヤツがオレを見る目がいつも、そうだからに過ぎない。思い過ごしだ。そうに決まっている。なのに、息が苦しくて、オレの手は、無意識に、タイの結び目に伸びていた。



 厭な予感というヤツばかりが、よく当たるのは、なぜなんだろう。
 人間ってそういうふうにできているのか?
 それとも、オレの、考えすぎなのだろうか。
 まさか、オレだけってことはないと思う。思いたい。でないと、はかなくなっちまいそうだ。
 どちらにしても、イヤだと思ってるほうへと、坂道を転がる鉄球のように転がってくのは、なんでなんだ。
 オレだって、まだまだ、花も実もある高校生だっていうのに。
 違うか? そうだろう? オレだって、まだ、十六才なんだ。夢も希望もあった。いや、違う! あるんだ。ある! なのに、なんだって、あんな、得体の知れないヤローどもに、あんな目に合わされないといけないんだろう。オレの前世って、あいつらに、なんか悪いことでもしたんだろうか――なんて、ついつい、謎と神秘のあなたの知らない世界へと走ってしまいそうだ。何十万もするような壷や、リラクゼーショングッズや、変な宗教に手を出したら、ぜったい、あいつらのせいだからなっ!
 内心で喚きながら、オレは、思い出したくもない先日の出来事を、思い出さずにはいられなかった。



 目の前で、夏休み直前にガールフレンドをゲットしたぜ! と、はしゃいでいる幡多を縊り殺したいくらいに、オレは、やさぐれてる。
 写真見る?
 見てよ。
 うんにゃ、見せちゃる! と、にやけまくったツラでケータイを取り出した幡多が、憎たらしい。
 オレは、適当な相槌をうちながら、早く休み時間が終わんねーかなと、幡多のケータイを見てる振りして、黒板横の丸い壁時計を見ていた。
(ああ、まーだ終わんね………)
 こんなに授業が待ち遠しかったときってない。
 授業たって、テストが戻ってくるだけだっつーのにな。
(そういや、放課後、美術室に絵の具とキャンバス取りに行かなきゃな)
 夏休み中に絵の宿題なんて小学生かよ。勘弁してくれ。
『枯れ木も、山の賑わいというからな、美術を取ってるものは、文化祭に一点は提出してくれ。提出しないものは、美術の点はないからな』
 薄いくちびるに厭味な笑いを貼りつけて、小司馬が言ったとき、クラスの半数以上は、げっそりとした悲鳴をあげていた。
 頭の隅に貼りついてる小司馬の笑い顔のせいで、取りに行くのを伸ばし伸ばしにしてたのだ。が、そろそろマジで持って帰らないことには、忘れてしまいそうだ。
「しつれいしまっす」
 美術室の扉を開ける。
 白いカーテンが窓にかかった室内には、ひとの気配も感じられない。棚の上の、数種類のトルソだけが、こちらにうつろなまなざしを向けている。
 ほっと、なんとなく溜息をついて、オレが、クラスごとのロッカーからキャンバスと絵の具を取り出していると、ガラッと大きな音をたてて、ロッカー脇の準備室のドアが開いた。
 キャンバスを取り落とした音が、耳に痛い。
「おどかしたか」
 こんなに心臓が脆かったか、オレ――などと、つい自分を哀れんでしまったオレが腰をかがめるよりも早く、キャンバスを拾い上げた小司馬が手渡してくれた。
 案外やさしいとこもあるんだなと、
「すんません」
と、礼を言いながら見上げたオレを、細い目が、見下ろしていた。その視線が、なんか、ねちっこそうで、
(やっぱ、苦手だは、このセンセ)
 内心でそう独り語ちたとき、オレは、眩暈(めまい)を覚えた。
 いや、違う。
 正確に言うなら、オレは、小司馬に手を引っ張られたんだ。
 油絵の具の独特な匂いが、鼻をつく。
 気がついた時には、オレは、後ろから小司馬に抱きすくめられる格好で、無理矢理首を捻らされていた。
 そうして、そんな、苦しい体勢で、キスをされていたのだ。
「うぅ……っ」
 もがこうにも、首を捻りあげられてるもんだから、苦しい。
 呻くのが精一杯だった。
 なんで………。
 今にも、気が狂ってしまいそうだ。
 狂ってしまったほうが、いっそのこと、幸せかもしれない。
 なんで、オレばっかり、こんな目にあわないといけないんだろう。
 オレは、少しも、男なんか好きじゃない。
 なのに!
「下手だな」
 長いキスの後にそんなことを言われて、オレは、目の前が眩んだ。
 別に、キスの上手い下手などどうだってかまやしない。ただ、あまりに身勝手な言いように、怒りが、こみあげてきた。
 このまま、こいつの首を絞め上げてやれれば、どんなに溜飲が下がるだろう。しかし、現実には、オレはまだ、こいつに抱きすくめられている。手も足も出やしない。視線だけで、ひとが殺せるというのなら、オレは、躊躇いなく、こいつを、こいつと、ヤツとを、殺しているだろう。
「あのひとは、キスのしかたも教えてくれないか?」
「な、なんの……」
 足元の床が、まるで低反発マットにでもなったかのようだ。
 知っている、のか?
「あのひとも物好きなと思ったが、そういう怯えた顔をしているところは、なかなか、いけるな」
 ぐにりと、小司馬の口角が、持ち上がる。
「ただ、キスが下手なのは、やはりいただけないが」
 まぁ、あのひとの代わりに、俺が教えてやろう。じっくりとな―――そう言ってちろりと、爬虫類めいたしぐさで、自分のくちびるを舐め湿し、小司馬の顔が、視界いっぱいに近づいてきた。
 誰かっ!
 助けてくれっ。
 オレの悲鳴は、小司馬の口に呑み込まれた。
 救いは、誰も現われない。
 誰にも知られたくないという、オレの願いだけが、まるで、叶ってしまっているかのような皮肉に、オレは、泣きたくなった。
 あんまりだ。
 確かに、誰にも、知られたくない。
 だからといって、こんな時くらい、誰か助けが来てくれてもいいと思う。
 それって、オレのわがままか?
 本当に? わがままなんだろうか………。
 執拗なキスに、息が苦しくなる。
 吐き気がするのに、どうして、吐いてしまえないのだろう。
 もどしてしまえばいい。
 そうすれば、こいつだって、こんなことやめるに決まっている。
 なのに、結局、できやしないのだ。
「も……いいだろ」
 放してくれ。
 長いキスが終わり、掠れた声で、懇願する。しかし、散々オレの口を貪っておいて、小司馬は、満足できなかったらしい。
「やめっ」
 小司馬は、オレの昂ぶりを布の上から触ったのだ。
 喉の奥に絡むような笑いをこぼし、こいつは、ぞろりと、オレの耳の付け根を舐めあげた。刹那、からだが大きく震える。きつく吸われて、どうしようもなくなる。全身が、熱く、小司馬に食いつかれてる耳の付け根から、独特の痺れが、広がってゆく。
「もう、いやだ………」
 そう言うのが、やっとだった。
「こんなに感じておいてか?」
 変なふうに手を動かし、小司馬は、オレの欲を煽る。
 左右に首を振るオレに、
「嘘はいけないな」
 小司馬は、ひとの悪い笑いをにじませた声で、そう言ってのけた。
 鍵のかかっていない美術室の冷たい床に押し倒されて、オレは、ただ、天井を見上げていた。

 さらさらというかすかな物音で、オレは、目覚めた。
 まだ明るすぎる美術室で、オレは、ゆっくりと反側した。
 背後では、小司馬が、床にどっかりと腰を下ろしていた。
 スケッチブックを広げて、なにごとか描いているそのようすは、集中しきっているらしく見える。オレが気づいたのは、鉛筆が画帳の上を走る音だった。
 馴染んでしまった倦怠を押しやって、そっと上半身を起き上がらせる。
 あちこちに、じくじくとした熱と痛みとがわだかまっている。しかし、それに、悔しいとかいった思いは、浮かんでこなかった。代わりに、乾いた笑いが、オレの喉からこぼれ落ちた。同時に、涙までが出はじめる。ぬぐってもぬぐっても、涙はしばらくの間、バカみたいに、とまらなかった。
 ぼんやりと服を身につけながら、オレは、家まで帰れるのか、それが心配になってきた。なぜなら、オレのからだが、悲鳴をあげているからだ。男同士というのが理由なのか、無理矢理されるっていうのが理由なのか、オレは、この行為から、快感を覚えるまでにめちゃくちゃ時間がかかる。イヤだと思っているから、からだが強張りついている。そのせいかもしれない。
 机を杖代わりに立ち上がったオレが、そろりと小司馬の側から離れようとした時を、まるで見計らっていたかのように、
「ああ、もう少し待て。送ってってやる」
 スケッチブックに集中しているものと思っていた小司馬が、顔をあげた。
「はぁ」
 なんかもう、抵抗する気力も体力も、残ってはいなくて、ついでに、考えることすら億劫で、間の抜けた返事の後、オレは、おとなしく、椅子に腰を下ろした。
 さらさらと、静かな音が、美術室にかすかにこだましている。
 それは、小司馬には不釣合いな音なように思えた。
(いったい何を描いてんだ)
 湧き上がるのは、そんな疑問だ。
 あんなことの直後に、よく、書く気になったよな――というのが、正直なところで、本当に見たいとは思ってなかった。
 が、視線は、つい、そっちに向いてしまう。
 だからなのか、
「見てみるか?」
 スケッチブックから顔をあげた小司馬が、そんなふうに言ってきた。
「いや、別に」
「遠慮するな」
 そう言って、小司馬が持ち上げてみせた頁に描かれていたものに、オレの息は、止まった。
 ――――そんな錯覚があった。
 声も出ない。
 なんで!
 そんなもの。
「おっと」
 破り捨てようと伸ばしたオレの手を容易く避けて、小司馬が、嗤う。
「いい出来だろう」
 高く掲げている画帳いっぱいに描かれていたのは、オレ――だ。
 薄く色鉛筆で着色された、オレ。
 それは、他人には絶対に見られたくない、そんな、オレの絵だった。



 さっき昇紘が見ていたのが、あれだとしたら――――――。
『郁也。おまえは、おまえ自身がどう拒もうと、私のものだ。他の誰を好きだろうと、好きになろうと、関係ない。ただし、このからだを、他のものに触れさせたりすれば』
 所謂ピロウ・トークとでもいうものだったのだろうか。それ以上意識を保ってなどいられないくらいくらいへろへろになっていたオレの耳元で、ヤツが珍しく饒舌に喋っていたのは、そんな、身勝手な、ことだった。
 オレは、オレのものだ。そう言えれば、胸がすっとしたに違いない。けれど、オレは、口を開くのも億劫で、目を閉じてしまっていた。目を閉じることが、眠りに逃げることだけが、唯一、ヤツにも止めることのできないことだったからだ。
 けれど―――――
 あの後、ヤツは、なんと続けただろう。
 多分、とんでもないことだったに違いない。
 ああ、どうして、あの時、我慢して起きていなかったのか。
 目の前が真っ暗になる。
 こんなところでのんびりと授業が終わるのを待ってなんて、いられない。
「おいっ。おい、浅野?」
 幡多の心配そうな声に、オレは、振り向いたつもりだった。
(えっ?)
 数人の悲鳴に混ざって、ざわめきが大きくなる。
 オレは、なさけないことに、どうやら、またも、気を失ってしまったのだった。



 なにかで見たことがあるような、野原だ。
 どこだろう。
 遠く、木々が、見える。
 空は、青い。
 ぽっかりと浮かぶ、綿菓子のような雲。
 蝉の鳴き声も聞こえてくる。
「きれいだな」
 声に振り返れば、そこには、中嶋が立っていた。
 麦藁帽子の下、赤い髪が、そよ風になびく。
 白い、ノースリーブの木綿素材らしいワンピースが、褐色の肌にとても似合っている。
「どうした?」
 ああ、そうだ。今日は、中嶋と、デートに来たんだ。
 中嶋がデートだと思ってくれているのかどうかは、謎だけれど、けれど、ふたりっきりで、こんなふうに歩いているのだから、すこしは、オレは、うぬぼれてもいいのかもしれない。
「あそこの木陰で、昼にしようか」
 バスケットケースが、オレの手の中で存在感を主張する。
「涼しそうだな」
 にっこりと、周囲を霞ませるほどの笑みをたたえて、中嶋が、オレに手を差し伸べてきた。
 それを、握り返そうとした時だった。
 突然、オレと、中嶋との間に、黒々とした壁のようなものが、立ちはだかってきた。
「中嶋っ」
 伸ばした手が、中嶋を掴みそこねた。
「浅野くん」
 中嶋の姿が、見えない。
 バスケットケースが、地面に音をたてて、転がった。
 中から、黒い蛇が幾匹も湧き出す。
「うわっ」
 足元から、ぞろりと、てらりと光る蛇が、オレのからだを這い上がる。
 その感触があまりに不快すぎて、必死になって、掴んでは投げるのだが、後から後から、蛇は、ひきもきらず湧き出して、オレのからだに、巻きつくのだ。
 イヤだ。
 気色の悪さと、どうしても抑えられない、生理的な嫌悪感に、オレは、どうしようもなくなった。
 黒い蛇は、オレの首にまで絡みつき、やけに赤い舌を、ちろちろと出し入れしていた。
「浅野」
 蛇が、オレの名を呼ぶ。
 イヤだ。
 首を、左右に振る。
 振るたびに、首が、蛇の鱗に擦れて、異様な感触を覚えずにいられない。
 からだが重くて、動くことができない。
 オレが、その場に、頽おれた時だ。
 それまで、ただ、オレと中嶋との間に立ちはだかっていた壁が、くにゃりと、半ばから折れ曲がった。
 ぐにぐにと、音もなく、壁が、蠢き、人の形をとった。
 それを認めた刹那の、オレの、恐怖を、驚愕を、わかってもらえるのだろうか。
 そうして、そいつに、襲い掛かられた瞬間の、オレの、絶望とを。
 中嶋の、きれいな緑の瞳に、オレが映っている。
 それは、そいつ――昇紘に、のしかかられている、オレの姿だ。
 中嶋の、褐色の頬が、かすかに、歪む。
 それ以上を、見ていたくなくて、オレは、必死になって目を閉じたんだ。

 その時、オレは、呆けていたんだと思う。
「?」
 薄く汚れた天井が、見える。
 周囲を囲んでいるのは、日に焼けた、まっさらの時には白だったろう、カーテンだ。
 そこまで確認して、やっと、理解した。
 あれは、夢だ。
 訪れてほしくない、最悪の、夢。
 まだ、中嶋の緑の瞳が、その中のオレのようすが、生々しいまでに、思い出せる。
「情けないよな………」
 ぼそりとつぶやいて、保健室のベッドの上に、オレは、上半身を起こした。と、かけていたタオルケットが、ずり落ち、その下に、なかなか薄くなってくれないキスマークがあちこちにくっきりと刻まれた、裸の上半身が現われた。
「うわっ」
 やばい。
 誰か、知らないが、見られたのか。
 誰だ。
 必死に考える。
 多分、オレを運んだのは、桓堆だろう。中嶋と仲のいいヤツらのひとりだ。
(保健委員だからなぁ………)
 責任感もあるし、いい男だし、で、男女を問わず、かなり人気がある。ついでに、力が強い。一度、台風かなんかで倒れちまってたサッカーのゴールを独りで起こしてるところを見かけたことがある。遠目だったけど、あんな重いのよく引っ張ったよなって、びっくりしたのと同時に、羨ましくも思ったもんだ。ここ数週間で、オレの体重はかなり落ちてるから、オレを運ぶのなんか、あいつにとっては、簡単だったろう。
(後で、礼言っとかなきゃな)
 けど、やっぱり、あいつが、シャツをくつろげたのだろうか?
 まぁ、保健委員なら、貧血起こしてぶっ倒れちまったオレにそうするのは、当然の処置だろうけど。感謝こそすれ、恨む筋合いはない。恨むなら、自分のひ弱さを恨むべきだ。判ってはいる。いるんだ。が。でも、な。秘密にしておきたいことを、暴かれた……そんな、理不尽な怒りめいたものがある。
 口は軽くないみたいだし、多分、喋らないとは思う。
(大丈夫……だと思うが)
 よく知らない相手だから、念には念を入れといたほうがいいかもしれない。誰にも喋らないでくれと、そう頼み込めば、口は軽くないとムッとされるかもしれないけど、しかたがない。
(桓堆――だよな)
 せめて、そうであって欲しい。
 よく知らないからこそ、彼であって欲しいと、切実な希望と、願望だった。
 ショックに震える両手で、シャツの前を掻き合わせ、釦をひとつまたひとつと留めてゆく。それだけのことに、やけに、時間がかかってしまう。
(早く、帰っちまおう。……そういや、そろそろ、親父の電話がきそうだよな〜)
 だいたい月一の割合で、海外の親父から、電話がかかってきてる。あっちで結婚してからというもの、その内容は、奥さんと連れ子を紹介したいらしくて、遊びに来ないかというものになった。
「ああ、そうだ」
 すっかり忘れてた。
「親父んとこ行っちまえばいーんだ」
 ごたごたばっかりが続いて、思い出しも思いつきもしなかったが、親父から、夏休み中こっちに来ないかと、飛行機のチケットが送られてきていた。
「そうだ……あれは、どこにしまったっけ」
 そこまで、ヤツも、オレに拘りはしないだろう。
 なんの気まぐれか知りはしないが、ただ、なんとなく――オレにはまるっきり理解不能なんだが――オレにあんなことをしたくなっただけのはずだ。だいたい、そこに、もしかりにだが、好きとか言う感情があったとして、好きな相手の意思を無視することができるはずがない。オレだったら、絶対に、しない。だから、ここ最近のあれは、頭のいかれた男の、なんかわけのわかんねー行動なんだ。小司馬のは、単に、面白がって尻馬に乗っかっちまってるだけの、連鎖反応だ。決まってる。被害者がオレっていうのが、いただけない現実だが、海外まで逃げちまえば、追ってもこないだろう。大の大人が、そこまで暇なはずはない。だいたい、オレがいなくなれば、正気に戻るかもしれねーし。
 ベッドから降りたオレは、脇のスツールの上に、鞄が乗っかってるのを見つけた。
「オレって、ほんっとうに、まぬけだ」
 鞄を手に、今まで悩んでた自分がなんなんだろうと、オレは、肩から重苦しい荷物が下りたような気分になって、クツクツと笑いながら、カーテンを、引き開けた。
「っ!」
 本当に久しぶりの笑いは、しかし、そこで、凝りついた。
 カーテンの外に、腕組みをしてこちらを凝然と見ている、昇紘が、いたからだ。
 重い音をたてて、鞄が、足元に転がり落ちた。
「な、なんであんたが」
 陽射しを遮るブラインドのかかった窓を背に、昇紘がそれまで腰かけていた椅子から、ゆらりと、立ち上がる。それに押されるかのように、おれは、自然と、一歩下がっていた。
「いてはおかしいかね」
 悠然と、ヤツが、言う。しかし、その目は、怖いくらいに、光っていた。その、記憶にある光に、首の後ろが、ちりちりと、痛んだ。
「あんたは司書で、保健医じゃないっ」
 ここから逃げないとと、オレは、鞄を、ヤツに向けて蹴り上げた。
 けど、ほとんど何も入ってない鞄じゃ、効き目も、あったもんじゃないだろう。
 それでも、予想外だったろうオレの反撃に、ほんの少しだけ、ヤツは、怯んだ。
 この隙を、逃がすわけにはいかない。
 決死の思いで、オレは、入り口を一気に走り抜けようとした。
 なのに、
「いやだっ」
 オレの必死の抵抗は、オレの後ろ首を掴む手に、いとも容易く阻まれた。
「はなせっ!」
 しかし、抵抗ができたのも、それまでだった。
 後ろから抱き込まれるような体勢で、耳もとに、ヤツの吐息を感じた。全身が逆毛立つ。
「逃がしはしない」
 低い、声が、耳を打つ。
「なんでっ」
 必死で振り向いたオレの目の前で、
「どこに逃げようと、探し出してやろう。その前に」
 にやりと、剣呑な空気をまとって、昇紘が、笑った。
 オレの舌が強張りつく。
 ヤツは、オレを羽交い絞めにしたまま、首を掴む手に力を入れて、オレを、落としたのだ。
 オレは、闇へと落ちてゆきながら、昇紘のことばを、反芻していた。

「どこに逃げようと、探し出してやろう。その前に、おまえが誰のものなのか、じっくりとわからせてやる。二度と、私以外の者に抱かれたりしないようにな」

 なんで昇紘がオレに執着するのか、オレには、まったくわからない。
 しかし、判ったことが、ひとつだけある。
 それは、こいつが、オレを、逃がすことだけは絶対にないということだ。
 この後、オレに襲い掛かるだろう、すべてを忘れて、オレは、ただ、深い闇に、身をまかせていた。


おわり



from 16:05 2004/11/14
to 20:18 2004/12/11


あとがき
 極道なラストで、すみません。
 このままだと、いつまで経ってもオチがつかないと、こういうラストを、選びました。
 浅野くんの本当の受難の始まりのお話。結局、そういうものになってしまって、ごめんなさいです。これから、浅野くんは、あんなことやこんなことされて、昇紘に馴らされてくんですね。可哀想に。
 それはそうと、この話の中、浅野くんってば、何回気絶してんだかxx
 最近のヒロインは、絶対、君より強いぞ。うん。
 それでは、少しでも、楽しんでいただけるといいんですけど。う〜ん。ドキドキ。
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