ある日
疲れた。
俺は小さく溜め息を吐くと、写真を見上げた。
葬式が終わり、最後まで残っていた有人たちが引き上げて行ったのだ。
屋敷に残っているのは、使用人を別にして、俺と史月だけだった。
本当なら俺がしなければならないのだろうが、史月が色々と使用人に指図をしてくれている。
遠く、使用人たちのたてる音や声が聞こえてくる。
静まりかえった奥座敷に窓から射し込む夕日が、黒い額の中のあいつの表情を見えなくしていた。
けれど、いつものふてぶてしい表情のままのあいつが、俺を見下ろしているのだろう。
少し、まだ、信じることができなかった。
なぜなら、あいつの死があまりにも突然のことだったからだ。
あいつ。
今も額縁の中から俺を見ているだろうあいつは、戸籍上は俺の父だ。そうして、実質は俺の夫になる。
ここで一緒に暮らすようになって三十年になるだろう。
色々あったものの、いつの間にか一緒にいるのが当たり前だと思うようになっていた。
そう。
あいつが死ぬなどと考えたことなどなかったのだ。
けど、あいつと俺の歳の差を考えれば、いつまでも一緒ということもあり得ない。
俺も気がつけば五十を過ぎている。
ということは、だ。
あいつは、八十を過ぎているということになるのだ。
特別に考えたことなどなかったが、普通にゆけばあいつの方が先に逝ってしまう可能性が高いということだった。
しかし。
まさか、事故に巻き込まれて逝くことになるとは考えもしなかった。
胸の中に穴が空いたような、喪失感があった。
「郁也」
低い声に振り向くと、そこに、史月の姿があった。
いつの間にかいい男になったな。
その分生意気になったけどなぁ。
イクちゃんと呼ばれていたのが、いつの間にか、郁也と呼び捨てだ。
「疲れただろう」
いや、気を使ってくれるのは嬉しいが……それは、俺が年寄りということか?
少しばかりショックだったりする。
が。
しかたないかと、気を取り直す。
三十代の史月に比べれば、十七歳上の俺は、どうしてもオヤジだろうからな。
「いや。そうでもない」
オレはオレを見下ろして立ち尽くしている史月を見上げた。
スーツの良く似合うスタイルの良さは、父親譲りだよな。男の色気が漂っている。
子供の頃からモデルやら子役やらをやっていたから、そのまま俳優になるんだとばかり思っていた。
まさか弁護士になるとはな。
今じゃ、うちの顧問弁護士のひとりだ。
そう言えば。
「どうして結婚しないんだ」
史月ほど格好いいエリートなら、女の方が捨てておかないだろうにな。
俺のことばに、史月が震えたような気がした。
「なんでって」
あぐらをかきながら、史月の目は俺を見ていた。
俺の目を覗き込む。
「やっぱりな」
及び腰になった俺から少し身を引くようにして、史月は肩を竦めた。
「ま、わかってないとは思ってたけど、それは俺には酷な質問だ」
「え? ………悪い」
俺は戸惑った。
史月の逆鱗に触れたような気がしたのだ。
「わかってないのに謝られてもな」
溜め息を吐く。
「郁也は、昔から鈍いよなぁ」
「いや、まぁ……そうなのか?」
俺はつい首を傾げた。
「籍のおじさんのほうがよくわかっていた」
あいつのことを史月は籍のおじさんと呼んでいた。
ぼんやりとそんなことを考えていた俺の膝に、史月の大きな手が乗せられた。
ほんの少し体重をかけて、俺の目をまた覗き込む。
悪い方の足ではなかったが、痛い。
退けと言おうとした時、史月の息が鼻先をかすめた。
と。
え?
え?
ええっ!
俺の口を、史月のくちびるが塞いでいた。
俺は必死にもがいた。
五十男の反応じゃないとは思ったが、これは、どうしようもなかった。
自分の子供のように思っていた甥っ子に、俺は押し倒されようとしているのだ。
相手が同性なのには、諦めのようなものがある。
夫がいたわけだからな。
けれど。
これは。
駄目だろう。
抵抗しようにも、俺の片方の手と足は昔の事件が原因で少し力が弱い。
父親似の史月に適うはずがないのだ。
宵闇に閉ざされようとする奥座敷で、俺は、俺が育てたのも同然の甥に押し倒されている。
史月のくちびるが、離れた。
最後の陽光が、史月の目に反射して、まるで獣のように見えた。
「籍氏は、俺の郁也への気持ちを認めてくれていた」
闇にすっかり閉ざされてしまう寸前に史月の眼光に射すくめられてしまった俺は、もう一度近づいてくる史月の顔に首を竦めずにはいられなかった。
しかし。
史月は、今度はキスをしなかった。
安堵したのも束の間。
耳元で、史月は、
「氏の死後、郁也のことを俺に任せてくれると約束してくれた」
郁也の虫除けだけどね。
他の誰かに取られるくらいなら、俺にまかせると。
そうささやいた。
寝耳に水とでも言えばいいのか?
あいつ! と、死んだ男に腹を立てればいいのか?
それとも。
あいつらしい……と、脱力するべきなのか。
昔から俺のことはすべて勝手に決めてきた男らしいといえば、らしいのだろう。
「やっとだ」
「長かったよ。郁也」
獰猛な捕食者のような史月の声に、俺はぞくりと背筋を震わせた。
噛みつくようなキスに、俺の欲が煽られてゆく。
なんてことだろう。
あいつの葬儀の後だというのに。
頭の片隅の冷静さは、いつしか混乱に飲み込まれて、そうして俺は、史月と一線を越えてしまったのだ。
史月が俺の後見人になったのは、七日法要の後、主任弁護士があいつの遺言状を読み上げてからだった。
どこまでもあいつの掌の上で転がされつづけた俺は、結局あいつが死んだ後もあいつの掌の上なのだなとぼんやりと考えていた。
そんな俺を史月がどんな表情で見ていたのか知るのは、有人の双子の子供たちからだった。
『しーちゃんとっても幸せそうだったよ』
『しーちゃんイクおじちゃんのこと大好きだもんね』
そう言われて、俺は自分の鈍さに苦笑するしかなかった。
「郁也」
「え?」
オレは目を瞬かせた。
目の前に、若い……とはいえ五十代ほどの……あいつの顔があったからだ。
「大丈夫か?」
「はえ?」
「イクちゃん、だいじょうぶ?」
「痛くない?」
オレはあいつの膝の上に抱きかかえられて、左右には史月と有人がいる。
あれは、
「夢?」
「シロがごめんなさいって」
しゅんとした顔の有人に言われて、オレは、思い出した。
ああ。
そうか。
そうだった。
庭の池に落ちたボールを拾おうとしゃがんだオレの横にシロが繁みから飛び出してきたのだった。
そうしてそのまま、オレは倒れて頭を打ったのだ。
ああ、間抜けだ。
ま、池に落ちなかっただけでもマシか。
「大丈夫だ」
有人と史月の頭を撫でる。
「医者を呼んだ。おとなしく寝ているんだな」
こいつはにやりと笑った。
「過保護だって」
愚痴るオレに、
「当然だろう。どれだけ心配したと思っている」
そう言われてはぐうの音もない。
しかたない。
今日はこいつのことばに従っておくか。
「歩けるって」
膝から下りようとしたオレに、
「運んでやる」
五十代の男には思えない力強さで、こいつはオレをお姫さま抱っこで運んだ。
そんなオレたちの後から、史月と有人がシロをつれてついてきた。
どんな重傷の怪我人だよ……と言いたかったが、まいっか、と、オレは諦めた。
珍しく家にいるこいつにつきあってやるのも、たまにはいいかとオレは思ったのだ。
小春日和の籍家の一日はこうして過ぎていった。
恥ずかしさに燃えるような首から上に、オレは倒れている間に見た夢のことなどすっかり忘れてしまったのだった。
start 15:01 2010/11/07
up 17:52 2010/11/07
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