ごちそうさま




「あ〜あぐっちょりだ」
 スペアキーでドアを開けたオレは、勝手知ったる家だけにずかずかとバスルームに踏み込んだ。
 後で床拭いとかないとなぁ。
 突然の雨に、オレは全身ずぶぬれだった。とはいえ、下着まで濡れてないのが救いだけどな。
   けど、シャワーを浴びて、気がついた。
 しまった。
 着替えがない。
 そうなんだよな。
 ストレスによる衝動で行動してしまったから、そんなの考えもしなかった。
 ちょっと考えればわかるようなもんだし、スーパー寄って来たんだからついでに買っとけば済むことだったってーのに。いや、スーパーに寄ったときはまだ降ってなかったけどさ。
 バスタオルで頭を拭きながら、首をひねる。
 脱いだ服はとりあえず洗濯機に放り込んでおいたけど、幸いなことに、まだ回してない。
 一度脱いだ下着を履くというのは、かなり勇気がいるんだけどなぁ。
 けど、ここは、オレの家とはいえ、“元”が、つく。
 より正確に言えば、オレの“実家”なんだけど。
 “あっち”にゆくことが決まってから、オレの持ち物はほとんどすべてこの家から運び出されたからな。
 服やら下着類なんざ、きれーさっぱり、ない。
 まさか、義理の兄のを借りるわけにもゆかないし、親父のを借りるというのもなぁ。
 第一、二人ともオレとは違って良いがたいしてるから、服ならごまかせても、下着はなぁ……。
 だいたい、ひとの部屋に無断で入る勇気は、オレにはない。
 しかたないか。
 オレは、それを履いたわけだ。
 ちなみに、グレイのボクサータイプな。
 アイツには地味とか文句言われるけど、下着なんか派手なのはいてどうするよ? ってーのがオレの疑問だったりするわけだ。
 そりゃあ、女の子がフリルやらレースやらが付いてるのを履いてるのは可愛いだろうし色っぽいだろうけど。けどな、言うまでもなく、オレは男だしなぁ。
 フリルもレースも、ついでに、ビキニも無理だって!
 そう言ってるのに、アイツはそっちばかりを薦めるわけだ。ズボンをはいてラインが出るのが、NGなんだと。だからって、オーバックビキニなんてーのを用意された日には、オレは憤死しそうだった。そりゃあ、アイツのパートナーとして、正式なパーティーに出席しろと言われた時だったから、渋々履いたけどさ。うん。タキシードでラインが出るのは野暮だと、アイツ以外にも仕立て屋のおじさんにまでこんこんと説得されたら、つけないわけにはいかないだろう。
 けどなぁ、絶対、アイツ、下心あったんだ。うん。なかったなんて言わせないからな、絶対!
 パーティがお開きになった後に何されたか、まったく。年甲斐もなくスケベだ。ああいうのを、むっつりスケベっつうんだ!
 思い出した羞恥混じりの怒りにかられながら、オレはこれだけは準備しておいたエプロンをつけた。
 や、だって、さぁ、オレ、ストレス溜まると料理したくなるんだよ。
 けど、あっちの家じゃあお抱えのシェフがいて、オレがキッチンに行くこともできやしないし。
 邪魔だろうしなぁ。
 毎日色々と手が込んだ料理を出してくれるシェフに、文句も言えない。
 だろ?
 たとえばだけど、カレーが食べたいっつうとさ、本格的なスパイスカレーを作ってくれるわけだ。
 オレは、普通の家庭のカレーが欲しかっただけなんだけどさ。
 で、その気分を引きずったまま学食のカレーとか食べるわけだけど、なんだか物足りない。大量に作られたカレーなんだから、美味いんだけどなぁ。なんでこんなに満足できないんだろうって、考えて、思いいたったんだ。
 オレが食べたいのは、“自分で作った”カレーなんだ。
 そう!
 自分でタマネギ刻んでさ、飴色になるまで炒めてさ、他の野菜や肉と鍋に入れて、ルーやらスパイスやらを加えて煮込みたいわけだ。
 それを、自分でしたいんだよっ! てことに気がついた。
 けどなぁ。
 あっちの家のキッチンは、邪魔になりそうだし……って考えて、思いついたわけだ。
 実家のキッチンなら、いつでも使える。はずだ。
 うん。
 陽子ねぇも義兄も、多忙な上に料理は苦手な人種だし。今は陽子ねぇはおふくろさんの実家のほうに赤ん坊を連れて行ってる。
 所謂、産休中とでもいうのかな。
 育児休暇か?
 だとしたら、キッチンは空いてるはずだ。
 でも、やっぱり、いくら実家とは言っても、無断で使うのも気が引けるから、一応義兄には、言っておいたけどな。
『ああ! 郁也の手料理だったら大歓迎だ。いつでも勝手に使ってくれ』
 きっと、電話の向こうでは男前の笑顔で言ってたんだろうなぁ。
 で、まぁ、義兄の許可も取ったので、善は急げとばかりにやってきたオレなんだけど。
 あ、と、今大学夏休みだから。
 大学一年の夏休みは自由だし。課題が無いとは言わないが。オレが通ってる学校は、夏休み前に前期の試験が終わるから、本当に楽だったりする。
 ま、いっか。
 うん。
 濡れた床を拭いて、オレはエプロンをつけた。
 米を洗って、炊飯器にしかける。
 食材を取り出して、野菜を洗う。
 肉は適当な大きさに切って、下味をつける。
 タマネギの半分をみじん切りにして、残りはまぁ、適当な大きさだよな。
 人参は乱切りだ。
 あとは〜マッシュルームにしめじに舞茸、エリンギ。
 ジャガイモは入れない。
 適当にスパイスを取り出して並べたオレは、バターを溶かしたフライパンでタマネギを炒めにかかった。
 鼻歌混じりだ。
 気分がいい。
 いや、もう、自分がどれだけストレスまみれだったかっていうのが、わかったね。
 あっちの家に移って十ヶ月くらいか。
 少しずつ慣れてはいるけど、やっぱ、ちょっとなぁ。気が引けるっつうか、なんつうか。
 自分の立場が立場だけに、なぁ。
 力技で抜け出せないところに押し込められたって理不尽さに、泣きそうになったのも最初のうちだけだ。
 けど、その原因は自分自身にあるって思えば、身から出た錆ってヤツで、しかたないのかなって、諦めるよりないような気がしてさ。
 ようは慣れたってことかなぁ。
 まぁ、アイツとの関係に、ある意味では決着がついたって思えば、ちょっとは楽かなと思わないでもない。別の点では首を傾げるしかないけどさ。
 うん。
 なんで、嫁?
 そう思うわけだ。
 セフレよりはマシかもしれないけど。オレ、何度も言うけど、男だし。
 はっきり言って、女の子のほうが好きなんだよなぁ。アイツに押し倒されるより、女の子を押し倒したい。
 溜め息だ。
 そうぐるぐるとオレの思考があっち行ったりこっち行ったりしてる間に、フライパンの上でタマネギはみごとな飴色になっていた。
 よし。
 いいタイミングだ。
 火を止めて、鍋の中で肉を炒める。赤ワインなんかも入れてみたりして。
 おお、いい音にいい匂いだ。
 ちょこっと肉をつまんだりなんかして。
 味見だよ、味見。
 美味い。
 で、まぁ、火が通りにくい順に野菜を入れて、スパイスを入れてなおも炒める。適当なところで、水とヨーグルトに牛乳だな。
 でもって、炒めたタマネギを加えた。
 火力は小さくして、ルーは最後だ。
 気を抜くと焦がすからなぁ。
 焦げたカレーは喰えたもんじゃない。
 少し隙間を空けて蓋をする。
 あとは、サラダを作るか。こっちにジャガイモを使うつもりで、入れなかったんだ。ジャガイモは何のかんのと重いからな。
 鼻歌は止まらない。
 だから、オレは、鞄の底に放置したままの携帯が何度目かの着信音を鳴らしてるのに少しも気づかなかったんだ。

「よっし! できたな」
 ポテトサラダも上出来で、ガラスの器に山に盛って、ラップをして冷蔵庫に入れた。
 その時だ。
 来客を告げるベルが鳴ったのは。
 何の気なしに、オレは、玄関に向かった。
 そうして、オレは、
「なんでっ!」
 なんて呻いてた。
 玄関に立つ昇紘を見つけたからだ。
「なんで、だと?」
 オレの頭の先からつま先まで、昇紘はじろじろと舐めるように見る。
 鳥肌が立ちそうな視線の強さだった。
 怒ってる。
 うん。
 間違いない。
 でも、なんでよ。
「来い」
 オレの二の腕を掴むと、昇紘はずかずかとリビングまでオレを引きずって行ったんだ。
「カレーか」
 ソファに悠然と腰を下ろすと、昇紘はそう言ってオレを睨んだ。
「へ?」
 ぼそりとつぶやくことばにオレは首を傾げた。
「お前の声が聴きたくなって何度携帯をかけたと思っている。あげくの果てに実家だと? 何の文句がある?」
 ギラギラとした視線の強さに、オレは真夏にも関わらず寒気を覚えた。
「お、オレがどこで何をしてたって、自由だろ」
 ソファの背に背中を押し付けるようにして、オレはできるだけ昇紘から離れようとした。
 すぐに手首を掴まれた。
 引き寄せられた。
「何を言う。お前は私のものだろう」
 耳元でささやかれて、ぞわりと悪寒が走り抜けた。
 昇紘が本気で怒ってるって、疑いようがなかったからだ。
「しかも、こんな格好でとは。浮気でもするつもりだったのか?」
「なっ、なんでっ」
 引き寄せられて背中から腰に手をすべらされて、オレは、オレの格好に思いいたった。
 ボクサーパンツ一枚にエプロンって格好だったんだ。
 すっかり忘れてた。
 焦ってる間にも、昇紘は布一枚上からオレの尻を擦ってる。
 その手の動きの嫌らしさに、オレは妙な気分になっていた。
 昼日中からなんて趣味は、オレには無い。
 面白みが無いと言われようが何と言われようが、そういうのは、夜、誰もいないところでするもんだ。
 けど、こいつは違うんだよなぁ。
 場所も何も構わない。
 オレが明は消してほしいと言っても、顔が見たいとかいってそのまま平気でやりたがったりするしな。
 悪趣味だと思う。
「姉が不在中に義理の兄と、不倫するつもりか」
「なんでよっ!」
 いくらなんでもその思考は、不健全すぎる。
 オレは、思わず叫んでた。
「私は一度としてお前の手料理を食べたことが無いというのに、戸倉には食べさせるのだろう」
 いや、それは………ただ、タイミングが合わなかったってことと、あの家じゃあキッチンが使えないってだけなんだけどな。
 けど、オレは、あまりな言いがかりに泡食いまくって、反論すらできなかった。
 焦ったオレが気がつくと、オレはそのままロウテーブルの上に、押し倒されてた。
 猛禽類が獲物を狙うような鋭いまなざしで見下ろされて、オレの思考はすべて止まった。
 何も考えられなくなって、動くことすらできなくなったんだ。
 動くものはといえば、眼だけだった。

 そうして、その……………まぁ、されちまったわけだ。

 オレはただ料理でストレス解消したかったってだけなのに、なんでこんな目に。
 そう不貞腐れたオレの背中を撫でながら、
「悪かった」
 ちっともそう思ってないような声で、昇紘は謝った。
「オレがこういうの嫌いだって知ってるじゃないか」
 掠れた声で食って掛かっても、今更だ。
「後で着替えを届けさせよう。着替えたらまっすぐに帰れ」
 私はまだ仕事がある。
 そう言うと、昇紘は身なりを整えた。
 ならわざわざ来なくてもいいじゃないか……とは言えなかった。それでも、
「いやだ」
 オレは、せめてもとばかりにつぶやかずにはいられなかった。
 だって、そうだろう?
 なんか、ほとんど言いがかりで押し倒されちまってさぁ。
 オレのプライドなんかずたぼろだ。
「帰らない」
「何を言ってる。お前の家は、籍の家だろう。帰らないでどうする」
「オレの家じゃない。お前のだ」
 そう言った瞬間だった。
「憎いことばを紡ぐ口はこれか」
 顎を掴まれ、深いくちづけを受けていた。
 それは、戯れのものでも、愛情からのものでも、なかった。
 憎しみにかられた男の、罰っるためだけの、痛いくちづけだったんだ。
 キリキリと舌の根まで絡めとられるような深いそれが終わった後、昇紘はオレに背広を着せかけて抱きかかえるとそのまま車に乗り込んだんだ。
 抵抗なんかできやしなかった。
 オレは、昇紘の雰囲気にのまれていたんだ。
 ただもう、怖かった。
 そうだろう?
 このまま連れて帰られたら、戻ってきた昇紘に何をされるのか。
 はっきり言って、今日のオレは色々といっぱいいっぱいだったんだ。
「馬鹿が」
 不意に、隣に座った昇紘がそうつぶやいたかと思うと、オレの目元を指先で拭った。
 オレは、情けないことに泣いていたらしい。
 髪の毛をくしゃくしゃに掻き回してくる手が、不思議と心地好かった。
「お前の名前は、もう籍郁也だ。他のどこでもない、私の家がお前の家だろうが」
 ささやく声から、怒りが消えていた。

 それからしばらくして、籍の家に、オレ専用のシステムキッチンが作られたんだ。
 最初にオレが作ったのは、やっぱりというかなんというか、カレーだった。






start 23:31 27/08/2010
up 01:12 29/08/2010


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