茶系統でシックに整えられた籍グループ本社の会長室で、書類をめくっていた昇紘は、会議の時間と入ってきた秘書に促されて立ち上がった。
廊下を通るとき耳にした会話が、頭の中に刻み込まれたのは、単なる偶然に過ぎなかった。
昇紘に気づく寸前まで、まだOLになりたてらしい若い女性が声高に交わしていた、恋人をどれくらいの間待っていられるか――という、他愛のないものだったのだが。
待ち合わせ―――というのをほとんどしたことがないことに、気づいたのだ。
車を校門につけ、郁也を促す。それが、ほとんどの逢瀬のはじまりだった。いつも、自分から会いにはこない郁也に焦れた昇紘が、待ちきれずに半ば無理やり家に招くというパターンが定着していた。
いつも自分が待っているという事実に気づき、昇紘の鋭い双眸が、かすかに眇められる。
郁也はどれくらいの時間、自分のことを待てるのだろう。―――まるで、先ほどの女性たちのように、気になりはじめたのだ。
二十才以上年下の恋人のことを思い、昇紘の眉間にしわが寄せられる。
郁也に渡した携帯から、昇紘に連絡がくることも、やはり、ない。いつも、自分が一方的に彼に連絡を入れるだけだ。
自分が思うほどには、郁也が自分のことを思ってはいないのだと、昇紘にだとて、わかってはいる。それでも―――なのだ。
クッ――――と、昇紘の引き結ばれた口角が弛む。
自分があの少年に溺れきっていることなど、自覚するまでもない。
――戯れに手折った花にすぎなかったのだが。
いまやすっかり自らの日常に必要不可欠なほど根付いてしまった郁也という名の花を、昇紘には、枯らすつもりなど微塵もありはしなかったのだ。ただ、過ぎた栄養は、根腐れのもとになるなどとは、考えてもいない昇紘なのだった。
今日は忙しいと、この前に会った時、あらかじめ伝えておいた。あのときの、郁也の表情を思い出し、昇紘の胸が、ちりりと痛む。郁也は、肩の荷が下りたような顔をしていたのだ。―――そんなに、私といるのが苦痛なのか。口から出かけた言葉を飲み込んだ苦々しさがよみがえり、昇紘は、くちびるを噛み締めた。
どれくらい、郁也は自分を待つことができるのだろう。
いったん昇紘にとり憑いた疑問は、会議がひけた後、昇紘に、郁也の携帯を鳴らさせた。
時刻は、金曜の午後五時を回ったところである。
部活をしていない郁也は、とうに、佐々木という友人と下校してしまっているだろう。今頃は、テレビを見ているか、中嶋陽子に頼まれていれば弁当を作っているか――にちがいない。すっかり、郁也の生活パターンを把握している昇紘だった。
クッ――噛み殺し損ねた自嘲が、短く会長室に響く。折悪しく入ってきた秘書が、その場で立ち尽くす。しかし、すぐさま何事もなかったのだと気を取り直したらしい。デスクの脇で、予定を読み上げる。以上です――と〆た秘書に、鷹揚に頷いてみせ、昇紘は、ボディーガードを呼ぶように、命じたのだった。
待ち合わせに指定した喫茶店に私服で待機させたボディーガードから、十分間隔で連絡が入る。
意外と律儀な性格をしている郁也は、指定の二十分前には店に入っていた。
十分、二十分と、待ち合わせの時間を過ぎても待っているという連絡に、昇紘の頬が、かすかに弛んだ。もっとも、それは、あくまで人目につくようなものではなかった。
仕事のかたをつけた後、喫茶店がよく見える向かいのホテルのラウンジで、昇紘は、郁也を眺めていた。
郁也は、昇紘の存在には気づいていない。
やがて一時間。
そろそろ行くか――と、腰を上げた昇紘の足が、止まった。
それは、一人の少女が、郁也と相席になったからだ。
見知った少女なのか、郁也の雰囲気が、やわらぐ。
あれは、誰なのだ。
郁也に関するデータの中に、あの少女は、記されていない。
そのとき、マナーモードにセットしてあった携帯が、鳴り、昇紘を我に返らせた。
ラウンジのソファから立ち上がったまま固まっていた昇紘が、足早に歩き出す。
向かいから歩いてきていたベルボーイが、ホテルマンにはあるまじき後退をするほどの雰囲気を、昇紘はまといつかせていた。
「勝手だっ」
顔をゆがませて、郁也が、喚く。
井上という郁也のクラスメイトと別れて、昇紘は、郁也を連れて、元のホテルに戻っていた。
人前で騒ぐのはまずいと思っていたらしい郁也が、エレベーターで二人きりになるなり、そう、叫んだのだ。
「今日は会わないって言ったじゃないかっ!」
なのに、呼び出しておいて、一時間以上待たせた挙句、ホテルなんてっ!
「今日は、いやだからなっ」
絶対絶対にだっ!
背中を向けた郁也を背後から抱きしめる。
郁也が、全身をこわばらせるのさえ、愛しく思えて、笑いをこぼす。
子供の時間を終わらせて、大人の時間へと切り替えて数ヶ月。まだ慣れない、郁也の稚(いとけな)さに、愛しさが、いや増すのだ。
それと同時に、自分なしでも平気でいられる郁也に、腹立たしさも、芽生えてくる。
赤く染まっている、郁也の耳を、軽く、噛む。
びくり――と、郁也が、大きく震えた。
「や、めろっ」
誰かが来たら………。
全身を縮こませようとするかのように、首を竦める。
小刻みな震えと脈動とを楽しみながら、服の上から、郁也のからだに、手を滑らせる。
「いや……っだ」
目尻に溜まった涙を、くちびるで、拭う。そのまま、耳の付け根へと滑らせ、きつく、吸い上げた。
「くっ」
食いしばった歯列を割って、呻き声が、零れ落ちる。
郁也の体温が、一気に上がる。
からだを、より密着させると、郁也が、むずかるように首を振り、もがきだす。
「これだけで……か?」
いけないからだだ。郁也こそが悪いかのように、ささやいたと、ほぼ同時に、エレベーターが止まる軽い衝撃を覚えた。
ドアが開き、広いロビーが現れる。
郁也を抱えるようにしてエレベーターから降りた昇紘は、そのまま、正面のドアに、カードキーを差し込んだ。
ドアが開かれた刹那、郁也は躊躇したように、その場で硬直したが、結局、昇紘に促されるまま、部屋に足を踏み入れた。
しずかに、部屋のドアが閉まってゆく。
やがて、かちゃりと、オートロックのしまる音が、やけに大きくロビーに響いた。
おわり
start 9:19 2006/07/06(06/06/17)
up 22:08 2006/07/06
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