救急箱






 手を伸ばしてグラスをとろうとした時、
「っ!」
 そこから奔った痛みに、思わず声が出た。
 と、
「どうした」
 こいつは気遣っているのかもしれないが、どちらかと言えば平板な声が尋ねてくる。
 けど、朝食の席にはふさわしくないに違いない答えを口にする気力はなかった。
 洋間のダイニングには朝の日射しが窓からこれでもかと降り注いでいるし。鳥のさえずりまでもが聞こえている。あと聞こえるのは、テーブルウェアのたてるかすかな音ばかりだ。
「なんでもない」
 そう返して、オレは取り上げたグラスを呷ってテーブルを離れた。
 溜め息が出てくる。
 淡いクリーム色の開襟シャツは、おろしたてだからだろうか、ぱりっとしていていいのだが、織が固い。
「やっぱおろすのはもう少し先にするか、な」
「どうしてだ」
「おまっ! ひとの部屋に勝手に入ってくるなよ」
 いつの間にかオレの後ろに立っていたあいつに、オレは食ってかかる。
 だって、そうだろう?
 なんか、当然って感じで勝手にひとの部屋にいるのって、腹が立つじゃないか。
「妻の部屋に夫が入って何が悪い」
 それに、ノックはちゃんとしたぞ。
 誰が妻だ! と、言いたいが、現実問題として、そうだから、反論もできない。
「ノックの返事はしていない」
 聞こえてなかっただけだけどな。
 せいぜいがそれくらいだ。
「具合が悪そうだったからな。心配するのは当然だろう」
 具合が悪いってわけじゃないけどな。
「そら。どうしたか言ってみろ」
 背後から腹に腕が回された。
 その時、ちょっとだけこいつの手がそこに触れて、痛みが奔った。
 偶然だったのはわかっている。
 けど、痛い。
 疼くような痛みが、そこから全身に広がる。
 落ち着けやしない。
「ちょ、腕を放せって」
 腹に回った腕のせいでシャツが引っ張られて、そこを擦り押さえつける。
 痛い。
「どうしてだ」
 言いたくないって言うのに。
「腕、腕放せって……っ!」
 振り向こうとして、オレは墓穴を掘った。
 ズキンズキンと、痛みが音になる。
 そんな気がした。
 涙目になったオレを背後から見下ろしてくる昇紘の目が、なんか、そういう色を帯びたように見える。
 なんだか危なくないか。
 直感してた。
 ま、まぁ、一緒に暮らし始めて半年くらいにはなるのか? オレも、少しはこいつとの生活に慣れてきてるしな。
「え、えと……悪い。手、放してくれると助かる」
 オレを抱えてる腕の位置がずり上がってくる。
 ヤバい。
 ヤバいんだよ。
 ヤバいばっかり使ってるけど、それしか思い浮かばない。
 オレの頭の中は、“ヤバい”でいっぱいだ。
 あの痛みがまだそこを中心に響いてるっていうのに、これは、まじで、ヤバい。
 今日が休みっていうのも、な。
 こいつも、休みだ。
 接待も会合も、何もない完全なオフらしい。
 それで、一緒に出かけようと言われたからな。とりあえず、それらしい格好をしなきゃいけないよなぁと、シャツをおろしたんだけどさ。
 Tシャツにジーンズで行けるようなところに出かけるかどうか、教えてくれないんだよな。
 サプライズ?
 いい歳こいてそれはないだろ?
 まぁ、比較的ラフな格好をしてる昇紘に合わせるしかないだろうけど。
「出かけるんだろ? 着替えるから放してくれって」
「そのシャツがよく似合っている」
 着替えるなって?
 耳元でささやかれて、ぞわっと背中が鳥肌立った。
 ついでのように耳朶を軽く噛まれて、腰が砕けそうになる。
 悪いか?
 耳とか首とか背中とか、とにかく、弱いんだよ。
 で。その動いたはずみで、また、擦れた。
「っ……駄目だ。着替えるから出てってくれ」
「何故だ? 何が気にくわない」
 しつこい。
 いいじゃないか。
 もう、なんだって。
「いいからっ、着替えらんないだろっ」
 痛みが続いたっていいやって、自棄をおこしたオレは、こいつを振り切ろうと暴れた。
「着替える必要などないと言っている」
 よりきつく拘束して来ようとするこいつに、マジで泣きそうだった。
「痛いんだよっ! お前が昨夜あんなことするから、少しでも擦れると痛いんだっ!」
 真っ赤になって怒鳴ったオレに、やっと昇紘は合点がいったらしい。
 それで放してくれれば万々歳だったんだけどな。
「見せてみろ」
って、いいです、いらないです。
 別の攻防戦が始まっちまってさ。
 万事休すってやつだよなぁ。
 オレは、昇紘には適わないからな。
 結局、着替えなくていいって言ったくせに、脱がしやがった!
 しかも、なんでよ。
 いつの間にか、ソファの上に押し倒されてんだ。
 もう、恥ずかしいやら、腹が立つやらで、オレは、これ以上ないってくらいに真っ赤だろう。
 見せたくないからって、女の子みたいなポーズをとったけど、それも、無駄でさ。
 隠そうと交差させた腕を、手首を掴んで開かせやがった。
 じっとりとした視線を感じて、オレはきつく目をつむったんだ。
 顔を背けたオレの耳に、昇紘の含み笑いが聞こえる。
 間違いなく好色な響きをはらんだそれに、オレは小さく震えずにはいられなかった。
 目をつむっていても、昇紘の粘り着くような視線は痛いくらいだった。
「ああ。赤くなっている。いつもより少し、腫れてもいるようだな」
 そんなことを言われて、全身が熱くなる。
「ひっ」
 軽くくちびるで挟まれて、オレはからだを捩ろうとした。
「熱を持っているな。擦り傷のようになっているのか。これは確かに、痛いだろう」
 痛いだろうじゃないっ!
 罵りたかったが、口を放す寸前に軽く舐められたそこは、あいつの口が離れたことで空気を冷たく感じて固く尖ってしまった。
 それがわかるだけに、もう、どうしようもないくらに恥ずかしかった。
 オレは唇を噛み締めて、昇紘から頑に顔を背けたままだ。
 そんなオレを見下ろして楽しんでいるのだろう、昇紘の笑いが聞こえる。
「昨夜確かに、しつこくしすぎたようだな」
 少しも反省はしていない。そんな声だった。
 その証拠に、
「わかったんなら放してくれよ」
 起き上がろうとするオレの肩を押し返しながら、
「私が軟膏をぬってやろう」
 そう言って、執事さんを呼んだんだ。
 しかも、
「救急箱が届くまで、舐めてやろう」
 そんなことを言いやがった!
「いらんっ」
 けど、オレの体勢は不安定なバランスだったから、またソファに押し倒されて、結局、昇紘に、乳首を舐められる羽目になったんだった。

 結局、出かける予定はパーになった。

 事が終わった後に、執事さんがいつの間にか届けてくれたらしい救急箱に気づいたオレは、もはや昇紘を罵る気力さえ残してはいなかったんだ。





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