イクちゃん大好き病





 張りつめた空気が、その刹那千々に弾けた。
 息を呑む間もなく、勝敗は一瞬にして決まる。
 応援に来ていたものも、ただ見学に来ていたものも関係なく、呆気にとられた。
 そう、その一回の瞬きにも満たない時間で、全国大会優勝者が決まったからである。
 黒い袴と同色の道衣。
 遠目に見てもすらり丈高い印象の若者だった。



 あれはオレが小学低学年のときのことだ。
 あの頃では珍しく、イクちゃんがオレの家に遊びにきていた。
 実家だから、別におかしくはないんだけどな。
 忙しいあのひとのパートナーであるイクちゃんもまた、大学時代とは違って少しだけ忙しくなっていたから、本当にそれは珍しいことだったんだ。まぁ、イクちゃんの役割って、“奥さん”だけどな。基本。
 ともあれ。
 オレは、純粋に喜んでいた。
 有人には悪いが、イクちゃんを独り占めにできることが嬉しかったんだ。
 しかも、一晩泊まるんだ。
 帰りは、オレが一緒にあっちの家に行く予定になっていたりする。明日からは両親がロケで、この家からひとがいなくなるからだ。
 オレは、あの家の人間同然みたいな扱いを受けてるけど、けどやっぱり、色々と違う。オレの家は、やっぱりここだから。だから、有人がいなくてイクちゃんがいるっていう状況が嬉しくて、イクちゃんにまとわりついてた。
 他に誰もいなかったしな。
 あの時はなんかいろんな要素がからんでそう言うラッキーな状況になったんだ。護衛の黒服集団もなんだか知らないけどいなかったしな。逆にそれは、アンラッキーなフラグでもあったんだ。


「イクちゃんゲームしよ、ゲーム」
 晩ご飯の後だった。
 片付けをイクちゃんとふたりで済ませて、オレはそう提案した。
「あのマット使うヤツはパスな」
 イクちゃんがぼやくのも無理はない。
 マットの上でリズムに合わせて飛び跳ねるって言うゲーム、簡単そうに見えて意外にハードでさ。ゲーム系には強そうなイクちゃんだったから楽勝だろうって思ってたら、え? って結果になった。
 おかしいだろ?
 ピアノは疾うに習うの辞めたって言ったって、あのカイザーが惜しいってぼやいたくらいの腕前だったってオレは聞いて知ってる。
 リズム感が悪いわけないって。
 絶対!
 なのに、有人もオレもノリノリで楽勝だったあのゲーム、イクちゃんぼろぼろ。
 ムキになったあげく、しまいには尻餅ついてさ、家族の休日を見守る大黒柱の図を地でやってたあのひとが一言、
『もう充分だ』
って、ストップを出してきたくらいだったんだよな。
 あの後、イクちゃんをお姫さま抱っこしてゲームしてた部屋を出て行ったあのひととイクちゃんとの間で何があったかなんて、考えるまでもない。
『あ。ぼくもお昼寝だったら行く』
って、立ち上がろうとした有人を止めるのに、オレはそのまま他のゲームを引っ張り出したんだった。
 今行ったりしたら、絶対やばいからなぁ。
 お子ちゃまな有人はまだそういうこと理解してない。
 あれだけイクちゃんに執着しまくって溺愛しまくってるあのひとだけど、膝枕とかキスは別として、性的接触は極力オレたちの前じゃしないからな。
 されても困るが。
 そんなわけもあって、有人は、そういう情報にどうしてもうとくなってる。
 だからって、オレだって、まだお子ちゃまだしな。
 教えるのは荷が重いです。
 はい。


「わかってる」
 ついつい返事の口が弛むのもしかたない。
 オレはまだまだガキだから、どうしたってあのひとに適うわけないもんな。
 オレはいそいそとゲームを引っ張り出した。
 イクちゃん十八番のシューティング。
 こっちは得意なのになぁ。
 集中してるときのイクちゃんは、モノがゲームでも、はっとするくらい独特の雰囲気をまとう。
 きれいなんだよな。
 違うか。
 なんだろうなぁ。
 とにかく、眉間に寄せられた皺とか、食いしばった口元とか、首筋の緊張してる筋とか、コントローラーを弄ってる男にしてはきれいな指とか、乱してみたい? うん。ちょっと近いかもしれない。
 だから、オレはシューティングの対戦は、いつだってぼろ負けだ。
 わかるだろ。
 ドキドキ鼓動が乱れまくりだしな。
 イクちゃんに見惚れちまうんだ。
 ああ、病気だよなぁ。
 イクちゃん、イクちゃん、イクちゃん。
 イギリスの有名な小説の台詞を口にしたくなる。
 ま、敵味方じゃないけどな。
 こどもってことを利用して抱きつき放題だけど。
 でも、虚しい。
 なんか、これ以上“イクちゃん病”が悪化したらどうしようオレ。
 そんな恐さが、いつもある。
 イクちゃんは男だし、血の繋がりはごく薄いけど一応叔父と甥だし、ちゃんと旦那さんまでいるしな。
 オレ、入り込める余地ないじゃん。
 けどさ。
 やっぱ、イクちゃん以外にときめかない。
 もっと大人になれば、変われるだろうか。
 だれか、イクちゃん以上に好きになれるひとが現われるだろうか?
 そんなことを考えてると、
「おい」
「おい、史月」
 イクちゃんだった。
「もう止めるか?」
 オレを見上げてくるイクちゃんの茶色の目。
 ドクンと、より大きく心臓が鼓動を刻んだ。
 ああ、もう、オレ駄目だ。
 真っ赤になってるに違いない。
 恥ずかしい。
 かっこわるい。
 こんな自分を見られたくない。
 オレは首を縦に振って、自分の部屋に逃亡した。
 オレは自分の部屋でしばらく天岩戸を決め込んでしまった。
 ベッドに突っ伏して、いつの間にか眠ってしまったんだ。
 だから。
 だからオレは、イクちゃんを守れなかったんだ。


 なんだろう、大きな音でオレは気がついた。
 寝てたんだ。
 その前の醜態を思い出して、オレは独りでまた赤くなった。
 それにしても、いったい何の音なんだ。
 なにかが壊れたような音だった。
 カーテンをかけていない窓の外は真っ暗で、街灯の灯りだけが射し込んでくる。
 それを確認した途端、オレは不安に囚われた。
 直感だった。
 なんか、やばい。
 下に行かないと。
 イクちゃん!
 バクバクと、寝入ってしまう前とは違う心音が、オレを駆り立てた。
 けれど、逸る鼓動とは別に、慎重に動けと、何かがオレにささやきかける。
 オレは、音をたてないように、部屋を出て階段を降りた。

 真っ青になる。
 血の気が下がる。
 なんでオレは天岩戸なんてしてしまったんだ。
 恋心が漏れ溢れてしまったからと、部屋に逃げた自分を責めた。

 リビングの光景に、目を疑う。

 パジャマ姿のイクちゃんが、強盗らしき二人組に襲われてたんだ。
 乱れたパジャマの襟ぐりが大きく開いて、縛られてるってこともあってか、なんかゾッとするくらい雰囲気があった。

 駄目だ駄目だ駄目だ。
 飛び出したい。
 でも、駄目だ。
 オレは、非力だ。
 こんなオレが飛び出したからって、意味などありはしない。
 助けたいのに。
 ここで見ているしかないのか。
 いや。
 それは、違う。
 なにか。
 何かがあるはずだ。
 リビングを通り抜けなければ玄関には出られない。
 イクちゃんを溺愛してるけど、なかなか会えないカイザーが、家にいる時だけでも思春期の息子の顔を見ることができるようにと決めた間取りがこの時ばかりは憎い。
 なら、ピアノ室の窓から。外は池になっている。
 風呂かトイレか。オレの体格でもあの窓は通り抜けられない。
 キッチンの勝手口はどうだろう。ペットボトルが山と積まれている。
 どれも却下だ。
 とにかくこの家の間取りは、ファミリー空間に関してはリビングが中心なのだ。
 リビングを抜けなければどこにも行けない。
 応接間と客室だけが、リビングと玄関との間にある。極端なほどの線引きだ。
 ならば二階か。
 窓から飛び降りて、交番に走るしかない。
 けど、それまでイクちゃんが保つのだろうか。
 そっちが心配で、オレの足はその場に貼りついたようになって動けない。
 ふと、イクちゃんが、オレに気づいた。
 “ニゲロ”と、口が動く。
 オレは首を横に振っていた。
 けど、イクちゃんは、これまで一度も見たことがないくらい強(こわ)い目をしてオレを見ている。
 オレは、泣きそうだった。
 喉元にこみあげてくる塊が、涙腺を弛める。
 オレは、首を縦に振る。
 途端、イクちゃんの視線が、弛んだ。
 いつものイクちゃんだ。
 泣き笑いの顔をして、オレは、二階へと踵を返そうとした。
「史月っ」
 え?
「ガキがいやがった」
 襟首を掴まれて、オレは宙に浮いていた。
 三人目がいたんだ。
「嘘をついたな」
 イクちゃんに詰め寄る男の手にはサバイバルナイフが握られている。
「自分だけって言ったよな、にいちゃん」
 ぴたぴたとイクちゃんの頬にナイフが当たる。
 オレはただ声もなく、それを見てた。
 恐かった。
 イクちゃんが殺されるんじゃないかって。
 それを考えると、全身が震える。
「史月はこどもだ」
 震える声が、オレの耳を打つ。
 イクちゃんも恐いんだ。
 それを思うと、ほんの少しだけ、勇気がわいた。
 助けないと。
 けど、どうやって。
「こどもでも〜この家にいるのはにいちゃんだけじゃなかったよな〜」
 ケラケラと笑いながら、別の男が、イクちゃんに近寄る。
「やめろっ! イクちゃんに触るなっ」
 前髪を掴まれたイクちゃんの顔を無理矢理持ち上げる。
 オレは、まだオレを掴んだままだった男の顎に頭をぶつけた。
 ぶら下がってる状態のオレの攻撃じゃそれほどの衝撃にはならなかっただろうけど、一瞬の怯みで、オレは床に落とされた。
 イクちゃんに駆け寄る。
「駄目だ、史月っ」
 オレに反撃された男が、オレをもう一度捕らえようと手を伸ばしていたらしい。
 オレはただイクちゃんが危ないってそれだけしか頭になかった。
 自分がガキだってことも、非力だってことも、少しも頭にはなかった。
 だから。
 我に返ったオレは、悲鳴を上げた。
 オレの背中には、イクちゃんのだろう重みと、ぬくもり。
 そうして、オレを濡らしているのは、イクちゃんの血。
 だったからだ。

 イクちゃんはオレを守ってくれた。
 そうして、背中に傷を負った。
 幸い、命に関わるような傷ではなかったけど。
 それでも、イクちゃんはしばらく入院しなければいけなかった。

 そのことで、誰もオレを責めはしなかった。
 逆に恐かったろうと慰めてくれた。
 駆けつけた祖母も両親も、カイザーまでもが、心配そうにイクちゃんとオレを見ていた。
 有人もあのひともだ。
 それは、イクちゃんもだった。
『怖い目にあわせてごめんな』
 居心地がいいように設えられた特別室とはいえ、病室は病室だ。
 そのベッドの上で、まだ点滴の管に繋がれたイクちゃんが、オレの頭を撫でてくれた。
『オレが』
『ん?』
『オレが弱かったから』
『バッカだな。オレがおまえを守るのは当然だって。だって、オレは、おまえの叔父さんなんだからな』
 そう。
 オレに力があれば。
 ありさえしていれば、オレはイクちゃんを助けることができたろう。
 オレは、イクちゃんの手を握って、心に決めた。
 強くなるって。
 そうして、オレは合気道に出会ったんだ。
 オヤジのおすすめでもあった。
 そんなに強くなりたいんだったら、イクちゃんを守りたいんだったら、やってみなと。



 今のオレならきっとイクちゃんを守ることができる。
 誰にもイクちゃんを傷つけさせたりしない。
 大事なイクちゃんを、守ってみせる。
 “イクちゃん大好き病”を引きずったままのオレは、応援席の中にイクちゃんの顔を見つけて笑ってみせたんだ。





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