エレベーターのドアは、興味津々な視線を断ち切ってくれた。
オレは、ほっと息をついて壁にもたれた。
まったく。
こいつといると、いつも落ち着けない。
今だってそうだ。
肩を抱いていた手は外されて、昇紘はドアのほうを向いて立っている。
けど、オレは、なんだか居心地が悪い。
息苦しいんだよな。
それは、ここがエレベーターの中だからなのかもしれない。
会長室に直通だというエレベーターは、乗り心地がいいんだろう。オレなんかはエレベーターはエレベーターにしか思えないんだけどな。これを使うのが、昇紘だけなのか、それとも秘書は使っていいのか。会長室に用事がある社員が使っていいのか。どうなんだろう。なんて、変なことを考えてた。
でも、これに乗ってるときに地震が起きたり、突然故障で止まったりしたら、ひとりきりだとつらいよな。
密室で閉じ込められるって話も聞くしなぁ。
壁に絵なんかかけられてて、下にはカーペットだ。どうせ、絵もカーペットもついでに照明も、高いんだろうなぁ。金持ってるやつって、ほんと変なところに金をかけるよな。
「何を呆けている?」
突然顔を覗き込まれて、我に返った。
「べつに」
びっくりするだろ。
こいつの香りが鼻先をかすめる。
かすかな、ほんのかすかな匂いなんだけど、変な気分になっちまう。
なんだろうなぁ。
これって。
たくさんの視線を向けられてどこかささくれ立っていた神経が、弛む。
ふっと、鼻孔を満たす匂いが強くなった。
「しあわせが逃げるぞ」
そんなことを言って、触れるだけのキスをよこした男を、オレは見上げた。
また溜め息だ。
オレのしあわせなんか、お前と知り合ったことでどっかに行っちまったさ。
こう言うと、どうなるんだろう。
見てみたいような、怖いような。
あわててオレは頭を振った。
横にだ。
きっと、言わないほうがいいに決まってる。
いくら墓穴堀でも、これくらいの判断はできる。
なんか、今日は疲れた。
明日からが休みじゃなきゃやってけやしない。
一気に年を取った気分だ。
ああ、もうすぐ十八になるんだなぁ。
そう思った時だった。
感じるか感じないかの振動がして、音もなくドアが開いたんだ。
会長室に直通ってこういうことなんだ。
ほんとうにそうなんだ。
見ただけで判る。となると、このエレベーターは、昇紘専用ってわけだ。
なんてまぁ。
オレは、肩を竦めた。
呆れるしかないってやつだよな。
広い。
まったく、こいつが何さまかって言うのが、よくわかる。
どうしてこう、金をかけるんだろう。
エレベーターの外は既に会長室だった。
濃紺のカーペットが床を覆ってる。
その中に、ソファセットがあって、あとは、仕事用の机にやたらと凝った細工をしてある棚に、観葉植物が色々置いてある。ああ、一面ガラス窓の壁がある。高所恐怖症だったら、どうすんだって、突っ込み入れたい。眺めはいいけどな。広さもかなりある。二十畳は余裕でありそう。まったく。会社にどうしてこんな部屋が必要なんだろ。判らん。
エレベーターを出たオレは、ドアの横にドアがあるのに気がついた。ここを開けるとどこに行けるんだろう?
促されるままソファに座ってたオレの疑問はすぐに解けた。
昇紘が机の上の受話器を取ると、何か喋った。すると、ほどなくしてそのドアが開いたからだ。ちらっと見えたけど、外にはまた部屋があるみたいで、ひとの気配があった。
入ってきたのは、一目でエリートって判る男だ。奇麗に整えられた髪型と、ノンフレームの眼鏡のせいか、怜悧な印象をオレは覚えた。それに、なんというか、突っ込みどころがないようなビジネススーツ姿なんだ。隙がないっていうのか? そんな男が手にトレイを持って、入ってきたんだよな。
突っ込めるとするなら、そこだけかもしんない。
普通はこう、奇麗なおねーさんが運んでくんでない?
そうでもないのか?
会長室なんて未知の空間だからなぁ。オレには何が正しいのやらさっぱりだ。
男は、オレに気づいたんだろう、入ってすぐに足を止めた。
「どうした?」
「いいえ」
すぐに我に返った男が、オレの近くまで歩いてきて、トレイの上のものをテーブルに置いた。
コーヒーかぁ。
「ありがとう」
いつもならサンキュで済ますんだけどなぁ。相手がちょっと取っ付き悪そうな印象に見えたから、オレってば、取り繕っちまった。
「どういたしまして」
男の視線が外れたのを見て、オレは、砂糖を入れてかき混ぜたコーヒーにミルクを流し込んだ。
濃い褐色のなかに白い渦が生まれてく。
オレは、ぼんやりとそれを眺めてた。
と、昇紘が手にカップを持ったまま、オレの隣に腰を下ろした。
見ると、オレから受け取った白い封筒は、男の手に移ってる。
ああ、このひと秘書なんだ。遅ればせながら、オレはやっと気づいた。やっぱ、ちょっと惚けてるんだな、オレ。
だから、昇紘がオレの肩を抱いたのに反応するのが遅れたんだ。
「ああ、一条。紹介しておこう。籍郁也、先日私の籍に入った」
ちょうどカップに口をつけた時だった。
よくこぼさなかったもんだ。
けど、咽せかけちまったじゃないか。
慌ててカップをテーブルに戻して、オレは何度か、咳をした。
はぁ。
涙が出ちまった。
ティッシュが欲しい。
見渡してると、
「どうぞ」
差し出してくれたのは、一条さんだった。
「郁也。私の第一秘書の一条だ。覚えておくといい」
「さ、サンキュ」
変なタイミングで、オレの猫は剥がれた。いや、違う、変なタイミングで、オレは礼を言ったんだ。
ああ、オレ、真っ赤だろうなぁ。
ティッシュで涙を拭いてると、
「一条司と言います。よろしく。郁也さま」
さま?
ここでもかい。
慣れないんだよ。据わりが悪いというかなんというか。ムズムズしちまう。
「よろしく、一条さん。えと、“さま”は、つけなくていいですよ。そんなガラじゃないし」
「なら、私も、“さん”はいりません。どうぞ、一条と呼んでください」
切り返されちまった。
「一条でいい」
昇紘の一言で、なんとなく、そういうことになっちまったのだった。
けど、どうにも居心地が悪い。
テレビくらいはあるのかなぁ。
昇紘も一条さん(さんつけないとどうも落ち着かないんだよな)も、部屋を出て行った。
独り残されたオレは、手持ちブタさんだ。
うん。
なんもすることがないんだもんなぁ。
とりあえず窓から外を見て、某国民的アニメの悪役のまねをしてみたけど、空しいだけだったし。いや、きっと昇紘がやったら似合うんだろうが、何を間違ってもしないだろうなぁ。
で、オレは、ソファに戻ってぼけっとしてた。
棚の戸とか勝手に開けていいのかどうか、わからなかったしなぁ。
携帯のゲームって、どうも、慣れないしな。
佐々木にメールは駄目だ。あいつ、今日は映画をはしごするとかって張り切ってたし。
どうせ、井上さんと一緒に決まってる。うん。オレが断ったのは、井上さんも一緒だろうと踏んだからだ。あのふたりなんとなく、いい感じだしな。ふたりはそんなことないっていつも否定するけど、実のところ似合ってる。オレが行ったら、お邪魔虫だもんなぁ。
あ〜あ。やっぱり来るんじゃなかった。
寝ちまおうか。
ふとそんな考えがよぎった。
でも、この部屋の外で、秘書さんたちが仕事してると思うとな。
落ち着かない。
帰ろうか。
だよな。
勝手に帰ったら、怒られそうだけど、ここでぼーっとしてるよりましだ。
思い切って立ち上がった時だ。
ノックの音がして、ドアが開いた。
「失礼します」
ああ、やっぱり秘書ってイメージは、こうだよなぁ。
うん。
奇麗というよりも可愛らしいって感じのおねーさんが、トレイを持って入ってきたんだ。
「どうぞ」
オレの前に、こんどは紅茶が置かれた。そうして、ケーキがふたつ。
ザッハトルテとドーム型のケーキだ。
それに、おねーさんが小脇に挟んでた雑誌をくれた。
「会長は、まだしばらく戻って来れないと思いますので、もう少しお待ちください」
頭を下げておねーさんが部屋を出て行った。
見送って、オレはふと、思いついたことで呻くはめになった。
やっぱ、話は通じてるんだろうなぁ。
オレが、あいつの養子というかそういうんだって。
ああ、気づかなきゃよかった。あいつもなんであそこでああいうことを言うんだろう。知り合いくらいにとどめておいてくれればいいのに。
泣きたい。
はぁ。
気を取り直して、オレはケーキと紅茶の攻略にとりかかったんだ。
けど、それだってそんなにかかりやしない。
おねーさんが食器を下げにきてくれたとき、オレは雑誌を読んでいた。これは、オレが買おうと思ってた漫画雑誌だったからラッキーだけど。エリートばかりがいそうなここにもこういうの読むヤツいるんだなと思ったら、安心した。まさか、わざわざ買ってきたり、は、してないよな? まさか、な。
静かな部屋にオレが雑誌のページを繰る音だけが、響く。
どれくらい夢中で読んでただろう。
またドアをノックする音がした。
顔を上げたオレは、ドアのところに、一条さんとなんだか記憶にあるひとの顔を見つけた。
「ご無沙汰しております」
頭を下げたのは、
「え、と………仕立て屋のおじさん」
そう。昇紘のところに引っ越してすぐに、つれてかれた仕立て屋の主人だ。
あそこで、スーツを何着か注文したんだった。
何時間もかかって、採寸された時のめんどくささがよみがえる。
「また?」
つい、本音が漏れちまった。
「いいえ」
けど、おじさんは笑って、ついてきてたふたりの弟子を呼んだ。ふたりの弟子とも、あのとき、顔を合わせてはいた。
なんだか、時代錯誤だなぁと思ったけど、本場のイギリスとかイタリアとかじゃ、仕立て屋もあまり珍しくはないそうなんだ。でも、ここ、日本だし? と、突っ込みはお約束。
「先日ご注文を受けた品ですが、細かいところを確認したいので、手を通していただけないでしょうか」
「はい?」
ここで?
「どうぞ」
下手に出られたら、弱いんだよなぁ。
ちょっと一条さんが気にはなったけど、オレはしぶしぶ立ち上がって、制服を脱いだ。
「シャツもご用意しております」
全部脱げってか。
ああ、めんどくさい。
やだなぁ。
思いながら、オレは手渡される服に着替えたんだ。
オリーブグリーン系のシャツと、モスグリーンの上下、それにシャツの襟のところに金具がネックレスみたく渡されてる。ネクタイの代わりか?
シャツはイタリアかどっかの極上の綿だそうで、軽い。で、スーツの上下が、シルクか? ウールか?
宗ポケットのチーフまで入れられて、カフスまでつけられて、靴まで用意されてたのに替えたときには、オレとしては、もう何だっていいやって気分だった。
いつの間にか一条さんは消えてたし。
だいたい、こんなん着てどこに行くのよ?
それに、オレって、おしゃれに興味ないしなぁ。
だいたいが、陽子ねぇが選んでくれたりおふくろさんが買ってくれたりする服を、そのまま着てるだけだったし? あとは、親父の土産な。オレの好みなんか、はっきり言って、シンプルイズベストよ。せいぜいが柄同士を合わせないってくらいの知識しきゃねぇもんなぁ。
疲れて立ってるオレを、おじさんたちは矯めつ眇めつしながら、服のあちこちを引っ張ったり、オレに手を挙げさせたり、色々させた。
「なら、大丈夫ですね」
最後に、部屋の隅からオレを確認して、満足そうにおじさんがそういった時、オレは、へとへとだった。
なにげに時計に目をやると、一時間近く経ってた。
おじさん、拘るね。
それが、オレの正直な感想だった。
「も、いい?」
どっかでタイミング見計らってるのかってくらいの、タイミングの良さで、ノックの音もなくドアが開いた。
確認するまでもない。
ドアのところにいるのは、昇紘だった。
つづく
up 10:17 2009 12/31
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