思う壺





 ピッピッピッという電子音がして、小さなドアが開く。紙コップに注がれたアイスコーヒーを取り出して、オレは、一口飲んだ。
 今、陽子ネェは、撮りの最中で、せっかく持ってきた弁当を手渡せない。
 いや、陽子ネェ専属の弁当係はかなり長かったりするから、撮影スタッフのみんなと顔見知りになっちまってんだけどさ。誰かに預ければいいんだろうけど、いつもは誰かしらがいる休憩室に、どうしてだか、今日は人影がない。
 予定が押してんのか?
 グビ――と、一口飲んで、
「ゲッ、間違えちまった」
 オレは、顔をゆがめる。
 ミルクと砂糖のボタンを押し間違えちまった。
 はぁ………。
 溜め息が出る。
 オレ砂糖だけのコーヒーって飲めないんだよな。
 ブラックは平気だけど。できればミルクがほしいところだ。
 で、砂糖がはいってんなら、絶対ミルクがないと飲めなかったりする。
「あああ、もったいないなぁ…………」
 つぶやきながら、オレは飲み残しオッケーとかかれてるダストボックスにぼそんとコーヒーを捨てた。
 で、口直しにと、もっかい自販機にコインを押し込んだんだ。
 コーヒーの味には、コーヒーかなぁ――とか口直しに何を飲もうかと考えながら、今度は確認を忘れずにボタンを押す。もちろんミルク増量を押して、それから、だ。
 なんか、この間のアレから調子が悪い。
 アレって、思い出したくもないけど。
 小司馬に拉致られてからだ。
 うん。
 最後の一線―――な。
 そりゃあ、あいつとはとっくの昔に越えてっけどさ。
 それだって、小司馬のと似たような感じだったしさ。
 それでも、あいつとだけだ。
 あいつのことが好きだからあいつとだけとかって少女趣味な理由じゃなくて、好きとか嫌いとかいろいろともう考えるのも面倒くさくなって開き直っちまったというか、開き直るしかないなぁって腹括ったっていうのが正直なところだけど。
 セックスの経験値っていうのが回数じゃなく人数で変化するって聞いたのは佐々木からだったか、井上からだったか。それで言うと、オレはまだ経験地は高くない。そう信じてられたんだけど。
 いやまぁ、高くないからどうとかって実は自分でもこう、わかってないような気がする。
 多分、男同士で抱かれる側という経験値が高くなるのが不安なんだと思う―――んだけどな。
 あいつ以外の男にやばいこと散々されて、どんなに泣き喚いたか知れやしない。
 思い出したくもないって言うのが正直なところなんだけど。
 けどまだ忘れることができなくて、何かの拍子で押し込めた忌々しい記憶が湧き出してくるんだ。
 オレの全身が震える。
 どうにか、最後の一線は越えずに済んだと思う。
 おぞけるほどリアルな感触がオレの中に入ってくる寸前だったんだ。
 怖かった。
 あと少しあいつ達が駆けつけるのが遅かったら、アウトだった。
 あいつとは違う男に性欲の対象にされているって事実が、怖くてたまらなかったんだ。
 オレが引き裂いたシーツの音が、今も耳に生々しい。
 あいつの青ざめて引き攣った表情を思い出す。
 裸のまま抱きしめられて恐慌をきたしたオレからからだを離して、あいつは着ていたコートでオレを包みこんだ。そうして、もう一度、抱きしめてきた。
 馴染んだコロンの匂いに、オレは緊張がほぐれるのを感じてた。
 それまでのとは違った涙が悔しいことにあふれて、オレは、大声で泣いたんだ。
 あいつは、オレが落ち着くのを根気よく待っていた。
 静かに耳元で、
『大丈夫だ』
『もう終わった』
って、それを何度も繰り返してた。
 それだけのことが、どんだけオレの慰めになってくれたか知れやしない。

 けど、実を言うと、オレは、まだ、立ち直れないままなんだろう。

 あの後、オレは、三日くらい、使いものにならなかった。

 慰めてくれるあいつの声のトーンとか、背中をさする掌の感触とか、オレを包み込んだあいつの匂いとか。そんなものに安堵を覚えたなんて、思い出しても叫び出しちまいたいくらいだ。
 だから、オレは、全部をなかったことにするつもりだった。
 そうしないと、オレは立ち直れないって、怖くてならなかったんだ。
 思い出したくもないことに、オレは、必死で頭を横に振った。
「もう、会わない。会わないったら会わないんだっ!」
 たとえあのひとがなにを言ってきたって。
 陽子ネェには、たぶん、いや、絶対に、裏工作なんか必要ない。―――あのひとに、そそのかされたとき、そこに気づいてれば、オレは、平穏な生活にどっぷり浸れてただろう。
 それに、あいつだって断ってたらオレに執着しなかった――と、思うんだけどなぁ。
 希望的観測ってやつか?
 もっとも、今更、ってやつだけどな。
 とにかく、オレは、もう、あいつとは会わないって、決心した。
 だから、アレからまたオレの腕に巻きつけられてた腕時計を、オレは、いつもみたいに校門で待ってた中谷さんに託(ことづ)けたんだ。
 メッセージも何も添えていないそれの意味を、あいつが理解するかどうか、わかんない。けど、オレが、きっぱりと「行かない」と中谷さんを断ったことで、わかるんじゃないだろうか。証拠に、ここ二日、中谷さんは、校門に来なかった。
 オレは、ホッとしてたんだ。
 あいつもいい歳こいた大人だし、いつまでもオレみたいなガキに現を抜かしちゃいられないだろう――――って。
 いや、どっちかってーと、こだわってほしくない―――っつーのが、オレの本音だけどな。
 ああ、おんなじよーなこと考えてる。こういうの、思考の空転っつーんだろーなぁ。
 オレは重箱を置いておいたロビーのソファに戻ろうとして、
「あっ……と、すんませ……………ん」
 誰かにぶつかっちまった。
 条件反射で謝罪を口にしたオレの鼻の先を掠めたコロンの匂いに、オレの語尾は力なく転がった。
 オレを自販機に押しつけてるのは、お約束のように、あいつ――籍昇紘――――だったんだ。
「なっ、なんで………」
 たちまちオレの全身が、ぶざまに慄きはじめる。脂汗まで流れたりして、なってないよな。
「なぜ?」
 喉の奥で噛み殺すような、特徴のある笑いの後、
「私をなんだと思っている」
 見下ろしてくるきついまなざしが、昇紘の顔が、近づいてくる。
 ――――――オレって、オレってつくづく、どっか、抜けてんのか………。
 こいつってば、番組の大事なスポンサーさまだもんな。視察したいとか、見学したいとか、電話ででも言えば、誰も、駄目だなんて、断らないに決まってる。
「い、いやだっ」
 顔を背けようとしたオレの頭は、後頭部から、昇紘の片手で固定された。
 いともたやすく、オレは、キスをされてた。
 情けない。
 昇紘のもう片方の手が、背中をさするように滑り降りて、腰に当てられた。きつく密着させられた昇紘のからだが何を望んでいるのか、問わず語りに訴えかけていた。
 布地越しの熱が、覚えこまされたことを思い出させる。
 オレのからだが、これが自然だと言わんばかりに、勝手に反応する。
   少し開いたくちびるの間から、昇紘の舌が、当然とばかりに分け入ってくる。
 口の中を好き勝手に動き回る舌に、オレは、陶然と、意識を飛ばしかけていた。
 たったこれだけのことで。
 すっかり慣らされちまってるからだを思い知らされて、涙が、にじんだ。

 このまま昇紘に、連れ出されるのかと思った。
 キスだけで煽られてしまった熱は、こいつにしか消してもらえないってことは、嫌ってくらい知っている。自分で――なんて、満足できないんだ。そういうふうに、覚えこまされちまった。
 わかってるけど。
 けど。
 それでもオレはこいつから離れたかったんだ。
 離れて、そうして、こいつとのことなんか何にもなかったんだって、そんなふつーの学生の顔をして毎日を過ごしたかった。
 そりゃあ、男が好きだって男がいるのだって、ふつーのことかもしれない。ふつーに学校に来ながら、ふつーに、男と付き合ってる男だっているかもしんない。
 けど、オレにとって、昇紘とのことはどうしても、ふつーのことには思えないんだから仕方ないんだ。
 突然昇紘の胸ポケットの携帯が震えて、やっと、オレは、長く感じたキスから解放された。
 昇紘がポケットから携帯を取り出す。液晶画面で送信者を確認して、短縮を押したらしい。
 そんな一連の動作を見ながら、オレは半ば安心した。半分は不安だったけどな。
 仕事だったら、オレが連れてかれる心配はないんだし。
 けど、こいつのことだから、完全に安心はできないのもわかってたから、不安だったんだ。
 オレは、自販機に背中を預けたまま、しゃがみこんだ。
「待っていろ」
 厳しい声音で言われて、オレの全身が爆ぜるように震える。
 昇紘が、離れてく。
 オレの全身から、力が抜けた。
 少し離れた位置で昇紘が携帯でなにやらしゃべっているのを、オレはぼんやりと眺めていた。
「どうしたんです、こんなところに座り込んで」
 昇紘を見ながらオレの意識はどっかに飛んじまってたんだろう。いきなり降ってきた声にオレは、へっと、顔を上げた。
 そうして、そこに、あのひとを見つけたんだ。
 あのひと―――――
 陽子ネェのためにオレに昇紘と付き合ってくれと頭を下げた、陽子ネェのマネージャーだ。
 オレはのろのろと立ち上がって、自販機のそばから離れた。
 ガラス窓の外から、そろそろ春めいてきてる日が射し込む。
 こいつにそそのかされなければ、オレは今頃ふつーの高校生活を謳歌できてたんだ。
 そう思うと、腹が立った。
「ああ。籍の当主と一緒なんですね」
 けど、情けないかな。
 オレは、へらりと、笑うっきゃできなかった。
「君のおかげですね。番組も順調に視聴率を伸ばしてますよ。陽子さんには、また、新番組のオファーが来ましたし。CMの依頼も増えてます」
 それもこれも君がしっかり籍の当主を捕まえてくれているおかげです――――なんて言われても、んなの、オレの知ったこっちゃない。
 だいたいなんだってオレが昇紘に、その、抱かれてるのが、陽子ネェの仕事に関係するんだ。今更ながらの疑問だったりして、オレは自分がつくづく流されやすいやつだと、イヤな気分になった。
 その時だったんだ。
「郁也?」
 いつの間にか、陽子ネェが、立ってた。
 今の会話を聞いたんだろう。どこか悲しそうな表情でオレを見ていた。
「上坂さん?」
 マネージャーを呼ぶ声にも、いつもの自信に満ちた響きはない。
 ああ――――どうしよう。
 オレは、この場にしゃがみこみたかった。
 いや、逃げ出したかった。
 陽子ネェにだけは、知られたくなかったんだ。
 正義感の強い陽子ネェがこんな裏取引じみたことを知ったら、きっとすっごく傷つくってオレには、わかってたはずなんだ。なのに、気がつけば、オレは上坂さんの言葉に従ってたんだ。
 そう、あの時はそれが、最良のことに思えたんだ。
 陽子ネェが今よりもずっと人気者になれるんなら、いいんだって。
 陽子ネェの瞳が、オレと上坂さんとの間を行ったりきたりする。
 緑の目がオレを見るたび、オレの心臓は大きく震える。
 痛かった。
 罪悪感かもしれない。
 どうすればいいんだろう。
 足元がおぼつかないような気がした。
「大丈夫か」
 嗅ぎなれたコロンが、オレを包み込む。
「貧血だな。ソファに横になるといい」
 昇紘の声が目を瞑ったオレには、遠く近く波みたいだった。
 昇紘の手が、オレの髪を梳く。
 濡らしたハンカチかなにかを、首にあてがってくれる。
「郁也が籍さんと付き合ってるのは、薄々知ってたけど、さっきのあれはなに?」
 陽子ネェが上坂さんに食って掛かってるのが、やけにはっきりと聞こえた。
 ああ、オレが昇紘と付き合ってるってーのは、知ってたんだ。
 何か、上坂さんが、答えている。
「好きあってるのなら、別に、男同士だって、歳が離れてたって、かまわないって、そう思ってた。けど。上坂さん、あなたが、郁也を唆したの?」
 知られたくなかったなぁ。
 オレが、男と寝るようなやつだなんて、知られたくなかったなぁ。
 そんなことばかりをぐるぐる考えてると、
「郁也、そうなの? あなた、籍さんのことが好きだから、付き合っているの?」
 いきなり、はっきりと、陽子ネェの声が、耳に飛び込んできた。
 はい?
 何がどうなって、そういう結論になったんだ?
 オレの頭は、瞬間真っ白になってたんだと思う。
 海千山千の上坂さんが、陽子ネェを、丸め込んだのか?
「そうなの?」
 うっすらと目を開けると、気遣わしげな表情でオレを見下ろしてる陽子ネェの顔があった。
 そうであってほしい―――と、陽子ネェの顔には書いてある。
 ほんとうは、違う。
 そりゃあオレだって、昇紘のこと、少しはやさしいんだとかいいやつなんだとか思いはじめてるさ。
 けど、さ。
 オレには、恋愛感情は、ないんだ。
 けど、好きでもないやつに抱かれるような男なんだって、そう思われたくない。
 うかつなこと口にしたら、なんかもう、一生が、決まってしまうような気がして、しようがないんだ。
 だけど―――――さ。
「違うの?」
 上坂に唆されて、わたしのために無理をした?
 けれど――――――オレは、陽子ネェの悲しそうな顔なんか見たくなかったんだ。
 だから、
「違わない」
 オレは、
「オレは………昇紘のことが、好き―――――なんだ。だから、陽子ネェは、心配することなんか、ない」
 そう言って、オレは笑って見せた。
 ほっとしたような陽子ネェの表情が印象的だった。
 こうして、オレは、自分で自分の首を絞めてしまったんだ。
 目を閉じる寸前、オレを見下ろす昇紘がかすかに笑ったのが見えた。
 それはまるで会心の笑みとでもいうようなやつで、オレはコイツの思う壺にはまってしまったのを痛いくらいに感じたのだった。

おわり

up 18:41:53 2009 09 21
◇ いいわけ その他 ◇

 ええと、時間列を微妙に修正しようと、手を加えてみました。  そんなわけで、『虹』は一時撤去。  昇紘さんの思う壺に嵌ってしまった郁也くんなのでした。
 少しでも楽しんでいただけますように。

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