残酷な神が支配する

 殺される――と、血の気が引いた。
 全身が冷たくなり、気持ちの悪い汗が流れる。
 場所は自分の家の中、のったりまったりを満喫できるはずの、リビングだった。
 見知らぬ手に肩を押さえられ、少年――郁也は、駆け寄ることすら出来なかった。
 まるで見えない何者かが父を打ち据えているかのように、父の大柄なからだが震え、跳ね、新たな傷を増やしていく。
 助けたいのに、駆け寄りたいのに、喉が詰まったようになり、声すらも出ない。
 離れた場所では、これから一緒に出かける予定だった友人が、自分と同じように拘束されていた。
 黒尽くめの見知らぬ男が三人。それに、ただ父を見ているだけの、男。
 その男が、見えない力で父を殴っているのだと、信じられないことだが、直感していた。
 止めろと叫んでも、男は、まるで故意に無視するように、郁也を見もしない。
 ただ、父を睨みすえている。
「おやじっ」
 父のからだが、急速に力をなくすのを、郁也は、見た。
「はなせっ」
 振り払おうとしても、背後の男は、郁也を離す気振りもない。
「なんで……なんでだよっ」
 今日もまた、平穏な一日であるはずだったのに。
 平穏な、けれど、楽しい。
 待ちに待っていた、お気に入りのミュージシャンのコンサート当日。
 明日は土曜だし、あまり遅くなるようなら迎えに行こうと、結構息子に甘い父の約束も取り付けて、鼻歌交じりで学校から帰ってきたばかりだった。
 それなのに、これは、いったいなんだ。
 まるで、出来の悪い、ほんっとうに、出来の悪い小説や映画並みの展開は。
 倒れた父を見下ろす男の視線が、はじめて、郁也に向けられた。
 黒。
 第一印象は、それだった。
 漆黒、いや、見たこともない原初の闇。
 すべてを飲み込んで、溶かしてゆく、絶対の、黒。
 その奥深く、一条の鋭い光が見え隠れする。
 足元が、揺らいだ。
 キンと耳鳴りがする。
 背筋に逆毛立つ、鳥肌。
 ああ。
 ああああ――――
 すべての関節から力が抜けて重力を支えきれなくなる。
 郁也は、自分が叫んでいることすら、気づいてはいなかった。



 気持ちいい。
 ゆらゆらと、全身が揺れる。
 満たされたまどろみが、自分を包み込んでいた。
 ふ、と、自分以外の存在が居ることに、気づいた。
 ダレ?
 向こうもまた、自分に気づいている。
 見ている。
 強い視線を感じて、戸惑った。
 開いた視線の先に、一対の目がある。
 青白い眼球に、みごとなコントラストを描くのは、瞳孔との区別すらつかないほど黒い虹彩。
 ああ。
 誰か、わかるよ。
 うん。
 はじめまして。
 分身。
 同等の力を持つ、片割れ。
 手を伸ばそうとして、すぅっと、気が遠くなる。
 眇められた目に見つめられて、すべてを明け渡す。
 明け渡してしまう。
 自分の持っている、すべての力を。
 そうして、自分は、この、自分の分身に、すべてを、与えて、この空間に溶け込んで消滅するのだ。
 ふしぎと、それが、悔しくも、怖くも、なかった。
 それが、誇らしくすら思えて、黒から赤へと変わった瞳で、彼を見て、笑う。
 さらりと、黒かったはずの白くなってしまった髪が、揺れた。
 さようなら。
 お別れだね。
 生まれられないけど、恨んでいないから。
 だから―――
 がんばって。
 誰よりも強い、もうひとり。
 もう逝くから。

 ――――――そうして、満足して、消えるはずだったのに。

 今、ここにいるのは、なぜなのだろう。
 脆弱な、何一つ満足なものを持ち合わせることが出来ず、ただ、存在するだけのものとして。
 ぼんやりと、黒い瞳を見上げた。
 力強く、無言のうちに他者を従わせる力を持った、原初のまなざしが、見下ろしてくる。
 大きく、すべてを飲み込んでゆく。
 触れ合うくちびる。
 身の奥から湧き出す、絶望をはらんだ、淫靡な、もの。
 存在してはならない自分を、存在させる、漆黒の、闇。
 タスケテ。
 存在する、苦痛。
 ダレカ、タスケテ。
 色のない髪を掻き揚げられて、首筋に、くちびるが、移る。
 点る、熱。
 やっとのことで持ち上げることの出来た腕は、ひとまとめにされて。
 くちびるを、噛んだ。
 声を出したくなくて。
 ―――無駄なことを。
 笑いを含んだ、声。
 それだけで、どうしようもなくなるのだ。
 閉ざした瞼のあわいから、何とも知れない涙があふれるのが、わかった。



「っ」
 したたかに頬を張られて、郁也は、自分が叫んでいたことを知った。
「うるさい」
 感情のままにぶつけてさえ深く響きのいい声音が、耳に痛い。
 眉間に刻まれた皺の深さが、男の不快を物語る。
 怖かった。
 むやみやたらと。
 ひとと同じ姿かたちをしているというのに、この男は、ひとではないのではないか。言葉にして明確に――ではなく、本能的に、漠然と、郁也は、感じていた。
「どこにも似たところがないな」
 顎を持ち上げられて、顔を覗き込まれた。
 ふん――と、男が忌々しげに吐き捨てる。
 誰と。
「私の片割れ――おまえを産んだ者とだ」
 産んだ者?
 母親のことか。
 記憶にかけらも残されていない母親といわれて、刹那、恐怖を忘れた。
「ひっ」
 男の大きな手が顎から外され、無造作に額に当てられた。
「はなせっ」
 思い出したようにもがくが、相変わらず郁也を拘束している背後の男は、微塵も揺らぐことはない。
「たかが畜生ずれがほどこしたにしては、みごとな封印だ。褒めてやろう」
 嘯くような口調に、毒がこもる。
「あの頃いたどれよりも、おまえは、確かに、強靭だった。賢しくもあった。だからこそ、あれにつけたのだが」
 視線は、郁也の父親に向けられている。
「そう。この世界には、こういうことわざがある。曰く、飼い犬に手を噛まれる――まさしく、言い得て妙だ。そうは思わないか」
 ―――ゼン。
 ゆっくりと、大きく発音された名前に、父の背中が激しく震えるのを、郁也は、見た。
 広い背中が震え、全身に広がる。
 噛み締めたくちびるをこじ開ける苦痛のうめきが、郁也の鼓膜を震わせた。
 見開いた瞳の先で、父が、痙攣を繰り返し、輪郭をぼやかしてゆくのを、信じられない思いで、ただ、見ているしかなかった。
 すべてが。
 これまで絶対だと信じていたすべてが、足元から、崩れてゆく。
「たかが畜生の身でありながら、私の片割れを連れ出すとは、いい度胸だ」
 ―――五十年の間、隠しつづけたところは、流石と、褒むべきか。
「王よ」
 やっとの思いで紡いだのだろう、その言葉ににじむ苦渋が、絶望が、郁也を打ちのめす。
「畜生は畜生らしくあればいい。言葉を紡ぐなど、烏滸がましいにもほどがあろう」
 その言葉になにを感じたのか。
「郁也の前ではっ! お慈悲を」
「遅い」
 悲痛なうめきを、父のものとは信じたくなかった。
 すでに、元の父のようではなくなっている姿も、また。
 それは、ひとですらなかった。
 西洋の御伽噺に出てくる、ドラゴンを髣髴とさせる姿だった。
 細かな赤銅の鱗がびっしりと生えた、獰猛な姿。
 神話やゲームの中に出てくるほどの巨体ではなく牛ほどの大きさというだけで、それでも、爬虫類の目、大きく裂けた迫り出した鼻面、トカゲの翼の耳と小さく折りたたまれた翼、額の中ほどに生えた一本角、ひとなどたやすく殺せるだろう、頑丈そうな尾と日本刀の切っ先のような爪。
 父であったドラゴンの、黄色い瞳から、音をたてて、血色の涙が流れ落ちた。
 フローリングの床にこぼれたそれが、木を焦がす。
 いがらい匂いが、郁也の鼻腔を刺激した。



 それは、夢だった。
 いつだったか、夢に見たのだ。
 色素のない、存在を。
 ちょっと現実では見たことがないくらい大型の犬に守られるようにして、霧の中溶け消えるようにはかなげな。
 その存在が出会ったのが、父だった。
 だから、ああ、彼女が母なのだと。
 夢を見ている、自分はそう思った。
 両親の、幸せそうな情景に、自分までもが、幸せだと思った。
 けれど。
 父は、母を裏切った。
 自分を身ごもった母を見て、父は、逃げたのだ。
 母は、独り、取り残されて。
 そうして、こどもを生んだのだった。
 生んで、そうして、消えてしまった。
 ほろほろと、悲しみの涙にくれるようにして、砕けて消えたのだ。
 犬が、遠吠えをする。
 心を引き裂くような、慟哭。
 目に見えない血が流されるように。
 やがて、犬が、走り出した。
 逃げた父を追って、そうして、噛み殺す。
 ずたずたに引き裂かれた父の肉を、犬は、食べた。
 嫌そうに。
 まるで、殺したからには食べるのが義務だとでもいうかのように。
 やがて、犬の形が、ゆるやかに変貌してゆく。
 それは、母を裏切った男に似ていた。
 かつて犬であった父が、生れ落ちたばかりの自分を抱き上げた。
 自分だけが残されたのだと、泣きつづける自分を父は慰めた。
 捨てられたのだ。
 見捨てられたのだ。
 生まれたばかりには、あまりにも絶望的な、認識だった。
 すべては夢のはずであったのに。
 夢こそが現実で、父と慕ったものこそが、まるで夢のようで。
 それでも。
 どうして、父を、嫌えるだろう。
 すべてから見捨てられた自分を育ててくれたものを。
 どうして、厭わしいと、避けることが出来るだろう。
 母の仇を討ってくれたものを。
「おやじっ」
 叫ばずに居られなかった。
「はなせっ」
 もがく郁也を凝視する王と呼ばれる男の瞳に、興味の色が刷かれた。
「この姿を見て、まだ、父と呼ぶか」
「あたりまえだっ! 親父は親父だっ」
「血も繋がってはおらぬのに」
「血なんかっ! オレを見捨てなかったのは、親父だけだっ!」
 たとえ、どんなに恐ろしい姿をしていても。
 郁也の言葉に、王が、笑う。
 毒を孕んだ笑い声が、郁也の脳裏に刻み込まれた。



 広い部屋だった。
 白と金とがふんだんに使われた部屋の窓辺に、郁也は座っていた。
 足を投げ出して、ポーチに向かって開け放たれた窓から、空を眺めていた。
 夜のような空に、オーロラが揺らいでいる。
 ひどく綺麗な光景だったが、心は動かない。
 母の片割れ――兄弟ということなのだろうが――という男にここに連れてこられてから、どれくらいが過ぎたのか。
 かつて、ここは、母の部屋だったのだという。
 母といわれても、実感はわかない。
 母親に関する記憶そのものがないのだから。
 小さな頃は、欲しいと泣いたかもしれないが。それも、記憶にはない。父が居れば、それで、充分だったからだ。
 おやじ――
 奥歯を噛み締める。
 それでも、涙は、止まらなかった。
 あの日の最後、無残な光景が、郁也の脳裏によみがえる。
 父の、父親であったドラゴンの首が、いともたやすく切り落とされようとするのを、目を逸らすことも許されないまま、見ているしかなかったのだ。
 父の流す血が、足を濡らす。
 床を焼く血が、郁也の爪先を、焼き焦がした。
 その痛みが、今もまだ、郁也を苛んでいた。
 投げ出した足の爪先部分は、やけどのように、赤く疼いている。
 歩くたびに血がにじむ。
 痛い。
 けれど。
「うん」
 誰にともなくうなづいて、立ち上がる。
 布製の室内履きのまま、郁也は、庭に降りた。
 庭には、ひとの気配もない。この世界に住むのは、厳密に、ひととは違うだろう。が、住人という意味でひとで、かまわないに違いない。
「広すぎだって」
 どこを歩いているのかも、わからない。
 庭向こうにあった立ち木を抜ければ何かあるかと、立ち木の中に踏み込んだのだが、それが間違いだったのか。
「森じゃんよ、これ………」
 足はもうずたずたで、一歩歩くのも、苦痛だった。
 服はあちこちに引っ掛けてぼろぼろで、むき出した手足も切り傷で血をにじませていた。
「おっ」
 出口だな。
 足が、少し早くなる。
 痛かったが、気にしてはいられない。
 この暗さは、どうも、恐怖ばかりを増幅させるのだ。
 そう。
 見知らぬ世界の見知らぬ生き物。いったいどんなものが居るのかすら、自分は知らないのだった。
「オレって、あほ」
「確かにな」
 降ってきた声音と、立ちふさがる人影。
 郁也の背中が、逆毛立った。
 それが誰かなど、考えるまでもない。ただ、彼が従えているドラゴンを見た途端、郁也の中で、何かが、弾けた。
「おやじっ」
 駆け寄ろうとして、威嚇された。
「えっ?」
 細かな赤銅色の鱗が、しゃりしゃりと震える音がする。
「おやじ………」
「ゼン。下がっていろ」
 王の声にドラゴンが服従する。
 その足は、あの時頭の代わりに断ち切られた一本を除いた、紛うことなく三本であるというのに、郁也のことなど知らないとばかりに、黄色い目が、警戒をあらわにしていた。
「ゼンはおまえのことなど、覚えておらぬよ」
 闇の中にあって、闇そのものの男が、近づいてくる。
「っ」
 背中が、木の幹にぶつかる。
「おやじに、なにをした」
 怖気ながらも、それだけを、押し出した。
「あれは、ドラゴンだ。おまえの、父親などではない」
「答えろよ」
「なに。そう睨むものではない。命乞いは叶えたろう。だが、賢しらなドラゴンは、再び逆らわぬという保証はない。そんな家畜は必要ないのでな。少しばかり、脳をいじったのだ。主に忠実な家畜であるように」
「っ」
 驚愕と悔しさ、それに、紛うことのない恐怖に、喉の奥が、焼けるような気がした。
「おまえのここも、いじってやろうか」
 男の指が、郁也の額に当てられた。
「っ」
「ああ。そのほうがよさそうだな」
 そう言いざま、男は、郁也をそのまま木の幹に押し付けた。
「いやだっ」
 郁也は死に物狂いで抗っていた。
 男の目が、本気だと告げる。
 本気で、自分の脳をいじるつもりなのだ。
 男に忠実になるように。
 病気でもない脳をいじられるなんて、死ぬのと同じだ。
 そんなのは、いやだった。
 自分を見知らぬものとした、黄色い目。
 今も、自分を見ている、見知らぬ目。
 おやじは死んだのだ。
 この男が、殺した。
 あれは、もう、おやじじゃない。
 おやじじゃないんだ。
 あんな、無機質なものになるのは、絶対にいやだった。
 額に当てられた男の手が、焼け爛れるほどに熱い。
 入ってくる。
 涙が、あふれた。
「た、助けて」
 怖い。
「そんなに、嫌か」
 すっと、掌の熱が引いたような気がした。
「たのむ……からっ」
 しゃくりあげがとまらなかった。
「いいだろう」
 信じられなかった。
 見上げた男の顔は、影になりわからなかった。
 それでも、
「替わりにな」
 突然顎を持ち上げられた。
 そうして。
 郁也は、なにをされているのか、咄嗟にわからなかった。
 口内にたやすく侵入してきたものが、男の舌だと、自分が男のくちづけを受けているのだと、理解した途端、郁也の全身を、これまでとは違う灼熱が駆け巡った。



 こみあげてくるものをこらえきれず、床を汚した。
 それを、小さな、掌ほどのドラゴンがはたはたと群がって、跡形もなく消し去った。
 口の中に広がる苦味に耐え切れず、郁也は窓の桟に手を伸ばし、立ち上がる。ぼんやりと見回す視界の中、サイドボードに置かれた水差しを認め、ふらりと足を踏み出した。
 ゆらり。
 まるで、酔客のようなだらしのない歩みだった。
 グラスに注ぐ手間を惜しみ、重いそれを両手で抱え上げ、口元に近づけた。
 口をすすいだ後、誰もいない部屋の中、郁也は、ただ床に蹲る。その左の腕には、まだ治らない傷が生々しい痕を見せている。
 空を見上げる。
 開け放たれた窓の外は、まるで夜のような空が広がっている。
 今日は月は昇っていない。オーロラも今日は出ないのだろう。ただおびただしい銀の粉が、紫紺の空を彩るばかり。
 豪奢な空を、流れ星が、ひとつ横切った。
 まるで、布を裁つ刃のような鋭さで。
 どこかで、ドラゴンが吠える声が、長く尾を引いた。
 それに応えるように、五匹の小さなドラゴンが、その長い首を伸ばして、ライターの火のような炎を吹き上げる。
 郁也はぼんやりと長細い姿をしたドラゴンの灯した炎に手をかざした。
 主の反応に、ドラゴンたちが喜んだのか、大小さまざまの炎を灯してみせる。
 熱くもなければ、冷たくもない。
 幻のような、火だった。
 褐色だった郁也の髪は、かすかに青みを帯びた黒へと変わった。
 健康的に日に焼けていた肌も、陽射しの存在しないこの世界で、白に近い象牙の艶をおびた。
 そうして、もはや郁也はかつての郁也ではないのだと告げるように、鳶色だった瞳は、なにかの冗談のような、血の色へと。
 どこかバランスの悪い外見に、怖気をふるい嫌悪をあからさまにした郁也が鏡を見なくなって、かなりな時間が過ぎていた。
「かえりたい………」
 その望みは、叶わないだろう。
 誰に言われるまでもなく、わかっていることだった。
 それに、帰ったところで、誰も居ない家は、荒れ果てているに違いない。
 けれども。
 憂いといえば学校の成績や将来のことだった、平和で満ち足りていたあの場所への望郷の思いは募るばかりだった。
「ぐぅ」
 こみあげてくる吐き気をこらえる気力は、もはやない。
 口の中に、生臭いものが広がる。
 胃液とはちがうなにかに、郁也は、口から手をはずす。
「血?」
 ぽたぽたと、指の隙間から、ぬるりとした血が滴り落ちた。
 キィキィチィチィと、ドラゴンたちが、騒ぎたてる。
 からだの力を抜く。
 かしいだ上半身が、床の上に頽おれる。
 頬に肩に、大理石の床の感触がひんやりと心地よかった。
「死ぬのかな」
 瞼を閉じて、郁也はつぶやいた。
 からだが、ゆらゆらと、揺れる。
「そうか……………………」
 揺らぎに誘われるように、郁也は、目を閉じた。
 小さなドラゴンが数匹部屋から飛び出していったのに、郁也は、気づかなかった。



 すべてを踏みにじるような行為だった。
 くちびるが、耳朶へと逸れ、首筋へとそのぬめりを移す。
 嫌悪に逆毛立っていた。
 後頭部がびりびりと過敏になる。
 木の幹のごつごつとした感触が、背中に、痛い。
 シャツ越しに胸の飾りを弄られ舐られ、思いもよらない熱が、下半身に点った。
 その不条理に、慄きが駆け巡る。
 あっていいはずがない。
 こんな、異常なこと。
 力任せに抗うも、完成した男に適うはずもなかった。
 やがて、下肢を暴かれ、握りこまれる痛みに、全身が、爆ぜるように震えた。
 郁也が、声もなく、首を振る。
 きつく閉じた眦から、屈辱の涙が、糸を引いた。
 鳥肌立つ感触に、熱が混じる。
 思いやりのかけらとて感じられない強引なまでの陵辱は、郁也を竦みあがらせていた。
 呻き声すら、上がらない。
 ぽっかりと開いた口からは、ただ、呼気だけが虚しく空気を震わせていた。
 やがて、灼熱の杭を後蕾へと捻じ込まれることで、郁也の口から絶叫が導き出された。
 閉ざされていた瞼が、カッと見開かれた。
 褐色の眼に、木々の梢を越えたかなた、さやさやと揺らめく空のオーロラが映る。
 全身から、イヤな汗が滴り落ちる。
 殺される。
 そう思った。
 男に犯され、そうして、自分は死ぬのだ。
 屈辱など、疾うに消え果ていた。
 怖かった。
 痛かった。
 恐怖と痛み。ただそれだけが、郁也を支配してどれほどが過ぎたのか。マグマのような猛りをからだの奥深いところに感じて、郁也の意識は、断ち切られたのだった。



 パンッ!
 頬を張られた。
 心臓が、喚きたてる。
 いつの間にか、ベッドに移されていたらしい。
 死ななかったのか………。
 喚く心臓を遠いものに感じながら、郁也が目を閉じようとした。
 自分の頬を叩いたもののことなど、忘れていた。
 突然のくちづけが噛みつくように降ってくるまで、忘れていた。
 もはや条件反射となって男の肩に手を突っ張る。
 手が、ひとまとめにされた。
「いやだっ」
 涙が頬を滑り落ちる。
「たかが死などで私から逃れられるとは思うな」
 硬質な声音が、耳に吹き込まれた。
「いやだ。オレは、こんなところにいたくないんだっ」
 ここでなければ、なんだってかまわない。
 最初、男は、自分には興味もないようだったのに。
 それが、あの夜の恐慌を経て、人が変わったようになった。
 突然、執着しはじめた。
 一匹のドラゴンを郁也の監視につけたのだ。
 掌サイズのドラゴンは、そのサイズにかかわらず郁也など軽がると掴み運ぶことが出来るのだ。
 それに、まるで介助犬や介助猿のように、郁也の身の回りの世話を焼くことさえ、できる。
 食事を運んでくるのも、着替えを用意するのも、風呂をたてるのさえ、ドラゴンがやすやすと行っていた。
 ここに連れてこられてからというもの、郁也は、真実、男としか喋ったことはなかった。
 自分が、忌まわしい存在でしかないのだと、郁也は、思い知らされていた。
 居ても、いないとみなされる、そんな、もの。
 なぜなら、郁也のは、この世界の住人たちにとって、禁忌に触れるものでしかなかったからだ。
 男は、王だった。
 この、太陽のない世界が誕生したときから、世界を統べる、絶対君主である。
 男には、妻がいる。
 何人目かの王妃だという。
 彼女が郁也の存在を知り、郁也の部屋に踏み込んだとき、彼女は、郁也がどんな存在であるのかを即座に悟ったのだろう。
 男の妻だという艶麗な女性が、アイスブルーのまなざしにこめていた嫌悪を、郁也は、覚えている。
 嫉妬という生々しい感情ではない。純粋な、嫌悪だった。
「必要ないんだったら、オレなんかうっちゃっておけばよかったんだっ」
 何も、ここに連れてくることなんかない。
「必要?」
 郁也を見下ろす男の声音に、ふっとこれまでとは違う何かが含まれたような気がして、郁也は、男を見上げた。
 天井から下がるシャンデリアの蝋燭が、男を逆光にしていた。
「必要などではないな。最初から、おまえは私の所有物なのだから。こうして私を楽しませるものとして――ここに存在するのが、おまえの義務だ」
 罰だ。
 そう言って、男は、郁也の腰を抱え上げる。
「い、いやだっ!」
 顔から色をなくして、郁也が、叫ぶ。
 罰だ――と、男が口にしたとき、どんな目に合わされるのか。手首を掻き切った後、思い知らされていた。


 誰に合っても、透明人間のように無視をされる。もしくは、王妃のような、忌まわしいものを見るような目で見られる。
 そんな毎日に、部屋から出ることすらあきらめた郁也は、最後とばかりに手首を縦に裂いたのだ。
 食事でも取りに出ていたのだろうが、ドラゴンはいなかった。
 自分の中から、おびただしいほど後が流れてゆくのを、痛みに朦朧となりながら、ただ、見ていた。
 死ねば、逃げられる。
 その一心だった。
 男に触られることすら、疎ましく、嫌悪と痛みしか感じなかった。
 最初が最初だったからだろう。生理的な遂精はあっても、それに伴う解放感も快感もありはしなかった。ただ、からだが機械的に反応しているだけで、そういう反応すら、郁也にとっては、嫌悪に繋がった。挙句の果ての男を受け入れる行為には、激痛と吐き気をもよおしてならなかった。
 男なのに。
 叔父、もしくは、伯父だというのに。
 好きどころか、嫌いだと思っている相手だというのに。
 誰一人、助けてくれるものはいない。
 こんな冷たい世界に、ただ、独りきり。
 無視されて、嫌悪されて。
 どうして、生きている必要があるだろう。
 楽になれる――――そう思ったとき、甲高いドラゴンの悲鳴を聞いたと、思った。
 何かが落ちて壊れる音。
 そうして、静寂が再び訪れた。
 眠い。
 意識を手放そうとしたときだった。
 突然、したたかに頬を張られた。
 痛む手をとられ、起き上がらされた。
 目の前の黒い瞳を、郁也は、ぼんやりと、見ていた。
「ぐっ」
 手がちぎれるような痛みが、郁也の口をこじ開けた。
 しかし、悲鳴は、その場で凍りついた。
 振り払おうとして、できなかった。
 なぜなら、男が舐めていたからだ。
 深く裂けた傷口を、舌で、舐め、血を啜ったのだ。
 全身が、震えた。
 それは、嫌悪だったろう。
 それとも、恐怖だったのか。
 血に染まった口を、男自身の舌が、ぞろりと舐め清める。
 刹那、背筋を駆け抜けたものを、郁也は、無視した。
 にっとばかりに口角をもたげ、そうして、男は、
「癒してはやらぬ。自然に治るまで、存分に苦痛を味わうといい」
 そう言うと、郁也に噛み付くかのように、くちづけたのだ。
 


「っ!」
 慣らされてすらいない後蕾に、灼熱があてがわれた。
 蒼白になった郁也が、奥歯を噛み締める。
 男の肩から滑り落ちた手が、堪えられないとばかりに、シーツを掴む。まだ癒えない手の傷が引き攣れるように痛んだが、これから自分に与えられる痛みを思えば、ささいなものでしかなかった。
 からだの中心から真っ二つに裂き割られるような激痛に、郁也の涙腺から涙がせりあがる。
 首を振った。
 喉を震わせる悲鳴が、刹那男の眉間に皺を刻んだが、郁也がそれを知ることはない。
 涙が、シーツの色を変える。しかし、男が、自身の動きを止めることはなかった。



「またか」
 左手の傷から血がにじんでいた。
 ここを自分の手で切り裂いてから、どれくらい時間が過ぎたのだろう。
 あの後、ドラゴンがいきなり五匹に増えたのだ。
 四六時中監視の目がある息苦しさには、相手が見ようによってはペットと思えなくもないからか、慣れた。
 しかし、傷は、治らない。
 まだ、熱のある疼きが全身を苛む。
 膿むことはないが、治らない。
 ああして、男に抱かれた後は、必ず、血がにじむていどではあったが、傷口が開く。
 存分に味わえと、男が言った時のあの怒りがまだ治まっていないとでも言いたげに。
 ドラゴンが、一匹、額のタオルを変えてくれた。
 手首の傷に薬を塗る。
 冷たい薬の感触に、全身が、すっと冷えるような心地がした。
 ほんの少しだけ、楽になった気がした。
 いつも、熱があるような気がする。
 この世界の空気があっていないのかもしれない。
 そんな気もする。
 ベッドから起き上がり、いつもの窓辺に腰を落とす。
 白い大理石のような床が、冷たくて気持ちよかった。
 うつうつと、転寝をしていたらしい。
 鼻腔を射る癖のある匂いに、ふっと、意識が戻った。
「あ………」
 目の前には、半ば透けるように白いドラゴンが小さなお猪口のようなコップを捧げて浮かんでいた。
 はじめて見るドラゴンだった。いつもどこかにいる五匹のドラゴンの姿は、不思議と、どこにもなかった。
 おかしいとは思ったが、まだ意識がはっきりと戻っていない郁也は、変だとも思わなかった。また男が寄越したのだろうくらいにしか考えなった。
 丸い背中の小さな黒い羽根をはためかせて、ホバリングしている。。郁也の目を覗き込むオニキスブラックの目に愛嬌はなかったが、目に操られるかのように、郁也はコップに手を伸ばして、それを一気に呷っていた。
 好きな味では、決して、ない。
 漢方のような癖のある匂いと、舌が焼けるような苦さ。
 けれども、逆らえなかった。
 男を思わせるかのような、オニキスブラックの目に、逆らえなかったのだ。
 カシャン――小さな音をたてて手から滑り落ちたコップが砕け散る。
 小さなかけらが、きらめいて、溶けるように消えてゆく。
「ぐぅっ」
 胃から喉へと駆け上る灼熱があった。
 全身が焼ける。
 そんな錯覚だ。
 息をするのも苦しかった。
 息が詰まる。
 喉を押さえて、郁也は転がるように床に蹲る。
 水が欲しかった。
 苦しい。
 どうして、誰もいないんだ。
 五匹のドラゴンを探して、視線が惑う。
 郁也の視線が、ふっと、オニキスブラックのまなざしに留まった。
 かすむ視界の中、印象的なまなざしが、笑みをかたちづくったのを見た――と、郁也は思った。
 そうして、郁也の意識は、闇に飲み込まれたのである。



 円形の広い空間には、扉とてありはしない。
 会議の間であるというのに、常に人の出入りは自由だった。が、逆を言えば、邪魔者は誰一人として入れないということでもある。ぽっかりと大きく口を開いた入り口には、衛士が左右に立ち、目を光らせている。彼らがここで耳にすることは、もちろん、他言無用の政治的な件である。漏らすような愚を冒すものは、いない。
「王よっ」
 会議の間の広い空間が、その瞬間、凍りついた。
 紫紺に銀と金で飾られた室内では、十二人の異形の美の持ち主たちが、黒檀のテーブルについていた。
 静まり返った厳粛な会議の席の空気を破ったのは、チィチィと鳴きながら衛士の頭上を通り抜けた五匹のドラゴンだった。
 一段高い玉座に着く王を、彼らは一斉に見上げた。
 王の差し出す腕に絡まりつく。
 端然と無表情だった王の顔が、かすかに強張りつくのに、玉座を見上げる十二名の侯爵たちが呆然となる。
 風もないのに、王の長い黒髪が、うねる。
「馬鹿が」
 低い声が、その場に集った重鎮たちの耳を射抜いた。
 王が誰を指して言ったのか、その場の者たちにはわかっていた。
 しかし、誰一人、その者のことを口にすることはない。ただ、ひそやかに視線を交し合うだけである。
 彼らにとって、王は絶対の存在である。
 彼らよりも長く、世界の始まりから存在し、彼らのすべてを合わせたものよりも強い力を持つ。この世界を統べるのには、それほどの力が必要なのだ。
 王は彼らの恐怖であり、誇りであり、彼らが仕えるものだった。
 王のためならば、彼らはその身を投げ出すことも辞さず、命を断てと言われれば惜しむことなく断つに違いない。
 王もまた、世界を王領を別として十二に分けて、彼らに預けている。それは、王の彼らの忠誠に対する信頼の証であった。
 彼らが凝然と見上げる先で、王が立ち上がる。
 彼らを一顧だにせず、王は、部屋を後にした。
 顔を見合わせる彼らが、王を追おうと立ち上がりかけたとき、黒尽くめの三人が、彼らを制した。
 常に気配を殺して王のそばに控える三人は、当然のように会議の終了を告げる。
 十二人の侯爵たちは、その美貌をひきつらせ、あるものは青ざめて、王の影である三人の言葉に従うのだった。



 空気が灼熱の炎のように喉を焼く。
 焼かれることよりもなによりも、からだが酸素を欲して、無理に呼吸をした。
 内蔵が焼け爛れる。
 吐き出す息に、血が混じる。
 目から涙が溢れ出した。
 死ぬ。
 死んでしまうのだ。
 死ぬのは、怖い。
 死に損なった経験が、死に対する恐怖を植えつけていた。
 しかし、本当に怖いのは、死に損なうことだった。
 死に損なった後に自分を待ち受けているものを思えば、どんなものであれ、すがり付いてしまいたかった。
 恐ろしいけれど、それでも、こんなに苦しいのなら一刻も早く、息が止まってくれればいい。
 男が見つけるときには、自分はもう死んでいる。
 それならば、いい。
 どうせなら、そうであって欲しかった。
 生きていたところで、男の玩具でしかないのだ。
 無理強いされるセックスの苦痛が、自分を見る男の視線が、郁也を絶望に落とし込む。
 男のセックスがどうなのか、郁也にはわからないが。彼が上手だろうと下手だろうと、郁也が感じるのは、いつも、痛みだった。
 痛みの中にもがき、痛みの中で遂精させられる。
 いつも、拷問を受けているのと変わらない。
 だから、いっそのことと、死を選んだ。
 それは、こんな苦痛の果ての死ではなかったはずなのに。
 ぞっとするような暗黒が口を開けて待ち受けている。そこに飲み込まれる恐怖。
 けれど、恐怖は恐怖として、そこを抜けてしまえば楽になれるのだと、なぜか、わかる。
 怖気と背中合わせの安息。
 それが、郁也を手招いた。



 黒い瞳。
 自分を見ている一対のまなざしに、郁也の背中が、逆毛立つ。
 全身が緊張した途端、郁也に襲い掛かったのは、凄まじいまでの痛みだった。
 なにが起きているのかわからない。
 生理的な涙があふれ、悲鳴を上げようとする口からは、ただ、憐れなまでの喘鳴がせりあがるばかりだ。
 からだの外よりも、中が痛かった。
 痛いというものではなかった。
 じくじくと、熾き火が、内側から身を焼くかのような間断のない痛み。
 苦しい。
 怖い。
 オニキスブラックの目をしたドラゴン。
 それが差し出したのが、毒だったのだ。
 自分に、死を―――と。
 誰かがそう言った。
 黒。
 黒い、目。
 自分を見る黒い目。
 自分を殺そうとした、ドラゴンの黒い目。
 ふたつが、重なるような、そんな気がした。
「な、んで………」
 どうして助けた。
 死ねと言ったのは、あんただろう。
 そう言いたかったのだ。
 しかし、郁也は、言い切ることが出来なかった。
 血が、胃から食道をせりあがり、シーツを濡らす。
「助けてやる。かならず、治してやろう」
 淡々とした声が、郁也の耳を射抜いた。
 苦しさに丸くなった郁也の背中を、男の手が、撫でていた。
 それらに、鳥肌が、立った。
 気が狂いそうだった。
 殺そうとして、助けるという。
 なにがなんだか、わからない。
 治るまで、この苦しさに耐えろというのか。
 いっそ、気が狂ってしまえば、楽なのに。
 死んでいればよかった。
 あの時、死は、確かに、自分を手招いた。
「もう、いや………だ」
 再び、せりあがってくる血の感触を堪えながら、郁也はつぶやいた。



 水を飲むことすら、苦痛に感じているのに違いない少年の口に、無理やり水を含ませる。
 かさかさに罅割れたくちびるの感触が、男のくちびるに伝わった。
 血の気のない頬はこけている。
 生きてはいるが、ただ、それさえも痛みに繋がっているのに違いない呼吸を忙しなく繰り返すだけだ。
 自分に触れられることに嫌悪をあらわにした瞳は、見開かれてはいるものの、何も見てはいない。
 かろうじて、命の緒が切れずにいる。
 それだけにすぎない。
 医者にすら、打つ手はない。
 郁也が飲まされた毒には、解毒薬はないのだ。
 手の施しようは、ない。
 こうなれば、もはや、最後の手段しか残されてはいなかった。
 男は、その黒い瞳に苦渋を宿し、郁也を見つめた。



 愛していた。
 この世界の始まりよりも前、共にいづれかでなにものともわからない存在の羊水の中にあったときから。
 すべてを自分に差し出して、そうして消えてゆこうとする片割れに、心惹かれた。
 ひとつの胎包の中に同時に存在するものは、片割れを喰らい、そうして生まれる。存在の最初から、弱肉強食の掟は顕在だった。
 そのため、この世界に双子は存在しない。
 自分の片割れ以外には。
 生まれる前に、母親の胎内で片割れを喰らったかもしれないということを思い出させるために、男の片割れは、忌まれた。
 忌まわしいと、ないものとされた。
 それでよかったのだ。
 あれが、男だけを見て、男のためだけに存在するのなら。
 すべてを自分に差し出した片割れなのだから、生まれた後も、自分にすべてを差し出していればいい。
 永劫、男のことだけを見つづけていればいいのだ。
 しかし、片割れは、消えなかった自分自身を、恥じていた。
 何百と何千の歳月が流れただろう。
 守護と与えたドラゴンが片割れと共に姿を消した。
 一旦逃げれば、その力のなさゆえに、片割れの痕跡を追うことは、困難だった。
 気配すらも残らない、それほどのはかなさを、男は、愛でてすらいたのだが。
 だからこそ、片割れの生死すらも、男にはわからなかったのだ。
 そうして、ようやく――見つけたとき、片割れは、すでに、生者の列には属していなかった。
 どれほど、悔やんだろう。
 片割れの血を引く少年になど、興味はなかった。
 ただ、男が欲するのは、片割れだけだったからである。
 しかし―――――――
 必死になってかりそめ父親であったものを、実の父を喰らったものを、庇う姿に、片割れを思い出した。
 はかなくはない。
 外見すら、異界のものとなんら変わりのない凡庸な姿だった。
 それでも、これは、あれの血を引いているのだ。
 ならば、これは、私のものだ。
 誰のものでもない。
 ―――――――――だから、連れ戻ったのだ。

 片割れを思い描く。
 こんな女々しい王を、誰が想像しよう。
 ひそやかな、かろうじてこの世に存在している、それだけの存在。
 愛している。
 決して口にすることはなかったが、愛して、いた。
 幾百幾千の歳月の間抱いていた思いが、わずかな間に過去のものへと変わってしまった。
 ひそやかな片割れの姿は、いつしか、少年のものへと変わっていた。
 少年を愛していた。
 その思いに苛立ち、手酷い仕打ちを与えつづけた。
 嫌がるのを無理やり抱き、逃げる少年を鞭打つことさえあった。
 自分の思いに、少年が気づくことなどありえない。
 優しくすればいいのだろう。
 自身を戒め、少年と向き合うたび、怯える少年の瞳の中に、恐怖と拒絶とを読み取り、抑えた感情が、激しくなった。
 悪循環でしかない。
 わかってはいたが、手放す気はなかった。
 たとえ、少年が選んだものが死であったとしても、自分以外の何者かが少年をその手にすることは、許せることではなかったのだ。
 しかし。
 今、まさに、少年は、自分以外のものの元へと離れてゆこうとしている。
 男を捉えているのは、喪失の予感だった。
「郁也っ」
 骨と皮ばかりの手を握り締めた。
 反応は、ない。
 自分に抱かれるのを嫌がり、肩を押しやろうとかたくなに力をこめた手が、痛みを堪えようとシーツを握り締めた手が、男に対する拒絶を表現してきた手が、何の反応もあらわさず、男の手に握られたままだった。
「王っ」
 影が、珍しく狼狽をあらわにした声を上げる。
 王が、郁也の着衣をはだけたのだ。
 死を間直にしたものの肌が、露になった。
「王妃を呼べ」
 影が互いの顔を見合わせる。
「あれに、責任を取らせる」
 硬い声には、少しの欲情もこめられてはいない。冷静なまでの、いや、いっそ冷徹なまでの声に、影がふたり、部屋を後にした。
 王妃が犯人だということなど、男にはわかっていることだった。
 ただ、郁也の存在は公に認められるものではないため、王妃の犯罪もまた裁かれないというだけのことだった。
 この手で罰したい。
 その白い喉首をへし折ってやりたい。
 憎悪はあった。
 影に命じれば、自然死を装うことなど容易かったろう。
 それをしなかったのは、ひとえにこのためだけだった。

 生きたまま吊るし切りにされた王妃の腹から、内臓があふれ出だす。
 影がそれを王に手渡した。
 郁也の腹が引き裂かれ、内臓が取り出される。
 かろうじて生をつないでいることがわかる、弱々しい動きのそれを、王は顔色ひとつ変えることなく、王妃のものと取り替えていった。
「こちらはいかがいたしましょうか」
「あれに、入れてやるがいい」
 毒で焼け爛れた内臓は、王妃のからだに収められた。

 王妃は、その日のうちに、苦しみもがいて、死んだ。

 王妃の国葬が終わった頃、入れ替えた臓器が、郁也の命を繋ぎとめた。しかし、それも長くはないことは、男にはわかっていた。
 保って、せいぜい、一年だろう。
 男は、焦っていた。
 早く兆候が現われなければ、間に合わない。
 やがて、男が待ち望んだ瞬間が訪れた。
 ぼんやりと、ただベッドの上で日々を過ごす郁也のからだがいくぶんか丸みをおびたかと思えば、胸が膨らみ、下腹に女性器が現われたのだ。
 男は、郁也を抱いた。
 以前からは考えられない穏やかなものだった。
 やがて、郁也の腹部が迫り出し始めたころ、王は、以前の王ではなくなった。
 王から、完成された男の精気が失われ、一気に年老いたのだ。
 しかし、それを知るのは、影だけだった。
 王は郁也を見守り、そんな王を影が見守る。
 郁也が臨月を迎えたとき、王はひっそりと、息を引き取った。
 しかし、それが外に知らされることはなかった。
 王の代わりは、影が務めた。
 影と王の違いを見分けられるものは、存在しなかった。
 王の死から一月は必要なかった。
 郁也は、密やかに、こどもを生んだ。
 そうして、郁也は、命の緒を手放した。

 残されたのは、双子だった。
   赤子として生まれた片方は、一週間もしないうちに、成人した。

 それは、紛うことない、王の姿だった。

「ごくろうだった」
 影をねぎらい、誰に知られることなく、入れ替わる。

 残る片割れが、誰の生まれ変わりなのか、考えるまでもないことだった。
 

おわり

start 6:07 2008 06 14
up 11:40 2008 07 21
◇ いいわけ その他 ◇

間違いなく駄文です。
一本でもアップしないとと焦ってました。
これ、『王妃の紋章』を換骨奪胎〜と楽しんで考えてたときのなんですが……どこがやねんxx
後半部分は、どうしようもなく説明だけです。
それでは、少しでも楽しんでいただけると、嬉しいです。
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