悪魔と踊れ 

「ああああああ……………っ」
 悲鳴が広場にこだまする。
 積み上げられた薪の上、太い杭に縛められた十台半ばほどに見える少年が、空を見上げて、泣き叫ぶ。
 短い栗色の髪が、上昇気流に煽られて、まるで、黒々とした炎のように、顔の周りで揺らいでいる。
 ぱちぱちと音をたてる薪からは、煙が立ち上り、そこここから、いまだ丈低い炎が顔を覗かせ、趣味の悪いダンスを踊っていた。
 身をよじり、涙を流し、それでも、少年には、逃れるすべはない。
 全身のいたるところに苛烈な拷問の痕跡が残されるからだは、おそらく、鎖に縛められることで、かろうじて、立つことができているのに違いない。
 潰された喉からは、押し出されるような悲鳴がでるばかり。流れる涙すら、痛みにつながっていることだろう。少年は、本能的な恐怖に、全身を焼く苦痛に、捕らわれ、逃れられずにいるのだ。
 悪魔と契ったってさ。
 魔女だって。
 腰骨のところに、ドラゴンの羽の痣があったってよ。
 ひそひそと、恐ろしそうに、面白そうに、火刑に処される少年を見上げては、ささやきかわす群集に、慈悲の色は、見当たらない。
 なぜなら、少年が、流れの民のだったからだ。粗末な馬車に家財道具一式を積み各地を放浪し、祭があれば、その地で出し物をして日銭を稼ぐ。漂泊の民は、土地に根ざす教会の教えから、遠いところに存在した。
 だから、そのひとりが魔女として断罪を受けるのに、容赦はいらない。いっそ一人だけではなく、全員の火刑が迫力だったろうと思うほどに、他人ごとの、見世物感覚のほうが強い。
 つい数日前まで少年たちが町外れで見せていた見世物と、さして変わりのないものでしかないのだ。違うのは、人の命が懸かっているかどうかということくらいであり、出し物であるのなら、人の命が懸かっているほうが、より迫力があって面白いのに違いない。人々は、固唾を呑んで、少年がじりじりと火で焙られるさまを眺めていた。



 少年の名前は、はじめといった。
 栗色の髪に明るい琥珀色の眸の少年は、その象牙色の肌から、どこか異国の血を引いているのだろうと思われた。もっとも、肌の色に関しては、漂泊の民の特徴でもあったから、彼らの間にいる限り、それは、少しも、特別なことではなかった。ただし、はじめの肌の色は彼らよりは明るく、肌の質は、彼と双子の兄弟である郁也を除き、彼らの誰よりも、肌理が細かかった。
「いいかい、はじめ。人前で服を脱ぐんじゃないよ」
 腰に手を当てて、ラウラが、諭す。
 スカーフで束ねた赤毛が、揺れる。
「わかってるって、姉さん」
「郁也も、自分たちのことなんだから、気をつけるんだよ」
 ラウルと同じ褐色の髪の少年が、
「姉さん、はじめに過保護過ぎだって」
と、苦笑をこぼした。
「わかったら、いっといで」
 ぱしんと二人の背中を叩いた。
 森の中の空き地で、彼らは、一夜を過ごすことにした。
 まだ日は高い。
 しかし、この日のうちにこの森を抜けられるかどうかは、心もとない。
「ラウラ、こっちをてつだっとくれ」
 母親の声に、ラウラは朗らかに答えた。
「なんでいっつもオレたちだけ。不公平だよな」
 シャツの袖をまくりながら、はじめがぼやく。
「しかたないって。俺たちの背中になにがあるか、知ってっだろ」
「うん。けどさぁ、川遊びするくらいいいと思わないか?」
 こう暑いとさ。
 空を仰ぐと、針葉樹の細い葉の奥から、金の雨が降り注ぐ。
 雨のような日の光に、はじめの栗色の髪が、金粉を帯びたように輝いた。
  「ひとがいなけりゃな」
「けち」
 頬を膨らますはじめに、郁也が笑う。
 少年たちの笑い声が、森の奥に明るくこだました。

 ささやかな馬車を背に石で囲った囲炉裏に火をつけ、鍋をかける。
 馬車のひさしにぶら下げていた野菜を数個切り刻んで、入れた。
 木のへらでかき回していると、背中にしょった赤ん坊が、泣きはじめる。
「はいはい。おっぱいだね。ちょっとお待ち」
「母さんごめん、鍋見ててくれる」
 赤ん坊を下ろして、ラウラは、ブラウスの前をくつろげた。



 嵐が近いことを、空が告げていた。
 司教はひとり、馬を走らせる。
 森の中での野宿など、とんでもない。
 唸り逆巻着はじめた風が、ひとの怨嗟の声めいて聞こえ、司教の背中を冷や汗が撫でた。
 従者が止めるのも聞かず、司教は、馬に鞭を当てる。
 僧服が、風にひるがえる。
 雷が、空を引き裂き、司教の耳を聾した。
 馬が後ろ足で立ち、もがくように空を掻く。
「うわっ」
 馬から振り落とされる。逃げる馬を追うことすらせず、ぬれねずみの司教は、とぼとぼと、風の中を歩きはじめた。
 どれくらい歩いたのか。
 目の前に、みごとな城館が、現われた。高い塔を従え、黒々とシルエットが空にそびえていた。
 オレンジの明かりが、城館に人が住むことを教える。
 司教は、扉にやっとのことでたどり着き、黒い鉄のノッカーを握り締めた。



 ろうそくの炎がかすかに照らすだけの質素な一室で、ひとりの女性が、ひざまずいて祈りをささげていた。
 その姿から、女性が、尼僧であることが見て取れる。
 一心に壁にかけられた十字架に向かい額づく女性は、背後に近づく影に気づくことはない。
 ただ、十字架の左右に据えられた一対の炎が、ゆらゆらと、はためいていた。



 黒と金と白の豪奢な廊下に、マントの赤い裏地がひときわ鮮やかにひるがえる。
 突然現われた男に、頭を垂れて礼をとるのは、大小さまざまな異形である。
 その中に、目を惹く端正な姿があった。
 漆黒の髪はつややかに白皙の面を引き立たせる。すっきりと冷ややかなまでの美貌の中、ひときわ目を惹くのは、金色のまなざしと、鮮やかな朱唇である。ゆったりと口角をもたげ、
「お帰りなさい父上」
と、腰を折る。
「高遠か」
 まだ少年らしさの残る第一王子に、闇よりも深い黒の目をかすかに細めたのは、魔王である。
 森羅万象、異形と謗られる者たちを統べ、守り、裁く。慈悲深く、気高い、そうして同時に冷酷の、王だった。
 ついと息子の細い頤を持ち上げ、
「遠からず、我が子が増える。それを、お前に与えよう」
 高遠の金の眸が、珍しく驚愕に見開かれた。
「対となすもよし。喰らうもよし。いずれ、お前の役に立とう」
 周囲の異形が、ざわめく中、王は王たる笑いを響かせながら、廊下を奥へと消えていった。



 ひときわ大きな悲鳴の後に、頼りない赤子の鳴き声が聞こえだす。
 当惑に顔を見合わせるのは、いずれも、尼僧たち。
 赤子を産み事切れた尼僧は、彼女たちの誰よりも、気高く信仰心にあふれたものだった。
 その彼女が産み落とした男の赤子を見て、誰一人として、動くことができない。
 赤い肌も、栗色の髪も、握り締めた手すら、いとけないほどの存在に、しかし、その仕打ちができたのは、信仰心の故であったろう。
 腰骨の上、くぼんだ箇所に、灼熱に熱した鉄を押し当てる。
 赤子が、ひときわ激しく泣き出した。
 もう一度。
 そう。赤子は、ふたりいたのだ。
 事切れた尼僧が産み落としたのは、よりにもよって、双子だった。
 赤子の背に禍々しく刻みつけられたのは、紛うことない、魔女の烙印。――――ドラゴンの一対の翼だった。
「汚らわしいものを、尼僧院になど置いておけません」
 吐き捨てるように言ったのは、年かさの尼僧である。
「院長さま」
 尼僧たちが、頭を下げた。
「ではどうしろと」
「捨てるのです」
 院長の言葉は、神の次に絶対である。
 布にくるんだ赤子を、院長が、尼僧見習いに手渡した。
「いいですね。誰にも知られず、捨てるのですよ」
 尼僧院から赤子など、とんでもない醜聞である。――絶対にありえないというわけではなかったが、禁を犯し、神を裏切った尼僧には、それ相応の処罰が。そうして、堕胎もならず生まれた赤子は、ひそかに、尼僧院から出されるか、処理され、裏庭に埋められる。
 裏庭に埋めることすら厭ったのは、赤子が双子であったことと、院長が、死んだ尼僧の信仰を信じていたからに他ならない。
 彼女が、神を裏切るはずがない。彼女は、俗世すら知らない、誰よりも清らかな、この尼僧院の申し子であったのだ。僧院の外にでたことすらない彼女が、どうして、子を孕めるだろう。また、この僧院は、外からの進入に鉄壁を誇っている。
 だから、この赤子らは、ひとの子ではないのだと。
 ましてや、神の子などでは、決して。
 であれば、汚らわしい、悪魔に、かの尼僧が犯されたのに違いないのだと。
 だからこそ、そのようなものを、殺すことすら恐れたのだ。
 災厄が尼僧院に降りかかることを避けるため、院長は、心を、鬼にしたのだった。



 異形のものたちが住まう異界――魔界であれ、月も巡れば、太陽も昇る。
 高遠は星々を見上げ、気だるいからだをもてあましていた。
 おそらくは、成長期の終わりが来たのだ。
 最後の段階を駆け上るために、冬が訪れる。
 冬をすごさなければ、成人とはいえない。
 冬――それは、魔界においての成長期のものにとって、眠りの季節である。死にも等しい長い眠りの果てに目覚めた時、高遠は、大人として復活する。
 個人差のある永い眠りのさなかに、いくたりかの王子王女が、命を落とした。目覚めることのなかった兄と姉。いまや、彼のほかに、純血の魔王の子はいない。
 その彼のために、王は、混血の子をもうけたのだ。
 高遠のためだけの。
 混血の子は、純血に比べて、生命力が、段違いに強い。それは、執着心が強いということなのだろう。常に倦怠をもてあます純血の魔物に比べて、他で劣っているからこその、執着なのかもしれない。それは、その血に、からだに、精神に、孕まれる。だからこそ、魔王は、父は、高遠に与えるのだ。
 守り――の存在を。
 肉を喰らい、その執着を身に着けるもよし。
 対となして、目に見えない守護を受けるもよし。
 父の愛情を確かに感じ取り、高遠は、掌を見つめた。
 青白く輝く月の光が、掌に、降り注ぐ。
 月光の鏡を覗き込めば、そこに、尼僧の姿があった。
 寝台がひとつあるきりの、狭い部屋の中、床に跪き、神に祈りをささげる姿からは、清冽なばかりの信仰が、あふれだしている。
 しかし、信仰とは反対に、その迫り出した腹に、違うことのない、魔王の血を感じ、高遠は、かすかに口角を引き上げた。  清冽ではあれ、自分たちの信じる神のみを絶対として、以外は迫害する。その狂信を嘲笑うかのように、鮮やかな朱のくちびるが、月光の鏡に息を吹きかけた。



 朝もやの中、赤子の泣き声が、心もとなく耳に届く。
 川のほとりにしゃがみこんだ少女が、芦にかかって揺れる塊を抱き上げた。
 今にも死に絶えそうな弱々しい声。
「大丈夫。大丈夫だからね」
 優しくささやきかけながら、赤子の体温を奪う布を取り去った。
 水を拭い、腰骨の上に見つけた紛れもない刻印に、息を呑む。
「ああ。可哀相に………」
 いたいけな身に背負わされた魔女のしるしに、この双子の一生が、決して晴れやかなものとはなりえないだろうことを、ラウラは、悲しんだ。



 戸惑い、笑い、泣き、怒る。照れたようすも、拗ねた顔も、ころころと変わる表情が、忙しなくも愛しい。
 古びたリュートを見よう見まねで爪弾いて、即興の曲を弾く。郁也の奏でる音楽に合わせて踊れば、そのステップに、観客が、一斉に沸いた。
 拍手とともに足元にばら撒かれるコイン。
 拾い集めるのは、小さなぷくぷくとした手。
 幼い妹を抱き上げて、はじめはもう一度少しおどけたおじきをして見せた。
 客が去ってゆくのを見送り、
「やった!」
 郁也と顔を見合わせ、手を高く合わせる。
「ごくろうさん」
 ラウラが、笑顔で、彼らを迎えた。
「ご飯、できてるよ」
 さっさとたべちまいなよ。
 言われて椀を取り上げて、
「あちっ」
 もう少しで、取り落としそうになった。
「まったく、そそっかしいなぁ」
 郁也に小突かれて、へらりと笑う。
「ああ、その顔だけはよしなよ」
 母親にたしなめられる。
「わかってるけどさぁ」
 椀の中のスープに息を吹きかけながら、はじめが答えた。
「馬鹿みたく見える」
「あっ、言ったな!」
 郁也に掴みかかれば簡単にいなされて、
「押し殺される〜」
 ムッとばかりに、はじめが膨れる。
「なんでよっ。オレそんなに重かないやい」
「けど、オレよか重いよな」
 そういって笑う郁也は、はじめに比べてどう見ても骨細である。
「そんなに変わんないって」
 似たかよったかじゃん。
 舌を出すはじめに、
「悪かったな」
 今度は郁也がそっぽを向いた。



 魔王の新たな子が双子であったと知ったとき、高遠も、また、魔王も、少なからぬ驚愕を覚えた。
 互いに褐色の髪と瞳の双子は、しかし、似ているのは、それだけであるようだった。
 明るく感情豊かな少年と、どこか物憂げな少年とに、双子はそれぞれ成長した。それはどうやら持って生まれた性格の違いであるらしかった。同様に外見も、異なっていた。心持ちふっくらとした少年がはじめで、あまり肉がつく性質ではない少年が郁也だった。
 飽きない。
 どの表情も、どんな行動も。
 少年たちのその一つ一つが、高遠を魅せないことはなかった。
 しかし、より深く彼を魅せた少年は、ただひとりだった。
 できるだけ早く、彼をこの腕に抱きとめたいと、高遠はそう思った。



 それは、はじめが十五の春だった。
 木漏れ日の中で出合った若者を思い出して、ひとりでにはじめの頬が赤く染まった。
 見たこともないような、立派な衣装をまとった、一目で上流階級に属するとわかる、若者だった。
 信じられないほどの美貌に、やわらかな微笑をたたえて、金色の眸が、はじめを見た。
 刹那。
 心臓が、ひときわ大きく弾んだのだ。
 一目ぼれ――――だった。
 はじめて会ったばかりの、名前すら知らない、男であるというのに。
 同性の。
 なのに、生まれてはじめて、家族以外の誰かを、好きだと、心が切なく、竦みあがった。
 動くことすらできなくて。
 ただ、はじめは、その漆黒の髪を、金色の眸を、見つめていた。
「はじめ」
 いつの間にかすぐ目の前に、そのひとは立っていた。
 白い、まるで象牙細工のような手が、やさしく、はじめの頬に触れた。
「オレの名前………」
 震えがはしる。
 莞爾とばかりに微笑むその白皙に、目を奪われて、それでも、恥ずかしさに、顔を背ける。
「なんだって知っていますよ」
 耳元にささやかれる蠱惑を含んだ甘い吐息に振り返れば、
「僕の名は、高遠というのですよ」
 金の眸が、はじめの目を覗きこんだ。
「呼んでください」
 あなたの声で。
 はじめ?
 乞われるようなひびきに、こわばりついた喉を震わせた。
「たかとう」
と――――――――――。
 その瞬間、襲いかかってきた戦慄。
 まるで、雷にうたかれたかのような、衝撃。
 目の前の美貌の主との間に築かれたなにかを、はじめは強く感じた。
 うっとりと、目を細めて笑う高遠が、耳の付け根に、くちびるを押し当てた。
 かすかな痛み。
 痛みから広がる、じわじわとした心地よさに、はじめは、全身から力が抜けてゆくのを感じていた。
「これは、約束の証。君と僕の………次に合うときまで、僕のことを忘れないで」
 そう言って、高遠は、どこへともなく去っていったのだ。
 名前しか知らない彼を思い出すと、同時に、全身があのときの陶酔を思い出す。
 甘く切ない、痛み。
 これまで知らなかった、不思議な感情に、はじめは、ただ、捕らわれていた。



 繋がった。
 はじめが自分の名を読んだ刹那、どれほどの陶酔に襲われたか、知るものがいるのだろうか。
 倦怠を忘れて、ただ、至福を感じていたあのひととき。
 ――――彼がいるから、この冬を乗り切らなければならない。
 そんな欲が生まれていた。
 兄も姉も、この感情を、持ちえなかったのか。
 冬を越えれば、この手に抱こう―――と、心の奥底から欲しいと願うものがなかったのか。
 これが、恋。
 でなければ、執着。
 彼を、自分以外の誰にも奪われないように、必ず、自分は、冬の果てに、目覚めよう。
 どれだけ、あのまま異界へと、彼を奪い去りたかったことか。
 それをしなかった理由は、ただひとつ。
 魔王の純血の子が高遠だけであるのとは異なり、混血の子は、はじめと郁也のふたりだった。
 たとえ自分が欲するのがはじめただひとりであったとしても、混血の子はもう一人いる。
 たとえ自分は無事だとしても、郁也が死ねば、はじめは嘆くだろう。
 嘆くはじめなど見たくなかった。
 冬の間、ふたりを守ることは、高遠であれ、不可能なことでしかなく。
 しかし、王の血を欲しがるあまたの異形たちからはじめたちを守れるものもまた、彼以外にはない。
 人界にあれば、少なくとも、異形からは、守られる。
 今の時代、人界へと足を運ぶのは、よほどの剛の者だけである。
 自分以外には、王しかいない。
 王が、ふたりを害するわけもなく。
 だからこそ、安全な地であるはずだったのだ。
 高遠は、ゆるゆると、瞼を閉じる。
 目覚めの果ての幸福を疑いもせずに。
 はじめの笑顔を思い描きながら。



 はじめも郁也も共に十七になったばかりだった。

 いやだいやだいやだ。
 首を振り、後ずさる。
 目の前に立つのは、大きな男。
 白い僧服を身にまとい、胸元に金の十字架をぶら下げて。
 労働を知らない、ふにゃりとやわらかな手が、はじめに向かって伸ばされる。
 壁に背中がぶつかった。
 二の腕を掴まれて、はじめの全身が、大きく慄く。
 顎を捉えられ、掌の感触に、首を竦めた。
 背中があわ立つ。
「家族を助けてくれるなら、と、約束しただろう。そうして、私は、約束を果たした」
 ん? と、顔を覗きこまれ、はじめの動きが、止まった。
 僧侶のことばが半ば真実であれ、残りが嘘であることを、はじめは知らない。一度、はじめの目の前で解放した彼の家族を、もう一度捕らえて、地下に繋げと命じたのは、彼自身だったのだ。
 教会前の広場でいつものように出し物をしていた。
 ただそれだけだったのに。
 突然教会の扉が開いたと思えば、修道士たちに取り囲まれていた。
 逃げる間も何も、ありはしなかった。
 なにが起きたのかもわからないままで、はじめたちは、教会へと連れ込まれたのだ。
 石の床が冷たい。もうじき冬支度が必要だった。
 怯えた妹が泣いていた。
 青ざめた、母親と、ラウラ。
 郁也が、はじめの手を握った。
 やがて現われたのは、この教会の責任者というにはやけに若い男だった。男は、しずかに、はじめたちを見渡した。その視線がはじめを見て、にやりと細くなる。そうして、はじめだけが、家族から引き離されたのだ。
 三十過ぎぐらいなのか。のっぺりとした白い顔が、いやらしい欲望に歪んでいる。
 目を硬く閉じたのを承諾ととった僧服の男が、はじめの髪を掻きあげた。
 鳥肌が立つ。
 くちびるを耳元に寄せられ、はじめの眉間の皺が、より深いものになった。
 いやだっ!
 食いしばったくちびるから、赤い血が、糸を引く。
 目頭から、悔し涙が、にじみこぼれる。
「可愛がってやろうというのだ。なにを泣くことがある」
 丈の短い上着の裾から、掌が、もぐりこんでくる。
 ピッとやけに甲高い音をたてて、シャツが、引き裂かれた。
 ぞわぞわと、ただ、肌があわ立つだけの感触に、はじめの脳裏に、金の眸が、過ぎった。
「たっ」
 名を呼ぼうとしたその時、
 ガツンッと、全身を襲ったのは、これまでとはまったく別の、痛みだった。壁に突き飛ばされ、床に蹲る。
「おまえっ」
 男の声が、硬くこわばりついている。
 見上げようと、かすむ目を凝らすが、白くかすむ視界に、ぼんやりとしか見えなかった。
「魔女かっ」
 僧服の男の悲鳴めいた声を最後に、はじめの意識は、失われた。



 はじめはただ、悲鳴を上げていた。
 半ば狂った頭でわかるのは、ただ、痛みだけ。
 幾多の炎が、自分をじりじりと焙る。
 空気が熱を帯び、喉を焼く。
 咳こむたびに、喉の奥が痛い。血が、にじむ。
 全身が、痛い。
 拷問の傷が、間断なく、全身をさいなむ。
 どうして。
 どうして。
 誰か、誰か、誰か。
 誰かを、求めていた。
 救いを求めていた。
 誰に求めるのか。
 繰り返し、繰り返し、ただ、誰かを求め続ける。
 誰か。
 助けて。
 誰か。
 痛い。
 苦しい。
 熱い。
 誰か―――――――
 群集の興奮か、それとも炎が呼んだのか、空が、曇る。風が、吹く。
 ひときわ強い風に煽られ、大きな炎が、はじめの目の前に、立ち現われた。
 金の炎は、はじめを飲み込もうと、鎌首をもたげる。
 その金の炎が、はじめの半ば狂った記憶を刺激した。
「ああああああ……………」
 言葉を奪われた喉が、大きな悲鳴をほとばしらせた。
 言葉にならない声が、ひとつの名前を、縋りつくように、呼ばわった。
 群集には悲鳴としか聞こえない声を、誰が、名前とわかるというのだろう。
 ごぽり――と、厭な音がかすかにして、はじめの喉から、赤黒い血が吹き出す。
 もうあと少しで、足を焙る炎が、はじめをじかに飲み込むだろう。
 群集の熱狂はすさまじく、さながら、魔女のサバトの態だった。
 風が強くなる。
 空が、黒々と塗りつぶされようとしていた。
 ごろごろと、遠雷すらもが耳に届きはじめたが、誰一人、気にかけるものはいなかった。
  「あああああ……………」
 巨大な炎が、薪を崩して吹き上がった。
 炎がはじめを飲み込むその刹那、金の矢が天空から下された。
 耳を聾する雷鳴とともに、教会の塔が、金の矢に突き崩された。
 塔にあった鋼の巨大な鐘が、聾がわしい音をたてて、転がり落ちる。
 悲鳴を上げ顔を背けた群衆は、やがて、頬に大粒の雨を感じて、目を開けた。
 そうして、見たのだ。
 降り出す雨が分厚い帳と化す前に、長い黒髪を束ねた白い顔の男が、燃え盛る炎をものともせず、火刑の杭に近づいてゆくのを。
 禍々しい炎が、まるで恥らう乙女のように、男に道を開けるのを。
 はじめ―――――
 切ないまでのささやきを、その場にいるものは皆、耳にした。
 そうして。
 いったい誰が、君にこんなひどいことを。
 その痛切なまでの苦痛の奥底に、加害者に対する滴らんばかりの憎悪を感じ、後ずさろうとして、誰一人かなわないことを知った。その場から逃れることができないことを知り、蒼白になりもがくものの、指一本、動かすことはできなかった。
   痛いほどの雨に打たれながら、はじめはもっと苦しかったのですよ―――と、不思議と穏やかにすら聞こえる声に、背中を震わせた。

 突然、雨が、やんだ。

 たぎる憎悪をまなざしにたたえて、男が、振り向いた。瞬間、彼らは、自分たちを縛めているものから解放されたのを、感じていた。
 誰もが濡れねずみであるというのに、男と、腕に抱かれた少年だけが、髪の毛ひと房、濡れてはいない。
 その不思議に打たれるより先に、
「悪魔めっ」
 叫んだのは、司教だった。
 ぬかるみに尻を落としながらも、胸の金のクルスを掲げる。
 司教の声に叱咤されたのか、這いずるように、修道騎士たちが、立ち上がる。
 聞こえはじめた聖句に、
「くっ………」
 喉の奥で抑えたような声。
 効ありと、聖句を唱える声が、よりいっそう大きくなった。
 しかし、やがて、それは、ほとばしるような笑い声に、掻き消された。



 ひときわ大きな雷鳴が鳴り響く。
 一瞬後に、重々しい錬鉄の扉が、引き開けられた。
 まろぶようにして室内に走りこみ、あわてて威厳を正す。
「どうぞこれをお使いください」
 差し出された布で全身を拭いながら、司教は室内を見渡した。
 高い天井から釣り下がるのは、鏡板つきの反射式照明である。数十はあるだろう蝋燭が、鏡とクリスタルに反射してオレンジの炎を揺らめかせている。それでも薄暗い室内には、どこかの異国から持ち込んだのか、異教徒的な趣向のシルクの段通が壁一面を覆いつくし、左右対称に作られている二本の階段へと向かうものの目を楽しませていた。そうして階段を上りきった二階の正面壁には、等身大の肖像画がかけられ、額縁の中から城館の主らしい人物が、階下を見下ろしている。
 なんと豪勢な。
 片側の階段下の暖炉には炎が燃え、司教は、その前にある椅子を勧められた。
「温かなスープでもお持ちいたしましょう」
 恭しく頭を下げて、まだ歳若い青年が、階段脇の扉の奥へと消えていった。
「うまい。いったいなにを使っているのですかな」
 ほどなくして供されたスープを味わいながら、からだがぬくもるのを、司教は感じていた。
「それは、料理人の秘密ですよ」
 にこやかに笑う青年に、司教の悪い虫がぞろりと腹の奥でうごめく。
 青年の手首を握りしめる。
「ダメですよ」
 まんざらでもない反応に、司教がくちびるを舌で湿した。
 腰を抱き寄せようと伸ばした手が、
「彼が雨宿りの客人ですか」
 朗々と響く美声に、空で強張る。
 あわてて立ち上がり、
「新たな教区へと向かう途中雨にやられまして。一夜の宿を供していただき、感謝いたします。神のみ恵みがあなたの上にありますように」
 十字架を切る手が、途中で止まった。
 揺らぐ灯火に照らし出された城主は、黒地に金糸のふんだんにあしらわれた衣服をまとい、まるで、王者然とした雰囲気で、階段の半ばに立っていた。
 白皙の面には、紅を指したかと思えるほどに赤いくちびると、珍しい琥珀色の眸。それらを際立たせる、黒い髪。
 どこぞの王族かもしれん。
 これは、印象を悪くしては、ことだぞ。
 司教が内心で一人語散る。 「丁寧な挨拶。ありがたく受け取っておきましょう。郁也。寝室を準備してください」
「はい。ご主人さま」
 優雅に腰を折った青年が、今度は階段を上がってゆく。
 青年の耳に、城主の赤いくちびるが寄せられ、なにごとかをささやいた。

 通された部屋は、予想にたがわず豪奢なものだった。
 炎の燃え盛る暖かい部屋の壁といわず床といわず、段通が張り巡らされ、天蓋つきの寝台の四隅には、帳が束ねられている。
 やわらかなクッションが、彫刻の施されている長いすの上にいくつも据えられ、客が腰を下ろすのを待っていた。
 司教は、その上に音を立てて腰を下ろすと、サイドの飾り棚から切子のデキャンタとグラスを取り上げ、なみなみと注いだ。
 煽るように喉の奥に流し込む。瞬時にして全身をアルコールの熱が焙った。
 疲れと酔いとに誘われるようにして、司教は僧服を脱ぐと、寝台にもぐりこんだ。
 後は、司教の寝息と、暖炉に炎が踊る音だけが、静かな室内に響いていた。



 白と金、それにやわらかな色調で飾られた室内に、城主はいた。
 広々とした寝台に、ひとりの人物が眠っている。
「……………」
 力なく寝具の上に投げ出されている手を握り、自分の額に当てる。
「もうじきだ」



 寝苦しい夢に魘され、司教は目覚めた。
 厭な余韻だけを残して、夢は、砕け去っている。
「寝た気がせん」
 ベッドの上に起き上がり、額を押さえる。
 体内時計は、今が明けがただと告げているというのに、部屋は、まだ、闇に閉ざされている。
 悪夢の名残を振り払いながら、ベッドから降りる。
 窓の帳を開け払い、窓の外に広がる景色に、息を呑んだ。
 吹き荒れる嵐は一夜を過ぎても、まだ、続いている。
「ご主人様から、嵐がやむまでご滞在を――と、言付かってまいりました」
 不意にかけられた言葉に背後を見ると、昨夜の青年が佇んでいた。
「お礼を申し上げたいのだが、城主殿は」
「ご主人様は、午後になるまで、部屋をお出になられません」
 どうぞ、司教さまにはごゆるりとなさってくださいとのことです。
 青年が、テーブルの上に香ばしいにおいを立てる焼き立てのパンとスープ、それに、ワインを並べ、椅子を引く。
 司教が椅子につくのを見て、郁也が、給仕についた。
 静かに佇みながら、郁也が褐色の眸で、司教を見る。眸にたたえられた色を、司教が見ることはない。もし見ていたなら、暢気に、舌鼓を打ってなどいられなかっただろう。それほどの、憎悪の色が、彼の眸には、潜められていたのである。



 嵐は、やむ気配すら見せない。
 時折金の雷光が、黒々とした空を引き裂いては消える。
 神の怒り――――
 ふと過ぎることばに、司教は、首を振る。
 神に仕える身が、いかさま。と。
 胸にぶら下がるクルスを、手遊ぶ。
 ごゆっくりとは言われても、手持ち無沙汰でしようがない。
「別段部屋から出るなといわれたわけでもなし」
 ひとり語ちて、司教は、椅子から立ち上がった。
「ご城主殿に、礼をな」
 ドアを開ける。
 壁を覆うタピスリーが、手燭の明かりに、揺らめく。
 細かな刺繍が施された一品が廊下の窓に面した壁を覆い、ずらりとつづく。これから自分が赴任する教会にも、これほどのタピスリーがあるだろうか。いや、これほどの手を、今まで見たことなどありはしなかった。
 しかし、ふと、気づく。
「昨夜見たときとは、絵柄が違っているような………なにかの物語のようだぞ」
 教会の修道士。位の高い僧侶が――――
 司教の顔から、血の気が引く。
「まさか」
「いや」
 しだいに足早になりながら、タピスリーに織り出された物語を追ってゆく。
 約束―――と、聖書に用いられる文字でつづられた単語が目に飛び込んできた。
 そう。
 約束を破ったのは、僧である自分だ。
 汗が、こめかみから頬へと伝う。
 再び捕らえられた、少年の、家族。
 彼らのその後の運命。
 嘘だ。
 なにかの、偶然。
 首を振りながら、しかし、目を背けたいような、その織物から、視線を外すことはできなかった。
 魔女――との、審問。
 魔女の家族への、審問。
 刻々と続く、むごたらしい拷問。
 赤い血の色が、タピスリーを、染め上げていた。
 ピタン。
「ひぅっ」
 首筋に落ちてきたものに、司教の全身が、震えた。
 拭った手を目の前に持ってきて、我とわが目を疑った。
 べっとりと手をぬらすものは、紛れもない、血。
「うわっ」
 手を振った弾みで、手燭が、床に転がり落ちる。
 消えた蝋燭。
 しかし。
 タスケテ。
 タスケテクダサイ。
 魔女ナンカジャナイ。
 チガウ。
 チガウンデス。
 子供の、泣き声。
 女の、男の、悲鳴。嘆願。呻き。
「うわぁっ」
 両手で耳を覆い、壁に背中を擦り付ける。そのままずるずるとしゃがみこみそうになった司教の肩に、ひたりと触れたのは。
「ひぃっ」
 小さな、子供の手だった。
 振り払う。
 肉の重みを思わせる音が、生々しい。
 関節が外れ、骨も砕け、腱も断たれたのだろう、肩からだらりと伸びた腕。いや、腕だけではない。小さな子供の全身が、だらりと、伸びて、床の上を、這っている。まるで血まみれの巨大な蛇のようなその姿に、
「う、うわぁっ」
 司教は、顔を覆った。
 足元になにか冷たいものが触れた。確かめる決意もないまま、司教が震える。それは、ひどくゆっくりと、司教のからだを伝わり上ろうとする。
「ゆ、許してくれっ」
 言いのけざま、司教は、それを蹴飛ばし振り払い、走り出す。
 泣き叫ぶ幼児を、上下に引き伸ばす拷問具に架けたことを思い出しながら。
 熱湯に浸けた、全裸の女。その悲鳴。
 舌を抜かれた女の、血の涙。
 足を砕く拷問具に架けられた少年の、自分を睨む生意気な目。それが腹立たしいとばかりに刳り貫かせた、二個の眼球。
 自分を惑わせた少年の爪を一本一本剥ぎ、指を砕き、腱を断つ。痛覚を責め、自白を誘った。
 魔女だと。
 半ば狂ったうつろな褐色のまなざし。
 ぼんやりと自分を見てすらいないだろう目を覗き込みながらの問いに、ただうなづくその少年は、何も判ってなどいなかっただろう。
 それを、十字架に架けた。
 群集が投擲する石が、少年の肉を裂き、新たな血を流させた。
 ただ苦しげに呻くだけの少年を殺すのに、火を放つことなど、造作もないことだった。
 魔女のしるしを持つ少年を殺すのに、躊躇などあろうはずもない。
 苦しみを最大限に引き伸ばされ、苦しみもがいて死んでゆく少年を見ることに、ためらいなどありはしない。
 魔女に惑わされたことをないことにできるなら、なんだってしただろう。なんだってできるのだ。
 魔女が、自分を惑わしたのだ。だから、自分は、少年に手を出す振りをし、そうして、そのたくらみを破ったのだ。だから、これは、正当な報いである。
 そういうふうに、修道院の記録には記されるだろう。
 魔女のたくらみを打ち破ったものとして、位が一つくらいは上がるかもしれない。上がらなくとも、法王の覚えがめでたくなるかもしれない。

 しかし――――

 現実は、逆だった。
 身の毛もよだつ悪魔の出現によって、修道院は炎上し、修道騎士は虐殺された。あまつさえ、少年、いや、魔女に石を投げつけたものは、殺された。笑って見物していた群集は、皆、何らかの報いを受け、挙句、あの地は、ひとが住める土地ではなくなったのだ。ひとりふたり、ひとは地を去り、かろうじて生き延びた修道士は、別の修道院に受け入れられた。けれども。自分は、そのために、罰を受けたのだ。位を司祭へと落とされ、一からのやり直し。何十年もかけて、やっと、元の地位に返り咲けたのだ。そうしての、新天地への赴任だったのに。
 だというのに、これは、なんだ。
 なんだというのだ。
 きれいに整えたトンスラを乱しながら、司教は、闇雲に、廊下を走った。
 誰も出てこない。
 自分の悲鳴と足音だけが、あまた怨嗟の声に混じる。
 気が狂いそうだった。
 どこでもいい。
 この悪夢から逃げ出すことができるなら。
 行き止まりにぶつかり、司教は泣き喚きながら、周囲を手探る。手に触れたそれを救いとばかりに、必死に捻り、開いた。開いて走り、またぶつかる。ぶつかったものを開き、そうしてまた。幾度繰り返したのか。ついに司教は息を切らして、その場に、蹲った。


 途端―――――――


 馥郁とした薔薇のかおりが鼻を満たし、怨嗟の声が、ぴたりと止んだ。
 しかし、司教は、それには気づいてはいなかった。
 ただ、後ろ手に開いたドアを閉め、その場に蹲っていたのだ。
「ひっ」
 肩に触れてくる手を払った。
 そのリアルな感触に、数瞬後、我に返る。
 目の前に立つのは、やわらかな笑みをたたえた、白い美貌。
「どうなさいました」
 丁重なテノールに、
「あ、いや、その……」
 着衣の埃を払いながら、立ち上がる。
 先までの出来事がまるで夢であったかのようで、足元がぐらついた。
 しかし、覚えている。絡みつく怨嗟の声も、這い上がってこようとした、冷たい手も。
 ぶるりと全身を震わせ、
「あのタピスリーは、なんですかな」
 かすれそうになる声で、なんとか、訊ねた。
「はい?」
 かすかに首をかしげ、面白そうに自分を見下ろしてくる琥珀のまなざしに、なにかがじわりと湧き上がる。
「あれですよ。廊下の壁一面にかけられている、あの趣味の悪い」
 相手が王族かもしれないことなどこの際、関係なかった。
「趣味の悪いタピスリーですか?」
 相変わらず楽しげな声のトーンに、
「あ、んな、宗教裁判のタピスリーなど趣味を疑いますな」
 一気に言ってのける。
 と、
 クスクスと笑い声が、城主の口から零れ落ちた。
「な、なにがおかしいのです」
「い、いえ。あなたがあまりにおかしなことを言うものですから」
 言いざま、城主が、ドアを開いた。
   司教が止める間もありはしなかった。
 しかし、ドアの外にあるのは、壁面を書物で覆われた、書斎だった。
「居間に来るには、この部屋の前にある控えの間を、通り抜けなければならないのですよ。そうして、これが、廊下に直接通じている扉です」
 繊細な手が、重いドアをいとも無造作に開け放つ。
 そこに広がる光景に、
「そんなばかなっ」
 司祭は、うめき声を上げたのだった。
 嵐のため締め切られた窓がずらりと並ぶ反対側の壁にかけられているタピスリーの中では、異教徒的な意匠のアラベスクで縁取られたユニコーンやグリフィンなど、明るい色彩で織り出された神話の世界が、蜀台の明かりに揺らめいている。
「私が庇護している職人たちの手によるものです。すばらしい物でしょう。これよりすばらしいものは、あとしばらくの間、現われないといっても過言ではありませんよ」
「こ、これはいったい」
「司教さんはお疲れのようですね。まだ嵐はやむ気配がありません。そうですね、先ほどの部屋で、ワインなどいかがです」
「は、はぁ」
 毒気を抜かれた司教が、城主に背中を押されて、きびすを返した。
 とたん、ざわりと、タピスリーが波打つ。
 血があふれ、糸を引き、ユニコーンやグリフィンが解け崩れてゆく。
 それに、
「しーっ」
と、人差し指を立てて、城主が一瞥を投げかけた。
 ぴたり。
 タピスリーの不穏なざわめきが止まり、解け崩れたはずの幻獣が、元の姿を取りもどす。
 それらを確認して、城主は、しずかに扉を閉ざした。



「司教をまだあのままにしておくつもりなんですか」
 郁也の口調からは、穏やかさは微塵も感じられない。
「不服でしょうね」
「もちろん」
 この、人ならざる者には、自分の胸のうちなどわかっているにちがいない。そうして、はじめの胸のうちだとて。なのに、なぜ。
 司教に穏やかに接するのに、自分がどれだけの苦痛を味わっているか。時折触れてくる手に、嫌悪と憎悪とが混ざり合って、吐き気がこみあげてくるのをこらえることが、どんなに辛いか。この手で縊り殺してやりたい欲望を抑えるのに、どれだけの自制心を必要としていることか。すべてわかっていながら、どうして、
「なぜ、そんなに平然としているんです」
 デキャンタからワインをゴブレットに注ぎ、手渡す。
 白い手が、優雅にゴブレットを受け取る。
「はじめを愛しているんでしょう」
 喉が反り、滑らかなカーブを描いた。喉仏がひとつ、ゆっくりと、震えるように上下する。
「なによりも」
 琥珀のまなざしが、かすかに、潤んでいる。
「なら、いったい。なにを考えているんです」
「待っているのですよ」
「なにを」
「司教に対する全ての恨みが揃うのを」
 そのことばに、郁也が、目を見開いた。
「揃ったときにこそ、君たちの………いいえ。私の念願がかなうときですから」
 単に死なせるだけでは、溜飲は下がらないでしょう?
 歌うように楽しげに告げる城主、高遠の言葉に、郁也は、かすかに青ざめた。



   そんなに自分を抑えるのがつらいのなら、司教の世話はほかのものにまかせましょうか。
 高遠のことばに首を横に振ったのは、郁也自身だった。それでも、足どりが重くなるのは仕方がない。
 相手は、何よりも憎んでやまない相手なのだ。
 いっそ、高遠に甘えればよかったのかもしれない。
 手が震える。
 全身が震えてならない。
 それらを抑えて、へらりとした笑いを顔に貼り付けるのは、結構、きつい。
 けれど、あまりにも憎すぎて、誰かに任せることも、できないのだ。
 エメラルドの中に閉じ込められたような一角獣をみやる。タピスリーの中で、色とりどりの花々と黄色い蕊が、真っ白い伝説の獣を彩っている。
 ゆらゆらとかすかに揺れるタピスリーから、愛しいひとたちの悲鳴が怨嗟の啜り泣きが、聞こえてくる。
 憎い。
 辛い。
 痛い。
 寒い。
 熱い。
 苦しい。
 助けて。
 助けて。
 助けて。
「もうすぐだから………」
 もうすぐ、その苦しみから、解放してもらえるから。
 何十年もかかって、それでも少しも癒えることがない無限の苦痛は、まさに地獄以外のなにものでもない。
 母に姉、それに、幼い妹。それに、仲間の流浪の民たち。
 血の繋がってはいない、それでも、かけがえのない、家族と仲間。
 彼女たちを救うことができるなら、なにをしても、なにをされても、かまわない。
 だから、自分は、悪魔に魂を売り渡した。
 あんなにも、厭いつづけた、あの存在に。
 悪魔は、昨夜も郁也の元を訪れたのだ。

 郁也の脳裏に、あの、黒々とした眸が過ぎって消えた。

 司祭が罠にかかったあの夜。
 司祭も眠り、城が静まり返る。
 郁也は、自分の部屋のベッドの中で、眠れずにいた。
 やっと、復讐できるのだ。
 あの首を絞めてやりたい。
 ナイフで切り刻んでやりたい。
 しかし。高遠は、そんな即物的な復讐をもくろんではいないのだろう。
 秀麗な白い顔が闇の中に浮かび上がる。
 いったいなにを考えているんだ――――――と、独り後ちた時だった。
 蝋燭の明りがいっせいに灯った。
 オレンジ色の光が、室内を照らし出す。
 そこに、闇を従えたものを見出して、郁也は、飛び起きた。
 心臓が、驚きに、激しく喚きたてていた。
『復讐を遂げるまでは自由にしてもかまわない。確かにそうは言った』
 闇よりも暗い眸が、覗きこんできた。
 穏やかな口調とは裏腹に、内に火を宿す石炭のような暗い眸に、全身が強張りつく。
『郁也』
 硬質な声音に名を呼ばれて、慄く。
『このからだを、誰にも触れさせるな』
 切って捨てるような口調に、全身に火が散る。そんな錯覚があった。
 見ていたのか。
 司祭に媚びて見せたのを。
『おまえの純潔は、私のものだろう』
『っ!』
 強張りついた全身を抱きしめられ、耳元でささやかれた。
『純潔だけではない。存在の全て、魂の一片まで、私のものだろう』
 ベッドに押し倒されるのではないかというその不安に、男の胸元に手を突っ張った。
 首を激しく左右に振る。
『今はっ、まだっ、オレの望みは叶ってないっ』
 望みを叶えてくれるなら、おまえのものになってやる――――と、あの時、死に瀕していたあのときに、自分は心の中で叫んだ。
『だから、まだだ』
 必死で睨みつけた。
 と、
『いいだろう』
 思いも寄らない穏やかな笑みに、郁也の目が、見開かれる。
『だが、これくらいは、かまわないだろう』
 呆然としていた郁也のくちびるに、男のくちびるが、触れてきた。
 優しいといっていいほどの、やわらかなタッチに、郁也はただ、その場で動けずにいた。
『おまえが私のものだということだけは、肝に銘じておけ』
 打って変わった硬質な声音が、耳を打った。
 我に返って見返せば、いつもの厳しい顔が、見下ろしている。
 ―――――他人に、触れさせるな。
 それさえ守れるなら、私は、黙って、成り行きを見守っているだけにしよう。
 そう言うと、悪魔は、今度は郁也のくちびるを堪能するかのように深いくちづけを落として、去っていったのだ。

 思い出す。

 悪魔と最初に出会ったのは、いつだったろう。
 はじめが、高遠と出会ったのよりも、あとのことだ。
 そう。
 郁也は、はじめが高遠と出会ったときのことを、知っている。
 羨ましいと、思ったものだ。
 穏やかそうな優しそうな、美しい男が、ただ、はじめひとりを欲しいと思っている。そう感じることが出来た、あの、ふたりの出会いのシーンを郁也は、ぽつんと離れたところから見ていたのだ。
 顧みて、自分の孤独を、痛いくらいに感じた。
 行く先々で、郁也がどんなに好きになっても、最後の最後、彼女たちは、去っていった。
 流れ者の生活は自分には無理だから―――――と、彼女たちは、首を横に振る。
 くちづけだけを残して、彼女たちは去ってゆくのだ。
『どうして』
 細い手首を握り締めて、掻き口説いた。
 郁也よりも二つ三つ年上の彼女は、口許に優しいばかりの笑みをたたえて、
『あなたは、好き。けれど、祭が終われば婚約者と結婚するのよ』
 どこか遠くを見る青い眸が、ただの遊びだったのだと、残酷に告げた。
 するりと抜け出す白い手に、追いすがる心は、すでに灰のようだった。
 祭の喧騒は遠く、気づかずに背を向けて、郁也は、町外れの川岸にぽつりと腰を下ろした。
『あ〜あ』
 腕で涙を拭い去る。
 悔しかった。
 寂しかった。
 今だけは誰とも顔を合わせたくはなかった。
 だから、帽子を目深に下ろした。
 草の上に、背中から寝転がる。
 五月の夕風が、ほんの少し冷たさを増していた。
 魚が、水面を跳ねる。
 小鳥が歌い、虫たちの羽音が忙しない。
 どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
『不実な女に振られたくらいで、屍になってもいいとでも思っているのか』
 酔狂なことだ。
 低い声だった。
 耳に残る低い声が、底に嘲笑をにじませて、耳に届く。
『ほっといてく……れ……………』
 帽子をずらせて、片目で声の主をねめつけようとして、郁也は、大きく震えた。
 暗い緑のローブをまとった男がひとり、郁也を見下ろしていたのだ。
 そのまなざしの強さに、郁也の全身に鳥肌が立つ。
 男がそこにいるだけで、闇が、深さを増したような気がした。
 人間じゃない――と、そう思ったものの、逃げようという気には不思議とならなかった。

 少女の背中が去ってゆく。
 伸ばした手が、虚しく、空を掻いた。
 低い笑い声が、響いた。
 耳に届くその声に、郁也の背中に、粟が立つ。
 冷や汗が、滴り落ちる。
 震えが、止まらない。
 見るまでもない。
 闇をまとったような、いや、違う。闇を従えたような男がひとり、背後に佇んでいるのだ。
『振られたな――――』
 面白そうに嘯きながらも、その目は、決して笑ってはいないだろう。
『いいかげん、私を受け入れればどうだ』
 言われて、郁也は首を振る。かたくなに背中を向けたままで。
『誰がっ』
 顔も見ずに、吐き捨てた。
 背中で、全身で、ひしひしと感じる男の存在が、ひときわ強くなる。
 押されるように一歩踏み出そうとしたその時、郁也の肩を男が掴んだ。
 白い、力仕事とは無縁だろう手を、郁也は振り払うことすら出来ず、男と対峙させられていた。
『私の我慢にも、限界がある』
 顔をあお向けられて、目を覗き込まれた。
 黒曜石よりも黒い瞳のその奥に、赤い熾き火が見えるような気がした。
『このくちびるを、私以外のものに、触れさせたのか』
 親指の腹でなぞられて、背中に震えが走る。
『イヤダ――』
『オレは、あんたのものじゃないっ!』
 叫んで、突き放す。
『いいや』
 いっそ穏やかに笑んで、男は、
『お前は、私のものだよ。私を魅せた刹那に、そう決まった』
 郁也を絶望へと突き落とす。
 背中を這う男の手の感触が、郁也を、慄かせる。
『違うっ!』
 どんなに首を振っても、拒否をしても、男には通じない。
『だいたい、オレが、いつ、あんたを魅せたっていうんだっ』
 少女たちに見せるようなやわらかな笑みのひとつも、男にみせたことはない。
 いつだって睨み付けるか、逸らせるか。もしくは、今のように、叫ぶばかりだ。
 全身で、拒絶している。
 なのに、この男は、いつの間にか、自分の近くに現われて、すべての抵抗を楽しむみたいに自分をからかっては、去ってゆくのだ。
『…………お前の存在そのものが、私を、魅せる』
 そう言うなり顔が近づいてきた。
 苦虫を噛んだような憮然とした表情が、思いもかけない甘さを帯びて、すぐ目の前に迫る。
『いやだっ』
 思わず目を奪われかけて、我に返った。
 ただでさえこの執着である。キスなどしようものなら、どうなるか。
 一度でも許してしまえば取り返しのつかないことになってしまいそうで、郁也の背筋に怖気が生じた。
 押しのけるようにして男の腕の中から抜け出した。
 乱れた前髪をかきあげて、男の黒い瞳が、郁也を見据えた。
『いいだろう………好きにするがいい。だが―――――――』
 ぞっとするほどの冷たさと同時に焼きつくそうとするかのような灼熱を男の眸に感じて、郁也は、動くことすら出来なかった。
『おまえが、このくちびるで私を呼んだ時、そのときこそ、おまえのすべては私のものになると肝に銘じておけ』
 ―――おまえが私を魅せたのが縁(えにし)なら、私のものとなるのはおまえの宿命なのだと、覚えておくがいい。
 そう言って、男は、目の前から消えたのだ。
『呼ぶものか………』
 そう。
 郁也は、そう思っていた。
 男があのときすでに未来を見越していただなどと、どうして、考えることが出来ただろう。
   それに思い至ったのは、残酷な拷問の果てに、こときれようとしていた、まさにそのときだった。
 苦痛と憎しみ、それに、死にゆくことの恐怖。
 自分たちの味わった苦痛など知らぬ顔をして、これから先も生きてゆくのだろう、神の僕を名乗る男たち。彼らに対する、どうしようもない憎悪が、恨みが、静謐であるべきはずの末期を、乱す。
 乱し続ける。
 妹が、母が、姉が、仲間が、ここにはいないはじめまでが、すべて、無残な骸となって、転がっている。その無残な光景は、刳り貫かれた目ではなく、頭の中に浮かび上がる。目で見るよりもなおのこと生々しい血の赤黒さや、死人の青白い肌を、見せつけるのだ。
 それでも、堪えるつもりだった。
 打ち捨てられた床の上、息を確かめるために爪先で蹴り上げられる。自分自身の呻き声よりも大きく家族の呻き声が耳を打ったと同時に、拷問吏たちの禍々しいまでの笑い声が、郁也の最後の堰を、切った。
 目の前へと下ろされていた天への階を、郁也は、自ら、拒んだのだ。
 神などいない。
 神など、いらない。
 恨みを晴らしてくれるなら、オレのすべてなんか、あんたにくれてやる。

 ――――――――――っ!

 かすかすとした絶叫が、男の名をつづったのを、その場に居合わせた誰が理解しただろう。

 その時、雷鳴とともに、教会の鐘撞き堂が、崩れ落ちたのだ。



to be continued
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