悪魔と踊れ 後
今日はあの青年とはまだ会っていない。おそらくは、思っているよりも朝早いのだろう。
嵐のせいで、時間の感覚が、狂っている。
空腹だった。
暇でもある。
沈黙の行で、慣れているとはいえ、やはり、ここが俗世であるという気のゆるみがあった。
あれがあってから、部屋は変えてもらっていた。
錯覚とはいえ、あんなことがあった廊下に部屋が面しているというのは、いい気持ちではないからだ。
司祭は、部屋を出た。
はたりと波打つタピスリーに全身が震えたが、タピスリーはただ、隙間風に煽られただけなのか、ただ、揺らめくだけだった。
全ては、自分の、思い込みなのか。
錯覚なのか。
顎に手を当てて考える。
魔女を裁くことに負い目など感じはしなかったが。
だが。
ふとそらせた視線の先に、何くれと世話を焼いてくれている青年がいた。
交差する廊下を、どこかに向かっている。
自分以外の存在に、司祭の全身が、弛緩した。
「待ってくれ」
暇なら、相手をしてくれないか。
なに、話し相手でいいのだ。
そう言いかけて、司祭は、口を閉じた。
青年は、自分には気づいていない。
何処へ行くのだろう。
興味を引かれて、司祭は、郁也の後をつけたのだ。
ほとほとと、扉をノックする音に、室内を満たしていた音が止まった。
「どなたですかな」
しわがれた声が、誰何する。
「オレです。入ってもいいですか」
「どうぞ」
促されて、郁也が扉を開けた。
窓を締め切り、琥珀色の明りだけが灯った室内で、三人の老婆が糸を紡ぎ、糸を染め、布を織っていた。
カラカラと紡ぎ車がふたたび回りはじめる。
機織りの軽やかな音。
軽く、リズミカルな音が、石造りの部屋に、小気味よく響く。
桶の中で赤く染め上げられた糸が、瞬く間に乾き、紡がれてゆく。
赤一色のはずの糸が紡がれると、さまざまな色へと変化してゆくのは、まさに、人間業ではない。その不思議な縦糸と横糸とが絡みあって、一枚のタピスリーとなろうとしている。その、本来なら気の遠くなるような作業が、皺深い老婆の手にかかれば、幾倍もの速さで図柄を描き上げてゆく。
生贄のアンドロメダ姫が、やがてタピスリーとして現われた。
「まだ、終わらないんですか」
郁也の問いに、
「もうしばらくじゃよ」
「若い者はせっかちじゃの」
「あとしばらくの辛抱じゃ」
しわがれた笑い声が、室内に満ちた。
「それ。この桶の染料がすべて使いきれれば、若さまたちの望みはほぼかなったも同然じゃろう」
「あの人間は、ずいぶんと同胞の血を流してきたようじゃからな。ワシらにしても、使い出がありすぎじゃわい」
「ほんにな。騎士でもあるまいに」
「戦でもあるまいに」
「聖職者を名乗って、この血の量とはな」
「この恨みの量とはな」
「この、涙の量とはな」
けらけらと、楽しげに笑う老婆たちの影が、石積みの壁に妖怪じみた絵を描く。
「あの人間は、まともに地獄にも行けまいて」
「行けんなぁ」
「行けん行けん」
「地獄の鬼どもも、扱いに困ろうて」
「このごろではそんなやからが多すぎるとも聞くがの」
「おお。聞いたわ聞いたわ」
けらけらけらけら。
老婆たちは笑いながらも手を休めることがない。
桶の中の赤い液体が、紡がれゆく長い糸が、絡み合い織られゆく布が、か細い悲鳴を上げ続ける。生贄のアンドロメダ姫が、血の涙を流し、甲高い悲鳴をあげるのを、その場に立ち尽くす郁也は聞いていた。
「タピスリーができたってさ」
はじめの頬を撫でていた高遠が、郁也のことばに振り返る。
「いったいいつがきたら、全部揃うんだ」
苛々しながら、アンドロメダ姫のタピスリーを広げて見せる。
「いないと思っていたら、彼女たちのところにいたのですね」
受け取りながら、高遠が独り語ちた。
青い波。陽射しきらめく空。人間の都合など関係ないとばかりのきらめきのなかで、半裸の姫が、岩肌に縛められている。やがて救いが現われることなど知らないのだろう。うなだれた頬に、閉じた瞼に、絶望のかげりが宿っている。
「あいかわらず、彼女たちの手はみごとなものですね」
ずしりと重いタピスリーが、高遠の腕の中で、かすかに波打つ。
「最後の一枚は、最後の犠牲者のもの。その恨みも絶望も、生々しいかぎりでしょうから」
恬淡と、高遠がつぶやいた。
「まだなのかよ」
まだか。
郁也の全身が震えた。
「まだですけれどね。彼女たちがそう言いませんでしたか? 残念ながら、はじめが救われるのも、君が救われるのも、まだ先のようですね」
ふたりの視線がはじめに向けられた。
はじめはただ眠っている。
稚いばかりの寝顔は、どんな夢を見ているのか、穏やかなものだ。
「たぶん、はじめはオレと違って優しいから………だから、目覚めないんだろう」
ポツリと零れ落ちた一言に、高遠が郁也を見た。
「今更、後悔、ですか?」
「違う。後悔なんか……していない。ただ…………ただ、ほんの少しナーバスになっちまってるだけだ」
自分で、この道を選んだことを、後悔はしていない。それでも、違う道があったのだと、限りなく後悔に近い感情が、はじめを見ていて脳裏を過ぎったのも確かだった。
「君も、充分に優しいと思いますけどね」
「オレ? オレは、ただの弱虫だよ。はじめは復讐なんか望んでない。ただ与えられた死を、それがどんなに酷いものでも、受け入れたんだ。けど、オレには、それが出来なかった。だから、今、オレは、ここにこうしているんだ………あんたの親父に魂を売り渡してまで」
「自分だけのためじゃないでしょう。家族のためにも、許せなかった。だから、父に、すべてを渡すと、誓った。違いますか?」
「そうだ………けど」
「それでいいと思いますけどね。あなたの家族も、最後の一人も、他の者たちも。苦しみつづけているじゃないですか。今もね。彼らの苦痛は、彼らを害したものの痛みでしか癒されませんよ」
昔、どこかの誰かが言いましたっけね。
右の頬を打たれれば、左の頬も出しなさい――と。
打たれた痛みは、その本人にしかわかりませんよ。
だから、別の誰かは、目には目を、歯には歯を――――と言ったのでしょうけど。
けれども、それだって、被害者にとっては、生ぬるい――と、苛立つことでしかないのでしょう。
「ね」
琥珀色の眸が、笑みをかたちづくる。
赤いくちびるが、持ち上がる。
美しい微笑みに、郁也の背筋が、逆毛立った。
なにかがおかしい。
いや。
すべてが、おかしいのだ。
終わりのない嵐。
立派な城。
美貌の城主。
家令らしい若者。
そうして、城中を埋め尽くすかの、おびただしいタピスリー。
これらを織っているのが、若者が入っていった部屋の主なのだろうか。紡ぎ車の音や、機織の音に混じって、しわがれた笑い声が、聞こえていた。
神話に登場する獣たちの目が、自分を見ているような気がして、眠れない。
すばらしい味のワインを再び取り上げる。浴びるようにして、司教は、飲んだ。
酔いが、眠りを導いてくれることを祈りながら。
しかし―――――
「うわあっ」
襲い掛かる悪魔に、飛び起きた。
薄暗い室内は、しんと、冷たい空気に満ちている。
「ふう」
流れる冷汗を拭ったとき、さわさわと、ひそひそと、ささやき交わす声が耳に突いた。
楽しげではない、不安を煽るような、そんな声音だ。
「だれだっ」
司教の声に、ぴたりと、止まる。
辺りを見回しても、誰もいない。
暗がりに慣れた目に映るのは、壁を覆う、タピスリーの、影。
脳裏を過ぎるのは、この間の光景。
ぞくりと、後頭部が逆毛立った。
こんな城にはいられない。
そう思うのに、なぜか、出てゆこうとする意思が、挫けるのだ。
嵐――だけが、理由ではない。
しかし、なにが、こんなにも、自分を押しとどめようとするのか。
意識が冴えて、寒気に震えた。
暖炉の火が、消えかけている。
薪を足さなければ。
ベッドから降りた足元が、べちゃりと濡れている。
雨漏りなどしようはずがない、堅牢な城の一室だというのに。
見下ろす視線の先、消えかけた炎に赤黒く光を弾く床が生々しい。
そう見えただけで、全身に鳥肌が立った。
奥歯を噛み締める。
震えるからだを抱きしめて、一歩進んだ。
これは、幻覚なのだ。
自分は、神に仕えるもの。
これは、試しなのだ。
うろたえてはいけない。
けれど、いったい、どっちの試しなのだろうか。
自分は、神に仕えるもの。
思う心の片隅で、神の試しか悪魔の試しか、疑心がわきあがる。
震える手で火掻き棒を取り上げた。
今にも、暖炉のどこかから、火に焼け爛れたなにかが出てきそうな気がしてならない。
気の迷いだ。
しかし――――
ドクンドクンと、心臓が痛いくらいに、鼓動を刻む。
耳鳴りが、上下の感覚を乱すような、錯覚があった。
火掻き棒を暖炉に差し込んだ瞬間、積み上げられていた薪が、突然、音をたてて崩れた。
ひときわ大きく炎が揺らめき、そうして、室内は、完全な闇に閉ざされた。
「うわあぁっ!」
「うわっ」
叫びながらまろび出てきた司祭を避けるまもなく、郁也はしたたかに背中を壁にぶつけた。
「いってぇ…………」
後頭部をさすりながら、ゆっくりと立ち上がる。
気がつけば、足元で蹲っている司祭が、小刻みに震えている。
郁也の口端が、ひきつるように震えた。
このまま足蹴にしてやれば、どんなに…………。
ふるふると、頭を横に振る。
「司祭さま。どうなさいました」
しゃがんで肩に手をかけると、顔を持ち上げた。
「あ、あ、ええ、あなたですか」
司祭の怯えたさまに、どうしても笑いそうになる自分を律しながら、郁也は、手を差し出した。
「どうぞ」
「すみません」
「まだ、夜は明けませんよ。お部屋に戻られて、おやすみください」
扉を開けようとする郁也の手に手をかけて、
「いや。部屋を、部屋を変えてほしい」
と、縋りつかんばかりである。
「また、ですか?」
ほんの少しだけ呆れたふうに、郁也は、司祭を見下ろした。
おそらく、タピスリーにこめられた魂たちが、これ幸いと司祭に襲い掛かったのだろう。
溜息をつきながら、
「わ、悪いと思ってはおるのですが」
いつもの尊大な雰囲気が嘘のような司祭に、
「明日では、いけませんか」
半分は本音である。誰が、夜の夜中に部屋を整えたいものか。
「どこでも結構です」
そうまで言われては、突き放すわけにもいかないだろう。お楽しみはまだまだ後のことなのだから。
「とりあえず、今夜は私の部屋をお使いください」
ベッドを使わすくらいなら、問題は起きないだろうし。
郁也は、司祭を、階段下の自室へと案内した。
「どうしました」
溜息をついた郁也に、高遠が、声をかけた。
どこか、笑いをにじませたような声に、
「意地が悪いよな」
ベッドの上に上半身を起こしたままで、郁也がじろりと見上げる。
「どうぞ。蜂蜜とレモンを入れておきましたよ」
「王子さま御手ずから、ありがとうございます」
恭しく額の前に持ち上げる。
「どういたしまして。未来の母上には、孝行いたしますよ」
喉に送ろうとしていたワインが、気管に逸れた。
ひとしきり咳き込んで、郁也が涙目を擦った。
「な、んっつーことを」
つぶやくと、
「昨夜は、父上がお見えのようでしたけど」
よっぽど、君のことが心配なんですねぇ。
「わるかったな」
「なにがあったんです」
突然、高遠のまとうものが、真剣なものへと変化した。
琥珀の眸が、濃さを増す。
とろりとした黄金のようなまなざしは、あまりに非人間的過ぎて、後頭部の髪が逆毛立つ。
「……タピスリーが、司教を襲ったらしいんだ。それで、部屋を変えてくれっていうから」
郁也は肩を落とした。
「部屋くらいかまわないだろって思ったんだけどさ」
「ああ……そういうことですか」
クスリとひとつ笑いをこぼすと、
「父上も、嫉妬深いようですね」
「なんでよ。オレは、悪魔に魂を売り渡したんだ。なのに、なんで、あんたもあんたの親父も、別の意味にとるんだよ」
郁也はこめかみを押さえた。
「でも、それだけじゃなかったんでしょう?」
悪戯そうに言われて、もはや何度目かもわからない溜息をついた。
まさかとは思うが、あの悪魔もこの悪魔も、自分の行動を監視してでもいるのだろうか。
昨夜、自室に案内してすぐに司教の部屋に行こうと思っていたのだが。
『すみませんが、手を離していただけませんか』
司教は首を振って、郁也の上着を離してはくれない。
『頼みますから』
『いやだ』
聞き分けのない子供のような力に、郁也は適わなかった。
押し倒され、抱きしめられ、吐息が耳を掠める体勢に、郁也は焦った。
オレのほうが、厭にきまってるだろう。
魂を売った相手に、そういう行為をほのめかされてはいるものの、はっきり言って、郁也自身にそういう趣味はないのだ。
もがけばもがくだけ、溺れた人間がなにかにしがみつこうとするように、必死になってすがりついてくる。
クソッ。
こんなこと知られたら。
あの男が自分に言ったことばが、脳裏を過ぎった。
からだを自分以外に触れさせるなと。
自分のものなのだと。
肝に銘じておけ―――――と。
冷たい汗が、郁也の背中を滑り落ちる。
なんで、引き剥がせないんだ。
躍起になれば躍起になるほど、まるで蛭のような執拗さで、しがみついてくる。
神を信じているんじゃないのか。
神の僕なのだろうがっ!
ぎゅうぎゅうと絡み付いてくる感触に、怖気が立つ。
『やめっ』
司教相手の仮面が、剥がれ落ちそうになったその刹那だった。
大きな音をたてて、木製の窓が、開いた。
司教が、ひときわ大きな悲鳴を上げて、郁也を放した。
雨が吹き込み、風がはいってくる。
突然の吹き込みに、しかし、はかないはずの蝋燭の炎は、はためくだけで、消えずに燃えさかっていた。
窓に近づいた郁也は、背後に、あの気配を感じて立ちすくんだ。
何で来るんだ。
しかも、こんなタイミングで現われたりしたら、司教にばれたら、万事休すじゃないか。
恐怖よりも、腹立たしさが勝った。
振り返ると、案の定、そこには、あの存在が着衣をはためかせて立っていた。
彫の深い面を、陰影が厳しいものに飾り立てている。
ガラガラと、雷鳴が、轟いた。
幾条もの雷光が、夜空を引き裂く。
どこかに落ちた気配が城を震わせた。
きつい視線が、郁也に据えられ、微塵も動かない。
近づいてくる男に、郁也が、後退さる。
これまでに感じたことがないほどの恐怖に、一歩が、心もとなかった。
頭から、司教のことなど、消えていた。
ただ、視線を逸らせれば最後だと。それだけが、頭を占めていたのだ。
どうしようもなかった。
男の怒りに、なすすべもなく、郁也は、摘み取られ、毟られ、散らされたのだ。
「君に関しては、父上も、結構、我慢がきかないのですね」
「おかげで、動けやしない」
高遠相手だと、片意地張らずにいられる。
「いいきっかけですよ。司教は、別のものに任せましたから」
郁也が肩を竦めた。
「落ち着かないなら、はじめの世話をしますか」
「あんた以外がはじめに触って、いいのか?」
クスクスと、高遠が笑った。
「君は、はじめに不埒な感情を抱いてはいませんからね」
「あっ、あたりまえだろうっ!」
なんで、弟に。
はじめと自分は、双子なのだ。
「では、すみませんが、お願いしましょう」
そう言うと、高遠は、郁也を残して、部屋を出て行った。
郁也という名前の青年を探していた。
体調を崩したとかいう話で、彼と違う人間が食事を運んできた。
そっけない態度で、食事を置くと、すぐに部屋から出て行った。
食事は相変わらず上等なものだったが、味も何もわからなかった。
郁也に一緒にいて欲しかった。
そうすれば、不安も、恐怖も、いなせる気がした。
胸元のクルスを手繰り寄せながら、きょときょとと、視線をさまよわせる。
恐ろしいばかりのタピスリーを壁から引き剥がしてしまいたい衝動に駆られる。しかし、近づくのすら、厭わしかった。
みごとな城だ。
しかし、陰気な城だ。
陰気で、不穏な、城。
それは、城主にも言えた。
あまりの美貌に、恐怖を覚える。
赤いくちびるが紡ぐのは、ここちよい言葉だった。
喉の奥で鈴が転がるような笑い声もまた。
しかし、ふと気がつけば、その琥珀のまなざしは、凍えた月のように冴え冴えとして、非人間的だった。
ひとを人として見てはいない。
どこか、自分を蔑んでいる。
後頭部が逆毛立つような感覚に、城主との対話が苦痛になった。
早く嵐がやめばいいのだ。
そうすれば、ここから出て行ける。
窓を開けて、雨風に、溜息をついた。
時間の感覚はすでにない。
今が朝なのか昼なのか、夜なのか、もはやわからなかった。
はためくタピスリーに、血の気が引く。
怖い。
司教は郁也を探す足を速めた。
「ちょっ、ちょっとまってくれっ」
郁也の声には、明らかに狼狽と恐怖とが含まれている。
「なんでっ。事が終わるまで好きにしろっていったの、あんたじゃないかっ」
「あれのやり方は、悠長すぎる」
いいかげん、待つのも飽きた。
きっかけを作ってやろう。
「なんのっ」
くつくつと喉の奥で噛み殺す笑い声。
「ま、まだ痛いって」
焦った声が、己の窮状を訴える。
「オ、オレを殺す気かっ!」
甲高い悲鳴が短く響き、布を裂く音が鋭く空気をかき乱した。
黒い髪黒い瞳の壮年の男が、郁也を組み敷く。
肉付きの薄いからだが、赤く染まる。
首の後ろで褐色の髪を束ねている赤い布がほどけて落ちた。
それは、室内を照らす炎の色なのか、それとも、羞恥の色なのだろうか。
司教は、薄く開いたドアの隙間から、郁也が見知らぬ男に犯される場面を見ていた。
郁也の肌は絹よりもすら滑らかそうに、司教の脳裏に刻み込まれた。
まがうことなき劣情が司教の腰骨をとろとろと焙っていた。
滴り落ちる水滴の音がやむ。
カラカラと回る糸車から音が消えた。
織機のたてる音がやんだ。
「おお」
「おお」
「おお」
喚起の音色が混じる三つのしわがれた声が、やがて高らかに王子の名を呼ばわった。
ぼんやりと目を開けた。
うっすらと光る室内は、見たことがないくらい、きれいだった。
信じられなくて、目を擦る。
白と金とやわらかな色調。
花のいい匂いがする。
そうして。
「……………」
自分の手を握り目を閉じている青年。
そのつややかな黒髪に、整いすぎて見える白皙に、鼓動がひとつ大きく打った。
「た……かとう」
渇いた喉が、引き攣れて痛い。
驚いたように自分を見下ろす、琥珀の眸が、まるで泣きそうに、細められた。
「はじめ」
甘く響く、低い声。
とても懐かしく思えた。
涙が出そうなくらい懐かしくてたまらなくなる。
一目で恋に落ちた相手が、そこにいる。
恋に落ちて、そうして、すぐ、離れなければならなかった、相手だった。
「なんで? オレ」
高遠に助けられて上半身を起こしたはじめは、差し出されたコップの水がとても美味しく感じられて、貪るように、飲み干した。
優しく笑まれて、はじめの頬が赤く染まる。額を合わされて、頭を撫でられた。そのままもう一度、ベッドに横たえられると、すぐに睡魔が襲ってきた。とろとろと瞼が下がる。
「今しばらく眠っていてください。どうやら、準備はすべて整ったようです」
静かにつぶやく高遠の瞳には、さっきまでのとろけるようなやわらかな光は宿っていなかった。
「い、いやだぁっ」
感極まった声と濡れた音に、司教の息が荒くなる。
目を閉じることすら出来なかった。
乾いたくちびるを司教が舌で湿らせたとき、男の下になっていた郁也の体勢が変えられた。
男の上になった刹那、欲を煽る短い悲鳴が、郁也の喉からほとばしった。
赤く染まった象牙色の背が弓なりに撓る。
そのくぼみに、かすかな記憶を引っかくものを、司教は見出した。
赤く禍々しい痣。
その、こうもりの羽の形をした烙印を見た瞬間、
「うおっ」
司教は叫んでいた。
口を押さえても今更である。
抜けた腰が、床を打つ。
痛みなど感じる余裕もありはしなかった。
動きを止めた二人の瞳が、司教に向けられていたのだ。
濡れた褐色の瞳が、たちまちのうちに凝固する。そこにたたえられた感情が羞恥などではなく、紛れもない憎悪であることを、司教は怯えたままで見上げていた。
漆黒の瞳から、たちまちのうちに、艶冶なまでの熱が消滅する。冷酷なまでの冷ややかさがとって代わるのを、司教はただ見ているだけだった。
司教のからだが、小刻みに震える。
ずくずくと、冷たい汗が、全身をしとどに濡らす。
あれと同じ烙印を、何十年も前に見た記憶があった。
あれと同じ烙印を同じ位置に持つ少年を、自分がどうしたのか。
まざまざと思い出す。
屈辱と、それよりも勝る、壮絶なまでの恐怖の記憶が、司教の脳裏を過ぎり、彼の動きを縛めた。
司教の震えがひときわ大きくなった。
立ち上がろうとして、力の入らない足が、自分自身を裏切る。
尻でいざるものの、すぐに壁にぶつかった。
するりするりと、タピスリーが次々と壁から滑り落ち、床にとぐろを巻く。
しかし、ふたりから視線をはがすことも出来ずにいる司教は、それに気づいてすらいなかった。
人間ではない。
この黒い目の男は、人間ではない。
では、何者なのか。
色鮮やかなタピスリーが、まるで氷が解けるかのようにとろけ、赤い溜まりをつくってゆく。
ぴちゃり。
ぬりゃり。
水音が、司教を取り巻く。
だらしなく投げ出されたままの足を、赤い液体が、ぬるりと、捕らえた。
「みごとなものです。とても」
矯めつ眇めつする高遠の手の中には、老婆たちが織り上げた最後のタピスリーがあった。
それには何の絵柄も織り込まれてはいない。
ただ、赤黒いばかりの布だった。
「まだ、なにが起きたのか理解しておらんらしゅうてな」
「そうじゃな。何の図柄も、織り出せなんだ」
「他の色には染め上げられなんだ」
「さすがですよ。最後の作品にこれ以上ふさわしいものは、ありません」
にっこりと笑う高遠に、皺深い老婆たちの頬がかすかに染まった。
ふと、高遠の表情が、空白になった。
「父上のおいでのようですね」
よほど郁也がお気に召されたようだ。
高遠のつぶやきに、老婆たちの顔が強張りつく。
「これ以上悠長に構えていては、どうやら父上の逆鱗に触れそうです。そろそろ最後の仕上げと行きましょう」
そう言うと、高遠はその場から姿を消した。
後には、三人の老婆たちが残された。
悲鳴がくちからほとばしる。
逃げる先々に、タピスリーが溶け崩れ、赤い液体へと変貌を遂げる。
司教を包み込むのは、怨嗟の声。呪の声。苦痛を訴える、あまたの、声。
生臭い液体が、小さな手となって、司教を捕らえようとする。
それらを引き千切り振り払い、司教は、城館の奥へとただ闇雲に走った。
「何事です」
聾がわしい音を立ててまろぶように駆け込んできた司教を、高遠が見下ろしている。
城主の居間に通じる控えの間だった。
穏やかそうな琥珀のまなざしに、司教の緊張が、少しばかりゆるくなる。
「た、助けて……」
「いったいどうなさったのです。お偉い司教さまらしくありませんよ」
言葉に含まれるかすかな毒にも気づかず、司教は、高遠の着衣の裾を握り締めた。
「あ、あ、あああああ」
「私などに助けを求めるより、あなたの神に助けを求められてはいかがです」
あざけるような言葉にも、司教は気づかなかった。
ただ、きつく握り締めたままで、震えるばかりである。
「水でも飲めば落ち着くでしょう」
差し出されたコップを受け取り飲み干した。少しは落ち着いたらしく、司教はようやく立ち上がる。
「あ、あなたの家礼は、魔女ですぞ」
「魔女ですか?」
「笑い事ではありません」
司教がいきり立てば立つほど、高遠は笑いを深くしてゆく。
「処刑しなければ」
ついには、堪えきれないとばかりに、声を上げて、笑った。
「ご城主どの?」
「処刑と言われても困るのですよ」
肩を竦める。
ふと気がつけば、いつの間にか、背後にひとの気配があった。
振り向いた司教は、そこに、
「ひっ」
「郁也。父上が申し訳ありません」
幾分か青ざめた表情を赤く染めて、郁也が肩を竦めた。
逃げようとする司教の腕を掴み、顔を覗き込む。
「まだ、懲りてないんだな」
「?」
目を白黒させる司教に顔を近づけて、
「あなたの都合で処刑された者たちが、どれほどの苦痛に嘆きつづけているのか、知らないままというのは、罪なことですよ」
高遠がささやいた。
「眠れないと泣くんだ」
郁也が付け加える。
「痛いと、悲鳴を上げるのです」
「無実だと」
「魔女などではないと」
「熱いと」
「苦しいと」
「助けてと」
「自分たちをこんな目に合わせたものに、罰をと」
ふたりが交互に言葉にするたびに、ほろりとタピスリーが解け崩れる。
赤黒い血だまりが、少しずつかさを増してゆく。
ひたひたとかさを増して、驚愕に逃げることすら忘れた司教を包み込んでゆく。
「た、あ、たすけてくれっ」
ねっとりと絡みつく赤い液体にともすれば溺れそうになりながら、司教が叫ぶ。
「オレにしたみたいに、足を砕いて、目を刳り貫いてやろうか」
それから、鞭打ちか。
死ぬまで鞭で打たれたんだ。
それとも、妹にしたみたいに、骨が砕けるまでからだを伸ばしてやろうか。
蛇のように長い半透明の影が、うっすらと現われる。
砕いたガラスの刃の上を馬で引っ張ってやってもいい。
血まみれの影が密やかに現われた。
車輪に括りつけてもな。
いびつに歪んだ影が現われた。
あんたが手を変え品を変えした拷問の数だけ、それが、どんだけ苦しくて痛いか。あんたに教えてやりたいんだ。
みんなそうさ。
郁也が一言言うたびに、半透明の人影が姿を現し、その濁ったようなまなざしで、司教を無表情に睨めつける。
みんな、あんたにされたことがどれだけ苦しいことだったか、あんたに知って欲しいんだ。
味わって、苦しんで、それでも、狂って欲しくはないんだよ。
狂ったら、わからなくなるからな。
死にそうになったら、生き返らせてくれるって、高遠が言うんだ。
だから、大丈夫。
死ぬなんて怖がらなくていいんだ。
正気のままで、味わい尽くしてくれよ。
どれだけの時間がかかるか、オレにはわからないけど。
そうしてくれたら、みんな、眠れるって言うんだ。
安らかに、眠りにつけるって。
「わ、わたしが、手を下したわけじゃっ」
「同じことだ。あんたが、魔女だといわなければ、拷問にかけさえしなければ、オレは、オレたちは、誰も、こんな目にはあわなかった」
だから、おねがいだよ。
強請るようなまなざしと声音とに、司教の背中が逆毛立った。
「い、いやだっ」
魂消るような絶叫が司教の口からほとばしる。
「高遠?」
突然眠りから追い出された。
ベッドから降りようとして、足に力が入らないことに気づいた。
「な、なんだ、これ」
椅子に縋って立ち上がり、はじめは一歩一歩ゆっくりと進んだ。
ひとの気配を、ドアの向こうに感じていた。
かなりな時間をかけてドアを二つ開けたはじめが見たものは、たくさんのうごめく影だった。
地響きを立てるような背筋が凍りつきそうになるような呻き声が、その、たくさんの半ば透けたような影から発せられている。
その中にあってなによりも明瞭なふたつの人影に、はじめは、近づいていった。
「はじめ」
最初に気づいたのは、高遠だった。
静かな声に惹かれるようにして視線を声のほうへとそらせた郁也の褐色のまなざしが、大きく見開かれた。
はじめが高遠に抱きしめられている。
うっとりと目を瞑り、全身を預けている。
「はじめ…………」
安心しきった弟のようすに、郁也の復讐の快美感に酔っていた心が現実へと立ち返る。
後は、家族や仲間の霊に任せればいい。
彼らはこれで、安息を得るだろう。
すべての苦痛を司教に肩代わりさせ、そうして、安らかに消えてゆくことが出来る。
しかし、自分はどうなのだろう。
安心しきって高遠に抱きしめられているはじめに、郁也は密やかな羨望を覚えずにはいられない。
愛し合っているのが傍目にもわかる。
何故ともわからない涙が、郁也の頬を流れ落ちた。
「なにを泣くことがある」
気配もなく背後に現われた魔王に肩を抱かれた。
「今更後悔か」
「違うっ。後悔なんかしてない」
そう。
後悔はしていない。
恨みを晴らすことが出来たのだ。
後は、契約どおり、魔王にすべてを差し出すだけだ。
郁也は振り返った。
「オレの全部をあんたにやる」
見上げた先で、黒いまなざしが、ほころんだような気がした。
おわり
start 12:23 2007 10 14
up 16:59 2008 08 16
◇言い訳◇
こ、これで終わりって、大丈夫でしょうか。
中途半端じゃないといいのですが。
しかし、最近の魚里のスタンスが丸わかりな話ですよね。
高x金は甘々。昇x浅は、どっかよじれているという。う〜ん。ともあれ、十ヶ月近くかかったもののどうにか完成してホッとしてます。
少しでも楽しんでいただけると、嬉しいです。
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