夜に香る星々の宴




「これ、弾いてみる?」
 ピアノを凝視している年長の少年の背中を、はじめが明るく、押した。
 昨日の吹雪は、朝には、輝く白銀の世界を残して、去っていた。
 昨夜の、現実とは到底思えない光景を、大人も子供も、頭の中で整理して、翌日を迎えていた。
 少年は、ロイのものらしい大きめのセーターとジーンズ姿で、食卓に現れた。
 昨夜の弱りきっていたようすは、嘘のようで、ごく自然に歩いている。
 テーブルについた少年は、ホムンクルス――ひとならざるものだと聞いていても、どこにも不自然なところはない。
 ただの、十六、七ほどの少年でしかない。
「………」
 はじめとピアノとを見比べて、少年が、はじめて口を開いた。
「チェンバロ?」
「ピアノだよ」
 はじめのことばに、
「ピアノもチェンバロも似たようなものだと思いますよ。これが、CツェーDEFGABデー・エー・エフ・ゲー・アー・ベー――わかりますか?」
 遙一の指が鍵盤の上を一オクターブだけ駆け抜ける。
 所在無げで不安そうに怯えている少年に、はじめと遙一とが手を差し伸べる。
 そんな彼らを、小司馬が、離れたところから見ている。
(多分、彼は、ホムンクルスを見張ってるのだと思うんですけどね)
 遙一が、そっと、肩を竦めた。
 少年の心許なさげなようすは、はじめでなくても、憐れに思ってしまう。
 ロイとジャン、それに、昇紘は、別の部屋にいる。昇紘が、ジャンの診断をしているはずである。
 ロイの願いは、ジャンの、治癒以外にない。
 複雑繊細な神経系に関することなだけに、昇紘も、慎重にならざるをえないのだろう。
 本当は、遙一も、術を施すところをみてみたい気があるのだ。が、外科医療と錬金術的措置の違いが昨夜のようなものであるのなら、外科医への志が音をたてて崩れそうで、やめたほうがいいと警鐘が鳴っているのだった。

 食事を終えた後も手持ち無沙汰そうで戸惑っている風情の少年を、ふたりは居間に案内したのだ。
 少年の表情が、ピアノを見た途端、少しほころんだような気がして、それで、はじめは、促してみたのだった。

 ポンと、キィが、音をたてる。
 つづけざまに少年がキィを叩く。
 主旋律だけのそれに、オヤ? ―――と、はじめと遙一とが、顔を見交わした。
「それ、夜に香る星々の宴だね」
 昨夜、昇紘が弾いてた曲である。
「題はつけなかった。オレが作った曲だ」
 ふたりの目が、見開かれる。
「作曲できるんだ。凄いね。ぼく、音楽って、駄目なんだよな」
「音譜見ただけで、す〜ぐ眠っちゃうんですよね、はじめくんは」
「どうせっ! ぼくはどうせ高遠みたく器用じゃないもん」
「外科医の卵が不器用ではちょっと問題ありますからね」
 これでも努力はしているんですよ――と、はじめの膨らませた頬を、高遠の人差し指が、つつく。
「作曲できたのはこれだけ。オレにできるのは、所詮楽器を弾くくらいだ。そんなことなら、オートマタ自動人形にもできる。どうせ、オレなんか、オルゴールの小鳥と変わらないんだ」
「そんなことないよっ」
「そうですよ」
 寂しげで投げやりな少年のつぶやきに、ふたりはおもむろに、反論していた。
「あなたは、本当に、生きているじゃないですか」
「そうだよ。ちゃんと、生きてる。自分で考えてるし、一曲だけだって言ったって、あんな綺麗な曲を作ったんだよ。何で、そんな淋しいこと言うんだよ」
「だって、オレは、人間じゃない。あいつが気まぐれで創った、ホムンクルスなんだ」
 少年の下瞼にたまった涙が、耐え切れずに、転がり落ちる。
「どこも、ぼくらと変わらない」
「死なないし、成長しないのに?」
「そんなこと。羨ましがる人間が掃いて捨てるくらいいますよ」
「不老不死って、憧れちゃうもんね」
「おや、はじめくんにそんな願いがあったんですか? 知りませんでしたよ」
「ちがうって! 時々かあさんが、鏡見て溜め息ついてるからさ。皺が増えたとか、張りがなくなったとか、白髪ができたーとかさ」
 おどけるはじめに、遙一が笑う。
「そんなこと、個性だって思えばいいんだ」
 個性?
 少年が、思いもよらぬことばを聞いたと、目を見開いた。
「でも………物珍しそうに、ずっと見られてた。神の手で創られたものじゃないって理由で、変な目で見られてたんだ」
「だって、ぼくは気になんないもん。高遠もだろ?」
「ええ。まぁ、気にはなりませんね」
「なんで………」
 あっけらかんと言い切るふたりに、少年が呆然となる。
「なんでって、ふつうと違うって言うんなら、ぼくと高遠だって、違うって言われてきたからさ」
「そうですね。僕には、はじめくんが現われてくれましたから、あまり気にならなくなりましたけど」
「うん。ぼくも。高遠とともだちになってから、まわりが気にならなくなったよ」
「ともだち?」
「いなかった?」
 しばしの沈黙の後に、少年が、首を縦に振った。
「ひとりもですか?」
「いなかった」
 館から、出ることはなかった。せいぜい、来客を出迎えるくらいだったのだ。珍しそうに近づいてきた者はいた。けれど、しょせん、それは、学術的な見地からとか、見世物を見るような興味本位の視線ばかりでしかなかった。
 そんな視線と目を合わせることが辛くて、少年は、いつだって、ただ、うつむくばかりだったのだ。
 少年がポツリともらしたかつての姿は、はじめと遙一とにも重なるものだった。
「ぼくたちが友達になったげるよ」
「そうですね」
 だから、それは、ふたりの本心からのものだったのだ。
「でも………」
「きらい?」
「いやですか?」
 思いもよらない展開だった。
 視線は、自然、昇紘の秘書だという男に向かう。
 ふたりが口にした“友だち”――ということばは、とてもあったかい気分になれて、嬉しかった。なれたら、どんなにいいだろう。そう、思ってしまう。
   しかし、―――勝手なことをして、告げ口をされたら。
 そんな不安があった。
 男を窺う視線の先に、男の細い目がある。
   こちらを見てにやりと笑うその表情に、背筋が、凍りつくかの錯覚があった。
 それでも、はじめという名前らしい年下の男の子の期待に満ちた瞳を見て、拒絶するのは、難しい。
 遙一という少年の、おそらくは同情だろう視線に、なぜか、不快は感じなかった。
 だから、
「オレなんかでも、いいのかな?」
 そう、口走っていたのだ。
 ふたりと、いろんなゲームをして遊んだ。
 少年は、生まれて初めて、笑ったような気がした。
 視界の隅にいる男は気になった。しかし、初めて得た友だちという存在が、くすぐったくて、あたたかくて、手放したくなかったのだ。
「ほら、そんなところに置いたら、すぐにはじめくんにチェックメイトされちゃいますよ」
 そう遙一に指摘されて、少年は、首を傾げる。
 眉間に皺を寄せるものの、わからない。
「だから、苦手だって」
「じゃあ、代わりましょうか?」
「たのむ」
「あ、せこい!」
 そんなこと言われても……。
 つい、へらりと笑ってしまう。
 ふたりのゲームを見ていて、頭が混乱する。
 何手も先のことなんか、読めない。
 目先のコマの動きで、精一杯なのだ。たいてい、多分向こうはこう打つだろうなぁと思っている通りに、打たれる。予測していても、避ける算段を思いつけないのだ。
 冷め切っている紅茶を飲みながら、ふたりを眺める。
 パチパチと火が燃えている暖炉が、嬉しい。
 あたたかい………。
 昨日までの苦痛が嘘のようだった。
 眠い。
 いつの間にか、少年は、舟をこいでいたらしい。
 ざわざわと、耳をくすぐるようなざわめきに、我に返った。
 数名の男が、居間に入ってくるところだった。
 背中が、引き攣れるかのような錯覚に、顔が、強張る。
 和やかな雰囲気を漂わせているのは、あれは―――――
 目の隅で影になっていた男が、ソファから立ち上がり、支配者に、近づいてゆく。
 なにか耳打ちされ、支配者の視線が、こちらを向いた。
 黒い、闇のような目が、凝然と、据えられる。
 全身が、大きく、震えた。
 自分は、ホムンクルスなのだと、異質なのだと、痛いくらいに、視線ひとつで思い知らされる気がする。
 見たものを石にするという伝説の女神の一瞥を受けたかのように、少年は動くことすら忘れていた。
 と、
「あっ、ハボックさん」
 はじめの声がきっかけとなって、遙一も立ち上がる。ふたりは、彼らのところへと歩いてゆく。
 行こう――と、促されたものの、少年は、動けなかった。
 車椅子に乗っているものの、青年の表情は明るい。おそらくは、成功したのだろう。照れたように、笑っている。隣の、青年の恋人だという男も、晴れやかだ。憂いが取り払われた後の、羨ましいくらい清々しい表情をしている。
 今は昇紘と名乗っている支配者が、なにかを、彼らに話した。そうして、すっと、彼らの輪から離れた。
 昇紘が、近づいてくる。
 少年の手が、ラグの長い毛足を、掻き毟るように握りしめた。
 目の前にしゃがみこんだ昇紘に、少年は、戸惑いを隠せない。
 伸ばされた掌に、思わず、目を閉じ肩を竦めた。
 頬で爆ぜると、そう思った熱は、襲ってこなかった。代わりに、ひんやりと冷たい感触が、頬に触れた。
 ゆっくりと開いた目の前で、昇紘が、うっすらと笑んでいる。
 いつか、生まれ出る前のまどろみの中で見たことがあるような、穏やかなものだった。
「友だちができたそうだな」
 かすかに、うなづく。
「そうか。しばらく、遊んでもらっているといい」
 思いもよらなかったことばにあっけに取られている少年を見下ろし、
「疲れたから、しばらく、眠る」
 そう言って立ち上がった昇紘は、居間から出て行った。
 ―――――記憶にある昇紘は、あんなに穏やかなところなど、なかった。
 かつて、自分の唯一の創造主だと、力任せに自分を支配しようとしていた男の変化に、少年は戸惑わずにいられない。
 泣き叫ぼうと、嫌がろうと、苦痛を訴えても、なにをしても聞き入れてはくれなかった。
 だから、告発した。
 館に宿泊していた、異端審問官に。
 密告したといってもいい。
 それは、裏切りだったのかもしれない。
 けれど、囲い込まれて逃げ場のない自分には、そうするより術がなかったのだ。
 人間ではない自分が、自分の創造主を魔女だと、密告する。それは、皮肉以外ではなかったろう。
 数日後の、阿鼻叫喚を、少年は、覚えている。
 しかし、昇紘は、逃げたのか。
 逃げ切ったのか。
 少年の表情が、なんともいえない色を刷いた。
「どうしたの?」
 はじめの声に、少年は、我に返った。
「飲む?」
 差し出されたコップの中、あたたかそうな褐色の液体に、白いクリームのようなものが螺旋を描いている。
「あ、ありがとう」
 鼻をくすぐるのは、香ばしい匂いだった。
 とろりと甘苦く濃厚な味が、口の中に広がった。
「ココアだよ」
 美味しいだろ。
 そういうのに、
「ああ」
 少年は、呻くように答えていた。

「また来ます」
「またね」
 ふたりの少年が、帰って行く。
 ポーチから見送り、少年は、ふたりが乗った車が門を抜けるのを見届けて、踵を返しかけた。
「あの二人が帰ると、静かになっちまいますね」
「まったくだ」
 この家の主人だという男と、車椅子に乗った男の後につづいていた少年は、ふとポーチから降りた。
「あ、おい、少年」
 金髪の男の声が、聞こえた。
 けれど、家の中に戻りたくない。
 そんな思いが、芽生えたのだ。
 ただ、しばらく、外の空気に触れていたかった。
 ぼんやりと、痛いくらいに冷たい空気にさらされていると、昨夜までのあの苦痛が、嘘のように感じられる。
 永遠に続くと思っていた、あの苦痛。
 救い出してくれたのは、彼、支配者だった。
 あの時から、数百年の時間が流れていると知り、その間捜されていたのだとあの二人に聞かされて、少年は、不思議に思った。
 ただの創造物を、あの男が、捜しつづけていたということが、咄嗟には信じられなかった。
 ―――夜毎に抱き人形のように扱われ、どれだけ泣き喚いたか、しれなかった。
 ―――彼の仲間だという者たちに、見世物のように扱われ、屈辱に、震えた。
 せめて――感情などなければいいのに。そう、思った。
 ただ息をする人形であったなら、どんなにかましだったろう。
 そう思いながら、
 どうして、オレは人間ではないのだろう。
 どうして、オレは生まれてきたのだろう。
 ―――それらの疑問は、恨みへと、変貌を遂げた。
 支配者に直接ぶつけられないままに、心の奥底に、滓のようにたまり、ねっとりとしたタールのように、存在感を忘れさせてはくれなかった。
 タールの有毒物質が、少しずつ、心を、犯していった。
「助けてもらったのに、逃げるつもりか」
 嘲るような声に、心臓が痛いくらいに、弾んだ。
「そんなこと………」
「考えてなかったって?」
 細い目が、少年の目を覗き込む。
「ったく。どこをどう見ても、人間そっくりだな」
 突き放されて雪の中に、尻餅をついた少年を見下ろし、小司馬がつぶやく。
「ただの、ガキだ」
 吐き捨てるようにそう言うと、
「そら。昇紘さまがお目覚めだ」
 少年の腕を掴み、引きずるように、家に戻ってゆく。
「あ、歩ける」
 上腕部を握る手を離そうと藻掻く少年に、
「いんや。逃げられたら困るからな」
 小司馬は、薄いくちびるを、笑いの形に吊り上げた。
「しかし、昇紘さまもなんで、おまえなんかを創ったのかね」
 小司馬のことばに、少年が、震える。
 そう。

『どうして、オレなんかを創ったんだろう』
 はじめたちと一緒にいたとき、少年の口からポロリとこぼれたそのことばに、
『そりゃあ、なぁ、たかとー』
 にっこりと笑んだはじめが、高遠を見上げた。
『ですよね』
 ふたりだけで通じ合っているようすに、少年の脳裏にはクエスチョンマークが渦を巻いていた。
 首を傾げた少年に、
『彼だって、淋しいに決まってら』
『ですよね。ずっと、彼は生きつづけてるわけでしょ。で、同族がいないようですし』
『淋しい?』
 思わぬ示唆だった。
『いつも一緒にいてくれる存在が欲しかったんじゃないかなぁ』
『そう思いますけどね』
『いつも、周りには取り巻きがいたけど』
『そんなの、淋しいからじゃん』
『でも、いくら取り巻きがいても、だからこそ、自分が異質だと、強く感じる場合がありますよね』
『前のたかとーみたいだよな』
『君もでしょ、はじめくん』
『ぼくには、取り巻きなんかいなかったやいっ』
 じゃれあう仔猫みたいなふたりを見ていると、そうだったのだろうか――と、思えてくるから不思議だった。

「そら」
と、小司馬は少年を部屋に押し込めると、自分は、どこかへ行ってしまった。
 明るい陽射しに満ちた部屋に、彼の支配者がいる。
 天蓋つきの古めかしいベッドに腰かけて、男が、少年を見ていた。
 着痩せする性質の逞しいからだが、陽射しに美しい陰影を描いている。
 額にかかるほつれ毛を、男が無造作に掻きあげた。
「来い」
と、ことば少なく、少年に、手を差し伸べる。
 ふらふらと、まるで操られるかのような動きで、少年が、男に近づく。
「えっ」
 ベッドの上に押さえつけられて、少年は、血の気が下がって行くような感覚に、襲われていた。
 男の、黒い瞳が、凝然と自分を見下ろしてくる。
 鼓動が、血流が、激しく渦を巻く。
 耳のすぐ奥で、どくんどくんと規則正しく脈打つ音が、うるさくてならない。
 すっと、腕から肩首、頬と、撫であげてきた右手が、前髪を掻きあげた。
「調子の悪いところはないか」
 互いの呼気が頬をくすぐるほど近くで、男が、ささやく。
 痛いほどに脈打つ鼓動のせいで、少年には、うなづくことが精一杯だった。

 数百年ぶりの行為は、少年に少なからぬ負担を課した。
 しかし、痛くてだるかったが、耐えられないほどではない。
 いつも、そうだった。
 どんなにぼろぼろになるまで抱かれても、起き上がれないわけではない。
 それがまるで人間ではないからだと、言われているような気がして、いつも、嫌だった。
 少年は、ベッドの上に上半身を起こして、ぼんやりと、窓から見える景色を眺めていた。
 水音がする。
 昇紘と呼べと、そう言った男が、シャワーを浴びている。
 昔は、終わったあとには使用人が湯桶と湯を運んできたものだった。
 今は、そんな手間は要らないらしい。
 便利になったんだな――そんなことを考えていると、
「郁也」
と、名を呼ばれた。

 長いくちづけの後に、
『郁也』
と呼ばれて、それが自分に向けられているのだと気付くのに、しばらく時間を要した。
 ぼんやりと見上げる先で、
『名前をつけてやる前に、おまえがあんなことをしでかしたからな』
 そう言って、昇紘が、笑った。
『まったく。まさか、異端審問間に告発をするとは』
 面白そうに、昇紘が、笑う。
『ま、おかげで、邪魔なしがらみはすべて切り捨てることができた。感謝している』
 感謝?
 思いもよらないことばに、郁也と名づけられた少年が、目を見開いた。
『ただし。私から逃げたことは、許されることではない』
 おまえは、わたしだけのものだ。
 視線が、鋭くなる。
 黒いまなざしにこめられているものに、思わず逃げを打ちかけて、
『許さないと、そう言っただろう』
 そう言って、昇紘は、再び、噛みつくようなくちづけを落としたのだった。

 思い出と、今との昇紘のギャップに、郁也は、戸惑わずにいられない。
 あんなにも恐ろしかったというのに。
 自分の感情のギャップもまた、郁也を戸惑わせていた。

「え〜と。郁也だったっけな」
「ハボックさん?」
 広い屋敷に、使用人を除けば、今は、ふたりだけである。
 クリスマス休暇明けということで、ロイは、仕事に出かけた。
 当然、昇紘と小司馬も、出かけている。
 することもない郁也は、リビングでぼんやりしていた。
「ちびどもは、昼飯食った後でないと来ないからな。暇だろ」
「タバコ、いいんですか?」
 くわえタバコに、少々声がこもる。
「あ〜。めでたく解禁。と、言いたいとこだけどな。シガーチョコなんだな、これが」
 喰うか? と、胸ポケットから差し出されたのを見れば、たしかに、銀紙でくるりと巻いた、タバコ型のチョコレートだった。
「マスタングさんからのプレゼントですか?」
 銀紙を剥きながら、訊ねると、
「いんにゃ。これは、はじめだよ」
 まったく、可愛い性格してっよなぁ。 と、煙を吹き出すまねをする。
「足は、治ったんですよね」
 温もってやわらかいチョコレートを一口齧って、郁也が、ハボックの車椅子を示した。
「治ってるっつーか、完治するよ」
「?」
「医者にかかってるんでな。突然治りましたじゃ、ちょっと、問題が出そうだろ。だから、少しずつ、麻痺がとれてゆくように、小細工と言うか、なんつーか。えーい。専門用語は、わかんね」
 どうせなら一遍に治してくれりゃーいいのにな。と、ぼやいた。
「明日から、また、リハビリだよ」
 治るってわかってるから、やりがいはあるけどな。
 にやりと笑って、ピアノの蓋を叩く。
「そうだ。おまえさんが、夜に香る星々の宴っつー曲の作者なんだってな。ちびどもが言ってたけど、ピアノ、所望してもいいかい?」
 片目をつぶって見せるハボックに、郁也は、ピアノの蓋を持ち上げていた。

 拍手の音に我に返れば、いつのまにか、はじめと高遠とが暖炉前のラグに寝そべっていた。
 手を振られて、郁也は、ピアノを片付けると、ふたりの寝そべるラグに腰を下ろした。
「ぼくらに、教えてくれなきゃ」
 ほらよ――と、ハボックに手渡されたマグカップを両手にくるんで冷めるのを待っていると、唐突に、はじめがそんなことを言う。
 見下ろすと、ラグの上に起き上がったはじめが胡坐を組んだ。
「そう。教えてくださいね。僕たちは、友だちなんですから」
と、高遠までが、そう言う。
 困った郁也が、ハボックを見上げると、
「名前だよ。名前」
と、片目をつぶって見せた。
「あ………郁也………………」
「郁也」
「どんな字?」
「そういや、東洋風な名前だよな」
 口々に三人が言うのに、
「たしか、こういう字だったと」
 バスルームで、水蒸気に曇った鏡に昇紘が書いて見せた二文字を、郁也は、記憶の中から掻き出した。
 毛足の長いラグの上に、指で、描く。
「いい香がする――って意味だね」
  「そうなのか?」
「馥郁とかおる――なんて、使いますよね」
「ああ、そうか」
 はじめが、手を叩いた。
「どうしました、はじめくん」
「ほら、あの曲」
「夜に香る星々の宴――のことですか?」
「そう! あれって、籍さんがタイトルつけたんだよ」
「どうしてです?」
「え、ほら、あのタイトル自体が、郁也のことを指してんだってば」
「夜に香る星々の宴――ああ、香るってところですね。でも、少し、穿ちすぎではないですか」
「そうかなぁ。ほんとは、籍さん、郁夜ってつけたかったんじゃない」
「それはちょっと、男の名前としたら、字面的に、くどいというか、きれいすぎるでしょう」
「うん。だからさ、開いて、郁也が作った曲のタイトルにしたんじゃないかなって」
「さぁ、そればかりは、籍氏に尋ねないと、わかりませんよ。それに、あの手のひとが、容易たやすく教えてくれるとも思えませんね」
「だよなぁ」
 ふたりの遣り取りを、他人事のように眺めていた郁也は、
「ま、どっちにしても、郁也ってさ、籍さんに、すっごい愛されてるんじゃん」
 そう言ってにぱっと笑った、はじめに、
「え?」
という間の抜けた反応しか返せなかったのだった。
「それは、同感ですね」
 畳み掛けるように、高遠が、付け加える。
「だよなぁ」
 まるで、尻馬に乗るかのように、ハボックまでもが。
 郁也にとって、それは、青天の霹靂だった。
「な、なんで………」
 息を吹き返して、郁也が突っ込むと、
「数百年捜されてたってだけでも、証明には充分だと思うけどな」
 はじめが、腕を組んで、独り語ちるかのように、言う。
「どこかにいるってわかっているなら、まだしも。次元の隙間に落ちたなんて、非日常的な状況で捜すのは、大変なことだと思いますよ」
「それは、そうなんだけど」
「愛だな」
「愛がないとできないって」
「愛ですよ」
 三人三様のことばに、郁也の頭が、今度こそ、真っ白になった。

 愛などと、考えたことはなかった。
 郁也の記憶のほとんどを占めるのは、昇紘だ。
 密閉容器から出された後の記憶を、手繰ってみる。
 愛されている?
 よくわからない。
 確かに、面倒はみてくれた。衣食住に、困りはしなかった。
 読み書き、ことばも、音楽も、教えてくれた。けれど、それは、研究成果の能力を知りたかったからではないのか。
 あの曲――夜に香る星々の宴――を、昇紘のために書き上げ、そうして、演奏して見せた。あれは、自分の創造者にささげる曲だった。ありったけの感謝と、そう、愛情を込めて、あれは、作ったのだ。
 彼のためだけに。
 けれど―――
 昇紘と同じ錬金術師だという者たちの前に、連れ出されて、あちらこちらと矯めつ眇めつされた記憶は、困惑と羞恥と恐怖だ。見知らぬ男に、刃物で切られた痛みを、郁也は忘れられない。生まれてはじめての痛みに泣き叫び怯える自分を、たくさんの顔が、笑って見ていた。斬り落とされて首だけになった自分が救いを求めて見上げた昇紘は、ただ、無表情で、見捨てられた気がしてとても悲しかったのを、覚えている。
 自分など――と、自虐的な思考が芽生えたのは、あの瞬間だったろうか。
 ―――あれから、曲を作ることはできなくなった。
 頭の中に、どんな曲も、湧いてこなくなった。
 多分、昇紘が怖くてならなくなったからだ。
 顔をあわせれば震えて逃げようとする自分を、昇紘が忌々しく思っているのを、感じていた。
 そのまま、無視されてしまえば、もう、彼らの前に出ずにすむと、無表情の昇紘に見られずにすむと、そう思っていた。
 自分など何の価値もないのだと。
 だから、昇紘は、自分を、卑しめるために、抱いたのだと。
 初めて抱かれた日、おまえの価値はそれだけだと――――そう言われた気がした。
 男が、男を抱くのはそれが理由だと、そう思えてならなかった。
 抱かれれば抱かれるだけ、蔑まれている気がしてならなかった。
 だから、消えてしまいたかった。
 すべてを、消してしまいたかったのだ。

 なのに、今更、そんなことを言われても………。

「気付いてなかったのか」
 ハボックの気の抜けたような独白が、「そうなんだって」と返すはじめの声が、郁也の耳に痛かった。
 目の前が、ぐらぐらする。
「まぁ、あのタイプは、自分からは、口にしそうにないですよね。気付かなかったからって気にすることはないですよ」
 助け舟を出してくれたのは、高遠だった。
「あいかわらず、こまっしゃくれてるな」
 にやにやと笑うハボックに、
「まかせて下さい」
 にっこりと、笑い返す。
 そうやって笑うと、高遠は、絶世の美少年になる。
「ことばを惜しんでは、通じるものも通じませんからね。ね、はじめくん」
 まるで、黒みがかった剣咲きの紅薔薇めいていて、見惚れる三人の背中に震えが走った。
 
「お口にあいませんか?」
 静かな声音に、ふと、我に返った。
「え? あ……」
 声の主を振り返れば、この家の執事が、
「あたたかい皿と取り替えてまいりましょうか」
と、言った。
「だいじょうぶ、です」
 ぼんやりしていて、料理に手をつけることを忘れていた。
 慌てて、スプーンを握り、郁也は、冷めたスープを一口啜った。
 昼間あんなことを言われたからだ。
 向い側に座る昇紘に、ふっと、視線が、泳ぐ。
 そうなのだろうか………。
 そんなことがあるのだろうか。
 パンを千切って、口に運ぶ。
 美味しい。
 肉料理を食べている昇紘を、郁也はぼんやりと見ていた。
 マスタングと話しながら、料理を片付けている。
 そんなところは昔から、変わらない。
 頭がいい友だちがふたりとも、それに、ハボックもまた、「おまえは愛されている」と言い切った。
 愛されている――のだろうか?
 切り分けた肉を一口。
 ほろほろと、味の染み込んだ肉が、口の中で解けてゆく。
 美味しい。
 味のように、簡単にわかれば、悩むこともない。
 口の中に残るデザートの甘味を、郁也はコーヒーで流した。

 ラグの上で足を抱えて、郁也は炎を見つめていた。
「昼間のことが気にかかってんのか?」
 ハボックに耳もとでささやかれて、郁也は、なんとなく、赤くなる自分を感じていた。
 悩むのは、そうなら、愛されているのならいいと、そう思っている自分がいるからだ。
 昔、心の中に押し込めた想いが、昼間の三人のことばで、甦っていた。
 感謝と愛情を、最初は、確かに、抱いていた。
 ふらり――と、郁也は、近づいた。
 ピアノの蓋を開けて、郁也は、和音を数個、弾いた。
 頭の中に、染みてゆく。
 そう。
 自分は、昇紘のことが、好きだったのだ。
 一度のまなざしで、あんなにも長く絶望に鎖されるほど、自分を見て欲しかったのに違いない。
 その思いが、指先から滲み出す。
 心のままに、指が紡ぐのは、新しい曲だった。
 まだ、あやふやな思いが、空気を震わせ、メロディを紡ぐ。
 音に心を添わせ、ふと気がつけば、最後の音が、空気に溶けてゆこうとしていた。
 昇紘と、目が合った。
 カッと、こみあげる熱に、郁也が椅子から立ち上がる。
 ソファから立ち上がる昇紘に、郁也が、弾かれたように、逃げ出した。
 無言で、昇紘が、郁也の後を追った。

「籍氏は、いったいどうしたんだ」
 グラスをテーブルから取り上げながら、マスタングが、つぶやく。
「めでたしめでたしってところだと思いますよ。あ、俺にも一杯いただけます?」
 明るい空色の瞳に、マスタングは、理解した。
「ま、今日は、特別だな」
 肩を竦めて、差し出されたグラスに、琥珀の液体をそそいだ。
「数百年かかった恋の成就に」
「新たな恋人たちに」
「乾杯」
 ふたりがグラスを触れ合わせる澄んだ音が、リビングに小さく響いた。



END



from 11:12 2005/12/15
to 12:49 2006/01/09


あとがき
 名前は、無理矢理です。いや、ネタ的に、考えてはいたんですがね。ちょっと無理矢理な意味づけです。自覚ありアリですよ。
 でもって、必死で、愛――を、まくし立てる、三人でした。
 ロ、ロイさん、存在感ないなぁ………。
 小司馬が最後の辺どこにいるのか、記述を入れるタイミングが計れませんでしたxx リビングにいたんですよ。念のため。
 こんなのでも、楽しんでいただけるといいのですが。
 微妙かなぁ…………

◇ 一口メモ ◇
 Q.チョコレートがヨーロッパでふつーに楽しまれるのは、ナポレオン以降だっけ?
 A.最初は飲み物で流通が始まるんだよね。たしか。チョコレートは、F・コルテスが1528年にスペインに持ち帰ったのが最初らしい。で、シナモン、バニラ、砂糖を混ぜた甘い飲み物として、王族やら貴族僧侶階級専用だった。で、まぁ、途中、革命だかなんだかで権力者御用達みたいなブランドになってたチョコレートは姿を消すらしいですね。で、まぁ、今の固形のチョコが現われたのがビクトリア女王の時代ということなので、1800年代。ビクトリア女王の時代と言うあたり、最初はイギリスで固形にされたのだろうか?

 Q.タバコはどうだっけ?
 A.1492年にコロンブスがサンサルバドル島に上陸したとき、アラワク族が、トバゴという管をつかって、タバコをすっているのをみたことからタバコ。1556年にサントドミンゴからスペインへもたらされ、同じ年にフランス人の外交官ジャン・ニコがフランスへ紹介。85年にイギリス人の航海者ドレークがイギリスにもちこみ、イギリス人の探検家ローリーが宮廷にパイプでの喫煙を紹介。タバコはたちまちヨーロッパとロシアにひろまり、17世紀には中国、アフリカ西岸にまでひろまった。
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