暗い森 |
深く暗い森の奥、堅固な結界に守られて、錬金術師の住む館がある。 しかし、森の外の村に暮らすひとびとには、結界があろうとなかろうと関係なかった。そこに住まう錬金術師を恐れ、決して森には近づこうとしなかったからである。 「おそいです」 錬金術師の館である。 落葉樹はすっかり葉を落とし、骨のような幹をさらしている。晩秋の空気に長いことあたっていた伊吹涼は、胴震いをした。 窓の外を眺めながら、涼が独り語ちる。 涼の足元に行儀よく腰を下ろした漆黒の大きな犬が、落日の朱を宿した欝金の瞳で彼を見上げる。細長い尾がゆるやかに揺れて床を叩く音が、静かな室内にかすかに響いていた。無意識にそのごく短毛のしなやかな毛並みを撫でながら、 「今日もひとりかな」 悲しそうな声だった。 西の空は赤く、そう遠くなく宵闇が落ちてくるだろう。 この館の主人である同居人の北斗多一郎は、用があるといって一昨日の朝早くに出かけていった。 本当なら、昨日の夜には帰ってきているはずだった。 「今日も晩御飯、あまっちゃうね」 愛犬を見下ろし、話しかける。 家事一般をほぼ完璧にこなすことができる涼は、多一郎がいないからといって、留守中の食事などに困ることはない。彼が留守でも多一郎の分を作ってしまうのは、いつ彼が戻ってきてもいいようにという、涼の心遣いだった。 涼が多一郎の帰宅を心待ちにするのは、彼の脳裏に刻まれている過去の情景が原因だった。 過去の情景。 それは、どことも知れない場所に、ぽつんとたたずむ幼い彼自身の姿である。 ほかには誰もいない。 それが、涼の物心ついて一番最初の記憶だった。 泣くこともできず、ただ、恐怖と空腹とに苛まれていた。 空腹のあまり、もう、死ぬのかもしれない――――と、漠然と思っていたのを覚えている。 ひとりぼっちで死んでゆく。 それは、ほんとうに、恐ろしくてならないことだった。でも、どんなに怖くてならなくても、つかれきった幼いからだには、泣く力すら残ってはいなかったのだ。 そんな彼に、手を差し伸べてくれたのが、長い白銀の髪に欝金の瞳を持った男だったのだ。 そこまで思い出して、クスリと、涼が笑う。 (ずいぶんと大きくて怖く思えたんだけど………) しかし、多一郎と名乗った男は、あれから二十年近くが過ぎようというのに、少しも姿形が変わらない。 今も、あのころの、ままだ。 二十後半から三十代の青年に見える。 「それは、僕は小さいけれど………」 口にした涼の頬が、朱に染まる。 それは、時々、多一郎が彼をからかうネタであったからだ。 三日前の夜にも、甘い睦言―――ピロウ・トークとして耳元でささやいた多一郎の声を思い出したのだった。 思わず頭を振って追い払う。 甘い記憶は、幸せであっても、落ち着かない。こう、尾てい骨のあたりがもぞもぞと、こそばゆくなるのだ。 はぁ――― ため息がこぼれる。 ピロウ・トークだとしても、からかわれていることに変わりはない。もとより反論ができないのだから、仕方はないのだが。 なぜなら、二十二になってからも、はずかしいことに、独りの夜が恐ろしくてならないのだ。 がらんと寒々しくなる館の空気や独り寝のベッドは、一番最初の記憶に自分を運んでいきそうで、まんじりともできない。 今よりももっとその症状がひどかったころの幼い涼に、留守番の友として多一郎が与えてくれたのが、今傍らで彼を見上げている漆黒の犬だった。この犬がいるから、独りの夜も、眠ることができる。 「さてと、ヴィイ、戸締りを確認しに行く?」 いくら堅固な結界に守られているとはいえ、戸締り用心は留守居の心得その一である。 多一郎と同じ欝金の瞳を持った黒い犬は、優雅に立ち上がり、涼に従った。 突然の目覚めだった。 あたりは漆黒の闇に閉ざされている。 背中が、ぞわりと、恐怖に震えた。 「ヴィ……」 愛犬を呼ぶ声も、かすれている。 多一郎が留守のときだけベッドに上がることが許されている黒い犬を、手で探る。 探らなければならないこと自体が、既に、おかしい。多一郎不在の夜はいつも、ヴィイは涼に寄り添って眠っていた。 静かな夜。 その奥になにかを潜めているかのような、暗い闇。 やがて目は闇に慣れたものの、克服しきれないでいる過去の恐怖が、みぞおちによみがえってきた。 震えるからだを両手で抱きしめ、涼は、ベッドを抜け出した。 部屋のドアが開いている。 (部屋から出たんだ) 「ヴィイ?」 喉が渇いたのだろうかと、ヴィイの餌と水とを常備しているキッチンに向かおうとした涼の足が、ぴたりと止まった。 悲鳴が聞こえたような気がしたのだ。 「っ」 もう一度、今度は、より確かな音声だった。 「ヴィイ」 何があったのだと、はやる鼓動にせかされるまま、涼は声のした方向に駆け出していた。 「!」 ここだろうと目星をつけた部屋のドアを開け、壁のスイッチを探る。居間を人工の光が照らし出す。 光に馴染んだ、涼の大きく見開かれた黒い瞳が映し出したものは、ソファとテーブルとがあるだけの、簡素なまでにもののない居間と、そこにいる五人の人間だった。 手に手に物騒な得物を持っている男たちに、涼がその場にこわばりつく。痛いくらいに侵入者たちを意識していた緊張がふと男たちから逸れたのは、彼により近い床の上に横たわっている、漆黒の毛並みを見出したからだった。 むき出しの床板を濡らしているのは、ねっとりとした質感の、赤黒い液体。 「ヴィイ!」 事切れているように見える愛犬の姿に、部屋の情景が、五人の不法侵入者たちのことが、頭から消えうせる。 「はなせっ」 愛犬に駆け寄り抱き上げようとした涼の腕を男が掴む。それと同じ男が手にするジャックナイフからしたたる赤い液体が、涼の目を射た。 「あなたがっ」 殴りかかろうとして振り上げた腕は、背後から別の男にひねり上げられ、気がつけば、残る三人も涼を取り囲むように集まっていた。 ささやき交わす男たちのぶしつけな視線に、涼の全身が鳥肌立つ。 「お宝はどこだ?」 愛犬を殺しただろう正面の男の声に、涼は顔を背けた。 何のことを言っているのか、わからないわけではなかったが、誰が脅されたくらいでしゃべるだろう。 多一郎が森と館の周囲に二重に巡らせた結界を抜けてここに来ることができたからには、この中の幾人かは錬金術師なのだろう。そうして彼らが求めるお宝といえば、まだ不完全な、エリクシル――賢者の石――に間違いない。 以前、多一郎が見せてくれた、不思議な石を思い出す。 「賢者の石だ」 黙りこんでいる涼に業を煮やしたのか、 「あるはずだ」 パジャマの襟元を鷲掴んで、数度乱暴に振りまわす。 詰まった息に咳き込み、 「知らない」 それだけを押し出した。 「そんなはずはない」 「知らないものは、知らない」 顔を背け目を閉じた涼は、頬にひやりとしたものを感じ、閉じていた目を開いた。 「なら、少々痛い目をみてもらおう」 頬にあてられていたのは、血なまぐさい、ジャックナイフだった。 この森のどこかにあるという館に、エリクシルがあるという噂は古くからあった。が、さすがに、夢物語とみなされるほどに創り出すのが不可能な賢者の石を、作ったと噂される錬金術師の棲み処(すみか)である。森に足を踏み入れたものたちは、リング・ワンデリングの罠にとらわれ、森を出ることも館にたどり着くこともかなわないままで、飢えて果てる運命にあった。 ならば、なぜ、噂があるのか。 それは、多一郎と名乗る男の故である。 リング・ワンデリングの術がかけられているということは、この森に関係するものが、少なくとも錬金術を心得ているということだ。 踏み込んだものたちが出てくるのを、目にしたものも、噂を聞いたものも、いはしない。にもかかわらず、いつごろから存在するのか、時折りなにがしかの用で森から里に出てくることのあるその男は、少しも年老いることがないというのだ。姿かたちが変わらない。その秘密を、ひとびとが、殊に錬金術師たちが、賢者の石と結びつけて考えるのは、無理からぬことであったろう。 そうして、幾十幾百もの野心家たちが、この森に踏み込んだ。 しかし、館にたどり着けたものは、皆無であった。 これまでは――――― 獣じみた呼吸に、噛み殺しそこねた悲鳴が混じる。 下卑た笑いと、異臭。 血に酔った男たちが、饗宴を繰り広げる。 供物は、ひとりの青年。 むき出しの床板の上では、黒い犬から流れ出した血にまみれて、黒い髪と瞳の青年が、ケダモノと化した男たちに蹂躙されていた。 青年の滑らかな白い肌には、いくつもの、決して浅くはない傷が穿たれ、赤黒い液体を流しつづけている。少なからぬ量の血が、青年のからだから、失われていた。 青年――涼は、朦朧とした意識の中で、ただ恋人の面影を追っていた。もはや何をされているのか、凄まじいばかりの熱と寒さとにかわるがわる襲われ、理解してはいなかった。 力なく横を向く涼の白くかすんだ視界には、恋しい、欝金のまなざしがある。――それは、彼の愛犬の瞳であったが、もはや、涼には区別がつかなくなっていた。 自分を穿つ灼熱が、その瞳の持ち主のものであるのだと、縋りつくようにただ、光をなくした欝金のまなざしを見つめつづけていたのである。 多一郎が帰ったのは、館を出てから四日目の朝であった。 森に一歩足を踏み入れるなり、背筋がざわりと粟立つ。 (空気が、違う。破るものがいたのか) ぺろりと、赤い舌がくちびるを、舐め湿した。 きな臭いとでも表現するしかないような、不穏な空気が森に充満している。 それは、足を速めた多一郎が館に近づくにつれて強烈になっていった。 館周辺の結界が一部わずかに綻びていることに気づいた多一郎は、欝金の瞳をゆるりと閉じた。 一刹那の後まぶたを開いた時、そこには、縦長の瞳孔の、ひとならざる証の瞳があった。 「涼!」 血の匂いをたどった多一郎の足が、らしくもなく、開け放たれたままのドアのところで、止まった。 割れた窓ガラス、裂かれたカーテン、叩き割られたソファとテーブル。 足が動かない。 目の前の光景が信じられないのだ。 朝の、昨日の出来事をすべて洗い流したかのように、すがすがしい陽光に照らし出されて、そこに横たわっている、もの。 どうして、信じることができるだろう。 たとえ、たしかに、今、目の前にあるものだとしても。 意識が、それを認めまいとして、黒い犬の骸に向かう。 「涼が悲しむ」 その涼はといえば、ヴィイから少し離れた場所で、既に息をしてはいない。 カッと見開いたままの、自分のに似た欝金の瞳を閉ざしてやり、多一郎は、現実を拒むかのように、その場に佇みつづけた。 寒くて寒くてならなかった。 涼――― 遠く近く、自分を呼ぶ声がする。 それは、恋しいひとの、声だ。 額を撫でる、乾いた掌。 ああ―― 心の奥深いところに芽吹いたのは、これ以上ない歓喜だった。 大好きなひと――― しかし、この寒さは、なぜなのだろう。 うれしさの裏側に寄り添っている、苦痛は。 目覚めてはいけないと、ささやきつづける何者かの声が聞こえる。 おまえは、目覚めてはいけないものなのだ―――――と。 どうして? 当然の疑問。 しかし、それに答えてくれるものは、いない。 ただ禁止だけを口にしつづける姿のないものに、うれしさに水をさしてくれたことに対する反発ばかりが、わだかまってゆく。 ――目覚めてはいけない。 なぜ? やっと、彼に会えるのに。 ――いけない。 こんなにも会いたくてたまらないのに。なぜそんなにひどいことを言うんだ。 ――おまえは、目覚めてはいけないモノなのだ。 それしかことばを知らない、モノマネ鳥が繰り返しているかのようなその声に、無条件に従ういわれなど、ない。 恋人の名前を口にする。 こんなにも会いたくてならないのに。 愛しいものの名前を、味わうように、口にする。 あなたに会えるなら、何をなくしてもかまわない。 だから! からみついてくるモノマネ鳥めいた声を必死になって振り払い、ようやく、伊吹涼は、長く重怠い眠りから目覚めたのだった。 多一郎の、少し神経質そうな白皙の顔が目の前にあった。 金色の瞳に縦長の瞳孔を持つ、白銀の髪の錬金術師。 伸ばされた白い指先が、涼の目元を拭い、 「どうした?」 と、問う。 泣いているつもりなどなかった涼の白い頬が、朱に染まる。 「よかった」 そう独り語ちると、多一郎は静かに立ち上がり、涼に背を向けた。 「待っ」 押し出すようにしてかけた声はかすれて、最後まで発声することができなかった。 手を伸ばそうとして、できなかった。 慌てた涼は起き上がろうとして、全身の痛みに呻いた。 (なんだ――これ) 何日も眠りつづけて筋力が衰えたような、力のはいらなさに目を剥いた。自分のからだが、自分のものではないかのように、頼りない。 起き上がることもできない。 ようやくのことで上半身を捻ることに成功したが、逆に勢いがつきすぎた。ずるりとベッドから上半身を落としかけた涼に気づいた多一郎が、引き返してきた。涼の体勢を寝よいように整え、上掛けを顎の下まで引き上げてやる。 「焦るな。おまえは一ト月近く病気で寝たり起きたりしていたんだ」 記憶にないことに小首を傾げた涼の黒い瞳を覗き込み、ひとが悪そうな笑顔を見せる。 「どうした。なにも覚えてないのか? おまえの名は? 私のことは?」 「た、いちろう………多一郎さん」 こみあげてくる熱いかたまりが喉元にわだかまって、声がますますかすれる。 滂沱と流れる涙に視界はかすみ、恋しくてならない欝金の瞳が宿しているだろう、皮肉げな光を見ることができない。 多一郎が涼の髪を優しく撫でた。 病気でダウンしていたという間の記憶は、涼にはない。 いつ、何の病気にかかったのかも覚えてはいなかった。 多一郎に訊いても、どうでもいいことだ――と、教えてはくれなかった。 何の病気だったのか知りたいと拘るのは、あれから十日が過ぎたというのに、日々酷くなってゆく気分の悪さのせいだった。 何を食べても空腹がおさまらない。喉が渇いてならなかった。 ――おかしい。 心配をかけてしまいそうだったから、こんなこと、多一郎に相談などできない。 心配をかけてしまいそうだったから、いつもと変わりのない生活をつづけるので精一杯だった。 しかし、日光が煩わしく感じられてならないのだ。からだが怠くてならないのだ。 日の光が辛くて、居間よりも書斎で一日を過ごすようになっていた。 薄暗く埃っぽい書斎で、足を投げ出すだらしない格好で、ソファの足に背を持たせかけていた。 音もなくドアが開き、黒い愛犬が涼に近づいた。 爪が床に当たる音を響かせて、傍らに来たヴィイは、彼に寄り添うように腰を落とした。 ぺロリ――と、口を舐められ、鼓動がひとつ大きく刻まれた。 堰を不意に切られたような心臓の脈動の激しさにもかかわらず、血が下がってゆく。 床がたわむ。 目が回る。 全身が冷たくなり、小刻みな震えがおさまらない。 ――ホシイ。 頭の中を占める渇望と飢餓とに、片隅にかろうじて貼りついていた理性が警鐘を鳴らす。 ――ダメだ。 欝金の一対が、目の前にある。 見上げてくるまなざしに、くるくると心の奥底からよみがえる記憶。 「あ……あ…………」 震えるくちびるからこぼれ落ちるのは、苦痛の響きをはらんだ、単音ばかりだった。しかし、やがて、抑えきれなくなった。えづくような苦鳴は、喉が裂けんばかりの悲鳴となって、涼からほとばしったのだ。 多一郎が、館中に響いた涼の絶叫に駆けつけたとき、書斎は血の海だった。 むっと鼻腔を射る血と内臓の匂い。普通の神経の人間なら耳をふさぐだろう、ぴちゃぴちゃと生肉が咀嚼されている音が、多一郎の耳に届く。 引き裂かれた涼の愛犬ヴィイが、臓物を喰らわれている最中だった。 「涼」 恐怖も驚愕もない。落ち着きはらった多一郎の声に、ドアに背中を向けていた涼が振り返った。 薄闇の中、血にまみれた涼が、ヴィイのものだろう肉を咥えている。 そんな、背筋が逆毛立つ(そそけだつ)ような光景にも、 「それでは、腹が膨れまい。こっちへこい」 穏やかな声で、手さえ差し伸べる。 理性をなくしているだろう、闇で光る一対のまなざしが、多一郎のことばを理解するためにか、かすかに眇められた。 「おまえが一番ほしいものなら用意してある。さあ」 厭な音をたてて、咥えられていた肉が床に落ちる。 ゆらりと立ち上がった涼は、差し伸べられた手を取り、多一郎に導かれるままに、進んでいった。 地下の研究室の奥に黒い鉄の扉がある。 多一郎はその扉の前に、涼をいざなった。 扉を開けると、異臭がつんと鼻を突く。 赤レンガ造りの部屋の壁ぎわに、なにかがいる。 音もなく蝋燭に火がともり、うすぼんやりとしたオレンジの光が部屋を照らし出した。 ガチャリと、金属がぶつかる音がする。 ウウウと、獣のもののような声。 壁から伸びた短い鉄の鎖に繋がれているのは、四人の男だった。 垢染みて汚い男たちの目は、どれもこれも恐怖に見開かれている。 「そこで待っていろ」 極限まで開かれた四対の瞳が多一郎と涼とを交互に見やり、いやいやと首を振る。 床の上に、なにも縛めていない、一揃いの鎖が黒い蛇のようにとぐろを巻いている。それを邪魔そうに足蹴にし、多一郎は四人の男たちを吟味しはじめた。 「涼、どれがいい?」 ガチャン! ひときわ大きな音がして、男たちがいっせいに後退さる(あとじさる)。 流す涙が、冷たい汗が、頬に額に縞を描く。 喉に巻きつけられている拘束具が、男たちの口からことばを奪っていた。 血まみれの涼は、小首を傾げて、多一郎を、ついで男たちに視線を向けた。 「これか? それとも、あれか? ちがうのか? ああ、わかった」 軽やかな足取りで、哀れな男に近づき、 「これだな」 確認を取る。 にっこりと、涼が、笑った。 もがく男の目を覗き込み、 「逃がしはしない。逃げられない。私の宝物を壊した罪は、その身で償ってもらう。前の男のように、あっという間に死なないでほしいな。もっとも、死ねないが。覚悟しておいたほうがいいだろう。今の涼は、ヴィイを喰らっていた後ということもあって、少しは、空腹がおさまっている」 噛みつこうとする男に、 「狂うのもなしだ。涼が最後のひとかけらまでおまえを食べきるまで、死ぬことも狂うこともできないようにしてある。何日かかるだろう。前の男は、まだしも、幸福だった。すぐに首の骨を折られたのだからな。おまえは、自分の不幸を呪え。できるのはそれだけだ。おまえたちは、それだけの罪を犯したのだ。わかっているだろう」 冷ややかな声で、歌うように告げるのは、美しい男の姿をした、ひととは別種のいきものなのに違いなかった。 鳥のさえずりに目覚めた。 目覚めかたとしては、最上級だろう。 全身が軽い。空でも飛べそうだ。あれだけ、怠くてならなかったのが嘘のようだった。 いつ眠ったのかも記憶になかったが、この爽快感の前では、なにほどのことではない。 既に起き出したのか、昨夜を徹夜で過ごしたのか、多一郎はベッドにいなかった。 彼と一緒に美味しい朝食を摂ろうと、涼は勢いをつけて上半身を起こした。 カーテンを開けると、すがすがしい朝の陽の光が、ガラス越しに入り込んでくる。窓を開けて喚起をすませると、涼はキッチンに向かったのだ。 テーブルの上に、サラダとベーコンエッグ、スープ、色とりどりの果物などの、豪華なメニュウが並べられた。 「できた」 かるくたたんだエプロンを椅子の背にかけて、涼はおそらくは地下にいるだろう多一郎を呼ぶために、キッチンを出た。 その部屋の前を通り過ぎようとしたときだった。 突然の悪寒におそわれたのだ。 足がぴたりと止まる。 動悸が激しくなり、脂汗がしとどに全身を濡らす。 なにが起きているのか、わからない。 (どうして………。このドア……書斎?) くらくらと今にも膝を折ってしまいそうだった。 肩で息をつきながら、かすむ瞳で、ドアをにらみつける。 自分に襲い掛かっている、この不快感の正体を知らなければならない。なんともいえない、強迫観念が襲い掛かってきたのだ。恐怖と罪悪感とがないまぜになったかのような、壮絶なプレッシャーである。それをどうにかして追い払いたくて、そのためには、正体を知らなければならないと、涼は、内心の葛藤に震える手でドアノブを握り、やっとのことでまわした。 そうして――――― 足元の床が抜けたような錯覚があった。 ――おまえは、目覚めてはいけないモノなのだ。 殷々と直接脳の奥にこだまする、いつか聞いたのと同じ、彼を否定する声。 耳を塞いでも声は消えず、目を瞑ろうとして、叶わなかった。 見えないなにものかに無理やりこじ開けられたかのような視界の中にいるのは――― (あれは、僕だ。いったい、なにをしているんだ) 薄暗い室内で床にしゃがみこんだ自分の丸めた背中を凝視しつづける。と、突然振り返ったその顔は――――その口に咥えているものは――――― ―――――――そうして、涼は、すべてを悟ったのだった。 地下室のドアが開く音に、視線を泳がせる。 「涼。起きたのか」 フラスコやビーカーなどさまざまな実験器具の並んだ部屋である。 「た……たいちろう」 しわがれた声が、落ちて砕けた。 「思い出したのか」 肩をすくめ手を広げて見せる多一郎の前の、大きな実験用の机が、目に飛び込む。べっとりと固まりかけた血に濡れて張りついた短毛の黒犬の腹部は引き裂かれ、骨と脂肪と肉とがぬめっている。 「もう少し眠っていれば、ヴィイもいつもどおりになったのだが」 ぐらぐらと揺らぐ世界に、堪えきれず膝をつく。 そんな涼の背中を、多一郎がさすった。 「ああ、体力が落ちてしまう。今は調子がいいかもしれないが、じきにまた辛くなる。だから、先に上に戻っていろ。私はヴィイを元通りにしてからいく」 踵を返しかけた多一郎の手を掴み、 「やめてください」 うなだれ、懇願する。 「やめてください。もう、ヴィイをよみがえらせるのも………」 しゃがみこんだ多一郎の手が、涼の顎にかけられる。 うつろな黒い瞳を、欝金のまなざしが覗き込んだ。 「なぜだ?」 「もう――あんなこと、いやなんです」 「あんなこと? ああ、ヴィイを食べたことか。それとも、おまえを殺した男を喰らったことか?」 「どっちも―――です。………あんな、あんなことをっ」 口の中によみがえる血と肉との感触に、からえづきがこみ上げてくる。 「ヴィイがいないと困るのはおまえだろう。それに、あの男たちは、おまえを壊して殺した。私がどんなに悲しかったか、おまえにはわからないのか?」 「だからって、賢者の石を使って――あれは、不完全だって」 「私は、おまえだけは、なにがあっても失いたくない。失うつもりも、ないな。そこに可能性が転がっているのだ。使って、なにが悪い」 ことばもなく、涼は、饒舌になった恋人を見やる。 「まぁ、さすがに不完全なものだから、不安だった。だから、最初にヴィイで試してみた。うまくいったと思ったが。だから、おまえを生き返らせた。見た目は完璧だったのだが――――、おまえは、月齢に影響を受ける。月が欠けるにしたがって、ひとの肉を求めるようになる。だから、私は、おまえを傷つけたものを探し出して、おまえに与えることにした。当然の報いだな」 「そんな………」 ふいに、疑問がわきあがった。 「…………男は、あと、三人いましたけど」 「そうだ」 多一郎が、クスリと、笑う。 「僕が……三人が死んだ後は」 「そんなこと。おまえが気にすることじゃない。人間などいくらでもいる」 物騒なせりふをけろりと吐いた最愛の恋人を、涼はただ見つめつづける。 「大丈夫だ、涼。おまえが心配することはなにもない」 そう言うと、多一郎は、涼にくちづけたのだった。 「おまえに、こんなところは似合わない。上に戻っていろ」 ひとを喰らう食人鬼となり果てた自分を見て、なぜそんな睦言めいたささやきを口にできるのか。 甘いことばは、今の自分に向けられているのではないのだ。 階段を上る涼の足取りは、鉛よりも重いものだった。 「またか――――」 足元に横たわる涼を見下ろして、多一郎は独り語ちた。 キッチンの床には、包丁が転がっている。 よみがえったヴィイが、血の気のうせた涼の顔を舐めるが、既にこときれている涼が愛犬に答えることは、もはやない。 じわじわと床を侵食してゆくのは、掻き切られた首から流れる血液である。 「勝手なことを。私は、おまえが生きてそこにいさえすれば、それでいい。なぜ、それがわからない」 抱き上げた恋人をかきくどいても、愛しいものには、もう届かない。 沈黙が、キッチンに降りつもってゆく。 どれくらいの間、身じろぐことすら忘れて恋人を抱きつづけていただろう。 次に多一郎が顔を上げたとき、彼の欝金のまなざしには、とろりと暗い熱が宿っていた。 「おまえが幾度死を選ぼうと、たとえ死こそがおまえの安らぎだとしても、私がおまえをここに引きずり戻してやろう」 軋る声でつぶやいた多一郎は、涼を抱いたままで立ち上がり、地下へと引き返していったのである。 足元には、黒い犬が、従っていた。 ――目覚めてはいけない。 なぜ? やっと、彼に会えるのに。 ――いけない。 こんなにも会いたくてたまらないのに。なぜそんなにひどいことを言うんだ。 ――おまえは、目覚めてはいけないモノなのだ。 それしかことばを知らない、モノマネ鳥が繰り返しているかのようなその声に、無条件に従ういわれなど、ない。 恋人の名前を口にする。 こんなにも会いたくてならないのに。 愛しいものの名前を、味わうように、口にする。 あなたに会えるなら、何をなくしてもかまわない。 だから! からみついてくるモノマネ鳥めいた声を必死になって振り払い、ようやく、伊吹涼は、長く重怠い眠りから目覚めたのだった。 おわり
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あとがき
暗いです。
じ、実は、多涼は、初めてです。ず〜っと、読み専門でした。ですから、極道な書き方をしてしまいました。それでも言いとおっしゃってくださるといいのですが。
ご笑納いただけるとうれしいです。