赤い月




 道を歩いていて、突然、後頭部を強打された。
 気がつけば、薄暗い堂の中に転がされていた。
 起き上がろうとして、ハボックは、手と足が荒縄で縛られていることに気づいた。
「なんだ、これは」
 揺らめく蝋燭の光が、ぼんやりと辺りを照らす。
 がらんとした、石造りの広い空間にただひとりきりという状況は、あまり好きではない。あまつさえ、暗いとなれば、不安ばかりが大きくなろうと言うものだ。
「なんかしたか?」
 不安よりも、恐怖よりも、怒りのほうが、ましだ。
 頭が煮立てば、不安も恐怖も、思考の片隅へと追いやられる。
「あちっ」
 立ち上がって、数回跳んだ。足もまた、手と同じくぐるぐると縛られているので。揺らぐ蝋燭の火を消さないように気をつけて、後ろ手に縛めている縄を焼き切る。
 少し、火傷したかもしれない。が、そんなことに構ってはいられない。手が自由になったので、肩を回す。関節が、ボキボキと音をたてる。
「よっこらせ」
 床の上に、腰を下ろして、足を縛っている縄を、解く。
「くそっ、かてー」
 腰に挿していた、ナイフは、ない。取られたのだろう。手に馴染んでいたものだけに、惜しい。
「まったく。踏んだり蹴ったりだよな」
 縄をほどき、ハボックは、足首を撫でさすった。
 縄に擦れて、少し、血がにじんでるようだった。
「とにかく、こっから出ねーとな」
 ナイフを取り返すのは、それからだ。
 一応兵隊の端くれがナイフを奪われてしまったのでは、笑い話にもならない。
「っ!」
 立ち上がったハボックは、壁に寄せられている棚に並んでいるものに、怖気を覚えた。
 扉以外の壁のをすべて占めている棚に並べられているのは、すべて、人骨だったのだ。
「くそっ、開かねーじゃねーか」
 どんなに引っ張っても、押しても、扉は、びくともしない。
「開けろっ!」
 叩いても、蹴っても、体当たりをしても、たわみもしない。
「なんだよ、これっ、ただの木じゃないのか」
 どこかに仕掛けでもあるのかと、ハボックが、扉を観察する。
「手伝おうか?」
「おう、頼む………?」
 最後まで言い切らずに、ハボックの言葉が、力をなくす。
 ついさっきまで、誰もいなかったというのに………。
 ハボックの、心の臓が、半鐘のように速くなる。
 おそるおそる、振り返った。
 そうして、ハボックは、そこ――数メートル後方――に、薄闇にもはっきりと浮かび上がる、白い美貌を見出したのだ。闇に光る玉のような端麗な顔の中、絶妙の配置の、目鼻立ち。不敵に笑っている、赤い、くちびる。
「誰だ。おまえ」
 闇の中やけに、明瞭な、その姿に、ハボックの背筋に、粟が立つ。
 声が震えるのは、そのものに、いい知れぬ恐怖を覚えたせいだった。
 恐怖。
 そう、ハボックを捉えたのは、紛うことのない、怖気であり、戦慄だった。
「ククッ………」
 そのものの、白く細い喉が、笑いに震える。
「我が贄よ。我は、神」
 面白がってわざと重々しいことばを使っているのだろう、少年のよく響く美声が、ハボックの脳裏を直接震わせた。
 ドンッ!
 異質な感覚に、ハボックが、弾かれたように、扉に背中を打ち付ける。
「神…………だと」
 全身が、震える。
「然り。我が、贄よ」
「に……え?」
 ――では、自分は、この、神と名乗るものに、捧げられたと言うのか。
 ハボックの心臓が、痛いくらいに激しく鼓動を刻む。
 流れるような動きで、神と名乗ったものが、ハボックに近づく。
「や、やめろっ」
 白い、指先が、慄くハボックの頬を撫でて、去る。刹那、背中を駆け抜けた震えは、先ほどの戦慄とは、異なるものだった。信じられない――と、ハボックが、目を剥く。その青のまなざしに、神は、望むものを見出したのか。赤い舌が、ちろりと、そのくちびるを舐め湿し、ただ天敵に出会った小動物の悲しい性とばかりに動けずにいるハボックの首筋に、顔を寄せたのだ。
 首筋に、ハボックは冷ややかで湿ったものを感じた。と、それをくちびると舌だと認識する暇もなく、
「つっ」
 眉根が寄せられた。
 神のくちびるがあてられているまさにその同じ箇所から、なにか、鋭い痛みを伴うものが、からだの中に忍び込んでくる。そんな、感覚を覚えて、ハボックは、神を突き放そうと、もがいた。
 しかし、もとより、相手は、神と名乗るほどの存在である。いかに細身の少年に見えようとも、ハボックの力などでは、離すことはできなかった。
 抵抗も何もない。
 ただ、その気がすむまで、身を捧げているよりない屈辱にか、ハボックの気が遠くなる。
 意識を失う寸前、ハボックは、
「食べるのは惜しいよな」
 神と名乗ったものが独り語散るのを聞いたような気がした。



 見上げれば、大きな丸い月。
 照らし出されているのは、どこまでも、一面の、薔薇である。
 月光を弾く葉が、幹についている棘が、逃がさないと、ハボックにまといつき、傷つける。
 ズボンと短靴に守られた足からは、それでも、血がにじんでいる。
 じくじくと疼く痛みに、しかし、ハボックは、薔薇の野を進むことをやめなかった。
 逃げたかった。
 希望はないが、諦めたくなかった。
 ここがどこなのか、贄として差し出されてからどれくらいの時が経っているのか、逃げ延びることができるのか。自分の希望が報われないことは、肉体の痛みよりも辛く、わかってしまっている。それでも、じっとしてはいられない。そういうことだ。
 あれは、弄るように、ハボックを、抱く。
 翻弄されるハボックを嘲るように、ハボックが意識を失くすまで、いたぶりつづける。睦み合うにはほど遠い行為に、疲れがとれきらぬままに目覚め、疲れに我を失くして眠る。その繰り返しに、ハボックの自我は、朦朧と白くかすんでいたのだ。
 逃げることなど、考えもつかなかった。
 神と名乗ったあの美貌の少年が、真に神なのかどうか、わからない。ただ、ひとではない。ありえない。
 こうしてハボックが逃げようと、気力を振り絞ったのは、見てしまったからである。
 ハボックは、見たのだ。
 あの少年が、扉の向こうで、新たな贄を喰らうのを。
 贄の腹を裂き、掴み出したまだ蠢いている心臓を、口元に運ぶ。赤く、おびただしく流れる血潮に、染まって、肉片を咀嚼する獣じみたさますら、見る者を魅了する。
 喉元にこみあげてくる苦酸いものを堪えながら、ハボックは、視線を逸らせることすらできなかった。
 そうして、思った。
 自分もまた、いつかしら、そう遠からず、ああして喰らわれてしまうのだ―――――と。
 あれは、あの日、言ったではないか。
 自分を指して、我の贄と。
 贄の本来の目的が、ああして喰らわれることであるのだとすれば、いずれ、腹を裂かれる。
 それは、連日連夜の狂宴よりすらも、恐ろしいことに思われたのだ。
 その時は。

 元々が兵士である。体力自慢であったというのに、飽かず続けられる行為に、からだが萎えているのだろうか。
 息が切れたために、立ち止まったハボックは、荒い息を整えようと、その場にしゃがみこんだ。しゃがみこめば、動けなくなる。わかっていても、しゃがまずにはいられなかったのだ。
 汗が、地面に滴り落ちる。
 薔薇の棘が、ズボンに、食い込む。
 湿り気を求めているのだとでもいいたげに、薔薇が、ざわりと揺れる。あちらこちらで、赤い花をつけた、木々へと、ざわめきが、伝わってゆく。
 それを、ハボックは、振り返った。
 目指した扉は、すぐ目と鼻の先である。
 黒い、鋼の扉の丸い輪に、手を伸ばした。
 やっとのことで立ち上がったハボックが、扉を開けて、外に出る。
 もうじき、あれが、現われる。
 やさしげにすら聞こえるあの声で、自分を嘲り、弄る、神を名乗る存在が。
 全身の震えは、恐怖のためだ。
 いけない。早く、扉を閉じなければ。
 震える手で、ハボックは、扉を閉じた。
 途端、ハボックは、胸を両手で押さえ、その場に頽れた。
 しとどながれる脂汗。
 心臓は、いまにも捻り潰されそうだと言うのに、ハボックのくちびるは、満足げに、笑みを宿している。
(ああ、これで、終われる)
 逃亡への気力すら、掻きたてなければ、萎えてしまいそうだった。しかし、死から無理矢理切り放された身に唯一の希望は、この、黒い扉。扉を抜けさえすれば、抜けて、閉じてさえしまえば、あれは、自分を連れ戻せない。
 扉を抜けただけではダメなのだ。しっかりと閉じてしまわなければ。
 以前、やっとのことでたどり着いた扉を抜け、閉じることを忘れてしまったために、死の淵から、引きずり戻された。
 あの折の、少年の怒りを、ハボックは、忘れられない。
 散々蹂躙され、息も絶え絶えに、殺してくれと、懇願した。
 掠れた声で、もう飽きただろう――と。
 ともすれば、気を失ってしまいそうになりながら、別の贄を選んでくれと、そう言った。
 なのに、そのどれをも、鼻先で叩き落された。
 逃れられないように。そう笑って、あれは、ハボックの足首の骨を砕いたのだ。
 今となっては、死を恐れていた自分が、懐かしくてならない。
 今は、こんなにも、やさしく自分を包み込んでくれようとしている。
(ああ…………)
 ハボックは、最期の吐息を深々と吸い込み、吐き出した。
 そのまま、ゆるゆると、大地に伏せてゆこうとしたハボックの耳を、思いもよらない声が、射抜いた。
「あーあ。着いちゃったんだ。残念」
 あらゆる物事を楽しんでいるかのような、嘲っているかのような、声が、ハボックの、消えてゆこうとしている意識を、押し止める。
 しかし、ハボックは、もう、恐れない。
 恐れる必要も、ない。
 これで、すべては、終わるのだ。
 今度こそ本当に意識を手放そうとしたハボックの両肩を握り、声の主が、ハボックを抱き起こした。
「ゲーム・オーバーだね」
 ククク……と嗤う少年は、そのまま、ハボックのくちびるに、己のくちびるで触れた。
 動きを止めたはずの、心臓が、再び、鼓動を刻みはじめた。突然動き始めた心臓に、躰の他の気管がついてゆけずに、悲鳴をあげる。噎せこみ、その苦しさにもがくハボックの眦に、涙が溜まってゆく。それをちろりと赤い舌先で舐め、神を名乗る少年は、
「さあ! リセットだよ、ハボック?」
 楽しげに、宣言した。


 見慣れた白い顔が、ハボックに、絶望を抱かせる相手が、端然と彼を見下ろしてくる。
 ハボックの全身が、強張りついた。
「どうして………」
 掠れた声で、そう訊いた。
 終わったのではなかったのか。
 扉を抜ければ、死ねると、そう言ったではないか。
 さまざまな思いを、まなざしから読み取ったのだろう。
「オレをなんだと思っているのさ」
 神であればこそ、戯れに、死から呼び戻せるのだ。扉を閉めようが閉めまいが、関係なかったのだ。
「嘘をついたなっ」
 咳きこみながら、ハボックが、叫ぶ。
「嘘? 心外だね。君、死ねただろ?」
 楽しそうな声に反して、相手が怒りを抑えていることが、感じられた。
 いっそ過ぎるくらいにはしゃいだ物言いになるとき、彼が怒りを押し潜めているのだと、ハボックは、知っていた。
 血のごとく赤い月が、黒い門を照らしている。
 伸びてくる白い手を反射的に叩き落として、ハボックの顔が青ざめた。いざり逃げようとして、短い悲鳴がハボックの喉からほとばしった。
 薔薇の上に、押し倒されたのだ。
 薄い着衣を、薔薇の棘が、容易に貫き通す。
 金色の瞳が、暗い怒りに塗りつぶされている。
 襟元を開く手に、尚も抗い、頬を、張られた。
「もう………」
 涙でにじむ先、少年がどんな表情でハボックを見ているのか、わからない。
「もう、殺してくれっ」
 懇願した刹那に彼を襲った身を裂かれる痛みに、ハボックが大きく仰け反った。
「殺してあげるよ? こうして、何度でも」
 背中の棘がなおも深く押しつけられ、傷が、再び血をにじませる。
 引き攣ったハボックの悲鳴が、野原に消えてゆく。
 赤い月に照らされた、神と贄との交合を、ただ、薔薇の花々だけが、ざわめきながら眺めていた。


おわり



from 15:29 2004/09/19
to 16:43 2004/09/20


あとがき
 スライドですが、直してみました。中盤以降、どっちにしようか悩んでた内容の一方を意識して書いてみました。まぁ、ラストは同じですけどね。
 名前が一回も出てませんが、ご無体エンヴィくんと、ハボックんです。少しでも楽しんでいただけると、嬉しいのですが。
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