Black cat |
中尉不在の気楽さに、いつの間にか居眠りをしていたらしい。 転寝(うたたね)から目覚めると、私、焔の錬金術師ことロイ・マスタング大佐は、猫になっていた。 「ニャ?」 信じられなかったが、仕方がない。 視界が変だと思ったので――いや、妙に書類の山がでかいのだ――なにが自分の身に起きているのだろう。 机の引き出しにいれている鏡を出そうとして、私は自分が見ているものが信じられなかった。 そこにあるのは、黒い和毛(にこげ)に包まれた、ケモノの前肢だったからだ。やわらかそうな肉球は濃い小豆色をしている。これでは確認ができないと、窓を振り返った。 窓ガラスに映っているのは、黒い和毛の金目の仔猫だ。 なんとなく見覚えのあるような気がする。 しばし呆然としていた私は、ノックの音に気づかなかった。 「書類できました……あれ、大佐? 中尉がいないからって、サボってるのかな。と、おまえ、どこから入ったんだ?」 メガネのフュリー軍曹に首根っこをつかまれて、抱き取られた。 「こら、上官に向かってなんてことをするんだ」 と、言っているつもりでも、口から出るのは、悲しいかな、猫の鳴き声で。 「あっ」 軍曹の隙をついて、私は、廊下を駆け出した。 さてこれからどうしようか。 忙しそうにひとが行き来する建物の隅で、私は考え込んだ。 どこかの国の有名な小説のように、毒虫になったわけでないのが幸いだ。あの小説の主人公は、部屋に閉ざされて、たしか非業の最期を遂げたはずだ。それを考えれば、少なくとも、猫ならば、自由に動ける。そう、狭い場所でも高いところでも………。 「!」 ひらめきは、稲妻の速さだった。 たしか、少尉は、いきもの好きだったはず。 少尉――ジャン・ハボック少尉のことである。 犬は美味いとかのどぎついジョークは、照れ隠しだ。 無骨な面もあるが、彼は、基本的に弱いものや、小さいものに、このうえなくやさしい。 もし仮に、この姿のままで一生を終えることになったとしても、彼に飼われるのなら、本望かもしれない。 少なくとも、彼の、日常のさまざまな姿を見ることができるに違いないのだ。 少尉の………。 思わず妄想に浸りかけた私だったが、不意に首筋をつかまれて、咄嗟に猫パンチを繰り出していた。 「いてっ」 ああ、なんということ。 よりによって、私の小さく鋭い爪が、私の愛しい少尉の手を傷つけてしまうとは。 後悔は、しかし、すぐに霧散した。 「こわがんなって」 目の前に、少尉の明るい緑色のまなざしが、あった。 教練後にシャワーを浴びたのだろう、石鹸のにおいのする左胸に抱きこまれて、私の心臓が大きく波打つ。 「ああ、血が出ちまった」 すまない―――そう言いたいのに、口から出るのは、猫の鳴き声。しかし、 「気にすんなって。俺がいきおい掴んじまったからな」 そう笑うと、少尉は、手の甲ににじむ血を、舌で、舐めた。 その、無防備な表情が、どれほど私の心を騒がせるものなのか、少尉、君は知るまい。 私が、どんなに、君を愛しているかを、君は、いまだ知らないのだ。 君の頭の中には、女好きで仕事嫌いの、無能なロイ・マスタング像ができているのだろう。けれど、私は、君にはじめて会ったときから、憎からず思っているのだよ。ただ、男が男に告白をする、軍にはままある悪癖と言われる、その不自然さに二の足を踏んでいるだけで。 告白したいが、できないでいる毎日に、私がどれほどのフラストレーションを溜めているのか、君にはわからないに違いない。 君が、こと色恋方面においては、鈍感だという情報は、ヒューズから得ている。そのせいもあって、二の足を踏みつづけている自分が、我ながら信じられないのだよ。 好みだと感じたご婦人には声をかけることを美徳だと考えているこの私が、ただひとりの青年のせいで変節してしまったこと――が、ね。 ひとり甲斐のない思考に沈んでいた私は、 「よし。俺が飼ってやろう。気に入らなければ、誰か飼い主を探してやるよ」 と言う少尉の声に我に返った。 イヤじゃない。 誰が、そんな美味しいポジションを逃すものか。 少し前に妄想していた、少尉のさまざまな表情や姿をこの目で見ることができるのだ。そう、猫の姿を活用すれば、触ることも、この、少しだけ口角の下がったくちびるに触れることすらも、可能なのに違いない。 タバコが邪魔だったが、私は、少尉の鼻の頭をぺろりと舐めた。 「くすぐったいだろ」 元の姿の私がやろうものなら、真っ赤になって逃げるだろうに。そう思えば、少しだけ寂しくもあったが、目の前のきれいな緑のまなざしに、私はすっかり気をよくしてしまっていた。 軍服のポケットに突っ込まれて、私は、少尉の下宿に連れてこられた。 大家だという老齢のご夫人が、私を見て相好を崩した。 「ええ、ええ。かまいませんよ。軍人さんはお忙しいでしょうから、そういうときにはお声をかけてくだされば、餌の面倒もみましょうね」 猫好きらしいご婦人が、私の耳の付け根や喉を撫でてくる。やさしく触れられて、自然、私の喉がごろごろと鳴った。 「じゃあ、そういうことで。スミマセン」 ぺこりと頭を下げた少尉が、私をご婦人から受け取った。なんとなく、慌てたようなしぐさに、少尉を見上げた。と、なにを思ったのか、少尉が人差し指で、私の鼻をぴんと、軽く弾いた。 嫉妬とはうれしいね。少尉。私をご婦人に取られやしないかと慌てたのだね。 焦ったような緑の瞳が、とても愛らしいよ。 ごろごろと、私の喉がいっそう激しく鳴り響いた。 居間と寝室に簡易キッチンとバスルームといった間取りの、なかなか居心地のよさそうな部屋である。 居間のソファに下ろされた刹那、ふわりと立ちのぼったもの。それに、私は陶然となった。 いつも少尉が吸っているタバコと同じ匂いと、植物質のような清しい(すがしい)かおりが混ざり合っている。これと同じだけれどもっとずっと濃いものに包まれて、私はここにつれてこられたのだ。 少尉のかおりの染みついたソファに、私は爪を立て、からだをこすりつけた。 毛がついちまうだろと言いながらも、少尉の声は笑っている。 それがうれしくて、私はよりいっそううっとりと、少尉のかおりをからだにまとわりつかせたのだ。 少尉が用意してくれたミルクを飲んで終わり、私は眠くなった。 少尉の膝の上に飛び乗り、少尉の手の感触や体温に包まれて、いつの間にか私は眠ったらしかった。 雨の音だろうか。水音が、やんだ。 寝ぼけていた私は、それがシャワーの音だと気づき、地団太を踏みたい気分だった。 ドアが開き、しけった空気が部屋に流れ込み霧散してゆく。 はだかの上半身から湯気を立てながら出てきた少尉は、キッチンに直行し、冷蔵庫から取り出したビールを呷っている。 上気した頬や項に貼りついている濡れた金の髪が、色っぽさを助長して、私の鼓動が一気に早くなった。ビールを嚥下するたびに動く喉仏やのけぞった喉から胸にかけてのライン、胸からえぐれたみぞおちへとつづくラインの、絶妙さを、私は食い入るように見つめていた。 このときほど、私は、今の自分を悔やんだことはない。今、愛しいもののあられもない格好を目の前に、どうして私は人間ではないのだろう。 「どーした。ビール興味があるのか?」 私の視線に気づいたのだろう、少尉が、ほんの少しだけ皿にビールを分けて私の足元に置いた。 麦の香りとアルコール特有の刺すような臭気とに目と鼻とを直撃される。 砂をかけるまねをする私に、 「やっぱ猫にビールはダメか」 と、少尉が笑いながら私を抱き上げた。 肉球で触れる、少尉のやわらかなくちびる。鼻の頭を舐めると、首をすくめるが、私を離しはしない。 今すぐここで、人間に戻りたい。 そうすれば、君を、押し倒すのに。 抵抗などさせない。 "No." などとは、決して言わせない。 君は、私のものなのだ。 人間であれば見えないだろう暗闇の中で、少尉を見つめながら、私は決意していた。 人間に戻れれば、なにをおいても真っ先に少尉に告白をしよう―――と。 「……佐。マスタング大佐」 誰かが私の肩を揺すっている。 この声の主は………。 急速に意識が覚醒する。 「ハボック少尉」 勢い良く起きた私は、びっくりして口からタバコを落としかけた少尉を見上げながら、横目で自分の手を確認した。 そこにあるのは、見慣れた、私の手。 では、あれは、夢だったのだ。 「なに寝ぼけてんすか。中尉がいないからって仕事を溜めたら、明日、確実に中尉の拳銃が火を噴きますぜ」 と、にやりと笑う少尉に、見惚れていた。 「あ、こら。顔を出すんじゃない」 「?」 焦ってポケットを押さえようとする少尉の手とポケットとの隙間から、ちょこんと顔を出したのは――― あれは、あの黒い猫は………。 今朝、道端の箱の中に捨てられていた、金目の黒猫。その金の目がやけに印象的で、 『帰りにまだいたら、飼ってやろう』 と、そう言って、なぜか持っていたクッキーを箱のなかに入れたのだった。 黒い猫が、私を見て、ニッと笑った――ように見えた。 きらりと光った金のまなざしに、私もまた、笑いを返す。 少尉を、手を振って呼び寄せた。 「なんすか?」 首をかしげながらも上半身を傾ける少尉の口からタバコを取り、私は、タバコの苦味がする少尉のくちびるに、くちづけたのだ。 刹那、少尉の表情は空白になり、ついで、真っ赤になって口を片手で覆った。 「な、な……」 肩で喘ぐように荒い息をつく少尉に、私は片目をつむり、 「愛しているよ」 と、告白したのだった。 少尉のポケットから飛び出した黒い猫が、一声鳴いて私の足元に擦り寄ってきた。 「よかろう。私と少尉の仲を取り持ってくれたということで、今日からおまえは私の猫だ」 満足気に、黒猫が金色の目を細めた。 おしまい
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あとがき
これ、ロイハボになってるのでしょうか?
なぞです。
9kbちかく費やして、こんなの。
う〜ん。
思いついたのは、13話のラストのせいですね。
猫好きには著っち辛かったのよ。