Evil Eye



 夕間暮れだった。赤レンガの壁に挟まれた、曲がり角ごとに間遠な間隔で街灯があるだけの、細い道をハボックは家路についていた。
 ひときわ激しい寒風に、
「うわっぷ」
 思わず目を閉じたハボックが、顔を振って目をしばたかせた。
 と、いつの間に現われたのか、目の前にひとりの少年が立っていた。
「やっぱ、君の目、いいよねぇ」
 宵闇の降りかけた、トワイライト。すべてがぼんやりと現実味をあやふやにする逢魔が刻。まるで、どっちつかずの薄暮をあざ笑うかのように、際立つ闇をまとった少年に、ぞわりと、ハボックの背筋が逆毛立つ(そそけだつ)。
 年のころなら十七、八くらいか。年に似合わぬ倣岸な口調は、ねとつくようだった。
(このプレッシャーは……なんなんだ)
 薄闇に浮かぶ白い顔は、笑っていても、その目は、決して笑ってなどいないと、わかる。
 剣呑な、まさにそうとしか呼びようのない雰囲気をまといつかせて、少年は、目の前に立っている。
 やっとのことで煙草を口からもぎ取り、石畳に投げ捨てた。
「おまえは、なんだ」
 声が、震える。
 と、少年の姿をしたものは、目を大きく見開き、にやりと笑った。
 ずいっと、無言のまま一歩ハボックに近づく。
 気圧されたのか、ハボックが一歩後退する。
 ドンと、レンガの壁にハボックの背中が当たった。
 逃げなければ――そう思うのに、からだが思うように動かない。
 それは、紛れもなく、恐怖だった。
 屈辱だった。
 こんな少年に――――そう思っても、からだは少しも、動かない。
 冷たい脂汗だけが、滴り落ちてゆくむず痒さ。
 不意に、目の前まで迫っていた白い顔が、嘲りの笑みを深くした。
 ひたり――と、動けないでいるハボックの頬に、乾いた掌が当てられた。
「なかなか、肝も据わってるようだし? なによりポジションも、大佐どのを見張るのにぴったりだ。……それに、君、ハンサムだし」
 クスクスと嗤うモノに、厭な予感が湧き上がる。
「な、にを…………」
「ああ、大丈夫、大丈夫。君の大事な大佐どのを傷つけたりはしないよ」
 ま、今のところは、まだ―――ね。
 付け加えられた一言に、それでは、いずれは大佐を害するつもりかと、直感する。
 キッと見下ろした視線の先で、
「やぁ、勘もいいね」
と、何かを考えるような顔つきになる。
「ふうん……君の姿を借りるには、君は、殺しておかないと邪魔になるだろうなと思ってたんだけど―――殺すのもったいないねぇ。人間って、一度死んじゃうと、それまでだし」
「っ!」
 ねっとりと独り語ちるそのことばの裏に、よくないものが潜むのを感じ、ハボックがくちびるを噛みしめる。
「ほんと、聡いね、君。君のこと、僕気に入っちゃったよ」
 なにをするつもりだと緊張に強張った視線の先で、忍び笑いをもらしながら、それは、ハボックの頬に当てたままだった手を、耳へと移動させる。
「くぅ!」
 両方の耳を力まかせに引っ張られ、痛みに呻いたその後に、噛みつくようにくちびるに触れたもの。
 あまりのことにハボックが藻掻く。しかし、口内に忍び込んできた舌のぬめりに、足から力が抜け、無様に腰を落とした。
 無理やりのくちづけに煽られて、不本意な熱が、からだにともったのだ。
 酸素を求めて抵抗するハボックの顔を仰向けて、その黒い双眸が、ハボックの視野を占拠する。
 大佐の瞳の黒とは違う、闇の色をたたえた、邪眼。
 クラクラと、視界が、揺らぐ。
 見ていたくなくて目を閉じようとしたハボックの目に、いつの間にか耳から放していたらしい掌が、押し当てられた。
「ぐ……っ!」
 瞼を通して、目を刺す痛みが走る。
 激痛のあまりのたうつハボックを押さえつけたまま、少年の姿をした闇は、
「君の左目は、僕の、だから。殺すかわりにこれで我慢したげるんだから、感謝しなよ、ね」
 そうささやいて、姿を消した。
 後には、レンガの壁に背もたれて気を失っているハボックだけが、残された。

 ―――冷たい風に胴震いをして、ハボックは気がついた。
 ずきずきと鼓動に連動するかのように疼く左目を開けることはできなかったが、いつまでもここに呆けていたのでは、風邪をひく。
 のろのろと起き上がり、
「ざまぁない」
 自嘲せずにはいられなかった。


 バスルームには青白い光がともっている。
 鏡の中の自分の顔を、目の端に映す。
 目の隅には、青ざめ口角を自嘲に歪めた自分の顔。
 視線を上げたくなかった。鏡の中には、裏切りの刻印が穿たれた自分の目があるのだろう。
 そんなもの、見たくなかった。しかし、それと同じくらい、確かめずにはいられなかったのだ。
 だから、おそるおそる、視線を上げた。
 目。
 鏡の中から、自分を見返しているのは、明るい緑色の、目のはずだ。
 しかし、そこに刻み込まれた、己を喰らう蛇の紋章を、その意味を、少なくとも、左目に無理やり担わされた役割を、ハボックは知っている。
 ――――ひとおもいに、殺されていたほうが、ましだった。
 いや、それでは、あのひとを守ることができない。それどころか、あの、人ならざるものが、この姿で、笑ってあのひとを殺すのかもしれない。
 そんなことになるくらいなら。
 死ねない。
 なにがあっても、あのひとを守りたい。
 傍にいて、あのひとが野望を達成するところを、この目で見たいのだ。
 それには、この目は、あまりにも、邪魔だった。
 なら?
 なら、自分にできることは?
 とるべき道は?
 こくり――と、ハボックは唾を飲み込んだ。
 鏡の中の左目を凝視し、
「たとえ、左目だけだろうが、おまえには、やらない」
 名も知らぬ闇の化身に告げるともなく語りかける。
 そうして、ハボックは、指を―――――

「ぐっ」
 脳を貫く壮絶な痛みに、気力が萎えてしまいそうになる。
 それでも、今更、くじけるわけにもゆかない。
 血が、左目を貫いた指をつたい、タイル張りの白い床を赤く汚した。
 生理的な涙にかすむ右目の視界もまた、赤に染まっている。
 ハボックは、下唇を噛みしめ、最後の仕上げとばかりに、指をより深く突き刺し、抉った。
 たとえようのない苦痛に灼けつく視界。ハボックが最後に映したのは、赤い血の溜まりと、近づいてくるなにものかの足だった。



 闇をまとった少年が、気絶したハボックの脇にしゃがみこんだ。
 タイルの床に突っ伏して意識を手放しているハボックを、無造作に仰向ける。
「あーあ。もったいないなぁ」
 心底残念そうに独り語ち、
「ま、こうなる可能性もフィフティ・フィフティだとは思ってたんだけどね」
 肩をすくめる。
 血にまみれてなおのこと、色をなくして見える顔をつくづくと眺め下ろして、
「そんな情の強い(こわい)ところに……萌え、かな。…………まぁ、今回は見逃してあげるよ」
 つぶやき、無造作に、ハボックの彼自身が抉った眼窩に、手を当てた。
 刹那、バスルームを錬成の光が満たした。
 怜悧さをうかがわせるかの青白い光が消えた後、さきほどまでの光景が嘘であったかのように、そこには血の一滴も流れてはいなかった。



 気がつくと、目の前には白い顔と黒い瞳。
 覚えのある身を苛む熱に、
「ロ……イ?」
 つぶやいた途端、
「ひっ……あ………や、やめっ」
 咎めるように激しさを増した動きに、現実を思い知る。
 自分を抱いているのが、誰なのか。
 どうして、こうなったのか。

 ――闇をまとった人ならざる少年、エンヴィという名の彼は、ハボックを脅したのだ。

 ハボックが自分の目を抉ったあの後、今と同じように、目覚めた。
 名も知らぬ少年が、自分を苛んでいる、悪夢。
 目覚めて、見る、悪夢だった。
「気がついたんだ」
 硬直したハボックの耳に、
「左目は僕のって言ったろう。まったく。せっかく君を殺さずに済まそうと思ったのに」
(では、オレは殺されるのか)
 ハボックの思考をまるで読んだかのように、
「ばっかだなぁ……。聡いと思ってたけど、目を抉った後だからかな? さすがに、混乱したの? この僕が、殺すつもりの人間をわざわざ直すと思う?」
 治すではなく直す――と、そう言った少年のことばに、ハボックがゆっくりと目を瞬いた。
 痛みは鈍く残っているが、左の視界は、クリアだ。
 いっそ、クリアすぎるほどクリアだといってもいいだろう。
 闇に閉ざされているのに、左目だけは、部屋をくまなく見渡すことができるのだ。
 目の前の少年の顔も、はっきりと、見える。
 ―――見たくないのに。
 心のままに、ハボックが閉じようとした瞼を、乱暴に、抉じ開けて、冷たい闇色が彼の瞳を覗き込んだ。
「言っておくよ。その目は、僕と繋がっているから。僕は君の姿を奪わない替わりに、その目を貰ったんだからね」
 あまりの現実に、ハボックの心を絶望が浸してゆく。
「もっとも、何度抉っても、元に戻すけどね。だから、あまり、手間をかけさせるんじゃないよ」
(イヤだ。誰が、おまえの言うことなど)
 キッとばかりに睨みつけると、にやりと、冷酷そうな笑みをたたえて、
「次に、手間をかけさせたら、君の大切な大佐どのの目の前で、君を喘がせるからね」
 そう、止めを刺したのだ。

 あれから、幾度、こうして、抱かれたのか。
 忌々しい熱に浮かされたような頭で、ハボックは考える。
 まさか、こういうことまで、日常的に強いられるとは、思ってもみなかったハボックである。
 あの日のあれは、この少年独特の、ジョークだと、そう思い込んでいた。
 なのに、違ったのだ。
 決まって、大佐に抱かれた次の日、この、少年は、自分を抱きに来る。
 大佐の愛情にくるまれた、幸せな記憶を、打ち砕くために。
 逃げることはできないと思い知らされ、諦め、受け入れることを覚えた。
 後に、じくじくとした自己嫌悪を噛みしめることにも、慣れた。
 裏切り者だと、苦い思いにも、いつか、慣れる日が来るのだろう――か。
 けれど――と、ハボックは決意を新たにする。
 けれど、必ず―――――と。
 この身は、この、人ならざる少年の傀儡(くぐつ)と堕ちようと、最後には、必ず、ロイ――あなたのために、この身を投げ出しますから。
(そのとき、オレは、笑って死んでゆけるでしょうから)
 知らず、ハボックが、その口角にやわらかな笑みを刻んだ。
 見下ろす黒瞳が、それを見咎め、刹那、剣呑な光を宿す。
「う……ぐっう」
 激しさを増した少年の動きに、ハボックの涙腺から、涙がとめどなく流れた。
「懲りないねぇ、君も。今、君の相手をしているのは、僕でしょ? 大佐どののことを考えるなんて、マナー違反だよ」
 クスクスと意地悪そうに嗤いながら、少年が、耳に声を吹き込む。
 ハボックは、からだの奥に、少年の滾る熱が弾けるのを感じ、意識を飛ばした。

 闇をまとった少年が、自身そうとは気づかない、なにがしかの感情をたたえたまなざしで、ハボックを抱きしめた。
 熱が冷めた後、少年の姿をした漆黒が、
「君は、僕の――だから、ね」
 ねついものを含んだ声で、囁いたのを、ハボックが知ることは、ない。

 深い闇が、しんしんと、音もなく、ハボックとエンヴィとを包み込んでいった。


End

あとがき
 微妙に、『夜の底』とかぶるような気がする。けど、まるっきり別のお話です。
 痛くて、シリアス――になってしまいました。誰も死なないけど、こっちのほうが結構辛いかも。
 目にウロボロスの刻印は……最初はね、最初に目をエンヴィが抉って、それで、別の刻印つきの目を入れられる予定でしたが、そんな相手に抱かれたりしたらあんまり酷くて痛いかなぁと、思って、やめました。うう。所詮、私の想像力なんて、こんなもんです。左右を変えるほうがあざといだろうというので、そのままです。しかも、ハボさん自分で抉るから、こっちのほうが、余計に酷くて痛い気がする。
 けど、読み直してみると、ハボさん、もしかして、へたれてるかも? 最初は、ロイさんに対してプラトニックの予定だったのに〜。そっちのほうが雰囲気あるかなと思ったのですが、蓋を開けると、しっかりできてましたxx
 あと、下書きが、一人称と三人称の混在文章でしたので、人称がラリってるかも。
 少しでも、楽しんでいただけるといいのですけど、だ、大丈夫でしょうか?
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