不条理な





 いったい、何がきっかけだったのだろう。



 動くことすらできやしない。
 苛々する。
 天井をにらみつけながら、俺ことジャン・ハボック少尉は、ほかに自分ができるほぼ唯一のことに、集中した。
 唯一できること。すなわち、考えることである。
 煙草を吸いたいということは、この際考えないことにする。動けないのだから、吸えるわけもないのだ。
 俺は、大きく深呼吸をした。
 ガチャリ―――
 ドアの開く音がして、ひとの入ってくる気配があった。
 からだが自然と強張るのを、忌々しく思う。
 あんなことなど―――――と、思い込もうとする。
 そうだ、あんなことだ。
 軍の寮では、それとなく日常茶飯事に噂があった。
 ただ、自分がそんな目で見られているなどと、考えたこともありはしなかっただけで。
 誰が、身長百八十はある大の男を押し倒したいだなどと思うだろう。
 ヤローがヤローを押し倒して、何が楽しいんだ。まぁ、もともと同性が好きだという場合は、この際おいておいて、の話である。
 なのに、いたのだ。そんな、酔狂極まりないヤツが。


 俺の身の回りが、不穏になったのは、一人前の軍人として、イースト・シティに着任してからだ。そう、当時、俺は、士官学校出たてで、官位こそ少尉だったが、まだまだ、初心(うぶ)なひよっこに過ぎなかったのだ。

 上官のマスタング大佐は、女好きで有名だから、そんなことなど考えもしなかった。
 何気に肩を抱かれたり腰に手を回されたりしても、男同士ならいくらでもあることだ。そう思っていた。
 そんなある日のことだった。
 今日は定時で帰れるなと、伸びをしたときだった。
「ハボック少尉、大佐がお呼びよ」
 ホークアイ中尉にそう言われたのだ。
 がっくりと肩を落として、俺は、咥えていたタバコをもみ消した。そうして、大佐の執務室のドアを開けた。
 珍しく書類がすべて片付けられているすっきりとしたデスクに両肘を突いて、大佐がにこやかに笑っている。
 その笑顔に、なぜか不穏なものを感じたのは、決して窓から入ってくる夕日のためではなかっただろう。
 まぁ、どんなに厭な予感がしたからといって上官の命令を断ることなど端からできないのだから―――そんなことしようものなら、軍法会議か訓告か―――と、俺は腹を括ることにした。
「何の用っすか?」
 ぶっきらぼうな態度をとってしまったのを大人気ないなと後悔しても、後の祭りだ。
「大事な話があるのだが」
「仕事っすか?」
「いや、そうじゃない」
「はぁ――――」
 仕事じゃないなら何なんだ? プライベートで大佐と話すことなんてないはずなんだが。
「私は、君を、欲しいと思っているのだが、ね」
と、とんでもないことを言ってくれたのだ。
「はへ?」
 大佐のことばを飲み込むまで、少し時間が必要だった。
 そうして、その意味を正確に理解するまでに、もうしばらく。
 煙草が欲しい、そう思った瞬間、俺は大佐のことばをすべて把握した。
 途端、俺は、むせこんだ。
「大丈夫かね?」
 胸を叩き、涙にかすむ目を開いて、俺はいつの間にかすぐ目の前に来ていた上司を見た。眉間に刻まれている縦皺に、大佐の苛立ちを感じたような気がして、俺の背中に、少し前に感じたばかりの不穏な予感が這いずりのぼった。
 それを打ち消すように、俺よりも背の低い大佐を見下ろして、
「じょ、じょーだん、っしょ?」
 それだけ言うのがやっとだったというのに。
 なのに、
「いや、まじめな話なんだがね」
 大佐は、俺の目を凝視して、ゆっくりとそう答えたのだ。
 目尻の切れ上がった黒い目が、夕日の赤を弾いている。
「…………」
 俺は、何を言えば良いのか、皆目見当がつかなかった。
 しばらく頭をひねり、俺がどこかで勘違いしているのだろうかと、一縷の望みを口にしてみた。
「部下としてっすよね」
 クスリ―――と、含み笑いが耳に届いた。
 同時に、耳朶を軽く引っ張られ、
「プライベートだと言っただろう」
 ゆったりとささやかれた瞬間、俺は、俺のくちびるに、噛みつくようなキスを受けたのだった。
 耳を引っ張られ、頭を抱えられ、そうして無理やりに受けさせられた、キス。
 俺は、何が起きたのか、起きているのか、わからなかった。
 俺の視界いっぱいに、大佐の黒い目があった。
 冴え冴えと、その奥に秘めたるなにかがあると、つい惹きつけられてしまうような、そんな強いまなざしだ。
 いや、そんなことは、どうでもいい。
 息を継ぎたくて必死に抵抗をするのだが、どこにそんな力があるのか、大佐が俺を拘束する力は、わずかもゆるまない。それどころか、あまりに深いキスに注意力がおろそかになって隙をつかれて、足を払われてしまった。
「っ、はぁ」
 肺いっぱいに新鮮な空気が流れ込んでくる。
「存外初心(うぶ)だね、少尉」
 楽しそうなささやきに、我に返ると、俺は、床の上に、押し倒されている状況で。
「た、大佐っ」
 ただでさえ無様な悲鳴が、ひっくり返ったよりいっそう無様なものになった。なぜなら、大佐が、首の付け根に歯を立てたからだ。からだが、自然と跳ねるのを、どうしようもない。その一点から、ゾクゾクくるような、こそばいような痛いような、そんな感覚が全身へと広がってゆく。それは、じわりとある場所をも煽る熱で、俺はもう、泣きたかった。
「クッ」
 含み笑いをこぼしながら、大佐の手が、くちびるが、俺の全身を這いずり回った。


 あの日から、俺は、大佐が怖くてならなくなった。
 大佐の視線が、ちらとでも俺を捕らえようものなら、背中がきりりと引き連れたようになる。声をかけられようものなら、触れられようものなら、悲鳴を上げそうになる。それくらい、あの日の出来事は、ショックだったのだ。
 昼休み、こうして大佐の目を避けて、室内練兵場の壁に背もたれて空を見上げているわずかな時間だけが、唯一気を抜くことができる一時だった。
 逃げたい。
 なのに、逃げられない。
 誰かに助けて欲しかった。
 けれど、あんなこと、誰にも知られたくない。
 ただでさえ、ことあるごとに俺を呼びつける大佐に、周囲から変な目で見られているのだ。そう、呼び出されれば、従うしかなく、従えば、小一時間は解放してもらえない。変な目で見るなというほうが、無理があるだろう。
 逃げたい。
 大佐の執着に、これまで培ってきた自分が自分でなくなるような―――それは、戦慄だった。
 しかし、ここで転属願いをだそうにも、サインをするのは、大佐だ。
 ばれたときのことを考えれば、ぞっと、全身に粟が立つ。
 なにをされるか、わからない。
 愛している――と、ささやかれ、答を強要される苦痛。少しでも抵抗しようものなら、あの白く端正な顔が、歪む。その、からだの芯から凍えそうになるほどの、恐怖。
 男の俺が男に、そうされてしまうことの、不条理。俺が男が好きだというのなら、まだしも。
 こうまでされて、軍を辞める気にならないのが、不思議といえば不思議だったが、それゆえにこそ、逆に言えば、あまりにも、手詰まりで。
(どうすればいいんだろう)
 煙を吐き出す。
 ゆるゆると空に向かって薄く延びてゆく紫煙を、目で追っていた。


「はっ……う」
 精一杯伸ばした手が、空を引っ掻く。
 からだと心とが噛み合っていないからだろうが、どうしたって、快感よりも、苦痛がまさる。
「私から逃げたいか」
 意地悪くささやく声が、脳にからみつく。
 無意識に首を縦に振っていたのだろうか。
「!」
 突然深く穿たれて、俺は意識を飛ばした。
 せっかく定時で上がれると思えば、呼び止められて、なし崩しにこうなる。それがいやで抵抗すれば、いっそう激しくなる。抵抗するから面白がるのかと、抵抗しなければ、否が応でも俺の羞恥を煽ってくるのだから、どうもこうもない。
 もう、解放して欲しい。
 もう、このひとの目が届かないところに行きたい。
 もう、精神的にも肉体的にも、限界だった。


「本当にいいの?」
 気遣わしげな中尉に、
「はぁ、田舎の兄がどうも調子が悪いみたいなんで」
 兄よりも俺に家を継がそうとしていた親父に反発して、士官学校に勝手に入ったせいで、親父には勘当されている。これは、まぁ、事実だが、兄が体調を崩したというのは、口からでまかせである。
 軍人の俺を捨てたくないから、手詰まりになるのだ。
 手詰まりを解消するには、軍人であることに拘らないことだ。
 昨夜、俺は、決意した。
 辞表を出して、ここ以外のどこかへ姿をくらまそうと。
 さっさとそうしてしまえばよかったのだ。
 仕事の引継ぎをばっくれてしまうつもりでいるのは、無責任でいやだが、このさい許してもらおう。
 もう、これ以上は、本当に俺が限界なのだから。
「しかたないわね。じゃあ、一応預かっておきますから」
「よろしくおねがいします」
 頭を下げて、今日は通常通りの仕事につく。
 今日の仕事を終えたその足で、俺は、イースト・シティを後にするつもりだった。


 そうして―――――


 就業後、珍しく大佐に捕まらずに司令部を出ることができた俺は、まっすぐ駅に向かった。
 まさか、大佐と出くわすとは思っても見なかったからだ。
 口角に酷薄な笑みを刻み、大佐は、俺を見て、
「ハボック少尉、どこへ行くのだね?」
 そう言った。
 その表情は、端から俺の計画などお見通しってとこか。
 一気に脱力した俺は、二の腕をつかまれ、まるで連行される犯罪者のように大佐に引きずられていったのだ。
 つれて行かれたのは、大佐の家だった。
 まさか、こんなことで大佐の家に来るはめになるだなどと、考えもしなかった。
 居間で、ほぼ無理やり酒を飲まされた。
 計画が頓挫したからには、今更拒んだところで仕方がないと、腹を括ったのだ。
 はじめてじゃないし。とりあえず、大佐も俺をいたぶれば満足するだろうと、そう思ったのだった。
 しかし、それは、甘かった。
 気がついたとき、俺は、既に、動けなくなっていたからだ。


 意識はある。
 目も見える、耳も聞こえる。口だって、利ける。
 ただ、それ以外の身体機能が、麻痺したように、動かない。
 国家錬金術師は自分の得意分野以外はできない――すなわち専門馬鹿ということだな――ように思われているが、決してそうじゃない。すべての錬金術師が同じ基本の上に存在するのだから、得意不得意は別として、全分野の知識が備わっているというのが、本来は正確な認識なのだろう。
 ともあれ、俺が閉じ込められている部屋に入ってきたのは、ロイ・マスタング大佐だった。今日の仕事は終わったのだろう。
 なにかのスープの匂いが、ただよってくる。
「腹が減っただろう」
 そう言って無理やり、スプーンで掬ったスープを流し込んでくる。
 抗う気力すら、ない。
 食堂を通り胃の腑におさまるのは、朝、食べてから、十数時間ぶりの食事だった。
 あの日から何日目になるのか。
   大佐は言う。
 これは、俺が大佐から逃げようとした、罰なのだと。
 もう逃げないと誓うなら、解放してやろう。そうも言う。
 ただし、大佐の手の内から逃げることは、許さないと。
 もう、それでも、かまわない―――肯(うべな)おうとする俺と、イヤだ―――となおも抵抗しようとする俺とが、同時に存在する。
 大佐はそんな俺に触れながら、俺を陥落させようと執拗になる。
 投げやりな俺は、大佐の手に、くちびるを寄せようとする。
 しかし、そうでない俺は、牙を剥く。
 そんな俺に、大佐は、
「まだ、私のものにならないのかい」
 そう言って、昏(くら)い嘲笑を口角に刻むのだ。
「いいかげん、私のものになってしまえばいいのに」
 そうすれば、ここから出て行けることは、百も承知だけれど。
 屈しようとする自分と、抵抗を続ける自分、どちらも俺なのだった。



おわり
from 9:19 2004/01/12
to 15:38 2004/01/12

あとがき
 オチが、変。
 オチが、ない?
 収拾がつかない。
 完璧パラレルだと思ってください。
 ロイさんがどーしてこんなにはボさんに嵌ってるのかも、触れてません。
 ハボさん視点だけだと、彼が混乱してるから、彼自身にもわからないのね。
 ロイさん、欲しいとか私のものになれとしか言わないから。
 このロイさんって、エンヴィーでも、大総統でも、オッケーな気がする。
 書きながらあまり書き込んでないもんな〜と、そう思っておりました。
 少しでも楽しんでいただけるとうれしいんですが、微妙ですか? スミマセン。
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