就眠儀式 2




U ロイ


 瞼をもたげる。
 見えるのは、ただ、闇ばかり。
 かすかに、矩形をかたどった明かりが見えることもあれば、漆黒のこともある。おそらくは、陽射しが入っている時もあるのだろう。
 しかし、私は、頑なに、陽射しを、明かりを、拒んだ。
 ひとの気配を、感じる。
 あれが来たのか――と、無様に全身が強張った。
 心臓が引き攣れたように、悲鳴をあげる。
 私の血を啜る、何人目になるのか、もはやわからなくなった、人間の男。
 首に喰らいつかれるあの怖気には、どうしても、慣れることができない。
 私の皮膚を噛み破り、血管を傷つけ、流れ出す血を、心ゆくまで啜る、人間たち。
 おそらく、私の血を、万能の薬と、信じているのだろうが。

 嘲ることは、簡単だ。しかし、この身は、私が嘲る人間に囚われている。

 ああ………。
 私はいったい、いつから、こうして閉ざされつづけているのだろう。
 私は、なにものなのか。
 竜――と、呼ばれることはあっても、それは、私の本質ではない。もとより、名前ですら、ない。
 一番古い記憶を掘り起こそうと試みるも、もはや、白い霧の彼方に、ぼんやりとした断片が浮かぶばかりだ。
 ただ、ずっと、なにかから逃れ、捕らえられる――その繰り返しだったような、そんな、朧な記憶はある。
 だから、この瞼を開けるのも、まれのこと。
 そう――――
 私は、疲れ果てていた。
 飽きていたのだ。
 なにに?
 逃げることに。
 囚われることに。
 なによりも、存在することそのものに。
 だから、血を啜られることを恐れながらも、私は、逃げることを放棄していた。
 なにかの罰のような、最悪の連環は、もう、いい。
 ただ、流れに任せて、その果てに、朽ちることができるなら、それで、かまいはしない。
 私が、なにものであろうと、竜であろうとなかろうと、朽ちることを夢見ているだけなら、関係はない。
 そう。
 うつらうつらと、ただ、夢に漂い、最後の日を、夢に見る。
 永劫の、静寂を。
 永遠の、安息を。
 私の望みは、もはや、それだけだったのだ。


 まばゆい―――
 瞼を通しても感じるまばゆさに、私は、かすかに目を開けた。
 私を覗き込んでいる、明るい緑のまなざし。
 ――――番人が代わったのか。
 まだ幼さの残る顔立ちの少年の瞳には、これまで私が見たことのない、何か心をざわめかせる色が、宿っているように見えた。
 どうでもいいことだ。そう思った私が再びまどろみの淵を逍遥していると、何か重いものが倒れたような音を、聞いた。
 もう一度目を開くと、先ほどの少年が、私のすぐ側に、倒れているのが見えた。
 どうでもいい。
 もう一度眠ろうとした私の脳裏を、見たばかりの少年のまなざしが、よぎって消えた。
 頬を、冷たい風が、撫でて去った。
 人間には、冷たい風だ。
 死なれでもすれば、また別の人間に眠りを妨げられるに違いない。どたばたと、大勢の人間が、やかましく周囲を蠢くのは、ごめんだった。それくらいなら、限られた人数のほうが、はるかに、ましである。
 ――この距離なら、手が届くだろう。
 私は、少年に手を伸ばし、萎えた手に力を込めて、抱きしめた。
 高い体温が、私の冷え切っているからだに、じわり染みてゆく。
 温かい。
 私は、少年を抱え込むようにして、どこかいつもとは違う眠りへと、戻っていったのだ。


 腹の上に抱え込んだあたたかなからだが、身じろぐ気配があった。
 ガチャリと、私の血が練りこまれている、鋼の鎖が音をたてる。
 私の意識は、目覚めていた。
 それでも、この新たな番人がどのような人となりをしているのか知るまでは、うかつに動くまいと、決意していた。
 こども特有の高い体温が、薄らいでゆく。
 ぐぅと鳴ったのは、少年の腹だろうか。
「やばい。飯食いっぱぐれる」
 少年の遠ざかってゆく足音が聞こえなくなった。
 私は、知らず、笑っていた。声にはならない笑いに気づいて、私は、自分がまだ笑えることを知ったのだ。
 少年が戻ってくるまでの時間を、どれほど長く感じただろう。
 少年がいなくなった空間は、今まで以上に、寒々としているように感じられた。
 ひとのぬくもりが、少しずつ冷めて、失せていった。取って代わったのは、しんとした、いたたまれなさ。
 自分で自分を信じることができなかった。
 少年が戻ってきた途端、この空間が、不思議とあたたかいように感じられた。
 閉ざしていたすべての感覚、感情が、解き放たれてしまいそうで、それが、不安で仕方なかった。
 どんな少年なのか、まったく未知の相手に、この感情の揺らぎは、あまりにも、危うい。
 今に慣れていれば、それでいい。
 慣れた環境を、壊すのは、不安だった。
 受け入れてはいけない。
 私の望みは、朽ちることだけなのだ。
 そう。
 なにものにも犯されない、存在の消滅。
 それだけを心の拠り所に、まどろんでいなければならない。
 そうでなければ。
 そうしなければ、私は………。
 必死になって、私は、蠢く感情を、硬く閉ざしたのだ。

 少年の私に対する接しかたは、これまでのどんな人間よりも、穏やかなものだった。
 これまで、どんな人間にも反応することがなかった私の心が、たったひとりの少年に、あっけなく、蠢きはじめていた。
 頑なに瞼を閉ざし、意識を閉ざした私の上半身を、その膝に抱き上げ、蜜や水を流し込む。そっと、髪に触れてくる感触や、身なりを整えるために触れてくる手の動き。
 それらを無視しつづけることは、じりじりと内臓がよじれるような、落ち着かなさを私に覚えさせた。
 苦しい。
 どうしようもなく。
 もどかしい。
 それでも、私は、少年を無視しつづけたのだ。

 それが、徒労に終わったのは、ある、寒い夜のことだった。
 いつもよりも冷える――ぼんやりと思っていた。
 人間は震えていることだろう。
 食事も、寝る前の身づくろいも、少年の手で、済まされていた。
 もう、彼も、眠るだろう。
 ぢりぢりと燃える灯が、瞼越しに見えていた。
 あれが消えれば、少年は、眠る。
 少年の習慣など、疾うに覚えてしまった。
 意識しないようにと思えば思うほど、少年の行動に、私は意識を研ぎ澄ましていた。
 ふっと、灯が消えた。
 ああ、眠るのだな。
 そう思って、私が寝返りを打った時だった。
 ふいに、私を、あたたかな空気が取り囲んだ。
 疑問を感じるまでもなかった。
 少年の体温が、私の背中を覆い、ふわりと、少年の匂いが、私を包み込んだのだ。
 思いもよらない出来事に、私の全身が無様に凝りつく。
 私は、少年の吐息を耳元で感じながら、その夜、ついに、眠ることはできなかったのである。


 背中に少年の吐息と体温とを感じながら、まんじりもせずに、朝を迎えた。
 起こしてしまいそうで、身じろぐことを控えていたが、さすがに、からだが、痛い。そっと、少年を起こさないように、寝返りをうった。
 寝返りひとつうつのに、かなりな覚悟がいる。
 からだが、ひどく鈍って(なまって)いるのを、意識した。今まで、そんなこと、考えもしなかったのだが………。なぜだか、この少年は、その存在だけで、私の心を、掻き乱すようだ。
 はねている金の髪に、触れたい――と、そう思った。
 手を、もたげてみる。鎖が、枷が、ひどく重い。
 やっとのことで、触れてみれば、思ったよりも硬い毛質だった。その手触りに、心惹かれた。ずっと、触れていたいと、そう、強く思った。
 何度も、少年の髪を、飽きることなく、撫でた。
 そうしているうちに、撫でているだけでは物足りないと、感じたのだ。
 眠っている少年ではなく、目覚めている少年を見たい。
 そんな私の思考が伝わったかのように、少年の瞼がぴくりと動いた。
 願いが叶うなどと思ってもいなかった私は、なぜだか、酷く緊張した。
 そうして、強張りついた私の視線の先で、少年は、ぼんやりと、うつろな視線をさまよわせたのだ。
 黒い瞳孔が、私を捉えた刹那、凝固した。
 途端、少年は飛び起き、そのまま足を掻い巻きにとられて、後ろざまに倒れた。
 どすん――と、痛そうな音が、私の鼓膜を震わせた。
「ってぇ……」
 少年が、腰をさすりながら、起き上がった。
 そうして、私のすぐ傍にしゃがみこむと、
「よお。目が覚めたんだな」
 そう言って、私の前髪を掻きあげたのだ。
「飯食ったら、髪切ろうな。起きれっか?」
 私の目を覗き込み、ニッと少年が、笑った。
 トクン――と、ひとつ、私の心臓が鼓動を刻んだ。
「……………」
 起きれない――と、伝えたかった。けれども、私の喉は、麻痺したように、空気を震わせることはなかった。
 無様に、ぱくぱくと口が動くだけだった。そんな自分が苛立たしくて、惨めに思えてならなかった。
 そんな私を小首を傾げてみていた少年は、
「ず〜っと寝てたんだから、喋れなくてもしかたねぇよな。ほら、手、こっちに」
と、理解してくれたのだ。
 だから、私は、鎖と枷の重みを耐えながら、少年の肩に手を乗せたのだ。そのまま、背中に、手を、回す。そのほうが、私を起こすには楽だろうかと考えたからだった。
「よっと」
 掛け声をかけて、少年は、私の上半身を抱き起こし、壁に背凭れかけさせてくれたのだ。
 離れてゆく少年に、手を伸ばしかけ、できなかった。しなくて良かったと、すぐに思った。なぜなら、少年は、私の食事を整えてくれただけだったのだ。
 清水と、蜜。
 木のさじを差し出してくれたが、もう、私の腕は、限界だった。
 持ち上がりもしない。
 無様だ―――。そう思った時、
「わかった。口、開けてな。食わしてやるから」
 あまりにも、私のからだは、鈍ってしまっている。
 なぜだか、そのことが、どうしようもなく、腹立たしく、恥ずかしく思えてならなかった。
 
 心騒ぐ、それでいて平和な日々が、あっという間に、流れ去った。
 ジャン・ハボック――と名乗った少年に、私は、いとも簡単に馴染んでしまっていた。

 そうして、その日が、訪れたのだ。

 私は、うかつにも、忘れていた。
 自分の境遇を、自分がなぜここにいるのかを。
 この部屋のドアが開き、見慣れたふたりが現れるまで、ほんとうに、忘れていた。
 侵入者が手にした蝋燭が照らすふたりを見た途端、私の心拍数が、跳ね上がった。
 背中にしていた板壁が、消えてくれないかと、本気で願った。もちろん、そんなことが起きるはずがないのは、百も承知の上でだ。
 震えるからだを、どうやって抑えればいいのか、私は、わからなくなっていた。
 私の恐怖を、ジャンは感じ取ったのだろう。
 強張りついたこの部屋の空気。
 じりじりと燃える、蝋燭の、炎。
 弾かれるように、「やめろ」と叫び、男たちにかかっていったジャンが、あっけなく振り払われて、床にうずくまる。
 助け起こしたかった。
 大丈夫なのか、確かめたかった。
 しかし、私は、満足に動くことさえできないままなのだ。
 どんなに、自分自身を情けなく思ったか。
 近づいてくる二人。
 やがて、若い男が、私を背もたれている壁から引き離し、押さえ込んだ。
 全身が、震える。
 着衣の合わせをはだけられ、ひたり、と、もうひとりが、私の肩に手をかけた。
 そうして、男は、私の首に、吸いついた。

 ただ、私の血を、飲み続けるよりない、哀れな男が、私の首にかじりついてくる。皮膚を食い破られる痛み、血を啜られる、熱を奪われる、不快な感触。おぞけがたつほどの恐怖に囚われながら、振り払うすべすら、なかったのだ。

 緑色のまなざしが、私を、見ていた。

 ああ、無事だったのだ。
 そう思うと、不思議とからだの震えが、おさまった。
 ジャンに、こんな私を、見ていて欲しくなかった。
 だから、
 ――見るな。
 そう、告げようとした。
 おろかにも、空気を震わせることすらできない喉で、くちびるで、そう、言った。

 そうして、私の意識は、薄らいでいったのだ。



 ぼんやりと、ジャンが差し出す水を、見ていた。

 喉は、渇いていた。
 かさかさに乾いたくちびるが、じんと熱を持っている。
 差し出されている椀に、手を伸ばしたかった。しかし、血を啜られた後の、すざまじいまでの倦怠が、私を捉えて、放さない。
 椀を受け取ることもできず、ただ、呆けたように、ジャンを見上げつづけていた。
 口元に椀の淵をあてがわれたが、口を開くことさえ億劫だった。
「頼むから飲んでくれ」
 辛そうな、ジャンの声に、口を開こうとしたが、乾ききったくちびるは、貼りついていた。
 今にも泣き出しそうなジャンを、慰めたくて、どうにかして飲みたかった。しかし、どうあがいても、くちびるひとつ開くことができなかったのだ。
 すまない――――泣くな。
 そう、心の中でつぶやいた時だった。
 ジャンのくちびるが、私のくちびるに触れた。
 ジャンが送り込もうとする清水が、くちびるの乾きを解きほぐし、じわりと開いたあわいから、水がしみこんでくる。
 その、水の味を、私は、おそらく、忘れることはないだろう。
 私の渇きを、真から溶かしてくれそうな、なによりも甘い、水の味だった。
 甘露というのは、こういうのを言うのかもしれない。
 そんなことを思いながら、私は、倦怠の淵へと沈み込んでいったのだった。

 目覚めは、あたたかかった。
 男たちが私の血を啜った後の目覚めは、いつも寒く震えが止まらなかった。しかし、今回の目覚めは、違っていた。
 ジャンの髪の毛が、私の鼻先を、くすぐる。
 私を抱きしめ、ジャンは、眠っていた。
 ―――おまえのおかげか。
 とても、嬉しくて、私は、ジャンが目覚めるまで、ただ、ジャンを見つめつづけていた。

 その日から、私は、少しずつ、からだを動かすように努めた。
 無様な自分が、あまりにも、ジャンの負担になるような気がしてならなかったのだ。
 今の私には、ジャンに何も与えることはできない。
 それどころか、どれほど私が感謝しているのか、告げることすらできないのだ。
 私は、ただ、ジャンのためだけに、これまでの無為を、恥じた。
 そんな私を、ジャンは、喜んでくれた。
 私の手や足の強張りをほぐそうと、さすってくれた。
 そうして、ある日、
「そうだ!」
と、満面の笑顔で、私の顔をのぞきこんできた。
 まだ、私の喉は、音をうまく紡ぐことができなかったが、首をかしげるだけで、どうしたんだろうということくらいなら、簡単に伝わる。
「竜。竜って、なんか呼びにくいしさ、名前をつけても、いいかな?」
 本当の名前があるんなら、そっちを教えてくれる?
 褐色のまなざしが、きらきらと、輝いていた。
 本当の名前など、疾うに、忘れて久しい。あったのかどうかも、実を言えば、定かではない。
 だから、私は、ジャンを指差して、首を縦に振ったのだ。
 そうして、ジャンが私に与えてくれたのは、ロイという、名前だった。
 自領にいたころ城を訪ねてきた、吟遊詩人の名だと、いずれ、彼のように、自由に気ままに、囚われの身から解放されるように――そんな願いを込めたのだと、恥ずかしそうに、頭を掻いた。

 だから、その日から、私は、ロイという存在になったのだ。


 三年が過ぎた。


 三年の間に、私は、ジャン・ハボックに関するさまざまなことを、知った。
 たとえば、ジャンが、隣国との人質であることや、隣国には、彼の伯父兼養い親である、城主夫妻、そうして、ジャンがこちらに人質になった後、二年ばかり前に彼の従妹がうまれたこと。
 そうして、彼の嗜好――食べ物は、甘いものは好きだが、野菜の類はあまり得てないことや、あまり着るものには拘らないこと、眠ることが何より好きなことを、知った。実は恐がりなこととか、明るくて押しに弱く、なによりもやさしい性格を、知った。
 ぽちゃぽちゃしていたからだの線が、この三年ですんなりと伸びた。あまり外に出る機会がないせいで、肌の色が白くなり、肩甲骨の下まで長くなった髪を、いつも目の色と同じ組紐でひとつに括っている。
 後頭部でひとつに束ねられている髪が揺れるのを見るのが、私は好きだった。にっこりと楽しそうな、にへらと照れくさそうな、笑顔を見ることが、なによりの楽しみだった。
 苦しいのは、辛いのは、私のために、ジャンの顔が、曇ることだ。ゆがみ、褐色の大きな瞳に、じわりと涙がにじむ。それが、すべて、私のせいだということを知ればこそ、胸が潰されるほど、痛んだ。
 私の首を裂く、城主の犬歯の鋭さなど、傷口をつつく舌のぬめりなど、血を啜られると同時に熱が奪われてゆくことなど、ジャンのあのまなざしの前には、なにほどの苦痛でありはしない。
 せめて、ジャンに、私のさまを見せたくなくて、城主の気配を感じれば、スクリーンの奥に隠れているように、約束させた。
 もっとも、ジャンは、なにが行われているかを知っているから、私の気休めにしか過ぎないのだろう。
 そんな夜、城主たちの姿が塔から消えた後、ジャンは私を抱きしめて眠ってくれた。
 しかし、それは、最初の間だけ。
 ジャンの匂いが、ぬくもりが、鼓動が、私をひどく安心させてくれるのだ。言葉を取り戻した私がジャンて彼に言ったのは、そんなひとことだった。たどたどしい私の言葉に、しばらく後頭部を掻いていたジャンは、その夜から、毎晩、私を抱きしめて眠ってくれるようになった。
 ジャンに包まれて眠ることが、どれほどの至福なのか、彼は、知らない。
 かつてほどではないにしても、動くに支障ないほどになった手で、ジャンを掻き抱きたい衝動を、毎晩私が堪えていることを、ジャンは、夢にも思わないに違いない。

 私などが―――ジャンを、自分のものになどできるはずがないではないか。
 自虐的に我が身を振り返りながら、私は、ジャンの寝顔をいつまでも見つめつづける。
 それが、私の、就眠儀式だった。


 よくも、私の現状を三年間も知られずに済んだと、今になって、感心する。


 番人であるジャンに、すべてをまかせっきりだったからだろう。
 彼らがおとなうのは、いつも、夜。十日ごとの、深夜の儀式。深夜にふさわしい、吸血の、儀式である。

 どんと荒々しく置かれた、水と蜜の入った器。
「食え」
 とげとげしい声が、降ってきた。
 ジャン――――
 ジャンに会いたい。
 私のもとからジャンの姿が消えて、既に、九日になっていた。突然の喪失に、私は、何もできなかった。
 あの日、着衣を乱して塔に戻ってきた彼を思い出す。城主が、ジャンに手を伸ばしたのに違いない。
 それを思えば、じりじりと、胸が焦げる思いがする。
 無事でいるだろうか。 

 今宵、また、彼らがやってくる。
 しかし、ジャンはいないのだ。
 私を抱きしめてくれる、あの腕も、ぬくもりも、吐息すら、感じられない。

 食べなければ。
 せっかく、ジャンが、私の声も動きも取り戻してくれたというのに、また再び元の木阿弥では、申し訳なさすぎる。
 からだが、ふらつくのは、視界がかすむのは、ジャンが塔から連れ出されてこのかた、眠っていないからにほかならない。

 ―――眠れない。

 せめて夢でなりとジャンに会いたいという願いすら、叶わない。

 今度の番人がたてる、うるさいほどのいびきを聞きながら、暗闇の中、わたしは、ただ、闇を見つめて朝を迎える。

 ―――食べなければ。

 ―――力をつけておかなければ。

 今宵は、彼らが私の血を求めてここまで上ってくる。

 ジャン―――

 私の中で、ひとつの決意が、ゆるやかに、形をとろうとしていた。



V ジャン


 ボルティモアの手が、オレの手を掴んだ。
 忘れていたつもりはないのだが、ロイのことばかりが気にかかって、対策を考えていなかった。結果的に忘れていたのと同じことだ。
 何?
 ボルティモアに押し倒されかけたことだ。
 そりゃあ、まぁ、オレだって一応騎士だし。男同士でするそういうことが、戦場ならある種の嗜みだってことくらいは、知ってる。けど、これまで一度も戦に出たことがないわけで、ずっと塔で仕事してたオレは、それに関する作法やもろもろなんか、学ぶひまも、機会もなかった。
 当然、心の準備もないわけで………。
 小姓たちの控えの部屋から、オベールに呼び出されて、案内されたのは、ボルティモアの部屋で、厭な予感がした。
 したからといって、逃げるわけにはいかないのが、城勤めの辛いところなのだろう。ただの城勤めですらそうなのだから、人質であるオレに、拒否権などもとよりない。
 この間は、ロイに関するどさくさで、お咎めなしだったが、今回も同様ってわけにはいかないんだろう。
 この辺で、腹を括らんといかんのだろうなぁ。
 ボルティモアの手が、着衣の袖口から、するりと入り込んで、オレの腕を撫で上げる。ぞわりと、背中を走り抜けたのは………どう分析してみても、快感なんかじゃなかった。
 男にというか、ボルティモアにこんなことされるっていうのが、厭なんだけど。
 ボルティモアのこと、オレは、好きじゃない。好きになれない。こういう感情など、邪魔なだけだろうけど、やっぱり、そういうことするなら、せめて、最低限は、好きなヤツとしたほうが、気分的に違うんじゃないかなぁと、思うわけで。
 好きなヤツ………いないよなぁ。
 そう思った瞬間、頭の中に浮かんだのは、ロイの白い顔だった。
「うわっ」
 思わずのけぞったのは、他意があったわけじゃない。
 あまりにも思いがけなかったことに、自分でびっくりしてしまっただけで……。
 気がつけば、ボルティモアの手を振り払っているオレがいた。
 気まずい沈黙に、どうすればいいんだろうとか、はやく謝んないととか、怒ってるんだろうかとか、思考がぐるぐるとまわっていた。
「あ……と、すみま…………っ」
 とりあえず謝らないとという選択肢を選んだオレが、最後まで言葉を口に刷るより早く、ボルティモアが、オレの着衣に手をかけた。
 無言のままの行為に、気まずさなんか吹き飛んだ。
 恐い。
 正直なところ、それだけしか、頭になかった。
 だから、オレは、無様にも――いや、多分、知らないが、作法的にはそうなるかもしれない――ボルティモアの腹を、蹴たぐってしまっていたのだ。



 あまりに予想外の行動だったのだろう。
 グゥと、呻きをあげて、ボルティモアがうずくまる。
 とっさの行動だったが、オレの背中に、冷たい脂汗が滴りながれた。
 やばい。
 最悪。
 どうしよう。
 たかが、閨房(けいぼう)でのことと、笑って許しては、くれないだろう………か。
 多分、もう、取り繕えないんだろうなぁ。――なんとなく他人事のように考えているオレがいた。
 こんなことで、自国に破滅を招くなんて、すっごい間抜けだ。けど、やってしまったあとに、なかったことには、できない。
 ゴメン―――隣国の家族に謝る。
 オレのせいで、戦が起きるかもしれない。ボルティモアに攻め入られては、それでおしまいだ。
 ゴメン。
 伯父や伯母、それに、まだ顔も見たことのない従妹に、謝る。
 ゴメン。
 一族郎党、それに、領民たちに謝る。
 本当に、ごめんな――――。
 ここまで最悪の事態を引き起こせば、後はなにをしても同じかもしれない。
 ボルティモアは、まだ、うずくまったままだ。
 そうだ、なにをしても、同じだ。
 なら、どさくさに紛れて、探してしまおう。
 とっとと、探して、奪ってしまおう。
 ここでもたもたしていては、オベールがくる。そうなってからでは、遅すぎる。

 家族たちの顔を振り切り、オレは、家捜しをはじめた。
 あってくれと、心の中で願いながら、あちらこちらを引っくり返す。
 そうして、物は見つかった。
 ロイを縛めている枷や鎖と揃いだとすぐにわかる、鍵は、ボルティモアの机の小引き出しから転がり出てきた。
「うわっ」
 鍵を懐に仕舞おうとして、手首をつかまれた。
 うずくまって震えていたボルティモアが、オレの手をぎりぎりと締め上げる。
 なんか変だ―――そう思った。
 よく考えれば、オレが蹴たぐったくらいで、ボルティモアが、こんなに弱るとは思えない。
 青ざめた顔が、のっぺりとした顔の中、細い目が、爛々と光って、オレを見上げていた。
「は、はなせっ」
 必死になって、オレは、ボルティモアの手を、振り払った。
 そうして、後も見ずに、廊下にまろび出たのだ。
 追いすがろうとする声、もしくは、オレを留めようとする声が聞こえたような気がしたが、オレは、走った。

 その時、オレの頭の中には、ただ、ロイの白い顔だけが、浮かんでいたのだ。


W ロイ


 息せき切って駆け込んできたジャンに、声もなかった。
 私は、ただ、ジャンを見つめていた。
 ジャンが、ここから連れ出されて、九日目。久しぶりのジャンの姿は、あまりといえば、あまりなものだった。

 乱れた着衣、荒い息。

 なにがあったのか、判るような気がした。

 ボルティモア―――だな。
 ふつりと、胸の奥底から、湧き上がる、憎悪。
 ジャンは、このxxxxの、もの――――――。
 憎悪と共に、脳裏にこだまするのは、不思議なほどの独占欲。
 ジャンは、私のものなのだと。
 手を出すことなど、誰であれ、許しはしない。
 私のどこに、そんな気概が残っていたのか。それは、私の体内で、煮えたぎる。
 手を、ジャンに伸ばそうとして、じゃらりと鎖が音をたてた。
 ――――煩わしい。
 おもわず、鎖を、手で引っ張っていた。もちろん、それくらいで、千切れることなど、ない。
 私の血を練りこむなどという、賢しらな呪を施してある、鎖と枷だった。
 鍵がなければ、血の主である私から、これらが離れることはない。
 居場所を移るたび、だからこそ、鎖と枷と鍵とは、いつも、私から、離れることはなかった。

「ロイっ」
 ジャンの声は、切羽詰っている。
「手、手を出せって」
 ジャンが懐から取り出したのは―――間違いなく、私をこの縛めから解き放つ、唯一の鍵だった。

 
 下から、声が、罵声が、聞こえてくる。

 ドアに、内側からは、鍵がかからない。
 近づいてくる気配に、そんなに時間がないだろうと、知れる。
 私は、ジャンに、手を、差し出した。


 カチャリ―――
 軽い音を立てて、鍵が、縛めを解放してゆく。
 手が、足が、軽い。
 いったい、どれほどぶりの、自由だろう。
「ロイ、立てれるか?」
 心配そうなジャンの声に、私は、口角をもたげることで、返事に変えた。
 差し出される手に、手を重ねた。
 久しぶりに感じる、ジャンの熱に、私のからだが、震えた。
「ジャン」
 ありがとうと、口にしようとした刹那だった。
 無粋な気をまとって、男たちが、入り込んできた。
 ジャンが、私の前に、立ちはだかる。
 小刻みに震える、ジャンに、愛しさが、こみあげてくる。
 こんな場面で、ジャンが私を守ろうとしてくれる。それが、どうしようもないほどの感動を、私に覚えさせたのだ。


X ジャン


 落とし戸を閉める。
 これでどれくらいの時間稼ぎができるか、わからない。それでも、きっと、ロイの縛めを解くくらいの時間はあるだろう。
 ――あって欲しい。
 じゃらりというなじみのある音に振り向けば、ロイが、鎖を弄っていた。
 まってろ、今、外してやる。
 息が荒く、声にすることができなかった。
 まったく、自分で自分が、情けない。いや、そんなことを考えているひまはない。オレは、ロイを、解放するために、やってきたのだ。
 呼吸を整える。
「ロイっ」
 思いもよらないほどの、鋭い声になってしまった。
 ロイが怯えなければいいのだが。
 よかった。顔を上げたロイは、少しも怯えてはいないようだ。何かに耳を澄ませている。
「手、手を出せ」
 焦ってしまう。
 オレを追って、騎士たちがやってきている。彼らの罵声が、オレを、急き立てる。
 ロイが、おとなしく手を、伸ばしてきた。あまり、やさしくは扱えないが、許してくれ。今は、速さのほうが大事なんだ。
 鍵を、枷の鍵穴に、差し込む。あまりにも手が震えて、数度失敗したが、どうにか、開錠できた。次々に、枷を外してゆく。
 ロイが、無言のまま、手首を、さすっている。
 大丈夫そうだ。
 よかった。
 これで、ロイは、自由にどこにでも行くことができる。
 こんな、狭く不自由なところなど、ロイには、あまりにも似つかわしくなさ過ぎたのだ。
 追っ手の得物のたてる音が、背筋を粟立たせる。
 ロイを、解放することができた感慨に浸っているひまなど、今は、ない。
「ロイ、立てれるか?」
 立つことができないというなら、オレが、背負ってやる。そう覚悟したオレの目の前で、ロイが、笑った。
 金の目が、少しだけ細められ、形よく整ったくちびるの端が、めくれ上がるように、もたげられる。
 心臓が、ひとつ、耳障りな音をたてた。
 こんな、ロイなど、オレは、知らない。
 後退さりたいほどの寒気が、背筋を這いのぼる。それを諌めてくれたのも、しかし、また、ロイだった。
 オレの手の上に、ロイの手が重ねられ、強く、握りしめたのだ。その手の、あたたかさが、オレを、我に返らせた。
「よっと」
 気分を変えるためにも、オレは、力を込めて、ロイを引っ張り立ち上がらせた。
「ジャン」
 耳もとに、ロイの、やわらかな声が、届いた。
 ああ、いつものロイだ。
 そう安心したときだった。
 ドアが、大きな音を立てて、開かれた。
 屈強な騎士が、ふたり、次いで、見慣れたオベールが、塔に、踏み込んできたのだった。彼らの背後、階には、まだたくさんの追っ手の姿がある。
 オレは、それだけのことをしたのかもしれない。
 オレは、それだけのことをしようとしているのだ。
 声もない。
 震える。
 恐いのだ。仕方がない。
 それでも、ロイだけは、自由にしてやりたい。永かっただろう苦痛から、解放したいのだ。
 オレは、両手を広げて、オベールたちに対峙した。


 オレは、ロイを、スクリーンの影に、押し込んだ。とっさの判断だったが、かろうじて、間に合った。念のために、手を広げて、オベールの意識をこちらに向ける。
『ロイ、いいか、オレが奴らをひきつけている間に、逃げろ。おまえのクビキはもうない。おまえは、竜だ。どうやってでも、逃げれるだろ』
 押し込む寸前にささやいたのは、妄信に近い、確信だった。
 竜と呼ばれるからには、根拠があるはず。血を啜られる竜など、聞いたこともない。ならば、そうなる以前には、竜と呼ばれるだけの力が、ロイにはあったはずなのだ。

 ―――自由になってくれ。 

 オレは、心の中で強く祈り、オベールらと対峙した。
「もう、逃げ場はない」
 オベールが、厳しく、告げる。
 そんなことは、わかっている。オレには、逃げ場などは、ないのだ。逃げるにしても、この三年間握りもしなかった剣の腕は錆びてしまっているだろう。逃げ切ることなどできはしない。けれど、オレ自身のことなど、今はどうでもよかった。オレは、せめて、なんとしてでも、ロイを解放してやりたかった。それだけだ。
 オレは、ただ、オベールの目を、見返した。
「いったい、ハボックの若君には、なにを考えておられるのか」
 どこか溜息交じりのことばだった。
「殿の御情(おなさけ)を受けることは、このうえない名誉。それを、恐れ多くも、殿を足蹴にして、逃げ出すだなどと。人質であるという、己が身をわきまえてはおられぬのか。あなたの国が、滅ぼされてもかまわないと、まさか、考えておられるはずは、ございますまい」
 そんなことは、わかっている。今更―――だ。
 やってしまったことは、取り返しがつかない。
 許されることでも、許されようとも、思ってはいない。
 奥歯を、噛みしめる。
 と、不意に、オベールの口調が変わった。
「まさかと、思うが、ハボックの若君は、竜に誑かされておしまいか」
 嘲るようなオベールのことばが、オレの中の何かを、弾いた。
「それとも、すでに、ねんごろになられておられる――とか」
 ねっとりと、さげすむような声に、オレの中で形になりかけていたものが、崩れ去る。
「見目形は整っておれど、所詮人外。竜と呼ぶも、家畜に過ぎぬ。そのようなものに誑かされるとは」
 嘲笑うオベールに、オレの我慢も、限界だった。
「ロイは、家畜じゃないっ!」
 剣の柄(つか)に手がかかったと思った時には、抜刀し振りかぶっていた。
「名前までおつけか。物好きな。家畜と一つ身になられるようでは、殿の御情を受けるに値せぬが――殿はことのほかハボックの若にご執心のごようす。どうであれ、連れ戻れとのご命令」
 オレの攻撃をかわしたオベールが、オレの手から剣をもぎ取った。
 その時だった。
 下のほうから、悲鳴が聞こえてきた。それは、まるで、この世のものとは思えないほどの、ありえぬものを目にした恐怖の、悲鳴だった。
「なにごと」
 オベールの声が、力をなくした。
 オレを捕らえている手が、小刻みに震えだす。
 オレもまた、今の自分の状況を忘れ去り、ただ、目の前を、凝視していた。

 目の前――ドアから、入ってくるもの、それは、本当に、
「と………殿」
 生きているのか。
 青白いというより、青黒い、そんな肌色の、人間が、うつろなまなざしで、こちらを見ていた。
 その口からこぼれ落ちているのは、赤い――血。その手にしているのは、ひとの、手―――だろうか。
 咀嚼する音が、怖気を、吐き気を、誘う。
 いったい、なにが起きているのか。
 ゆらりと、近づいてくる、その、おそらくはボルティモアだろうモノから、オレは、目を放すことができなかったのだ。


Y ロイ

『ロイ、いいか、オレが奴らをひきつけている間に、逃げろ。おまえのクビキはもうない。おまえは、竜だ。どうやってでも、逃げれるだろ』
 押し込まれる寸前にささやかれたのは、ジャンの妄信に近いほどの、きつい確信だった。

 ―――自由になってくれ。 

 ジャンの、血を吐くばかりの願いが、感じ取れた。

 聾がわしいほどの音をたてて入ってきた男たちが、そのうちのひとり、見覚えのある男が、はじめを嘲りはじめる。滴る悪意に、あの男が、ジャンを妬(ねた)んでいると、察した。
 ジャンのからだの震えが、切ない。
 ジャンのことを、抱きしめたかった。
 どれだけ、ここから飛び出したいと思っただろう。しかし、今飛び出したところで、ジャンを助けられはしない。元の木阿弥どころか、本末転倒でしかない。ジャンのしたことのすべてが、無駄になる。それは、痛いほどに、真実だった。
 ジャンの願い。
 それは、私が、自由を取り戻すこと。
 しかし、ジャンは、知らないままだ。自由を取り戻したとして、傍にジャンがいない自由では、今の私には、もはや意味がないということを。
 ジャンがいてこその自由こそ、私が欲する唯一のものだと言うことを、ジャンは知らないでいる。
 だからこそ、私だけで逃げろと、そう、言うのだ。
 自由にだけしておいて、私の願いを、知らない。
 ジャンさえいてくれれば、ジャンのぬくもりを胸の中に感じてさえいられるならば、実は、ここで閉ざされつづけていようと、かまわないとまで、思えるのだ。
 こんなにも、私は、ジャンを、愛している。
 ―――そう、愛しているのだ。
 逃げるなら、ジャンも共に逃げるのでなければ、意味がない。
 それを、知ってもらわなければ――――私の中で、何か得体の知れないものが、ぞろりと、鎌首をもたげた。それは決して不快なものではなかった。このまま、この衝動に、身をまかせてしまいたい。内なる誘惑に、私は、逆らうことができなかった。
 ジャンに、私がどれほど愛しているか、知ってもらわなければならないな―――――
 私であって私でないものが、歌うようにつぶやく。まるでそれが合図ででもあったかのように、くらりと、すべてが、揺らぎ、溶け消える。
 私もまた、溶けてしまう。
 その灼熱の酩酊を、私は、ただ、黙って、受け入れた。

 焦りを感じるほどに長い時間と思われたそれは、しかし、あっという間の出来事に過ぎなかった。

 ジャンが、振りかぶった一撃を、男が受け流す。
 ジャンを、捕らえ、何事かを、ジャンに告げる。
 それらが、まるで、匙の端からながれおちる蜂蜜のように、ねっとりと間延びして見えた。
 そうして、新たな登場人物の、不快な姿までもが、私の視界に入ってきたのだ。

 ボルティモア―――

 驚きはない。
 むしろ、それは、当然の姿だった。
 喉の奥が、可笑しなように震えた。
 クク――と、笑いがこみあげ、止まらない。
 面白い。
 そう、今日は、ちょうど、十日目。十日前に、ボルティモアは、私の血を啜った。一度の吸血の効果は、今日で、切れる。
 私の血には、常習性がある。
 一度くらいならまだしも、強い薬効のある薬がそうであるように、飲めば飲むほど、きれるときの苦痛は、はかり知れない。私の血は、人間のどんな病も癒すとされているが、常習しなければ、意味がないのだ。
 きれたからといって、死にはしない。死ぬことはないが、おそらく、本人は、死を心から望むだろう。――正気を保ってさえいればだが。大半が、あまりの苦痛に、今目の前にいるボルティモアのように、狂い、見境なく血肉を貪るものに成り果てる。
 成れの果て――を、嘲りたくて、たまらない。
 あれは、私を、閉ざし貪った、当然の報いなのだから。
 こみあげる、悪意。おさまりきらずあふれる、狂気。
 喉も弾けよと、私の喉の奥から、哄笑がほとばしった。


Z ジャン


 凝然と、まるで魅せられたかのように、ボルティモアから視線を離すことができなかった。
 誰かの腕から滴る血を啜る姿は、まるで、昔話の『悪魔』さながらで……、あまりのおぞましさに、目を逸らすことができなかったのだ。
 それは、多分、オベールも同じだったろう。
 城主に剣を向けるわけにも行かず、逃げ腰な他の騎士たちも同様だったにちがいない。

 まるで時が止まったかのように、血を啜りつづけるボルティモア以外は、その場から、動くことすらできないでいた。

 次に、あの腕の持ち主のようになるのは、誰なのか。
 おそらく、誰も彼もが、そんなことを考えていたのに違いない。

 再び時が動き始めたのは、突然の、哄笑のためだった。

 誰も彼もが、動かない、そんな、空間に、突然響いた、腹の底からの、笑い声。

 この場の誰ひとりとして、笑い声の主が誰なのか、きっと、わからなかったのに違いない。
 オレもまた、それが、誰のものなのか、わからなかったのだ。
 笑い声がほとばしったのは、オレの背後。オレが、ロイを隠した、スクリーンの裏だった。

 まさか………。
 オレは、俺の耳を疑っていた。
 悪意と歓喜に染まった笑い声の主が、オレの知るロイとはうまく噛み合わなくて、いったい、なにが、スクリーンの裏にいるのか、不安になった。

 ロイは、結局逃げなかったのか。
 逃げられなかったのか。
 諦めたのだろうか。
 いったい、スクリーンの裏に、なにが潜んでいるのか。

 見たいような、見たくないような。
 知りたいような、知りたくないような。
 相反する思いがぐるぐると渦を巻く。
 オレは、途方にくれて、ただ、そちらを、見ていたのだろう。

 やがて、その影から姿を現わしたのは、まがうことなく、ロイだった。

 しかし、オレは、こんなロイなど、知らない。
 いや、一度、ロイを見知らぬものと思ったことがあったが、このロイは、その時よりも、より一層の、違和感を、まとって、そこに立っていた。


「ロイ………」
 オベールにまだ拘束されていることを忘れて、オレは、ロイの元に近寄ろうとした。
 しかし、オレは、
「はなせっ! ちくしょう」
 どれだけ暴れても、呆然としているように見えるオベールの力は、相変わらずだった。
「くそっ」
 それでも諦められず、必死に暴れたオレは、突然の解放に、勢いあまって、蹈鞴(たたら)を踏んだ。
「殿っ」
 オベールの切羽詰った声につづいて、重いものが床にぶつかる音が響いた。オレは、打った膝の痛みも忘れて、顔を上げた。
 なにが起きているのか、確認しようとしたオレの視界に、白い、ロイの、繊細な手が、あった。手の輪郭に沿って視線を上げてゆくと、そこには、見慣れた、ロイの顔。
 ああ、ロイだ―――
 先ほど感じた違和感を忘れて、オレは、ロイの手を取ろうとした。
 しかし、それは、叶わなかった。
 オレが、ロイの手を握るよりも素早く、ボルティモアが、ロイに襲い掛かったからだ。
「ロイッ!」
 思わず、オレは、ボルティモアの腕を、力任せに抱えこんだ。
「やめろっ。このっ。ロイは、おまえの家畜なんかじゃないんだ!」
 必死に引っ張り、ロイから遠ざけようとする。しかし、この、尋常じゃない力強さはなんなんだ。
 あんなに、ふらふらに見えたのに、今にも、膝を付きそうなほどに弱っているように見えたというのに、気を抜けば、オレは、振り払われそうだった。
「ロイ、逃げろっ!」
 なぜ逃げない。
 なにをやってるんだ。
 いろんな感情がごったになった叫びに、しかし、返ってきたのは、
「逃げる?」
 冷え冷えとした、しかし、深く響く、声だった。
 オレの背中に、寒気が走った。一気に、先ほどの違和感がよみがえる。
「私は、逃げなどしない」
 クスクスと、この状況を楽しんでいるかのように、ロイが、笑った。
「ロイ?」
「勘違いするな」
 そう言う、ロイの声には、滴らんばかりの憎悪がこめられていた。
 恐い。
 ロイが、恐ろしくてならない。
 オレは、ロイに、憎まれていたのだろうか。
 これ以上はありえないほどの、最悪の展開に、オレは、ボルティモアの腕を手放し、床に腰を落とした。
「家畜に甘んじるなどとは言っていない。単に、逃げる必要など、この私には、ありはしないということだ。堂々と、正面から、私は、この城を出てゆくことができるのだから」
 やわらかい口調に滴る憎悪。
 オレは、ただ、震えていた。
 オレが、ロイを逃がしてやる――それは、ロイにとって、ただ、烏滸(おこ)がましいだけのことに過ぎなかったのだ。
「わかっているのか」
 わかっている。わかった。ごめん。どう言えばいいのだろう。オレは、恐る恐る、顔を上げた。
「マクシミリアン・ボルティモア。おまえには、私を止める手立てとて、残されてはいない」
 そう言いざま、ただロイに縋りつくようにしてなにごとかをつぶやきつづけているボルティモアを、ロイは突き放した。
「殿」
 ボルティモアの、オレとは反対側の床の上にうずくまっていたオベールが、つぶやいた。それは、呆然と、ただ口に馴染んだ単語をつぶやいたとでも言うかのような、力のないものだった。
 床の上、オレを振り払おうとした怪力が嘘のように、ボルティモアが、よろぼう。
 ぽたぽたと口や目から、よだれや涙を流しながら、ロイを見上げ、手を伸ばそうとする。何度も何度も、手を伸ばしかけては、力なく、うずくまる。
 そのさまは、思わず、同情したくなるほど哀れなものだった。

 オレは、ただ、ボルティモアを見ていた。
 騎士たちも、オベールも、誰ひとりとして、動こうとはしない。
 恐ろしいのだろう。
 おそらく、騎士としての鍛錬を怠っていないだろう彼らには、端然と佇むロイの本質が、感じられるのかもしれない。だから、動きたくても、動けないのだ。
 ただ、ボルティモアの意味不明なつぶやきだけが、不気味なほどに、聞こえていた。
 オレもまた、ロイにとって、ボルティモアと同じ存在に過ぎなかったのだろう。いつ、彼に向かって、牙を剥くか知れない、危険な存在―――。そう思えば、ロイの顔を見ることなど、できなかった。
 見ないでいるから、だから………。
 もう、きっと、ロイを見ることはないだろう。
 それを思えば、ぱたぱたと、涙が、床を濡らす。
 ああ、ざまぁない。
 勝手に、正義感ぶって、ロイをオレは守るんだと必死になって、けれど、それらは、すべてが、ロイにとっては煩わしいものだったのに違いない。
 ごめん。
 ごめんな。
 オレは、袖で、涙を拭った。
 そうして、目を見開いた。
「うわっ」
 うろたえてしまったのは、オレの目の前に、金の目があったからだ。
 金の目――ロイの、きれいな、まなざし。
 少し距離をとると、ロイが、不思議そうにオレを見ているのがわかった。ロイは、無防備に、ボルティモアたちに背を向けて、オレの目の前に、膝をついている。
 つい――と、優雅に、白い手がひるがえる。そうして、ロイの指が、オレの目元を、すっと、なぞった。
「どうして、泣く?」
 先ほどの滴らんばかりの憎悪が嘘のように、ロイが、小首をかしげる。
「だ………オレのことだって、憎いんだろう。ほ、本当は、嫌ってるんだろう。だったら、こんなとこでオレのことなんかかまってないで、さっさと、ここから、出て行っちまえ」
 そっぽを向いて、目をきつくつむって、オレはことばを投げつけた。
 悲しいけれど、辛いけれど、オレは、憎まれてまで、ロイとは一緒にいられない。嫌われているのがわかっていて、一緒にいることなんかできない。
 スッ――――と、ロイの気配が遠ざかる。
 やっぱりな―――――やっぱり、嫌われてたんだ。すとんと、おさまり悪く、嫌われていたんだという事実が、オレの心に、降ってきた。
 馬鹿だよな。
 でも、ロイ、オレは、おまえに憎まれても嫌われてても、おまえのことが、好きなんだと思う。
 オレは、オベールに言われるまでもなく、ロイに惹かれていたのだ。
 こんな時に、悟ってどうすんだ。遅すぎるだろ。
 なんだかな――と、肩を竦めたときだった。
「うわっ」
 オレは、二度目の悲鳴をあげていた。
 
 目をつむっていたオレは、突然の、浮遊感に、瞼をもたげた。
 なにが起きたんだ。
「!」
 目を開けたオレは、自分の状況に気づいた途端、冬場の氷室に閉じ込められたみたいに、固まってしまった。
 うそ……だろ。
 信じられなかった。
 ロイがしたたかな変貌を遂げたことは、わかっていた。けれど、まさか、こんなことをするだなどと、考えもしなかった。
「ちょ、ちょっと、なにを考えてるんだ」
 オレは、場所も、状況も、何もかもを忘れて叫んだ。
 なんでって、その………オレは、ロイに、抱きかかえられていたんだ。しかも、膝裏を掬い上げられるようにして、所謂横抱きというヤツだ。
 これは、はっきり言って、どんな場合だっても、恥ずかしい。
「下ろせ。下ろせよっ」
 顔が赤くなっているだろう。なぜなら、首から上が、カッカするくらい、熱くてしかたがないからだ。
「誰が、ジャンのことを嫌っていると言った」
 ロイの、金のまなざしが、凝然とオレを捉えている。
「いや……だって………」
「感謝こそすれ、私が、おまえを嫌ったり憎んだりするわけがないだろう」
「え?」
「私は……ジャン、最初の夜から、おまえに惹かれていたよ」
 あっさりと、なんでもないことのように言ったロイの言葉を、オレは、たちまち理解することができなかった。
「おまえが、私のそばにいてくれさえするのなら、いつまでここに閉ざされていてもかまわない――――そんな、愚かなことを考えるくらいには、おまえのことを、愛しているよ」
 うわ………。
 どうしよう。
 全身が熱くて熱くて、煮たっちまいそうだ。
「おまえは?」
 ささやくように、耳に吹き込まれて、オレは悩んだ。
 いや、答えることは、やぶさかではないのだが、やっぱり、場所や状況が問題だと思うんだよな。
「ロイ」
「なんだ?」
 にっこりと微笑むロイに、見惚れている場合じゃない。
 いつの間にか、ボルティモアが、忍び寄っていた。
 ロイの肩を挟んで、ボルティモアとばっちり目が合っちまった。
 どろりと濁って、赤と見間違うくらいに血走った、怖気に全身が震えてしまう、そんな、目だった。そんな目が、青黒く染まった顔の落ち窪んだ眼窩の中で、ぎろりぎろりと、動いている。
 情けないが、オレは、固まっちまった。
 いつの間にこんなにと思うほど、さらばえてしまったボルティモアは、まるで、死者が動いているみたいだった。
「うしろっ」
 やっと、それだけを喉の奥から搾り出した時には、ボルティモアの尖った指が、ロイの肩に、首に、爪を食い込ませていた。
 しかし、考えてみれば、そんなこと、ロイが気づいていないはずがなかったんだ。
「鬱陶しいな」
 それだけだった。なにをしたというのでもない。
 ロイの肌に食い込んでいた爪が、力なく外れ、すかすかと、悲鳴にもならないかすれた音が尾を引いた。オレは、きっと、この声を忘れることができないだろう。そう、予感したほど、それは、身震いするほど哀れな、音、だった。
 ぐずぐずと、ボルティモアが、床の上に、うずくまる。それでもなお、ボルティモアは動こうとしている。その、執念。それが、オレは、恐ろしくてならなかった。
 ボルティモアとオベール以外が、じりじりと、後退していた。階にいる騎士たちも、上から順繰りに、後ろざまに、降りてゆこうと、しているらしかった。
「待て……」
 ロイが、一歩を踏み出した時、オベールが手にしたままだった短刀がロイに向かって投げられたが、それすらも、ロイに届く寸前で、音たてて砕けた。
 これが、決定打だったのだろう。
 誰が、あげたのか。
 鋭い悲鳴が、塔に響いた。
 それが、最後の糸を、断ったのだ。
 騎士たちが、押し合いへしあいしながら、まろぶように、逃げてゆく。

 後には、オレとロイ、そうして、ボルティモアとオベールだけが、残されていた。

「それでは」
 ロイが、だれにともなく、つぶやいた。
「お、下ろしてくれ」
 このまま、横抱きのままは、恥ずかしい。
 オレを見下ろすロイのまなざしからは、なにを考えているのか、わからなかった。
「下ろすのか」
「そう!」
 きっぱりと、断言する。
「私は、下ろしたくないんだよな」
「なんで」
「抱き心地がいい」
「な」
「それに、和むんだよ。おまえの体温と鼓動を感じているのは」
「………」
 オレは、脱力しそうになった。
 さっきまでの緊張感が、懐かしいような気がする。
 ロイの雰囲気が思いっきり変わったような気がするのは、気のせいじゃないんだろう。
 なんというか、何もかもを楽しんでいるような、底の抜けた明るさのような気がするが、これは、鎖を解かれた解放感のせいなんだろうか。
 そんなことを考えてると、
「まぁ、それは、冗談半分。おまえが、捕まるのは、いやだしな」
 そう言って、忌々しげに、視線を足元に向ける。
 見れば、ロイの視線の先には、ボルティモアが、いたのだ。
 執念としか言いようがない。
 とっくのむかしに、動くのすら辛いだろうに。
 骨と皮だけのような青黒い腕が、めくれ上がった袖からむき出しになって、ロイの足首を掴んでいた。
「おまえは、こうなった相手を、振り払うことなどできまい」
 そう言うと、ロイは、無造作に、掴まれているほうの足を踏み出した。
 ボルティモアの手が、ぼとりと音をたてて落ち、その場で床をかきむしる。
 ロイは、そのまま、階に足をかけた。
「ロイ……」
「なんです」
「ボルティモアは、どうなるんだ」
 気にならないわけがない。
「どうもなりはしない。私の血は、人間にとっては副作用の強い劇薬と同じだからな。一度ならまだしも、つづけて口にしてしまったら、最後だ。依存せずにはいられなくなるらしいな」
「なら、死ぬのか?」
 オレのことばの何がおかしかったのか、ロイが、クと笑った。
「そのほうが、幸せだろうよ」
 悪意が滴っているようなことばに、オレの全身が、鳥肌立った。
「死ねない?」
「多分な。よくはわからない。が、禁断症状は苦しいらしい。死ねるとしても、それまでに、どれほど苦しまなければならないか、わからないな……」
 長く閉ざされ続けていたロイに、それを知るすべは、なかっただろう。
「でも、自業自得だろう」
 いっそ朗らかなほどに、ロイが、切って捨てた。
 確かに、自業自得だろう。
 少なくとも、ロイにとって、今のボルティモアの苦しみは、それ以外のなにものでもない。
 オレだとて、ボルティモアがそうだと、わかる。それでも、やはり、見ているのは、辛かった。
「まぁ、火をつければ。火はすべてを浄化すると言うしな、確実に死ぬことはできるはずだ」
 苦しみ続けて狂うよりは、ましだと思うが、どうだろう。

 それが、オレとロイとが、塔を下りるさいに話していた最後の言葉だった。


 後は、もう、あんまり話すこともないような気がする。

 城主がああなった以上、ボルティモアの侵略の恐怖は、まぁ、潰えたといっても過言ではない。だから、オレは、自分の国に帰ってもかまわないんだろう。だけど、オレには、自覚があった。

 オレは、国よりも家族よりも、ロイを選んでしまったのだ。
 ロイとそれらとを秤にかけて、ロイのほうが重かった。
 オレは、オレの家族と国とを、見捨てたのだ。―――誰に糾弾されるまでもない。オレは、誰よりも強く、そのことを知っている。たとえ、結果的には、救ったことになったとしても、あの時のオレの心の動きを、結論を、自分だけは、知っているのだ。それは、小さな、しかし、鋭い棘となって、オレの心の奥に刺さっている。

 ―――どの面下げて、帰れるっつーんだよ。

 ぼんやりと、大木に背もたれて、オレは、炎を眺めていた。
 ここは、ボルティモアの城から山を二つばかり越えた、森の中だ。あの日から既に、三日が過ぎていた。
 木の葉が重なり合った隙間から、月と星とが見えている。
 ぱちぱちと、威勢よく燃える炎が、川で獲ったばかりの魚を炙っていた。食欲をそそる匂いが、立ち込めている。いつものオレなら、我慢せずに食べているだろう。しかし、我慢もなにも、心が定まらないせいで、どうも、食欲がわかないのだ。
 ロイが、そんなオレを、ただ黙って眺めている。
 ロイの、金の瞳が、白い顔が、揺れる炎に染まっていた。
 ロイは、ただ、あの日、オレに向かって、
『これからどうする?』
と、そう言ったっきり、オレにすべてをゆだねているらしかった。
 わからない。
 それが、実は、本心だった。
 ロイを解放することばかり考えていて、その後のことを考えてはいなかったのだ。
 まぬけだな。
 溜息が出る。
「なぁ、ロイ」
「?」
「あんたは、これから、どうしたい?」
 三日も考えてこれでは、呆れるよりないだろう。
「私か?」
「そう」
 ぱちぱちと、音たてて炎が、燃えている。
「そうだな。とりあえず」
「とりあえず?」
 立ち上がったロイが、オレの傍らに、移動してきた。
「確認したいことがあるな」
「なに?」
 ロイの左腕が、オレの左肩に回される。
 今にも鼻が触れ合ってしまいそうなほど近くに、ロイの白い顔があった。
 金の瞳に、オレの、間抜けな顔が、映っている。
「私は、ジャンのことを、愛しているが、ジャンは?」
 あまりにまっすぐな問いだった。
「オレも、ロイのこと、好きだ」
 言った後に、真っ赤になってれば、世話はない。が、まぁ、これは、オレの本心だ。
「家族よりも、国よりも、オレは、おまえのことを、愛してる」
 口にしてみて、オレは、心が定まるのを、感じた。ああ、こんなに簡単なことだったんだ。誰に罵られても、これが、オレの真実なんだ。認めればいい。ロイを愛したから、オレは、すべてを捨てたのだ。誰に何を言われても、真実がわかっているなら、かまわない。

 ロイが、オレを、見ている。
 オレも、ロイを、見ている。
 
 ロイが、静かに、オレを、抱き寄せ、くちびるを寄せてきた。
 オレは、黙って、ロイのくちびるを、受け入れた。

 ぱちぱちと、傍らでは、炎が燃えている。

 その夜、オレと、ロイは、ジャンて、肌を合わせた。そうして、その後、それが、オレとロイとの、就眠儀式になったのだ。

 ボルティモアの塔が、火を出した。
 それをオレたちが知るのは、後しばらくしてからのことである。

 結局、オレは、国に帰ることはなかった。

 オレとロイとは、人里はなれた山の奥に、ささやかな庵を建て、そこで、暮らすことを決めたのだ。
 
 オレが、オレの変化を知るには、やはり今しばらくの時が必要だった。
 ロイと共にあるオレは、いつまでも、十七才のままだったのである。




おわり

戻る

up 12:21 2004/08/29


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