果てのない夜





 それ――は、山の中に、ひっそりと建っていた。
 むっとこもるほどの草いきれ。
 緑の滴る吐息の中に、崩れ落ちることもなく、ただ、人目に触れずに、建っていた。
 ところどころ焼け焦げ色あせた、かつては赤レンガだったろう壁は、びっしりと蔦が絡み、朽ちることを抑し留めていた。
 一陣の風が吹きぬけ、しだれた緑の葉を揺らす。
 タペストリーめいた葉の連なりが、風に煽られ、現れたのは、木製のくぐり戸である。
 錆びた蝶番(ちょうつがい)は、誰かがほんのわずかだけ、力を込めれば塵に還るかのように見えた。
 風に煽られただけの蔦はすぐにくぐり戸をその葉裏に隠し、名残にかすかに揺れるばかり。
 不意に、壁の奥から、音が、聞こえてきた。
 崩れ落ちんばかりのレンガの壁と、それは、あまりに不釣合いな、深いピアノの旋律だった。
 ひたり――と、蔦の震えが一斉に止まる。
 しんと、鳥のさえずりさえ果てた静寂の中、妙なる音色が、流れ、やがて、耳をかたむけるものとてない音楽は、鳴り出したと同様に、突然、こぼれ落ちるように、やまった。



「へぇ」
 全館禁煙の郷土史資料館で、火がついていないタバコを咥えたまま、金髪の青年がガラス越しに、展示されている写真を眺めていた。
 椀を伏せたようなささやかな稜線の山を暇つぶしに散策していて、蔦が絡んだ家の跡を見つけたのだった。
 レンガ造りの廃屋には、ところどころ黒々とすすがこびりつき、どうやら、火事にあったらしい。
 なんとなく興味を覚えて、山を降りた後に出会った土地のものに聞いてみたのだが、顔色を変えるばかりではかばかしい答えをもらえなかった。
 最後に声をかけた年寄りから、そんなに興味があるのなら資料館に行ってみるといいと教えられ、そうして、青年、ジャン・ハボックはここにいるのだった。
 中央から遠く離れた田舎に、彼がいるのは、上司の護衛のためである。もっとも、今日は、ハボックは休暇を貰ってぶらぶらしているのだが。
 ガラスの向こうには、黒い髪のなかなかの美男がピアノを弾いている、白黒の写真が飾られている。
「ロイ・マスタング……ねぇ」
 多分、音楽関係に詳しいものなら、「ああ、あの」と、即座に手を打ちでもするのだろうが、いかんせん、ハボックはその方面には疎かった。
「ピアニスト、指揮者、作曲家………享年二十九才ね。ふうん」
 一枚一枚、飾られている写真を見てゆくと、炎上する館の写真があった。
「これ……ああ。あの山ん中の…………。三十年近く前の火事ね。夜間に炎上、消し止めるものの、焼け跡からは、ロイ・マスタング氏のものと思われる焼死体と、後一体――おそらくは、氏の同居人、ジャン・デステ氏のものと思われる同遺体が発見された………か」
 写真の下に、貼りつけられていた新聞の切抜き。そこに印刷されている、ふたりの顔写真。それを見て、ハボックは、思わず目を見開いた。
 ロイ・マスタングの隣で、穏やかそうに笑っている明るい髪の青年の顔に、見覚えがあるような気がしたのだ。が、それが誰だったか思い出せず、ハボックは、肩をすくめた。



「なんだって、こんなところにいるんだ?」
 ハボックは首をかしげた。
 見覚えのある景色は、ロイ・マスタングの炎上した館の近くであると告げている。
 セミの声が、ハボックの思考を拡散させる。
「ま、いっか。どーせ休暇だし」
 ハボックが、涼しげな木陰に腰を下ろした。途端、
「うわっ」
 音もなく、背もたれたものが崩れ、ハボックはもんどりうって、数段の階段を転がり落ちた。
 枯れた蔦の葉に覆われた石畳の上を、緑に染まったトカゲが、慌てて逃げ惑う。
 幾重にも絡んだ、蔦や木々のこずえ。その隙間越しに、心地好く冷えた陽射しが、降り注ぐ。
「いってぇ………」
 強か(したたか)に打った頭や背中の痛みに呻き、ハボックははたと、その緑に照り染まった空間に気づいた。
 ちろちろとかすかな音をたてているのは、空間の中ほどにある、泉水だった。
 首だけをよじって音の元を探ったハボックが、ぎしぎしいうからだをいなしながら、立ち上がる。
「どうやら怪我はないみたいだな」
 一息ついて、湧き出る水を掬い取り頭からかぶった。
 黒いTシャツが、水を吸い、ハボックのからだにまとわりつく。
 首を、肩を、順繰りに回して、ハボックがなんの未練もなく、空間を後にしようとしたときだった。
 音がした。
 ハボックの頭頂部から両の上腕部にかけて、鳥肌が立つような、異質な気配に覆われた。
 閉て付けの悪い引き戸を開けるような、音にぎくしゃくと振り返ったハボックは、その場に、立ち尽くした。
 そんなはずがない。
 ここに、生きた人間がいるはずが、ない。
 それは、本能だったろう。
 古びた木枠の引き戸に上半身を持たせかけるようにして、男がひとり、立っていた。
 その顔に、ハボックは記憶があった。
「ジャン」
 よく通る声が、ハボックの耳を射抜いた途端、ぞわりと、背筋がそそけだち、くらりと、視界が眩んだ。
 目に見えるものが、現実味を失い、小さく、小さく収縮してゆくかの感覚があった。
 そうして、そのまま、ハボックは、意識を失ったのである。



 雨だれのような、ピアノの音が、空気を震わす。
 どこかで聞いた記憶のある、けれど、タイトルを思い出すには至らない、比較的メジャーな、ピアノ曲だ。
 ぼんやりと、瞼を開けると、そこは、夜。
 傷ついたレコード盤のように、いつも、同じ音と、同じ光景が、広がっている。
 意識ははっきりしていた。
 ハボックは、自分の名前を覚えている。
 どうしてここにいるのか。
 ここから出られない理由も。
 深い溜息を、ハボックは、肺から押し出す。
 力まかせに呼吸をしなければ、まるで、ダイビング用のレギュレーターを使って呼吸をしているかのように、一呼吸一呼吸が重く苦しかった。
 イライラするのは、いつも同じ光景と、シチュエイションだからだ。
 やがて、ピアノは、やむ。
 ハボックがそう思ったとき、ピアノの音が、ぴたりと途切れた。
 ハボックは、近づいてくる足音に、顔を背ける。
 この空間に閉じ込められる前の記憶では、どこにも怪我はしていなかったというのに、なぜなのか、今、足を捻挫している自分がいた。
 かなり酷い捻挫で、少し急に動けば、響くほどだ。
 悪態をつきたくなる。
 イヤだ。
 ああ、厭でたまらない。
 くそっ。
 なんだって、オレがこんな目に。
 きりきりと奥歯を噛みしめて、ハボックは、きつく目を閉じた。
 やがて、自分に触れてくる、腕を拒むように。
 しなやかで、しっかりと筋肉のついた、男の腕が、ハボックの顎を捉えた。
 クスクス……と、しのびやかな笑い声が、耳元で響く。
「なにを拗ねている?」
と、男が、面白そうに囁いた。
「っ!」
 ハボックが、赤く染まる。
 首筋におとされたくちびるの感触に、
「やめろ」
 低く、恫喝する。
「オレは、女じゃない。そのジャンは、オレの名前、じゃない! っ」
 押しのけようとして、
「うわっ」
 痛む足首を、きつく掴まれた。
 からだを返され、のしかかってくる重みに、ハボックの思考が、混乱する。
 こいつは、生きていない。
 人間じゃない。
 なのに、なんで、こんなに重いんだ。
 なんでこんなに、痛い。
 なんで、こんなに………。
 ハボックの混乱した思考は、焼ききれるように、ブラック・アウトする。

 気絶したハボックが気づくことはない。
 ピアノの上の、深紅のバラの花束に。
 頬におとされる、やわらかなくちづけに。
 男――ロイ・マスタング――がささやく、
「おまえは、なぜ、応えてくれない」
 狂おしい、絶望の吐息に。

 そうして、気がつけば、果てのない、夜が始まる。
 雨だれめいた、ピアノの音色が、明けない夜が、同じことの繰り返しが、少しずつ、ハボックの、意識を狂わせてゆく。



 白々とした室内に、機械音だけが、空気をかきむしるかのように、響いている。
 カーテンに囲まれた、パイプベッドの上には、ハボックがひとり、横たわっている。
 からだのあちこちを包帯でぐるぐるに巻かれ、顔色は、土気色をしている。
 たくさんのチューブに繋がれているハボックは、事故に巻き込まれて、運び込まれたのだ。
 一週間が過ぎようというのに、ハボックの意識が戻ることはなかった。






おわり

up 2004/05/22

あとがき
 ほんとは、ジャン・デステなんてオリキャラじゃなく
中佐にしようと思ったんですけどね。どこにもハボさん
と共通点がないので、諦めました。
 オリジナルssハガレンスライドバージョン、少しでも
楽しんでいただけると嬉しいです。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送
HOME  MENU