ハボさんの受難



 出張から帰った翌日、ジャン・ハボックは人気のない司令部の部屋でチェス版に向かっていた。
 タバコをくゆらせながら、ブレダ少尉の次の手を待つ。
 彼と入れ違いのようにマスタング大佐が出張で、ホークアイ中尉はそのお供だ。そんなわけで、今日は暇なのだった。
 ハボック自身チェスの腕前はそこそこだと思うが、策士だけあって、さすがに黒のコマを持っているブレダは強い。戦局は、白のハボックに不利であった。
 知略を絞ってのゲームには、ブレダが熱くなる。ハボックはというと、ツキに左右されるカード・ゲームのほうが性に合っている。
「おい、ハボック、まじめにやれよ」
 ぼそりと発破をかけられる程度には、夢中になっていないハボックだった。
 盤上に白と黒のコマが並ぶ。
 攻める。
 攻め返される。
 盤上の攻防がどれくらいつづいただろう。
 部屋のドアをノックする音が、ハボックの盤上の思索を破った。
 ブレダが立ち上がる気配はない。しかたなく立ち上がったハボックは、自分の判断を後悔する破目になった。なぜなら、ドアの外には、満面の笑みを湛えたエドワード・エルリックの姿があったからだ。
「ハボック少尉っ!」
 飼い主を見つけて嬉しさのあまり飛び掛ってくる犬のような、自分の力も何もかも斟酌しない迫力で、飛びかかってこられたのだ。
「うわっ」
 一見軽そうに見えるエドワードだが、そこは成長期の少年のものである。機械鎧の重量も加わり、持ち重りするようなずっしりとした体重が、なんの準備も覚悟もしていなかったハボックの首っ玉にかかってくる。踏ん張り堪えようとするハボックだったが、ぐいぐいと全身を押しつけてくるエドワードに、忘れたはずになっていた感覚を思い出してしまい、その場に尻餅をついた。
「いっ…」
 したたかに腰を打ちうめくハボックの耳元では、
「ハボック少尉、お帰り。オレ待ちくたびれちゃった」
と、エドワードが悪びれずに言う。その後ろでは、彼の弟が視線で、スミマセンと言っていた。
「まったく」
 全身の力を抜きつぶやいたハボックだった。
「やっと東部に来たら、ハボック少尉ってば出張で留守なんだもんな。淋しかったんだ。会いたくて。少尉は?」
 顔を上げたエドワードが、ハボックの緑のまなざしの奥を覗き込もうとする。どこまでもまっすぐな琥珀の瞳。惑わされてしまいそうで、ハボックは、
「こら、たいしょー。わかったから、わかったから。いつまでドアを塞いでるつもりだ」
 首に回されたままのエドワードの腕を軽く叩く。
「あっ、ごめんなさい。つい、嬉しくて」
 全開のエドワードの笑顔に、なぜかしら心の奥深くが締めつけられるような感覚があった。




 ノックの音に応じれば、トレイを持ったメアリ・ポープが立っていた。
 ハボックの下宿である。
 芳しい紅茶の香が室内に広がる。
「こんにちわ」
 ぴょこんと頭を下げたエドワードに、
「こんにちわ」
と、メアリ・ポープが応じる。
 テーブルの上に、かすかな陶器の音を立てながら並べられたのは、ケーキと飲み物だった。カップを取り上げたエドワードは、
「コーヒーじゃないんだ?」
「そう。最近ちょっと転んでる」
 クキクキと肩と首とをストレッチしながら、ハボックが答えた。
 二人の間にはチェス盤。盤上には投了したばかりの一戦が。エドワードの負けのようである。
 興味深げにハボックとブレダの対戦を見ていたエドワードが、チェスに興味を覚えたらしく、教えてくれと、ハボックにねだったのだった。
「ハボック少尉」
「ん〜?」
 紅茶に口をつけたばかりのハボックが目だけで返す。下宿に帰ったからだろう、軍服の上を脱いで黒いシャツ姿になったハボックの態度は司令部にいたときよりもゆったりとなごんでいる。
「もう一局!」
 エドワードの要求に、ティーカップの上に見えるハボックの目が笑った。一気に紅茶の残りを呷ったハボックが、カチンとかすかな音をたててカップをソーサーに戻した。
「いいぞ」
「そうこなくっちゃね!」
 しばらくはコマを分ける音だけが部屋に響いた。
「今度は負けないからね」
「それはどうかな」
 余裕のハボックに、エドワードは不安を覚えた。そこに、エドワードが東部にいなかった間のハボックを垣間見たように思ったのだ。
 ハボックより九つ年下と言うのは、実はエドワードの密かなコンプレックスだった。
 どうにもならない年令の差である。
 どんなに頑張っても自分がハボックより年上になることは不可能なことでしかない。
 ハボックと対等なような気がするのは、自分が国家錬金術師だからでしかない。国家錬金術師という肩書きを剥いでしまったら、自分はどこにでもいる普通のガキでしかない。けれど、肩書きに付随する任務でもあり自分たちの希望でもある賢者の石の探索のせいで、滅多に彼に会うことができない。ジレンマである。そのうえ、ただでさえ頻繁に顔を見れないというのに、自分と同じく彼に惚れているマスタング大佐が、大人気なく彼を隠すのだ。だから、大佐が出張で不在の今日は、実にタイムリーだったりする。けれど、一月くらい前に会ったときと、ハボック少尉はどこかが変わっているような気がしてしかたがなかった。
「少尉……」
「ん〜?」
「賭けしない?」
「いいけど、何を賭ける」
 ハボックがのってきたことに、エドワードは内心でほくそえむ。
「ハボック少尉」
「はい?」
 盤上に据えられていたハボックの視線がエドワードを捕らえた。あかるい緑色の瞳が、戸惑っている。だから、エドワードは両の口端をゆっくりと引き上げて不敵な笑みを作って見せたのだ。
「だ〜か〜らっ、ハボック少尉を賭けようって!」
 ポトン。
 ハボックの口から火のついていないタバコが転がり落ちた。
「少尉が勝ったら、今日は何もしない。帰るよ。けど、オレが勝ったら、ジャン・ハボックをオレにちょうだい」
 盤上に上体を乗り出して、琥珀のまなざしがハボックの瞳を覗きこむ。
 赤い舌が、ちろりとハボックのかすかに開いたままのくちびるをくすぐった。とたん、ハボックの意識がめまぐるしく状況判断を開始しはじめる。
「そんな、賭けにはのれないな」
 目の当たりにするハボックの変化。一ト月前のハボックなら、笑って冗談だと済ませただろう。けれど、余裕ぶっているその態度に、あからさまな狼狽が見え隠れする。黒いシャツの襟から伸びる首が、赤く染まっている。
「ハボック少尉勝つ自信ないんだ?!」
「そんなことは言ってない。ただ……俺のほうの条件が悪すぎるだろうが」
「どうして?」
 逃げようとするハボックの肩を捕らえ、引き寄せるように抱きしめる。耳に息を吹きかけるように囁く。
「ど、どうしてって……いや、それよりなんだって、突然そんなことを言い出したんだ。俺は男で、たいしょーも男だろう」
 耳がウィークポイントだったのだろう、もがくハボックの声はひずみ、首筋がいっそう紅潮し、顔や耳までもが真っ赤に染まる。
「そんな今更なこと。別に気にしなくても」
 思わず苦笑したエドワードに、
「なるわっ!」
 真っ赤になってあまつさえ涙で目をうるうるさせてハボックが怒鳴る。それが、エドワードのツボに嵌まってしまうなどとは、ハボックには思いも寄らないことだ。
(あと一押しかな、二押しくらいいるかな)
 もはやエドワードの頭からは、賭けのことも対局中のゲームのことも綺麗さっぱり消えている。壊さないように気をつけていた盤上のコマ運び。邪魔だとばかりにエドワードはスライドさせた。
 音を立てて白と黒のコマが床に転がり落ちた。
 弾かれたように、エドワードの腕の中のハボックが震える。
「しょ〜いっ! ハボックさんをオレにちょうだい。ずっとずっと我慢してたんだ。ハボックさんのことが気になって気になってたまらなくって。でも、いっつも、マスタング大佐がじゃましてさ、顔見たいって思っても、いないんだもんな。オレ、ハボックさんに触れたい。ハボックさんとキスしたい。ハボックさんを抱きたい。ハボックさんの中に入ってメチャクチャにしたいっ!」
 イヤイヤと声をなくしてハボックが首を振る。しかし、ハボックは既にエドワードに抱き込まれている。小さなからだのどこにそんな力があるんだろうというほどの強い力に、背中を駆け上がるのは、まがうことのない怖気だ。そうして、脳裏によみがえるのは、二週間ばかり前の一方的な大佐のピロウ・トーク。
『ジャン、君はもう私のものだ。私は存外独占欲が強いらしい。私以外の誰の誘いにものらないように』
 突然のキスと告白と半ば強制的なスキンシップをせっかく、忘れていたというのに。大佐以外に自分にそんな意味で興味を持つヤツなどいないだろう――と、たかをくくっていたというのに。
(お、俺は、男なんだぞ!)
 大佐よりもエドワードよりも、背も高いし、ガタイもしっかりしていると思う。なのに、いったい自分のどこが、この、一癖も二癖もある国家錬金術師たちを引き寄せるのだ。
 背中に脂汗を流しながら逃げ場を探すが、もとより逃げ場も救いも現われない。
「ね。いいでしょう」
 真っ青になって引きつるハボックの視界いっぱいのエドワードの笑顔が、二週間前の大佐に重なる。
 それが、ハボックには、逃れようのない宿業と見えた。

「エ、ド……もう」
 ハボックは疾うに精根尽き果てているというのに、エドワードの動きはやまない。
 どれだけ翻弄されたのか。エドワードは掻き口説いたとおり、ハボックにありったけの情熱を注ぎ込んでいた。
 底なし沼に嵌まってしまったかのように、動くこともできない。やっとしぼり出せた言葉さえも、エドワードのくちびるに吸い取られた。
 降りそそぐ火の粉にも似たキスの雨。やむことのない生々しい感覚。幾度目になるのか、ひときわ激しいエドワードの動きに、ハボックの意識は焼き切れた。



「少尉……」
 目の前に、今にも泣き出してしまいそうな、心配そうなエドワードの顔。笑いかけようとして、ハボックの表情が強張る。かすかに身じろいだ瞬間に全身を貫いた激痛。それが、エドワードの表情の謎を解いたからだった。
 じくじくと、からだの内側から爛れてゆくかのような、疼く痛み。
(なんだかな………)
 泣きたかった。
 五つ年上の大佐に抱かれたときとは違う。九才年下のエドワードに、抵抗もままならずいいようにされてしまった自分に対する自己嫌悪だった。
 年上の自分がもっと毅然と拒んでいれば。
(このままじゃダメになる………)
 自分はまだいい。が、まだ成長途中の少年がダメになるのは、見たくなかった。
「ごめんなさい」
 頭を下げるエドワード。しかし、
「エドワード。二度と俺は、会わない」
 ハボックの口から思いも寄らないことばが転がり落ちる。力も張りもない。かすれてさえいる声。けれど、まなざしは真剣で。
「!」
 恐ろしいくらいに真剣で。
「わかったな。このことは、忘れる。忘れるように努力する。だから、たった今俺の前から消えてくれ」
 絶叫に近い宣告だった。
 しかし、エドワードだとて、ここで退くわけにはゆかないのだ。どんなに詰られようと謗られようと、自分にとってハボックは唯一無二の、なくしたくない存在なのだ。いったいどうすれば、自分の思いの丈をハボックに理解してもらえることができるのか。
 それに、ハボックのあかるい緑のまなざしからは、憎しみを見出すことはできなかった。
「ハボック少尉」
「聞こえなかったのか」
 冷ややかな口調だった。だからといってここで退いてはいけない。退いてしまえば、なくしてしまう。それだけが、エドワードにわかっているすべてだった。
「聞こえない」
「帰れ」
「聞こえない」
「帰れと言っているだろうっ!」
「聞こえない聞こえない聞こえないっ!」
「エドワードっ!」
 ハボックの声をかぎりの叫びに負けじと、
「オレは、少尉を愛してるんだっ!」
 エドワードの声がかぶさる。
 沈黙。
 そうして、
「愛しているんです」
 しばらく沈黙が続いた後にエドワードはもう一度口にした。
「俺は……愛していない」
「オレが愛しています」
「愛してなんかない。おまえのそれは、愛じゃないだろ」
「違います」
「違わない。おまえの感情は、ただの独占欲だ」
「だったら、独占欲だってかまいません。オレは、ハボックさんが、ハボックさんだけが欲しいんだ。オレのものにしたい。大佐にだって、他の誰にもやらない! ハボックさんがオレから逃げたって、どこまででも追いかけてって、捕まえてやる。ハボックさんがオレのこと大嫌いだって言うなら、ハボックさんがオレのことしか考えられないようにしてやる」
「!」
 エドワードのエゴイスティックなことばに、ハボックが絶句する。
 琥珀色のまなざしが、ハボックの緑色の瞳を覗き込む。
「嫌だからね。オレは、絶対にハボックさんからはなれないから」
 捕食者めいた、琥珀色の瞳。まだ少年少年しているエドワードが、ハボックには自分よりもいっぱしの男に見えた。ぞわりと背筋を這い上がったのは、悪寒だったのかそれとも………。
 目を見開いたままで固まってしまったハボックを見て、エドワードがクスリと笑った。それは、勝利者の笑だった。
「もう帰れなんて言わないよね」
 問いかけの口調を借りた確信。
 近づいて来るエドワードの顔。
 我に返ったハボックが顔を手で覆おうとして、間にあわなかった。何しろハボックは起き上がれないままなのだから。
「イヤがらないでよ。オレハボックさんとキスするの一番好きなんだ」
 どうしてこうなるんだろう。どうして、自分は、エドワードも大佐も拒みきれないのだろう。拒もうとの決意は、脆くも砕けてしまった。あれだけ強固に言い張ったのに、どうして、エドワードも大佐も、自分の言い分を聞いてくれないのだろう。
(結局俺は、勝てないのか?)
 決して力の強さなどではなく、それは、執着の強さだ。他人に対する思い込みの激しさとでも言い換えればいいだろうか。問題は、それがハボックには理解できないということだ。
(そういや、なりふりかまわずひとを好きになったことってなかったな)
 それを意識した途端、激情に駆られることで忘れられていた疲れや痛みが一気にぶり返し、ハボックを挫けさせた。
 それでも! せめてもの意地として、そんなに簡単にエドワードに勝ちを譲りたくはなくて。目の前で余裕の笑みを顔に貼りつけているエドワードに、どうにかして一矢なりと報いたかった。九つも年下のエドワードを見知らぬ男のように恐ろしいと思ってしまう自分を鼓舞するためにも、
「俺は、嫌いだ」
 そう返したのだ。
 みるみるエドワードの笑顔がこわばりつく。
「なんで? オレのキス、下手?」
 どうしてキス限定なんだと突っ込みながらも、少しだけ溜飲を下げたような感じを味わいながら、
「おまえのキスって、下手」
と、できるだけ軽く告げる。
「うそだっ! だって、ハボック少尉のファースト、オレがもらったんじゃないの? ハボック少尉って、オレ以外の誰かとキスしたことあったの?」
「なんなんだ、それは」
 ここまで思い込みが強くないと、国家錬金術師にはなれないのかもしれない。痛いくらいにそれを感じながら、脱力するハボックだった。
「……俺のファースト・キスの相手は……少なくともおまえじゃない。それに、おまえのほうが下手だ」
 どうにかエドワードにとどめを刺すことに成功したハボックだった。


おわり

あとがき
Left Hawk Land さま閉鎖のため、差し上げ物頁より移動させていただきます。たぶん、これだったとvv
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