ジーナ



「これは、夢か………」
 かすれた声で、傷の男がつぶやいた。
 自分を見下ろしている一対のまなざし。流れるようだった金の髪は、無残にも断たれているが、その明るい緑色の瞳は、忘れようもない。
「まさか、ジーナねえさん?」
 にっこりと微笑んだのは、あの悪夢のような内乱のときに失われたはずの、幼馴染の少女。その、成長した姿。
 全身が痺れたように重い。
 しかし、なぜ、よりにもよって、ジーナねえさんが、軍服をまとっているのだろうか。
 イシュバールを蹂躙したのと同じ、青の軍服を……。
「xxx…これは、夢よ。あなたが負った傷が見せる、夢。だから、おやすみなさい」
 やさしく名前をささやかれた。
「ゆ……め?」
「そう。ジーナ・セポーは、十年前のあの内乱で、疾うに死んだのだから」
 でも、ジーナねえさん、額に当てられたあなたの掌の感触は、冷たくて、こんなにも心地好いのに。
「それなのに……」
「それでも、これは、目覚めれば忘れてしまう、夢」
 歌うような声。そう、幼馴染の少女は、あの高く澄んだ声で、歌うことがとても好きだった。
 掌が、そっと撫でるように、目の上に、すべった。やさしい感触に惹かれるように、傷の男は、目を閉じ、そうしてそのまま眠りに落ちていった。
 傷の男が意識を失ったのを確認して、ジーナ・セポー、今の名をジャン・ハボックは、彼が人目につかないように瓦礫を動かした。
 肩を軽く叩きながら、ハボックもまた、物陰に腰を下ろした。今自分が人目につくのも、まずい。なにしろ、今日は、新月。あの少年がかけた魔法が、解ける日だったからだ。そう、今の姿は、ジャン・ハボック少尉ではない。父譲りの褐色の肌に、母譲りの金の髪と緑の瞳、イシュバール人とセントラルから派遣された女教師との間に生まれた、混血のジーナ・セポーの姿をしている。
 平素は、月一度、術が解けてしまう新月に当たる日に有給休暇を、申請する。なるべく危険は回避するほうが利口だからだ。しかし、今日は、しかたがない。昨夜から、傷の男が現われたらしいという情報で駆けずり回っていたのだ。有給がぽしゃるか――と、危惧していたとおりになってしまった。
 傷の男が、国家錬金術師を襲い、逃げ切れないと踏んで、石畳を破壊した。彼の探索と、瓦礫の撤去とが、ハボックの隊に与えられた任務だった。
 さすがに、男の姿をとっていられなくなりそうなころあいをみこして、小隊に休憩を命じた。
 まさに、間一髪。
 部下の最後のひとりが現場から消えたのとほぼ同時に、ハボックの丈高い姿が、ぼやけた。
 足元のライトに照らされて、苦痛をこらえるハボックの影が、岩盤に歪(いびつ)に映し出されていた。
 苦痛の汗を拭い、ジーナが息をついたときだった。
 ジーナの耳に、かすかなけものの呻きのようなものが聞こえたような気がした。
 軍服が今にも脱げてしまいそうだ。ぶかぶかの軍服のベルトを締めなおして、ジーナは立ち上がる。
 だるい足腰に力を込めて、ジーナは声の主を探した。
 そうして、見つけたのは、本当の弟のように仲のよかった、幼馴染の少年が成長した姿だと、直感した。――彼の左腕に刻まれた、刺青に、見覚えがあった。あれは――やはり幼馴染だった彼の兄が………。
 命令どおり、発見すれば、大佐に引き渡すつもりだった。
 それをやめたのは、やはり、懐かしさのせいだったろう。
 どうせ、大佐にしても、発見できるとは、思ってなどいないに違いない。
 だから、ジーナは、瓦礫の中から掘り出した幼馴染に応急処置を施したのだった。


「元気?」
 相変わらず、何もかもが楽しくてたまらないといったような、そんな口調で、エンヴィが話しかけてきた。
  「遅い」
 気配に、ふり向きもせず声をかける。
「わるいね。こっちもいろいろ忙しいからさ」
 あの時と少しも変わらない、小悪魔めいた表情の少年が、背後に立っているのだろう。



 あの時―――
 街が炎に包まれた、あの、灼熱地獄。
 ジーナもまた、逃げ切れず、瓦礫に挟まれ、じりじりと焼き殺される番を待っていた。
 瓦礫は、腰から下を傷つけ、骨がどうにかなっているのだろう。瓦礫を取り除いたとしても、動けないに違いなかった。
 こんな苦しい死にかたは、いやだった。
(どうして)
(だれか、助けて)
(それもできないのなら、殺して!)
(わたしを)
 彼方で炎を操っている、紅蓮に染まった錬金術師。
(紅蓮の悪魔を、殺して!)
(殺してくれるのなら、なにをあげてもかまわない)
(魂も、あげる)
(こんな、ぼろぼろのからだでもいいのなら、これも、あげる)
(だから、あの、悪魔を、殺して!)
(わたしを、わたしたちを、助けて!)
 熱い風が、目の前にまで迫っていた。
 チリチリと、あの子が好きだといってくれた自慢の金髪が、縮んでゆく。
 熱い。
 痛い。
 xxx
 口に馴染んだ名前をつぶやく。
 幼馴染のあの子も、どこかで、泣いているのだろうか。
 あの子のお兄さんも、この灼熱の中で、死んでしまったのだろうか。
(誰か)
(誰か)
(誰かっ!)
 涙が、あふれる先から蒸発してゆく。
 熱くて痛くて、息も苦しくて、もう、目も見えなくなってしまうのだと、そう、思った。
 ひたひたと、絶望が、喉元まで、こみあげてきていた。
 けほけほと咳き込んだはずみに、口から、血があふれた。
 流した血を見つめて、もういい――と、ジーナがそう思ったときだった。
「あらら。諦めちゃうんだ」
と、からかうような声が降ってきた。
 やっとのことで見上げると、そこには、黒く長い髪の少年が立っていた。
 まるで、黒い大きな翼のような、黒い髪を、熱風が巻き上げる。
 不思議な格好。
 皮肉気な笑顔を貼りつけて、少年は、ジーナを見下ろしていた。
「憎いんだろう? あの、国家錬金術師が。………復讐したいよね」
 爬虫類のような瞳孔が、聖堂の地獄の光景に描かれている小悪魔のようだ。
「したい」
「なら、この手をとりなよ。オレが、君の望みを叶えてあげる。その代わり、君の全部は、オレのだ。いい?」
 差し出された手を取ろうと、ジーナは手を、精一杯伸ばした。
 こんなズタボロのからだでもいいのなら、あげる―――
 だから、あの、紅蓮の悪魔を!
「契約成立だよ」
 高いところから、楽しそうな、声が聞こえてきた。
 握りしめた手の感触も感じられないまま、ジーナは、意識を失った。

 そうして、次に気がついたとき、ジーナは、既に、男の姿をしていた。
 上半身を起こして確認すれば、暗くて広い、どこかの部屋の中、大きな白い円と不思議な記号がジーナを取り囲んでいる。
 そうしてすべらせた視線が、自分を、変わり果てた自分の姿を捉えた。
 ジーナは、ただことばもなく、自分のからだを見下ろした。
「新月の夜だよ」
 少年の声が、耳を射る。
 顔を声がした方向に向けると、そこには、あの、黒い翼めいた髪の少年が立っていた。
「新月の夜には気をつけて。日が昇るまで、君は、元の姿に戻ってしまうから」
 ――女っていうのは、どうも、自分の姿に執着が強いらしいね。
 面白そうな声のトーンが近づいてくる。
「君の名前は……そうだね、ジャン、ジャン・ハボック。忘れないように」
「ジャン・ハボック」
 喉から出たのは、しわがれた声だった。


   あの時から、ジーナはジャン・ハボックとして、新しい人生を歩いている。
 母親から間接的にしか知ることのなかったセントラルの文化を勉強し、士官学校に入学できるだけの学力と体力を身につけ、戸籍を捏造した。
 おかげで、今では、あの、紅蓮の悪魔――国家錬金術師ロイ・マスタングの片腕と呼ばれるまでになった。
 どんなに、うれしかっただろう。
 彼の腹心の部下と呼ばれながら、彼を欺く。
 街を焼き払った、悪魔が、エンヴィたちがお父さんと呼ぶ存在に、人柱として必要されるそのときまで、彼が髪の一筋なりとて傷つけられないように、守りとおしてみせる。
 そのときの、大佐の顔を想像するだけで、ジーナの心は、ときめく。
 けれど―――そのときめきの片隅に、ちくちくと疼く感情がある。それが、なになのか、あえて確かめるつもりは、ジーナにはなかった。けれど、時々、無視してしまうことができないほどに膨らんでしまい、喉からあふれ出してしまいそうになる。それが、ジーナには、こわくてならなかった。
 とんでもないことを叫んでしまいそうで、自分が自分として立っている足場が崩れてしまいそうな、そんな、不安があった。だから、ジーナは、いつも、そこから、注意深く目を逸らすようにしているのである。
 一月に一度だけ、どうしても女に戻ってしまう夜には、エンヴィがやってきて、応急処置を施してくれる。
『女だったことに、まだ執着してるんだ』
 そんなことを言いながら、それでも、突然の訪問者がいても困らないようにと、練成しなおしてくれるのだった。
『めんどうじゃない?』
 ジーナは、そう訊ねたことがある。
 エンヴィだとて遊んでいるわけではないのだ。
『別に。オレってお父さんの子供の中でも優秀だからさ、任務が簡単すぎたりするんだよ。面白くなかったりさ。だから、ジーナみたいな時限装置を置いておくと、ちょっとはスリルがあるじゃない。……それに、ジーナは、全部、オレのだもんね。オレが拾ったんだし、オレが面倒みないとさ』
 そう言って、エンヴィはクスクス笑ったのだ。



「時限装置は爆発しました」
 おどけた口調でそう言うと、ジーナが振り返った。
「今日はオレの負けだな」
「じゃ、今度は、エンヴィのおごりだな」
 ほらおいで、と、手招かれ、ジーンは数歩、エンヴィに近づいた。
 練成光が、刹那、瓦礫の底を照らし出した。
 一刹那の後に再び訪れた闇の中、足元のライトに照らし出されているのは、ひょろりと丈高い金髪の将校である。
 ハボックの背中を叩き、
「じゃあ、いつもの店で待っていよう。少尉、オレが誰に化けてるか、間違わずに見つけてくれたまえ」
 エンヴィは背中を向けた。
「ジャン・ハボック少尉。傷の男探索を切り上げます」
 エンヴィの背中に、ジーナがおどけて敬礼をした。
 エンヴィの姿が闇の中に溶けたのを見送り、まだ気づいていないらしい幼馴染が無事に逃げ切れることを祈って、ジーナは、瓦礫を後にした。


 後には、黒々とした闇だけが残されていた。


おわり

10:47 2004/02/07
15:12 2004/02/07
あとがき
Left Hawk Land さま閉鎖のため、差し上げ物頁より移動させていただきます。

こちらの画像は、 STUDIO MUさまよりお借りしています。


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