恋煩い |
その日、東方司令部に隠れもないロイ・マスタング大佐の執務室には、暗雲が垂れ込めていた。 しばらく前から、その前兆は見られてはいたのだ。 リザ・ホークアイ中尉のこめかみには、自分を抑えている証がくっきりと刻まれていた。 キれた彼女が愛用の銃を抜くのも、もはや時間の問題だった。 彼女の前には、デスクに頬杖をついてため息をつく上司の姿がある。大佐の左右、デスクの上には堆く(うずたかく)積まれた書類の山が、彼の仕事が少しもはかどっていないことを物語っていた。 もともと、何かと理由をつけては――つけないときもあるが――デスクワークから逃げ出す癖のある上司である。そのぶん、たまった仕事の提出ぎりぎりの追い込みは、余人にまねのできないものではあるのだが。 しかし、ここ数日、彼女の上司の有様は、目を覆いたくなるばかりのものであった。 ロイ・マスタング大佐という人物は――――― 切れ者である。 国家錬金術師というエリートでもある。 彼女が、彼女をはじめとする直属の部下たちの心を掴むカリスマの持ち主でもある。 ついでに、町の、独身既婚老若を問わず、女性たちの憧れの的でもある。 なのに――――だ。 このていたらくはどうしたことだろう。 ほぅ――と、大佐の口からまたひとつため息がこぼれ落ちた。 「大佐」 ふぅ―――またひとつ。 「マスタング大佐っ」 常には鋭い光を宿している黒曜石の瞳が、ぼやんと彼女を見上げた。 だらけきっている。 ホークアイ中尉の肩が、ぶるぶると小刻みに震えた。 しかし、いつもなら彼女の沸点を見切っているはずの大佐は、あいも変わらずほやややややんと、天井を見上げているばかりだ。 はぁ―――。 中尉の眉間に、縦皺が刻まれ、右手が銃を求めて腰溜めをさまよった。 次の瞬間。 Bang! Bang! Bang! 耳を聾する銃声が三発。 見れば、大佐の椅子の背凭れには、銃痕が三個穿たれていた。 「おや、中尉。どうしたね」 銃声など聞こえなかったかのような大佐の反応に、中尉の肩の震えが一層のこと大きくなった。 その後、しばらくして中尉が執務室から出てくるのを、哀れにも居合わせた部下たちが、見てみぬ振りをして書類に視線を向けていたことは言うまでもない。 さて、執務室であの後、大佐と中尉との間でどんなやり取りがおこなわれたのかは知る由もないが、緊張しきって書類をにらみつけている、偶然居合わせてしまった部下ふたりは、部屋を見渡す中尉をこっそりと目の端で観察していた。 「ハボック少尉は?」 中尉の問いに、フュリー曹長が、 「今日はまだ見ておりません」 と返答する。 「逃げたわね」 つぶやいた中尉の表情に、気弱な曹長は涙を流した。 「曹長、准尉!」 「はっ」 「はい」 「今すぐ、少尉を探してちょうだい。見つけしだい拘束。ここまで連行してくること。いいわね」 「はいっ」 有無を言わせぬ目の輝きに、ふたりは敬礼をすると部屋から出て行ったのである。 空は青い。 どこまでも、青い。 ぽっかりと浮かんだ白い雲を見て、ぐぅ――とばかりにハボック少尉の腹が鳴った。 「腹減ったな」 少尉は、タバコを咥えたまま寝転がっていた。 もうそろそろ午後も遅いころだろう。 三時か四時といったところか。 「結局今日はまるっとサボっちまったな」 司令部裏手の公園である。司令部の倉庫の壁と公園の植え込みとにはさまれて、ちょっと見外からではわからない。 サボりたいときには市街巡回と口実を設けて、少尉は頻繁にここに来るのだった。 (このまま帰っちまおうか) (いや、それじゃ、明日から困るだろ) ぐるぐるとめぐる思考は空転を繰り返す。 「う〜」 今日は、運命の日だった。 そう、おそらくはこれから先の人生の明暗を分けるだろう、運命の。 今朝、眠い目をしょぼしょぼさせながらデスクについたそのすぐ後に、部屋に入ってきた大佐の姿を見て、ふと、何かを思い出しかけた。 大佐が奥の執務室に消える寸前、ぽんぽんと自分の肩を叩いた瞬間、それが、鮮明になったのだった。 『げっ!』 で、思い出した事柄に真っ青になった少尉は、 『巡回に行ってくる』 と、ブレダ少尉に断って、そのまま部屋を逃げ出してきて今に至る――というわけだ。 このあいだ―――――正確には五日前のことだった。 書類を大佐に届けに行った執務室。 大佐は珍しく、書類のないデスクの前で暇そうだった。 『仕事っす』 大佐がさし招くままにデスクに進み、掌の上に書類を乗せた。 瞬間、 『っ』 手首を取られ、引きずられた。 そうして、 『なにするんすか』 とっさに大佐を突き飛ばしていた。 くちびるに触れた、大佐のくちびるの感触が生々しい。 思わず口を手で覆い、拭っていた。 『傷つくね』 しれっとした口調で、表情も変えず、大佐がつぶやく。 トンと軽く音をたてて、上司のデスクに左手を乗せた。 そのときは、まだ、余裕があった。 『ったく、目ぇ開けたままで寝ぼけてたんすか。傷つくのはこっちっすよ』 上司相手だが、これくらいの憎まれ口はかまわないだろう。 そのまま踵を返そうとして、足が止まった。 デスクについたままだった手の上に、大佐の手が重なったからだ。 練成陣の描かれた白いてぶくろ越しに、大佐の体温が伝わってくる。 『?』 顔を上げたとき、少尉は大佐の左手を顎の下に感じた。 そのまま顎を固定され、何がおきているのか認識できないでいるあいだに、もう一度、大佐のくちびるを感じていた。 突き飛ばそうにも、いつの間にやらデスクを挟んだ状態で抱きしめられるという不安定さに、かなわない。 なんというか、さすが女好きと、妙な感心をしてしまうくらい、キスそのものは気持ちよかった。 よかったが、問題は、相手だ。 とりあえず満足したのか、ようやく解放されるころには、少尉の息は上がっていた。 『なに、さかってんすか』 『おや、憎らしい口だね』 『んなことは、女とやったらいいでしょーが』 つきあう相手に事欠かないくせに。 『君も、ぞんがい鈍いね。ジャン』 少尉でもハボック少尉でもなく、突然、名前を呼ばれ、少尉の緑の瞳が大きく見開かれた。 ジャン――などと、大佐にファーストネームを呼ばれる謂れはない。しかも、そこには、充分すぎるほどの甘さが忍ばされていて、少尉の背筋が粟立った。 ぞわり――と、背筋に立った粟は、よからぬ予感を伴っていた。 『なにが………いや、いいっす』 今度こそ、ここから出て行こうと、後退さる。 しかし、あと少しでドアだというタイミングで、 『私は、どうやら、君のことが好きらしいんだ』 聞きたくなかったことばが、大佐の口から放たれた。 ゴンッ! 硬いドアで額を打ったが、痛いとも感じない。それ以上のショックを受けたハボックである。 『大丈夫かね』 『こなくていいっすから!』 悲鳴じみた制止は、大佐には届かなかったらしい。 『ひゃっ』 『ああ、赤くなってる』 (誰のせいっすか誰の!) 『ううっ』 ぺろりと腫れているらしい箇所を舐められ、 『返事は五日後に』 いい返事を待っているよ―――と、少しも断られるなどと考えていない口調でささやかれ、あまつさえ大佐手ずからドアを開けてまでくれたのだった。 そうして、今日は、まさに運命のその日なのだ。 男に告白されたことだけでも衝撃なのに、相手は、自分の敬愛する上司で。だからといって、あの大佐の行動を思い返してみるに、もし仮に「諾」などと返事をしようものなら、どうやら、自分は、抱かれる立場に立たされそうで―――――。 それはイヤだ。 抱く側もごめんだが、抱かれるのはもっとイヤだ。 しかし、逃げ場はない。 あんなことさえ言わなければ、しなければ、充分尊敬に値する上司だし、上司としてなら、敬愛だってしている。それに、もし仮に転属届けを出して受理されたとして、今更、他の部署の上司に馴染むことなどできないだろう。――大佐がかなりさばけた上司であることは、わざわざ比較するまでもなくたしかなことだ。 (こ、断れないかな………) 穏便に断るには、どうすればいいのだろう。 今、身近に、恋人役を引き受けてくれるような女性の知り合いも、恋人も、いない。――――それは、おそらく、大佐は確認済みに違いないのだ。なにしろ、情報局のヒューズ中佐は大佐の親友なのだからして。 『いい返事を待っているよ』 去り際のあの言葉。 自信に満ち溢れていたが、根拠は、そこにあるのかもしれない。あまりにも、決定打に欠けるものではあるが。 「どないせっちゅーんじゃ!」 少尉は、叫んだ。 自分が隠れていることを忘れて、叫んだ。 そうして、えてして、こういう場合はタイミングが悪いというのがお約束なのだったりする。 「あっ、ハボック少尉。見つけましたよ」 「へ? フュリーじゃねえか」 「うげっ。いてーじゃねーか」 有無を言わせず、技をかけられた。 「ハボック少尉を確保しました」 などと、大声で叫ぶ。 「おい、こらっ! はなせっ」 少尉がもがくが、フュリー曹長も必死らしく、技を解くことができない。 「少尉、申し訳ありません」 あうあうと泣きながら、それでもフュリーは、やがて現れたファルマン准尉とともに、少尉を引きずっていったのである。 背後でふたりにまだ拘束されたまま、少尉は、中尉と対面していた。 「大佐の仕事が少しも進まないのよ」 ギックン―――と、心当たりありすぎの、少尉の顔が引きつる。 「どうしてかは、判っているわね。ハボック少尉」 (し、知ってる………) 少尉の顔から、血の気が引く。 相手は、大佐の仕事がはかどるようにするためには、手段を選ばない、鉄の美女である。 「あなたも軍人なら、告白してくれた相手に返事をしないなどというふがいないまねはおやめなさい」 あまりの展開に、少尉の背後のふたりが顔を見合わせる。そうして、互いの頭の上に、クエスチョンマークを発見した。 告白の返事と大佐の仕事のはかとに、いったいどんな関連性があるのだろう――という顔である。 「准尉、曹長」 「はっ」 「はいっ」 「ハボック少尉を大佐の執務室に入れて、外から鍵をかけなさい」 「いやだっ」 「早く」 イヤだと喚くハボック少尉を、准尉と曹長とは、そうとは知らずにオオカミが待ち受けるドアの奥へと押し込んだのである。 しばらくして少尉の悲鳴がドアの奥から聞こえてきたが、触らぬ神にたたりなしとばかりに、誰も居残ってはいなかった。 その後、元気を取り戻した大佐は悠々と仕事を進め、逆にハボック少尉は日々青褪めやつれていった。 おしまい
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あとがき
ハボックさん、ごめんね。
いや、好きなんですけど、少尉。好きなキャラだからこそいじめ たいってことかな、やはり。鬼ですね。
中尉が、壊れてますね。仕事のためにはなんだってするという感 じをデフォルメしてみましたが、執務室での密談は、自粛xx あと 、銃をぶっ放すとこですが、いや、まぁ、いくら軍事国家とは言え 実弾を撃つのは、経費の無駄遣いだろうと突っ込みつつ、原作のあ のシーン好きですね。
ロイさん、へたれてるのと少尉に言い寄ってるのと、ギャップが すごいですね。ようは、タイトルにつながるということで。
しかし、こんなの書いていいのだろうか? アップするけど。
それでは、少しでも楽しんでいただけますように。←鬼や。