理由



(おや、あれは………)
 ロイ・マスタング大佐の足が、ふと止まった。
 女性好みの整った容貌に、軋みが現れる。大佐の秀麗な眉間に、縦皺がくっきりと刻まれていた。
「どうなさいましたの?」
 傍らの女性の問いかけに、
「失礼、用を思い出しました。この埋め合わせはまた」
 軽く返して、大佐はその日のデートの相手から離れたのだった。
 今日は、久しぶりの非番だった。
 朝からゆったりとした時を過ごし、午後になって約束してあった女性とのデートに出かけた。
 緊急の呼び出しもない、隣には美女―――完璧な休日のはずだった。
 その存在を見るまでは。
 道を隔てた店のウィンドウ越しに、背の高い金髪が揺れている。その肩よりもなお低い位置にあるのは、女性の笑顔。黒髪の女性が、背の高い男を見上げて微笑んだ。それに照れたように笑っている横顔は、
(少尉………も、たしか今日は休みだったな)
 ジャン・ハボックだった。
 大佐の喉もとまで、苦いものがこみ上げてきた。



 メアリ・ポープの穏やかな笑顔に、思わず、ハボックは見とれた。
「ジャン?」
 明るい褐色の瞳が見上げてくる。
「あ、えっと、なんでしたっけ」
(ああ、煙草が吸いたい………)
 愛煙家の常で、煙草を吸っていない時は、口がさびしい。こう、間が持たない時は、特にそうだ。
 メアリ・ポープの手には、つややかな布が二種類のせられている。
「どっちが好いかしら」
 明るい花紺色の布と、それよりも深い、紫紺の布だ。
 たくさんの荷物を抱えたまま、ハボックは、布を見比べる。
 どちらも彼女の黒髪をひきたたせるのに充分だ。両方を買えばいいのに、何をそんなに悩むんだろう―――というのが、ハボックの本音だった。
 それでも、布を矯めつ眇めつするメアリ・ポープは真剣で、
「んじゃあ、そっち………」
 紫紺の布を指し示そうとしたハボックの声に、
「明るいほうが、似合うと思いますよ」
 背後から重なる声があった。
 ハボックの肩の力が抜け背中が丸くなった。
 声の主などわかっている。げんなりと振り向いたハボックの目の前に、女性に向けるとっておきの笑顔を貼りつけたロイ・マスタング大佐の顔があった。
 その威力は抜群で、メアリ・ポープの白い頬にも、かすかな赤みがさしている。それを横目で見て取ったハボックは、煙草を吸いたい――――と、心から願ったのだった。
「なんであんたがついてくるんすか」
 メアリ・ポープを先頭に、右後ろに大佐、左後ろにハボックが、並んでいる。それぞれ手には大量の買い物を抱えている。
「おや、こうして荷物運びを手伝っているのだから、もっと喜んでくれるものと思ったのだがね」
 しれっとのたまう大佐に、
(だ〜れが、休日にまで上司と会って喜ぶってんだ)
と、心の中で毒づくハボックだった。
「はいはい。ありがとうございます」
 もっとも、口に出しては、おざなりながらも礼を言うハボックだった。
 クス――――と、かすかな含み笑いを大佐が漏らしたのを、ハボックは聞き逃さなかった。


 やがて、三人は、一軒の石造りの家に到着した。
「こっちにお願いね」
 メアリ・ポープに言われるまま、キッチンにすべての荷物を運び終えたふたりは、
「ありがとう。とっても助かったわ。お礼は後ほど―――ね」
 メアリ・ポープがいそいそと荷物を片付けるのを見ていたが、
「あっと、それじゃ、大佐、今日は本当に助かりました」
 そう、まんざら口だけではなさそうなハボックのことばに、大佐は、
「ここまで重い荷物を運ぶのを手伝った得がたい上司をそれだけで追い出す気かね、少尉は」
 などと、にやりと笑う。
「ここは、少尉の下宿だろう」
「わかりましたよ。じゃあ、オレの部屋にでも。けど、なんもありませんよ」
 そう言って、大佐を案内するハボックだった。
 
「案外きれいに使ってるな」
 通された三階のハボックの部屋をぐるりと見渡して、大佐が独り語ちる。
 ベッドにクローゼット、テーブルと椅子。入り口のほかにドアがひとつ、おそらくその奥にはバスルームかシャワールームがあるのだろう。簡素な部屋だった。
「椅子ひとつっきゃないっすけど」
 窓を開け放して空気の入れ替えをしたハボックが、窓を閉め振り向けば、大佐は既に椅子を占領していた。
 しかたなく、ハボックはベッドに腰を下ろした。
 とりあえず一服したかったのだ。
 ズボンのポケットから煙草とライターを取り出す。
 一本咥えて火をつけようとした。
「少尉の恋人は、年上だな」
「は?」
 思いがけない大佐の言葉に、ハボックは顔を大佐に向けた。
 ぎしりと、椅子が軋み、立ち上がった大佐が近づいてくる。
「下宿の娘と恋仲とは、少尉もすみにおけないね」
 ハボックの緑の瞳が大きく見開かれた。
 ハボックの正面で立ち止まった大佐が、咥えていた煙草を奪ったからだ。
 反射的に煙草を追って上向いたハボックの目の前に、石炭のような黒い瞳があった。
 火をともした石炭の赤い色を宿して、大佐のまなざしがハボックの視線を捕らえた。
 背中に冷たいものが走るのを感じる間もなく、
「っ!」
 スパークする思考。
 開いたままの視界いっぱいに、ぼやけた大佐の顔。
 煙たがってはいても、心から尊敬している上司である。その大佐が、今、たった今自分にしているのは、いったいなんなんだろう………。
 このやわらかい感触は? しっとりと濡れたような、これは、いったい……。
(なんなんだ?)
 苦しさにせっつかれるように息継ぎをしようと口を開きかけて、ぬめりを帯びた何かが口の中に入ってくる。
(これは)
 爆ぜた思考が、活動を再開する。認めたくない現実が、ゆるゆると動き出した脳によって理解されてゆく。
(キ…ス………キスされてる…大、佐に……………大佐にキスされてる?!)
「うわっ」
 突き放した瞬間、ドンとしたたかに背中を壁にぶちつける。しかし、そんなことを気にしている余裕などこの時のハボックにはない。
「た、大佐っ、あ、んた………」
 声が変なふうに上擦る。クラクラとその場に懐いてしまいそうだった。酸欠気味の荒い息に、空気を求めて肩が激しく上下する。耳の奥で血液の流れる音がぐわんぐわんと痛いくらいにこだまする。
「ジャン………」
 甘い響きをはらんだ声が、ハボックの耳を射る。同時に、ハボックは、退路を断たれたことに気づいた。
「ジャン……おまえが、欲しい」
「なっ!」
 ダイレクトな告白に再び思考がフリーズしたハボックのくちびるに、大佐のくちびるが、もう一度重ねられた。

 カチャン!
 硬質なものがぶつかり合う音に我を取り戻したハボックが、彼の太腿をまたぐようにして壁に手をつきキスを強奪していた大佐を突き飛ばした。
「ひどいな、ジャン………」
 そう言いながらも視線をめぐらせた大佐の瞳が大きく見開かれた。
 ドアのところに、メアリ・ポープが立ち尽くしている。彼女が手にしたトレイの上のティーカップがカチカチとぶつかり音をたてていた。
 その場の空気が凝りつく。
 大佐の視界の隅では、ハボックがことばをなくしたままで硬直している。そんなハボックを可愛いと思ってしまう大佐だった。と、
「ハ、ハボックさん………なにを」
 ようやくのことで自分を取り戻したらしいメアリ・ポープが、わななくような声でそう問いかける。それもそうだろう。荷物を運んでもらったお礼にと、片付け物を済ませた彼女は買ってきたばかりのケーキと紅茶を淹れて、ハボックとその上司に運んだだけなのだ。彼女の名誉のためにも言っておくが、ドアはちゃんとノックしたのだ。それに気づかなかったのは、取り込み中の二人の不覚でしかなく。返事を待たずにドアを開けたのは、まさに彼女の不覚でしかなかったのではあるが。そうして、見てしまった、光景。壁際に縫い付けられるようにして、彼女の大切な下宿人は、同じ男であるその上司にキスをされていたのだ。それは、一種、視覚の暴力ではあったろうが。なんとなく、メアリ・ポープは見惚れてしまったのだった。
「ポ、ポープ夫人。これは、その………」
 息を吹き返したかのようにハボックがあせってわたわたと説明をしようとするが、何をどう説明すれば良いのか、混乱しきった頭では巧く取っ掛かりが見つからない。
(ポープ夫人? ということは)
 こういう場合の切り替えは、さすがに大佐が勝っている。ゆっくりと優雅に立ち上がった大佐は、
「ポープ夫人。お見苦しいところをお見せしました」
と、笑顔さえ見せる。
 大佐の魅力百パーセントの笑顔に、ぽーっと見惚れて、
「お取り込み中でしたのね。失礼しました。ええ、と…………これ、おふたりで召し上がってくださいね」
 メアリ・ポープ夫人は、ドアを閉めた。
 背後で、カチリとかすかなロックの音を聞いたような気がしたが、大切な下宿人のプライベートを邪魔することは、下宿屋を営むうえではしてはいけないことである。

 くるりとふり向いた大佐に、ハボックは壁にへばりついた。
 今すぐこの壁が溶けてなくならないか――――今日ほど錬金術師になりたいと思ったことはなかった。
「さて、ジャン、つづきをしようか」
 にっこりと笑う大佐に背筋を粟立たせて、ハボックが首を左右に振る。
 なにがどうしてこうなったのか、混乱のきわみのハボックにはわからない。
 ただ、上機嫌で近づいてくる大佐に捕まったが最後、自分の身に何が起きるのかだけは、わかっていた。
 だから、
「大佐、オレ、男っすよ! 正気に戻ってくださいって!」
 手を突っぱって叫んだ。
 しかし、手は一まとめにされ、
「大丈夫。やさしくするから」
と、耳元にささやかれた 内容に、
「いやだ〜」
 ハボックは悲鳴を上げたのだった。


 休日明けの職場に、ハボックの姿は見られなかった。
 その理由を知っているのは、ロイ・マスタング大佐だけである。
おしまい
23:12 2003/11/21
あとがき

 おっかしいなぁ………。もう少し、シリアスな展開になるはずだったんだけど。
 メアリ・ポープさんにももっとハードなバックグラウンドとかいろいろ考えてたのに、少しも生かせなかった。残念。
 いえ、まぁ、元ネタは、2001年に書いてた「ワヤスミ」です。ええ、焼き直しなんです。いけるかも! と、思っちゃったもので。しかし、年下攻めが元ネタになってるもので、直すのが、大変でした。和谷くん口調の大佐は、見たくないですし………。ごっそり消えたエピソードとか。
 まいどのことではありますが、「こんなん違う〜!」とか、「こんなんハボック少尉じゃない〜」とか「大佐こんなことしない〜」とか思った人がいたらゴメンナサイm(__)m これは、あくまで魚里ワールドの少 尉と大佐なので、お目こぼしくださいね。それでは、少しでも楽しんでもらえると嬉しいです。
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