桜の花の |
桜の花の――― 咲き初めた桜は、次々とほころび、今、まさに爛漫の花見ごろを迎えた。 シン――と肌に染む、戻りの寒の宵闇に、満月が光を降り注ぐ。 そこは、人里を遠く離れた、山の中。 ひとの耳には届かない、あまりにあえかな音をたてて、桜がそのはなびらを散らしてゆく。 しっとりと湿り気を帯びた、淡い色を宿したはなびらが、月光に照らし出された緋毛氈に、不思議な陰影を落としていた。 ひとひらのはなびらが、杯の中に、波紋を描く。 黒地に銀糸で細かな文様を縫い取りした着物をまとった美男が、はなびらごと杯を干した。 白い喉と手とが、闇の中、くっきりと浮かび上がる。 白皙にくっきりと印象的な黒い双眸が、はんなりと和らいだ。普段の彼を知るものであれば、目を剥いたであろうその変貌を、見るものはといえば、ただ桜花ばかり。 否。彼の視線の先には、ひとりの人物があった。 白々とした光が、桜の森の中に小路を描き、その青年の影が、舞い散るはなびらをはかなげにかすませた。 「ジャン―――」 杯を下ろし、男が口にしたのは、愛しい青年の名である。 ゆるゆると桜の中にいたジャンの精悍な顔が、男を認めて、かすかに染まる。桜が色を移したかのように、日に焼けた頬がほのかに彩られて、彼にこのうえない艶を与えていた。 「ロイ」 静かな山の中に、男を呼ぶ細い声が染み透ってゆく。 まろぶように花の雨の中を駆けて、ジャンがロイの示す傍らに腰を下ろす。 ロイを見下ろす、明るい緑のまなざしが、ロイの心を乱した。 「なにをしていたんだ。いったいいつまで私を待たせるつもりだ」 乱れる心が、自分がどれほどこの存在を愛しているのかを思い知らせるかのようで、ロイの口調がきつくなる。 「すみませんね。あまりに桜がみごとなもんで」 にやりと笑うジャンの頤に手を添えて、 「もっとよく、おまえの顔を見せろ」 ロイは、空いているもう片方の手で、ジャンの前髪を梳き上げた。 一陣の風が、ふたりの間を吹きぬける。 雨のように降りしきっていたはなびらが、一斉に撒き上げられた。 青い夜のしじまを、桜の花が、狂ったように、舞う。 その、あまりに美しく、同時に、心寂しい風情に、ふたりは、しばらくの間、ことばをなくしてただ見惚れていた。 やがて、景色は再び静けさを取り戻した。 シンシンと、月が、後は散りゆくさだめに身をまかすよりない、ささやかなばかりの盛りの時を見守るかのように、やさしく照らし出す。 「めちゃくちゃきれいでしたね」 先に口を開いたのは、ジャンのほうだった。 見下ろす先に、ジャンを見上げる、月光を弾く強いまでのまなざしがあった。 「ロイ?」 小首をかしげたジャンの頬に、ついとロイの手が伸ばされた。 とっさに、ジャンは、身を硬くして目を閉じた。 頬に感じる、ひんやりとしたロイの指先のやさしさに、目を開けると、 「おまえにくちづけるとは、ふらちなはなびらだ」 ふっと、ロイが口元だけで笑った。 見れば、ロイは、ひとひらのはなびらを、その整った指先につまんでいた。 ロイが息を吹きかけると、はなびらはひらりと漂い、すぐに、緋毛氈の上のはなびらの上へと落ちた。 「おまえは誰のものだ、ジャン?」 やわらかな口調に、 「あんたの……ですよ」 恥ずかしそうに、ジャンが応える。 「そうだ。この頬も、このくちびるも………おまえのすべては、この私のものだ。たとえ、はなびらとはいえ、私以外に、許すんじゃない」 頬に、目に、髪に、額に、くちびるに、ついばむように降ってくるロイのくちづけに、『なんて恥ずかしいことを』という反論もできず、ジャンの冷えたからだが熱くなってゆく。 「わかっているな」 返事を求める意地悪なことばに、ジャンは、やっとのことで首を縦に振った。 「いい子だ」 潤む視界に、ロイの会心の笑みが映った。 END
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あとがき
まるっきり和物です。いろいろ考えて、あの世界だと、きっと、桜じゃなくアーモンドとかかなとか思いつつ、アーモンドの花(桜にそっくりなんですよ)の木の下でって、微妙に、色っぽくないですから、和物にチェンジ。
少しでも楽しんでいただけると、うれしいです。