Version Edo



 教練を終えて、ジャン・ハボックは休憩室に入った。
 ほっとするような解放感。全身に圧し掛かってくるような疲労すらもが、心地好い。首を回せば、コキコキと音が鳴った。
 今日はこれで上がりだった。
 シャワーを浴びて、さてこれからどうするべきか…ハボックがそんなことを考えていると、
「ハボック少尉っ」
 エドの弾むような声が耳に届いた。
 駆け寄ってきたエドが、ハボックの腕を取ってぐいぐい引っ張る。
 はぁ…と、溜め息をエドに気づかれないように噛み殺すハボックだった。
「ハボック少尉、今日は何日だか知ってる?」
 いつになく真剣なエドのまなざしにハボックが首を傾げる。
「何日って…二月の十日に決まってるじゃないか。ボケるのはまだ早いぞ」
「ハボック少尉こそ。もちろんもらえるんだよね」
「?」
 エドの台詞に、思考がフル回転する。
「なんのことだ」
「あーっ! ハボック少尉。ひどい。それとも、わざととぼけてる?」
 エドのオーバーアクション気味の言葉になおも小首を傾げるハボックだったりする。そんなハボックにがっくしと肩を落としたエドだった。
「………デイ」
「はい?」
「バレンタインデイ。チョコレートもらえるよね、オレ」
 今度はハボックがこっそりと脱力する番だった。
 男が男にチョコをねだってどーする! そう力説したいところだが、怒られて萎垂れた大型犬のようにしょんぼりしてるエドなど見たくはないから、結局言えないのだ。そのうえ、わけのわからない罪悪感が芽生えてしまう。それに、たかがチョコレート一個をやるやらないで口論をするのも、大人気ない。
 エドにはいつも元気いっぱいでいて欲しい――チョコレートの一個でそれができるというのなら、女の子達に混ざってチョコレートを買う居心地の悪さだって我慢しよう。常々エドには弱くて甘いとの自覚のあるハボックであるから、結局そんな風に覚悟を決めてしまったのだった。
「わかったってば。やるからそう引っ張るなって」
 それでも、なんとなく口調が投げやりになるのは仕方がなかったりするだろう。
「あーっ!」
「なんだ」
「ひどい」
「だから、なにが」
「ハボック少尉、そんなめんどーそうに言わなくたっていーじゃんか」
「はいはい」
(やっぱり、まだまだガキンチョだよな)
 断っても断っても諦めない十五才の少年の求愛を、何とか交わしながらこれまで過ごしてきたのだが、チョコレートに固執するようすになんとなく安心する。こどもを突き放しきれない、罪悪感というやつは、始末に悪いのだ。
 それを、煙草の煙を天井に吐き出すことで宥めようと、深く吸い込み、
「そこに、愛はあるよね」
 エドのことばに、刹那、硬直する。
 げほげほと煙草の辛さに咳き込み、大丈夫? とエドが背中を叩くのを感じながら、涙にかすむ瞳を、エドに向ける。
「はい?」
「ハボック少尉のオレに対する愛情!」
 それがわかれば、苦労はしない。
 愛情には、『好き』という感情の何もかもが一緒くたに混ぜ込まれている。 家族愛や友情や恋心から動物愛護の精神まで。そんなふうにハボックは思っているのだが。
(この場合、大将の言ってる『愛情』って、『恋心』とイコールで結ばれてるわけだからなぁ…)
 考えるまでもないのだが。それでも、エドに対するハボックの『愛情』には、そんな本来の意味までもが渾然一体となっている。だからこそ、きっぱりと拒絶しきれない悪循環を作ってしまっているのだが、ハボックはいつも自分で自分の感情の正体がわからなくなるのだ。
 だから、『好きか?』と訊かれれば『好きだ』と答えるしかないのだが……。
「………おまえだけにチョコをやる。それじゃダメか?」
 琥珀色の瞳を見返す。
「オレだけ?」
「そう」
 大きく首を縦に振る。
「ホント?」
「本当だ」
「アルには?」
 ドキン――とハボックの心臓が大きく脈打った。
(まさか、知ってる?)
 疚しいような気分が芽生えるのは、昨日の出来事のせいだったろう。
 昨夜のことだ。
 アルに呼び出されて、ハボックは紙包みを受け取った。
 ハボックの家の近所の喫茶店。そこで待っていたアルと他愛のない会話。 なんで呼び出されたのか解らなかったが、会話自体は和やかなもので、楽しいひとときだった。
 ふと気がつけば、窓の外の夕景が深く宵闇をやどしていた。腕時計を見ると七時を過ぎていて、とりあえずアルを泊まっている宿舎まで送ってゆこうと提案した。ハボックは成人男性だから別に門限があるわけではないし、そう遅すぎるという時間帯でもない。しかし、アルはまだ未成年なのだ。
 これがエドだったら『すぐに子供扱いする!』とか反論が百ほどもくるところだが、アルは断らなかった。だから、ふたりで宿舎までの道のりを歩いたのだ。
『ハボック少尉、ちょっと』
と、アルがハボックのコートの袖を引っ張ったのは公園に差し掛かった時だった。
 引っ張られるままハボックは公園に入った。さすがに真冬ということもあって公園に人影はない。そこで、
『ちょっと早いけどチョコレート受け取ってください』
 そう言って手渡された、文庫本二冊分くらいの大きさのもの。ダークブラウンの包装紙に緑と銀の幅の細いリボンでラッピングされていた。
『え〜と』
 どういう意味だろう、やはり、そういう意味か? と、ぼんやりとアルを見上げていたハボックだったが、
『別にハボック少尉からのお返しを期待してるわけじゃありませんから』
言うだけ言って、アルはハボックを残して走り去ったのだ。
(いや、別にアルにチョコをやったってわけじゃないしな)
 必死でエドの視線を見返しながら、
  「今日はどうしたんだ、大将」
「だって」
 何か言いたそうなエドに、視線だけで先を促がすが、なぜなのかエドはくちびるを噛んで下を向く。
「エド?」
「なんでもない」
 気まずい沈黙が二人の間に降り積もっていった。



「いらっしゃいませ」
 にこやかな店員の声。
 店内は甘い匂いと本命チョコを選ぶ女の子の集団で熱気にあふれている。
 思わず後退りかけたハボックだが、ここで引き下がっては男が廃るだろうと、チョコレートのディスプレイされているガラスケースに向かった。
 視線が痛い気がするのは気のせいだろうか。
 なんとなく、自意識過剰になってしまうハボックである。
 と、
「あら、少尉」
 聞きなれた声に、ハボックの緊張が、弛んだ。
「中尉も、チョコレートを?」
「ええ。一応、あなたの分もあるわよ」
「光栄ですね」
「それで、男の人が、この時期にこのお店に入るなんて勇気を振り絞るなんて………。ああ、エドワードくんね」
 淡々とした口調がハボックの耳を射抜いた。
「エドワードくんにねだられたんでしょ?」
 瞬間、あれだけ騒がしかった店内がシンと静まり返ったように思ったのはハボックの気のせいでは、決してない。
 思わぬすっぱ抜きに硬直したハボックだった。が、ハボックだとて現役の軍人である。内心の動揺を押し隠し、
「どのチョコがいいっすかね」
 とりあえずポーカーフェイスを装うことに成功したハボックだった。



 机の上には二つの箱がある。
 ひとつはアルから貰ったチョコ。
 もうひとつは、エドにと買ったチョコである。選んだのは面白くもおかしくもない、ビター味のトリュフ。
(しかし、なんか、いたいけな少年を惑わす魔性の男の気分だな……柄じゃねーんだが)
 店に居合わせた女の子達や店員の視線が突き刺さるような気がしてしかたがなかった。それでも、エドの泣き顔を見るよりはましだろうとハボックはチョコレートを買ったのだ。黒地に箔で店名が描かれている包装紙に、黄色いリボンとミニチュアサイズの造花の向日葵。
『エドワードくんだったらひまわりね』
 ラッピングを辞退しようとしたハボックを無視したホークアイが、カウンターの上の造花の中から選んで、サービススマイルの店員に言ったのだ。
(あの店にはもう行けないな……)
 はぁ…と、ハボックは溜め息をついた。



 なんとなくいつもよりも女の子の姿が目立つ。
 そんな二月十四日。
 言わずと知れたバレンタイン・デイ当日。
 そわそわと落ち着きのない軍の女の子たちの姿が、ロビーにも見受けられる。
 他人事なら微笑ましいと思えるのにな――と、そんな事を何とはなく考えながらハボックはエドと一緒にエレベーターから降りた。
「お目当てを待っているのかな? ねぇハボック少尉」
 こそりと囁くエドに、
「だろうな」
 ハボックがそう返した時、
「ハボック少尉、受け取ってくださいっ!」
「エドワードくん!」
と、そのうちの数人が駆け寄ってきた。口々にそう言って、答える暇もなく速攻で去ってゆく。遠ざかってから、快哉を叫んでいる女の子たち。
 途惑うハボックとは違い、
「チョコありがとう。おねーさんたち」
と、エドが微笑む。
 きゃー! と、女の子たちがひときわ大きくさんざめいた。
「女のひとってパワフルだよね」
 軍部を出て歩きながら、楽しそうにエドが言う。
「一生懸命って感じだな」
 ふいに立ち止まったエドに袖を引かれて、ハボックが振り返る。
「どうした、大将?」
「ハボック少尉はオレにパワフルにはなってくれない?」
「は?」
 夜とはいえ人通りのそれなりにある道で。
 思わず焦ったハボックに、
「じゃあさ、こんなところじゃなきゃパワフルになってくれるんだ」
 エドがにやりと笑う。
 ドキン!
 刹那ハボックの心臓が、大きく跳ねた。なぜなら、街灯に照らし出されたエドの笑みは、先ほど女の子達に見せた爽やかで可愛らしい少年といった感じのものではなかったからだ。求めるものを眼前に見据えた、自分自身を疑わない、強かな表情。それは、守られる少年の可愛らしさを思い切りよく脱ぎ捨てた、男のものである。
(………)
 自分が知っているエドはいつだって気持ちがいいくらいにまっすぐな少年で、どんなことにも全身でぶつかってゆく成犬一歩手前の大型犬のようななりふりかまわなさをイメージさせる。こちら側の都合を斟酌しない力任せの愛情表現に圧倒されてわたわたと焦りはするものの、そこに恐怖は存在しない。
 すくなくとも、これまでは恐怖を感じたことはなかった。けれど、
「エドワード?」
 じわりと地面から這い上がってきた恐怖にも似た感情に、喉がカラカラに乾き、声が変なふうに軋む。
「そんな、怖がらなくても…」
 クスッと笑ったエドに、カッと頬が熱くなる。
 かすかに細められたエドの瞳が、街灯を弾ききらめく。その光に呪縛されたかのように、ハボックはその場から動くこともできない。
「別に捕って食おうってわけじゃないってば」
 手首を掴まれ、グッと腹に力が入る。
「チョコ、くれるんでしょ?」
 耳元で囁かれ、ガクガクとうなづく。
(やっぱりまだ拘ってたのか………)
 あの日気まずくなってからエドはチョコのことには少しも触れなかった。しかし、エドにしては珍しくしつっこいほど根に持っていたのだろう。なんとなく納得するハボックだったが、それよりもなによりも、エドのことを怖いと感じてしまう。
 恐怖のほうが、強すぎた。
 ハボックははじめて、エドを怖いと思ったのだ。それは、エドとハボックの間にある深い認識の齟齬が遂に牙を剥いた――そんな印象で。
「だったら、これからオレに付き合ってよ」
 どこか思い詰めたようなトーンの声。
 断れとどこかで囁く声がする。
「いいよね」
 念を押す声の強さと、まなざしに宿る光のきつさ。
「わ…かった………。だから、手を離せ」
「逃げない?」
「逃げない」
「ホント?」
「…くどい」
 エドがハボックを見つめる。
 ハボックがエドを見返した。


 エドが向かう先がどこか気づき、ハボックの足がついと止まった。
「ハボック少尉、約束」
(だからといって、これは、ちょっと………)
 回れ右をして帰りたい。それが本音だった。
 なぜなら、エドがハボックを案内したのは、とあるホテルだったからだ。
 有名な、ホテル。明るいロビーのそこここには老若男女が思い思いにさんざめく。恋人同士や夫婦、もしくは不倫のカップルなんかもいるのだろう。
 ホテルの正しい(?)使用目的がハボックの頭の中に、あれやこれやと浮かんでは消える。
 エドの手際のよさから鑑みるに、しっかり予約済みらしい。
「行くよ、ハボック少尉」
 ルーム・キーを片手にさっさとエレベーターに向かうエド。ハボックはしぶしぶとエドの後を追ったのだ。

End



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