Version Roy



 教練を終えて、ジャン・ハボックは休憩室に入った。
 ほっとするような解放感。全身に圧し掛かってくるような疲労すらもが、心地好い。首を回せば、コキコキと音が鳴った。
 今日はこれで上がりだった。
 シャワーを浴びて、さてこれからどうするべきか…ハボックがそんなことを考えていると、
「ハボック少尉」
 大佐の声が耳に届いた。
 大佐が、ハボックの腕を取ってぐいぐい引っ張る。
(二十九の男が、二十五の男にするこっちゃないでしょうが)
 はぁ…と、溜め息を大佐に気づかれないように噛み殺すハボックだった。
「ハボック少尉、今日は何日だか知っているかね?」
 いつになく真剣な大佐のまなざしにハボックが首を傾げる。
「何日って…二月の十日に決まってるじゃないすか。ボケるのにはまだ早いとおもいますが」
「君こそ。もちろんもらえるだろうね」
「?」
 大佐の台詞に、思考がフル回転する。
「なんのことっすか」
「わざととぼけるつもりかね?」
 大佐の言葉になおも小首を傾げるハボックだったりする。そんなハボックにがっくしと肩を落とした大佐だった。
「………デイ」
「はい?」
「バレンタインデイ。もちろん、チョコレートもらえるんだろうね」
 今度はハボックがこっそりと脱力する番だった。
 男が男にチョコをねだってどーする! そう力説したいところだが、怒られて萎垂れた大型犬のようにしょんぼりしてる大佐など見たくはないから、結局言えないのだ。そのうえ、わけのわからない罪悪感が芽生えてしまう。それに、たかがチョコレート一個をやるやらないで口論をするのも、大人気ない。
 大佐にはいつも傲岸不遜でいて欲しい――チョコレートの一個でそれができるというのなら、女の子達に混ざってチョコレートを買う居心地の悪さだって我慢しよう。常々大佐には弱くて甘いとの自覚のあるハボックであるから、結局そんな風に覚悟を決めてしまったのだった。
「わかりました。あげます。あげますから、そう引っ張らないでくださいよ」
 それでも、なんとなく口調が投げやりになるのは仕方がなかったりするだろう。
「少尉!」
「なんです」
「ひどいじゃないか」
「だから、なにがです」
「ハボック少尉、あきらかに面倒そうに言わなくたっていいだろう」
「はいはい」
(あんたほんっとーに、二十九ですか)
 断っても断っても諦めない二十九才の上司の求愛を、何とか交わしながらこれまで過ごしてきたのだが………。
 煙草の煙を深く吸い込み、
「そこに、もちろん愛はあるだろうね」
 大佐のことばに、刹那、硬直する。
 げほげほと煙草の辛さに咳き込み、大丈夫か? と大佐が背中を叩くのを感じながら、涙にかすむ瞳を、大佐に向ける。
「はい?」
「ハボック少尉の私に対する愛情だよ!」
 それがわかれば、苦労はしない。
 愛情には、『好き』という感情の何もかもが一緒くたに混ぜ込まれている。
 家族愛や友情や恋心から動物愛護の精神まで。そんなふうにハボックは思っているのだが。
(この場合、大佐の言ってる『愛情』って、『恋心』とイコールで結ばれてるわけだからなぁ…)
 考えるまでもないのだが。それでも、大佐に対するハボックの『愛情』には、そんな本来の意味までもが渾然一体となっている。だからこそ、きっぱりと拒絶しきれない悪循環を作ってしまっているのだが、ハボックはいつも自分で自分の感情の正体がわからなくなるのだ。
 だから、『好きか?』と訊かれれば『好きだ』と答えるしかないのだが……。
「………あんただけにチョコをあげますよ。それじゃダメっすか?」
 漆黒の瞳を見返す。
「私だけ?」
「そう」
 大きく首を縦に振る。
「それは、本当かね?」
「本当です」
「鋼のにもあげないと?」
 ドキン――とハボックの心臓が大きく脈打った。
(まさか、知ってる?)
 疚しいような気分が芽生えるのは、昨日の出来事のせいだったろう。
 昨夜のことだ。
 エドに呼び出されて、ハボックは紙包みを受け取った。
 ハボックの家の近所の喫茶店。そこで待っていたエドと他愛のない会話。 なんで呼び出されたのか解らなかったが、会話自体は和やかなもので、楽しいひとときだった。
 ふと気がつけば、窓の外の夕景が深く宵闇をやどしていた。腕時計を見ると七時を過ぎていて、とりあえずエドを泊まっている宿舎まで送ってゆこうと提案した。ハボックは成人男性だから別に門限があるわけではないし、そう遅すぎるという時間帯でもない。しかし、エドはまだ未成年なのだ。
 エドは断らなかった。だから、ふたりで宿舎までの道のりを歩いたのだ。
『ハボック少尉、ちょっと』
と、エドがハボックのコートの袖を引っ張ったのは公園に差し掛かった時だった。
 引っ張られるままハボックは公園に入った。さすがに真冬ということもあって公園に人影はない。そこで、
『ちょっと早いけどチョコレート受け取って』
 そう言って手渡された、文庫本二冊分くらいの大きさのもの。ダークブラウンの包装紙に緑と銀の幅の細いリボンでラッピングされていた。
『え〜と』
 どういう意味だろう、やはり、そういう意味か? と、ぼんやりとエドを見下ろしていたハボックだったが、
『別にハボック少尉からのお返しを期待してるわけじゃありませんから』
言うだけ言って、エドはハボックを残して走り去ったのだ。
(いや、別に大将にチョコをやったってわけじゃないしな)
 必死で大佐の視線を見返しながら、
  「いったいどうしたっていうんですか」
 何か言いたそうな大佐に、視線だけで先を促がすが、なぜなのか大佐はその漆黒のまなざしで、ハボックを見上げるばかりりだ。
「大佐?」
「なんでもない」
 気まずい沈黙が二人の間に降り積もっていった。



「いらっしゃいませ」
 にこやかな店員の声。
 店内は甘い匂いと本命チョコを選ぶ女の子の集団で熱気にあふれている。
 思わず後退りかけたハボックだが、ここで引き下がっては男が廃るだろうと、チョコレートのディスプレイされているガラスケースに向かった。
 視線が痛い気がするのは気のせいだろうか。
 なんとなく、自意識過剰になってしまうハボックである。
 と、
「あら、少尉」
 聞きなれた声に、ハボックの緊張が、弛んだ。
「中尉も、チョコレートを?」
「ええ。一応、あなたの分もあるわよ」
「光栄ですね」
「それで、男の人が、この時期にこのお店に入るなんて勇気を振り絞るなんて………。ああ、大佐ね」
 淡々とした口調がハボックの耳を射抜いた。
「大佐にねだられたんでしょ?」
 瞬間、あれだけ騒がしかった店内がシンと静まり返ったように思ったのはハボックの気のせいでは、決してない。
 思わぬすっぱ抜きに硬直したハボックだった。が、ハボックだとて現役の軍人である。内心の動揺を押し隠し、
「どのチョコがいいっすかね」
 とりあえずポーカーフェイスを装うことに成功したハボックだった。



 机の上には二つの箱がある。
 ひとつはエドから貰ったチョコ。
 もうひとつは、大佐にと買ったチョコである。選んだのは面白くもおかしくもない、ビター味のトリュフ。
 店に居合わせた女の子達や店員の視線が突き刺さるような気がしてしかたがなかった。それでも、大佐にしつこく根にもたれるよりはましだろうとハボックはチョコレートを買ったのだ。黒地に箔で店名が描かれている包装紙に、銀のリボンとミニチュアサイズの造花の白薔薇。
『大佐だったらやっぱり薔薇ね』
 ラッピングを辞退しようとしたハボックを無視したホークアイが、カウンターの上の造花の中から選んで、サービススマイルの店員に言ったのだ。
(あの店にはもう行けないな……)
 はぁ…と、ハボックは溜め息をついた。



 なんとなくいつもよりも女の子の姿が目立つ。
 そんな二月十四日。
 言わずと知れたバレンタイン・デイ当日。
 そわそわと落ち着きのない軍の女の子たちの姿が、ロビーにも見受けられる。
 他人事なら微笑ましいと思えるのにな――と、そんな事を何とはなく考えながらハボックは大佐と一緒にエレベーターから降りた。
「お目当てを待っているのかな」
「そうっすね」
 ハボックが大佐にそう返した時、
「ハボック少尉、受け取ってくださいっ!」
「大佐!」
と、そのうちの数人が駆け寄ってきた。口々にそう言って、答える暇もなく速攻で去ってゆく。遠ざかってから、快哉を叫んでいる女の子たち。
 途惑うハボックとは違い、
「ありがとう。夜も遅い。気をつけて帰りなさい」
と、大佐が微笑む。
 きゃー! と、女の子たちがひときわ大きくさんざめいた。
「ご婦人方はパワフルだな」
 軍部を出て歩きながら、楽しそうに大佐が言う。
「一生懸命って感じっすね」
 ふいに立ち止まった大佐に袖を引かれて、ハボックが振り返る。
「大佐?」
「少尉は私にパワフルにはなってくれないのかね?」
「は?」
 夜とはいえ人通りのそれなりにある道で。
 思わず焦ったハボックに、
「では、こんなところでなければ、パワフルになるわけだ」
 大佐がにやりと笑う。
 ドキン!
 刹那ハボックの心臓が、大きく跳ねた。なぜなら、街灯に照らし出された大佐の笑みは、先ほど女の子達に見せた爽やかなものではなかったからだ。求めるものを眼前に見据えた、自分自身を疑わない、強かな表情。それは、狩猟本能をまなざしに宿した、男のものである。
(………)
 黒いまなざしが、街頭の光を宿し、ハボックを見上げる。
 その精悍な顔つきに、動けない。
 いつもの大佐の、こちら側の都合を斟酌しない力任せの愛情表現に、圧倒されてわたわたと焦りはするものの、そこに恐怖は存在しなかった。
 すくなくとも、これまでは恐怖を感じたことはなかった。けれど、
「大佐?」
 じわりと地面から這い上がってきた恐怖にも似た感情に、喉がカラカラに乾き、声が変なふうに軋む。
「そんなに怖がらなくても…」
 クスッと喉の奥で笑った大佐に、カッと頬が熱くなる。
 かすかに細められた大佐の瞳が、街灯を弾ききらめく。その光に呪縛されたかのように、ハボックはその場から動くこともできない。
「別に捕って食おうってわけじゃない」
 手首を掴まれ、グッと腹に力が入る。
「チョコレートはもらえるんだろう?」
 耳元で囁かれ、ガクガクとうなづく。
(やっぱりまだ拘ってたのか………)
 あの日気まずくなってから大佐はチョコのことには少しも触れなかった。しかし、大佐にしては珍しくしつっこいほど根に持っていたのだろう。なんとなく納得するハボックだったが、それよりもなによりも、大佐のことを怖いと感じてしまう。
 恐怖のほうが、強すぎた。
 ハボックははじめて、大佐を怖いと思ったのだ。それは、大佐とハボックの間にある深い認識の齟齬が遂に牙を剥いた――そんな印象で。
「では、これから私に付き合ってくれたまえ」
 どこか思い詰めたようなトーンの声。
 断れとどこかで囁く声がする。
「かまわないだろう」
 念を押す声の強さと、まなざしに宿る光のきつさ。
「わ…かっ………。わかりました。ですから、手を離してください」
「逃げないかい?」
「逃げません」
「ほんとうに?」
「…くどいっすよ」
 大佐がハボックを見つめる。
 ハボックが大佐を見返した。


 大佐が向かう先がどこか気づき、ハボックの足がついと止まった。
「ハボック少尉、約束だろう」
(だからといって、これは、ちょっと………)
 回れ右をして帰りたい。それが本音だった。
 なぜなら、大佐がハボックを案内したのは、とあるホテルだったからだ。
 有名な、ホテル。明るいロビーのそこここには老若男女が思い思いにさんざめく。恋人同士や夫婦、もしくは不倫のカップルなんかもいるのだろう。
 ホテルの正しい(?)使用目的がハボックの頭の中に、あれやこれやと浮かんでは消える。
 大佐の手際のよさから鑑みるに、しっかり予約済みらしい。
「行くぞ、ハボック少尉」
 ルーム・キーを片手にさっさとエレベーターに向かう大佐。ハボックはしぶしぶと大佐の後を追ったのだ。

End



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