雨の夜 |
それは、月のない夜だった。 じっとりと肌にまつわりついてくるような霧雨の中を、ロイ・マスタングは家路についていた。 深夜をこえた残業のせいで――とはいえ、彼の場合はほぼ自業自得に他ならないのだが――約束してあったご婦人とのデートが、流れてしまったのだ。石畳を穿つ彼の足音も、こころなしかやや乱れがちに力ない。 既に午前三時が過ぎようとしている。執務室で夜を明かしたほうが簡単なのだが、今日はどうしても家に帰りたかったのだ。 「!」 コツン――と、ロイが足を止めたのは、彼の耳に不意に届いた歌声のせいだった。 エキゾチックな旋律には、記憶があった。 思わず足を止めずにいられないほどに、聞こえてきた歌声は、ロイにとって意外な光景に繋がっているものであったのだ。 あれは、一週間ほど前のことだった。 いつものごとくサボりを決め込んだロイは、サボる場所を求めて司令部の中をふらふらとさまよっていた。 中尉は、今頃、山ほどの未処理の書類の山と見つからない彼に業を煮やして、愛銃の手入れをしているだろうが、どうも、ある種のスリルがなければ、やる気が起きないのだから、仕方がない。 (さて、どこにするかな) たいていの隠れ場所を使用しつくしたロイである。頭の中で、昼のけだるい時間を昼寝に費やすのに格好の場所はどこだろうと、あたりをつける。そうして彼が向かった場所が、資料室だった。 明り取りの天窓から、昼の日差しが差し込む、静かな空間である。まぁ、手擦れた古い紙のかび臭さはいかんともしがたいが、昼寝を決め込むにはこれほど最適な場所はないだろうと思われた。 周囲を見回し、通る人影がないことを確認し、ロイは、静かに、資料室のドアを開いた。 音たてないようにドアを閉めたロイの耳に、高く低くゆらゆらと上下を繰り返す低いトーンのハミングが届いたのは、そのときである。 ロイの心臓が痛いほど爆(は)ぜた。 瞠る(みはる)視界の先で、エキゾチックな旋律を口ずさんでいるのは、丈高い金髪の青年だった。 天井付近の明り取りから差し込む日差しが、室内の埃をきらきらと輝かせている。その只中で、脚立に腰を下ろして、書架から取り出した資料を確認しているだろう青年が口ずさんでいるのは、ロイの記憶の奥底深くにしまいこまれている、ある民族の古謡(こよう)に違いなかった。 かつて、イシュバールの民の殲滅に参加したという、ロイの、古い、記憶が、脳裏によみがえる。 (なぜ、少尉が、イシュバールの歌を……) ジャン・ハボック少尉は、ロイに気づいていない。 静かに、ただ、資料を読んでいるばかりだ。 自分が、今、ハミングしていることになど、気づいてすらいないに違いない。 ジャン・ハボック少尉は、飄々として、頼りになる、部下である。 自分の片腕だと、信じて疑うこともなかった。 士官学校を受験する際、軍に入る際に、提出されている彼のデータにも、諜報局の極秘調査資料にも、彼がイシュバールと関わりがあるようなことは、ひとつも書かれてはいない。 だが、データなど、完璧なものではありえない。知識と腕がありさえすれば、いくらでも操作できるものだ。 もっとも、どこかで耳にしたイシュバール古謡が耳についているということだとて考えられる。 そう考え直したものの、観てはいけないものを、聞いてはいけないものを、目にし耳にしたような、そんな不安が、ロイの胸には芽生えていた。 ロイは、そっと注意深く、資料室を後にしたのだった。 (ハボック少尉が口ずさんでいた、同じメロディだな) そういえば――このあたりに、少尉の家があったはずである。 ぶるりと、胴震いをする。 寒い。 霧雨が、いやになるくらい、冷たくてならなかった。 いつしか途絶えた歌声は、女性のものだったから、少尉が歌っていたわけではないのだろう。 打ち消した疑惑が、再びロイの胸の中に芽吹いた。 信頼し得るにたる、得がたい片腕である。 その彼が――そう思うだけで、胸が痛む。 (うだうだと悩むよりも、確かめろ) 思い立ったら、速攻である。 そう。 疑惑を疑惑のまま放っておこうとするから、辛いのだ。 タイミングのよいことに、近くには、疑惑の部下の家がある。 ぱん! ロイは、自分を鼓舞するために、手を打ち鳴らした。 「いつ見ても面白いよな」 長い黒髪の少年が、白い布張りのソファの上で、足を抱えて、そう言った。 ソファとロウテーブル、あとは照明があるだけの、余分なものが何もないリビングである。 テーブルの上、ガラス製の灰皿の横には、今の季節には珍しい、黒い百合の花束が、置き忘れられていた。 すらりとスタイルのよい女性が、荒い息に肩を喘がせながら、クスリと笑う。 「あなたはどんなものにでも変身できるじゃない」 はぁ――と、深く息を吐き、褐色の肌に金の髪と緑の瞳という珍しい取り合わせの女性が、少年を見下ろした。 「だからさ。オレは、オレが変身するところなんか見れないからね」 「それはそうね」 ハハと、女性が、笑った。 「今回はオレの勝ちだよ」 抱え込んでいた足を伸ばし、ソファから立ち上がった少年が、腰に手を当てて、つい先ほど男性から変貌を遂げたばかりの女性を見上げた。 「間に合ったからね。なにをくれる? ジーナ」 縦長の瞳孔が、ジーナの緑の瞳を覗き込む。 「お望みのままに」 ジーナ、今の名をジャン・ハボックは、エンヴィを見下ろして、そう、ささやいた。 「わたしのすべては、あの日から、エンヴィ、あなたのものですよ」 十年前の、地獄のイシュバール。エンヴィが現われなければ、手を差し伸べてくれなければ、自分は、あの、紅蓮の悪魔に焼き殺されていたはずなのだ。 だから、たとえ、一万の人間がすべて、エンヴィたちこそが悪だ―――と、そう断じたとしても、自分だけは、そうは思わない。 行き着くさきが地獄だとしても、エンヴィについてゆく。 こんなことを知れば、幼馴染のあの少年は、悲しむだろうか。やさしく純粋だった、年下の幼馴染。しかし、彼もまた、十年前に、運命を捻じ曲げられた。そう、彼は、今では、おたずねもの。イシュバラの名を唱えながら、イシュバラに背を向けた、棄教者(ききょうしゃ)に他ならない。 自分もまた、女であることを捨てたあの日から、新しいからだを与えてくれたエンヴィこそが、イシュバラに代わる神なのだ。 「おまえが欲しいな」 首の後ろを抱え込まれて、ジーナが微笑む。 「どうぞ」 自分よりもわずかに背の低いエンヴィにあわせて、膝をゆるめる。 エンヴィの猫のような瞳が、ほんの少しだけ眇(すが)められた。 ギシリ――と、ソファのスプリングが軋(きし)る。 シャワーを浴びようと、ジーナは、けだるいからだを起こし、何気なく視線を泳がせた。 乱れた長い黒髪が、整った白い横顔にかかっている。 エンヴィが眠っていた。 (ホムンクルスも、寝るんだな。いや、エンヴィのことだし、ふりだけかな) どちらにしても、不思議な気がする。 十年間というもの一ト月に一度は顔をあわせてきて、今日はじめて、肌を合わせたのだ。もちろん、寝顔を見たのも、はじめてのことだった。 本当に寝ているのか、ふりだけなのかは、わからなかったが、ジーナはエンヴィを起こさないように、ソファから抜け出した。 シャワーを浴び、水気を丁寧に拭った後で、素肌にセーターを羽織った。 リビングに戻って、テーブルの上に置いたままだった花束に気づいた。 黒い百合が、ほのかに、香っている。 クスリと、自然、笑いがこぼれた。 黒い百合を持ってくるところが、なんとなくだが、エンヴィらしいと思えたのだ。 「花瓶があったけかな?」 花束を取り上げ、ジーナはキッチンに向かった。 からだは疲れていたが、気分がよかった。 男と肌を合わせたのは、はじめてのことだったが、抵抗はなかった。相手がエンヴィだからだろうか。 なぜだか、満たされたような気がする。 幸せというのは、こんな気分のことを言うのかもしれない。漠然と、ジーナはそんなことを考えていた。 だから、いつしか、歌を口ずさんでいたのだ。 そんな自分を、ジーナは、意識してすらいなかった。 春の訪れを祝う、祭りの歌。古い古い、故郷の歌である。 高く低く、澄んだ女性の声が、霧雨に閉ざされている夜のしじまにながれてゆく。 ロイ・マスタングが聞きとがめたのは、この時のジーナの歌声だったのだ。 時刻は既に明け方近い。 そのことにロイが気づいたのは、ハボックの家の玄関にたどり着いてからのことだった。 こんな時間に、部下とはいえ他人の家を訪問する非常識さに、遅ればせながら、気づいた。 ハボック少尉は起きているだろうか。 歌声が一週間前に少尉が口ずさんでいた歌と同じだったからといって、即少尉と関係があると断じてしまった自分に、苦笑する。 明日改めて少尉に尋ねることにしよう――と、ロイが踵を返したときだった。 何かが割れる音が、聞こえた。 周囲を確認し、ロイは、玄関脇の植え込みを越えた。 手には、無意識のうちに、錬成陣を描いてあるてぶくろをはめている。 庭に回り、ポーチの影に姿を隠す。 リビングらしい部屋は、カーテンを閉じていず、オレンジ色の灯りにぼんやりと照らし出されていた。 少年と女性の影が、ロイのいる場所からは、はっきりと見えた。 床にかがみこんだ女性が、何か光を弾くものを拾っている。 なんだ――――と、ロイの緊張がほぐれた。 ガラスの器を落として壊しただけだったらしい。 (なにをやっているんだ、私は) 自分のしていることがばかばかしく思えてならなかったが、ふと、あることに気づいた。 一人暮らしのはずの部下の家にいるあのふたりは、誰なのだろう。 (親戚に決まってるだろうさ) 今日というか、既に昨日、ハボックは有給を取っていたのだ。親戚が遊びに来る予定でもあったのに違いない。 自分で自分に突っ込みを入れる。そうして、今度こそ本当に家に帰ろうと決意したときだった。 澄んだ女性の声に、エンヴィは目覚めた。 本来眠る必要のないホムンクルスであるが、たまには、眠ってみたくなることもある。 (あらら……それは、イシュバールの歌だろ…………) 今はハミングだが、たしかに自分は、朗々とした歌声で目覚めたのだ。 (これは、やばいと思うよ) ロウテーブルの上に花瓶を置こうと、ソファに背中を向けていたジーナは、 「こらこら、明け方だよ」 背後から突然かけられた声に、ビクンと、派手に震えた。 ガラスの花瓶が、リビングの床にぶつかり、派手な音をたてて砕ける。 「起きてたんだ」 ドキドキと鼓動が、荒い。 ライトを点けて、ジーナは床にかがみこんだ。 破片を集めておかなければ、危ない。 「もうじき夜が明ける。こんな時間にイシュバールの歌はまずくないかなぁ」 「?」 小首をかしげてエンヴィを見上げたジーナに、 「歌ってたよ」 少し冷たく、エンヴィが言い放った。 「無意識に歌ってるっていうのは、まずいなぁ。なにから大佐どのに疑われるかわかったもんじゃないしさ」 「ごめん」 「ああ。頼むから、オレに、おまえを処分させないでよ」 エンヴィが、ジーナの金の髪を、無造作に撫でた。 「うん。エンヴィ。本当に、ごめん」 「太陽が昇るまでもう少し間があるけど、ついでだし、ハボック少尉にもどしておこうか」 「あ、ちょっとまって」 花瓶の破片をすべて集めて、キッチンのゴミ箱に入れようと、ジーナが窓のそばを通る。 そのとき、ロイ・マスタングは、褐色の肌に、金の髪をした女性を、その目に映した。 リビングに戻ってきた女性が、黒髪の少年によって、彼の良く知る人物へと変貌を遂げるのをも、ロイははっきりと目撃したのだ。 ロイの、疑惑は、最悪の形で、証明された。 しかし、この出来事を、ロイ・マスタングは、覚えてはいない。 なぜなら、彼の気配気にづいていたエンヴィが、ロイの記憶を消したからである。 翌朝、ロイが目覚めたのは、ジャン・ハボックの寝室だった。 それは、エンヴィのお茶目ないたずらの結果だったのだが、そんなことなどロイが知る由もない。 以来、必要以上にハボックのことを意識するようになったロイである。 そうして、同じくあの日以来、ジャン・ハボックは、煙草を咥えるようになった。それは、無意識に歌わないようにするための、苦肉の策であるのだが、そのことを知るのは、エンヴィただ一人きりである。 END
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あとがき
ラスト近くが、ギャグに落ちたかな。
微妙ですね。相変わらず。
元々パラレル設定のハボさんが女の子でウロボロすだったらというものですから、まぁ、こうしてハボさんがヘビースモーカーになりましたという感じでもいいですよね。
少しでも、楽しんでいただけるといいのですが。
えと、ちょこっと、手直ししてみました。歌がやんでからの時間流が、どうも、へんだったので。
煙草を吸うくらいで歌を止めることができるかどうか、なぞですが………。