夜の底で、ひとの手によるいきものが笑った。
「さあ、彼に会いに行こうか」
先ほど屠った(ほふった)ばかりの獲物の血に濡れている手を、泉水で洗い、少年は、細い弓張り月を仰い
だ。
夜の帳を猫の爪が引っ掻いた。
そんなささやかな月の夜、ジャン・ハボックは眠れぬままに、キッチンへとベッドを抜け出した。
オレンジ色の灯りが、家中にともっている。
しかし、その暖かそうな色をもってしても、しんとした寒さを和らげることはできない。
寒さが、身に染みる。
ぶるりと胴震いをして、ハボックは自分自身を抱きしめた。
あの夜から――夜そのものの少年に蹂躙されてからというもの、眠れぬ日々がつづいていた。
怖かった。
格の違いをまざまざと見せつけられて、自分よりもはるかに華奢な少年に適わなかったのだ。
無様にうろたえ、喘ぎ、悲鳴をあげた。そのことに、壮絶なほどの恐怖と自己嫌悪とが湧き上がる。怒りは、
ない。
自分が、あの少年に、既に、負けていることもまた、ハボックの心を苛む要因だった。
恐ろしいのだ。
人外のものなのだろう、あの夜の色をまとった少年が、夜毎に、今もそこここでわだかまる闇の中に存在して
いるかのようで、気が休まらない。
闇がからみついてくる。そんな錯覚に、からだが小刻みに震える。
怖い。
どうしようもなく、怖くてならない。
手を縫いとめた、釘の、この身を穿った、熱い、痛み。からだがばらばらに引き裂かれるようだった。傷が治る
まで、ふとした拍子に痛みを感じるたび、そこから闇に犯されてゆくかのようで、気が狂いそうだった。
オレは、こんなに弱い人間ではなかったはずだ。
呪文のように、繰り返す。
繰り返しながら、ワインボトルを傾ける。
赤い液体が、グラスの中にたまってゆく。
あの日買った酒は、捨てた。琥珀色の液体など、見たくもなかった。
あの日の出来事を思い出しかけ、ぞわり―――と、鳥肌が、立ち上がる。
眠れないからと、医者に貰った、安定剤の薬包を、開く。医者の話ではかなりきつい薬だということだったが、
今まで、少しも効きはしなかった。それでも、こんなものでも、ないよりはましだった。粉薬を、口の中に流し込
み、口の中に広がった苦味を打ち消すように、ワインを一気に呷った。
「ざまぁない」
吐息とともに吐き出して、
「なにが、ざまぁないのかな?」
耳を射た、あざけるような、ハイトーンの声に、ハボックは、その場に凝り(こごり)ついた。
視線を、そこから剥がすことができなかった。
シンクの向こうのガラス窓、夜の闇を映したそこに、まるで死人(しびと)めいた自分の顔。そうして、自分の背
後に立っている、モノ。少年の姿をした、それこそが―――
(うるさい)
耳のすぐそこに心臓があるかのような、聾がわしさ。
(うるさいっ)
あたまを木槌で叩かれるような、痛み。
足元が、揺らぐ。
近づいてくる少年の姿をしたものから逃げたくてならないのに、床に貼りついたかのように、足が動かない。
すぐそこまで来ている、恐怖を、追い払うすべすら、思いつかなかった。
やがて、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。長く感じたものの、実際には、瞬きするほどの間にすぎなかった
のかもしれない。
ひたりと、肩に手が乗せられた。
「っ」
瞬間びくりと爆ぜた肩を、少年の細い指が、力任せに握る。まるで、逃げをうとうと、藻掻くことすら許さない
とでも言うかのようだった。
「どうしたの? 僕のこと、忘れちゃったのかな?」
楽しげな、しかし、その底に、何か危ういものをひそめた声が、ねとりと、まつわりついてくるような錯覚がある。
窓ガラスに映る少年が小首を傾げて、やはり窓ガラスに映っている自分を見ている。
(見るな)
黒い瞳が、凝視してくる。その、圧倒的な圧力に、からだが震える。
(見ないでくれっ)
少年が、ふり向けば、その熱をはらむことのない黒い瞳をじかに見てしまえば、あまりの恐怖に、叫びだしてし
まうだろう。無様に、逃げ出してしまうに違いない。もう、あとわずかの負荷で、緊張に耐えられなくなるにちが
いなかった。
「ねぇ」
赤いくちびるが、ことばをつむぐ。
黒いまなざしが、ひたりと、自分に向けられていた。
かくんと膝が笑い、したたかに床の固さを思い知る。しかし、そんなもの、目の前の現実に比べれば、どれほど
の衝撃ではない。
首を振る。
イヤダ――と、目をつむる。見たくなかったのだ。
「っ」
不意に、首筋に痛みを感じた。
焼けつくような熱に、皮膚を噛み破られたのだと、直感する。
首に吸いつかれている感触がふいに、消え、名残に疼痛が取って代わった。
耳元に、ふんと笑うような声が聞こえた。
「僕を見なよ」
かたくなに目を開こうとしないハボックの、
「でないと、なにをするかわからないよ」
恐怖を煽る。
それでも、顔を上げようとしないハボックを見下ろし、
「ふぅん。また、あんなふうに、抱かれたいんだ」
じんわりと、なぶるようなその口調は、少年が何のために現われたのかを示唆していた。
弾かれたように、ハボックが少年を見た。
ふふん。
口角をゆがめて、少年が嗤う。
ハボックが、全身で反応した。その緑色の瞳には、ありありとした恐怖が、宿っている。
「ね。僕の名前、覚えてる?」
突然嘲笑するようなトーンを、愛らしい口調に変えて、少年が、訊ねた。
しかし、ハボックは、口を開かない。ただ、少年がなにを考えているのか、それを確かめようと、あれだけ見たく
ないと思いつづけていた相手の顔を、食い入るように凝視するのみだ。
くすくすと少年が笑う。その、聞かん気そうな表情が、ふいに、ぐらりと揺らいだ。
「僕の名前を呼んでみなよ。そうしたら、あんなに酷くはしない。やさしく抱いてあげる。約束するよ?」
声もまた、うわんと、海の底で音を聞くようにこもった。
今頃になって、安定剤が効いてきたらしい。
ハボックの、わずかに下がっている口角が、その皮肉に、かすかに持ち上がった。
「僕の名前は?」
少年の問いに、ハボックは、重い口を、ようやく開いた。
「………エン、ヴィ………………」
最後に、自分の名をつぶやき、そうして意識を失ったらしいハボックを見下ろして、少年は小首をかしげた。
「客をおいて寝るなんて、失礼だよねぇ」
クスクスとよからぬことを思いついたにちがいない笑いをこぼし、少年は、ハボックをいともたやすく抱き上げた
。
「君の驚いた顔が楽しみだよ……ジャン・ハボック少尉」
歌うようにつぶやくと、少年は、そのまま寝室のドアの奥に消えた。
おわり
あとがき
Left Hawk Land さま閉鎖のため、差し上げ物頁より移動させていただきます。
こちらの画像は、
STUDIO MUさまよりお借りしています。