アンティークドール 1


 深い霧が、ゆったりと流れている。
 ひんやりとした空気が肌を刺す、朝まだき。
 そこここでさえずり交わしていた鳥たちが、ふと声をひそめた。
 かさかさと下生えを踏みしだく足音が、せせらぎに混じって聞こえる。
 白い霧に黒く浮かびあがったのは、小さな、こどものシルエットだった。
 息を潜めていた鳥たちが、再びさえずりはじめた。


◇ ◇ ◆ ◇ ◇


 自分を心配そうに見つめる、一対のまなざし。
 エメラルドのように深く澄んだ、緑の瞳。
   この時、彼が見たものは、それだけだった。なぜなら、再び彼の意識が途切れたからである。

 こどもたちの声が響く。
 プロテスタント教会が運営している孤児院の庭で、彼はこどもたちが駆け回っているのを眺めていた。
 菩提樹の木陰が、夏の陽射しを遮る。
 陰にあっても際立つ白く整った容貌の中でひときわ目を惹く彼の瞳は、ときおり木の間越しの光を弾いてきらめいた。金色めいた珍しいまなざしは、しかし、目の前のこどもたちを見てはいない。
 ふと上着の裾を引っ張られるのを感じて顔を向けた彼が、ふんわりと微笑んだ。
 緑色の瞳が、見上げてくる。
「Meine Puppe」
 私のお人形さん―――と、小さなくちびるが動く。もっとも、それはくちびるの動きから彼が読み取ったことばだった。
「マリア」
 ほんの一週間ほど前に怪我を負い川のほとりに倒れていた彼を救った、小さな少女は、話すことができない。
 声帯に問題があるわけではなく、何かショックなことがあったためだと、彼は聞かされていた。  真直ぐな黒髪に緑の瞳をした、十一才の少女。
 マリアが左腕を抱きしめて、額を擦りつけてくる。どこか猫のような動作に、彼の笑みが深くなる。
「僕がいったい誰なのか、君は知っているのでしょうか?」
 半ば独り語ちるようにして、マリアの瞳を覗き込んむ。どこまでも深いこの国の森のような、きれいな瞳が、見返してきた。
 目覚めた時、彼には記憶がなかった。
 怪我のショックが原因ではないかというのが、医師の資格をもつというこの施設の院長の説明だった。
   彼のからだには明らかな銃創があり、事件性があることから、本来なら警察病院へと移送しなければならなかった。しかし、マリアがなぜか腕を放そうとはしなかったため、彼は、警察病院へと移されずに済んだのだ。
 放させようとすると、泣き喚いて手におえなかったのだという。
 それは、周囲に対して心を閉ざしていたマリアの、はじめての意思表示らしかった。だからこそ、院長は彼を警察病院へと移さないことを決めたのだ。それは、あきらかに、規律に反する決定だった。


 マリアがこの孤児院にやってきたのは、ほんの十日ばかり前のことだったという。
 彼が倒れていた近くの川べりに、マリアもまた倒れていたのだ。何があったのか、全身ずぶ濡れの上に擦傷や切り傷だらけで、発見があと少し遅ければ出血多量もしくは体温低下で死んでいたかもしれない。
 川上のどこかから落ちたのかもしれないと、警察に問い合わせたが、該当するような事故も事件も届けられてはいなかった。
 意識を取り戻し、院長に問われても、マリアは口を閉ざしたままだった。  『マリア』と言う名前は、少女が着ていた仕立ての良い麻のワンピースの後ろ襟に刺繍されていた名前を、職員の女性が見つけたからである。あちらこちら破れ千切れていたワンピースに、そのありふれた名前の刺繍だけがかろうじて残っていたことは、彼女に聖母の加護があったのだという印象を受けるのに充分であったのだ。
 本当なら職員でもない部外者に話していい内容ではない。それを院長があえて喋ったのは、マリアが彼に懐いてしまったからだったのだろう。
 銃創が塞がりかけ、熱も引いた。昨日のことだ。
 『出て行きます』と言った彼を、院長は引き止めた。
 決してマリアだけを贔屓しているわけではないのだろう。おそらく、施設にいるどのこどものことも、院長は平等に、考えているにちがいない。
『マリアを見捨てて出てゆけますか』
『見捨てるも何も』
『あなたに対して、マリアは心を開きました。あなたがここからいなくなれば、彼女はまた心を閉ざすかもしれません。そんな彼女を残して出てゆくことは、見捨てることにほかなりません』
 胸に下がった簡素な十字架に触れ、
『それに、ここを出て、記憶のない、外国人のあなたが、どうすると言うのです』
 結局、それで、決まった。
 記憶が戻るまで自分がここにいたとしても、記憶が戻った後自分がマリアの前から消えれば、また彼女は閉じこもるのではないか。どちらでもさして変わりはないのではないか―――そう言った彼に、院長はにっこりと満面の笑みをたたえ、
『それまでには、他のこどもたちと仲良く出来るようになっているかもしれません。なにごとも神の思し召しです』
 院長はそう言ったのだ。
 マリアが、彼女の持ち物だったというアンティーク・ドールを持って迎えの車に乗ったのは、それから三日後のことだった。
『これを大切そうに抱きしめて、そうして、君は倒れていたんだよ。だからだろうけど、ちょっと顔に罅がいってしまっているけれどね』
   何も持たずにここに来るこどもたちもいるので、こちらで保管していたんだよ――――そう言って院長の持ってきた、栗色の髪に青い瞳の繊細な作りの人形が、応接室のロウ・テーブルにのっている。
 右の目の下に数センチはいっている縦の傷が、人形の流す涙に見えなくもなかった。
 院長に呼ばれドアをくぐった彼は、応接室に、マリアの叔父だという中年の男性と、マリアの兄だと紹介されなければわからないほどに似ていない二十才ほどに見える青年とを見出した。
 院長に手招かれ、彼がマリアの隣に腰を下ろす。
 テーブルを挟んで、マリア・クリステルの父親の弟――叔父だと名乗った男とマリアの兄だという青年が、彼を見つめていた。
 迎えに来た彼女の肉親との対面の場に同席したくはなかったが、マリアの強張りついた表情と院長の泣き落としにほだされたのだ。
(…………)
 観察するようなねつい視線は、ゲオルグという叔父のものだった。それを、彼は、黙ったままで見返した。
(気持ちのいい視線とは言いがたいですね)
 灰色のまなざしの奥に、ときおりぞろりと蠢く、なにかがある。
 院長は気づいてはいないようだが、それは、けっして良いものではない。あえて、それに名を与えるなら、抑圧され、歪んだ、欲望だろうか。
 そのまなざしの奥の、欲の塊を見返しているうちに、懐かしいような、馴染み深いような、不思議な感情が芽生えてくるのはなぜだろう。
 不快と感じる一方で、心の奥底が、ざわめくのだ。
 抑圧された欲望のどこかしらを突付けば男が見せるだろう、さまざまな反応。一刹那脳裏を過ぎって消えた映像に、背筋を駆け上がったものがある。それが、彼の全身をわななかせた。それは、紛れもなく、興奮――――ある種の心地好さだった。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 オールドタイプのメルセデスが、錬鉄製の門をくぐってからどれくらいが過ぎただろう。
 ゆるやかにくねった坂道をゆるゆるとメルセデスが進む。
 リアシートに深く背中を預けて、彼は窓から外の景色を眺めていた。
 絡まりあう木々の合い間から、はるか眼下に、小さな町が見える。銀色に光る蛇行する筋は、川だろう。
 マリアの兄――アルフレートは、彼とは反対側のマリアの隣で、黙りこくっている。ゲオルグは、助手席にいる。
 彼の左腕に頭を持たせかけて眠っているマリアの膝の上では、人形が今にも転がり落ちそうに、車の振動につれて揺れている。
 人形が落ちないようにと、彼が手を伸ばす。
 それは、眠るマリアに衝撃を感じさせないような、みごとな身のこなしだった。
 アルフレートが、彼の動きに気づき、かすかに青い瞳を見開いた。
 アルフレートの視線に、彼が、口角をもたげるだけの笑いを返す。
 午後三時をまわった、気だるい陽射しに、彼の瞳が金色を帯びて輝いた。
 思わず、アルフレートは、金色に輝いた彼の双眸から視線をそらした。冷たい水を頭からかけられたかのように、全身が逆毛だっていた。
 彼のエキゾティックな人形めいた容貌が、変貌を遂げたのだ。どちらかといえば人畜無害そうな、端正な顔が、たちまちのうちに得体の知れない魔をはらんだように見えた。
 記憶をなくしているという、東洋人の青年。なぜだかマリアが懐いてしまったために伴うことになった、名前すらわからない彼に対して、孤児院の応接間で会った瞬間から、アルフレートは苛立ちを覚えていた。それは、自分のテリトリーに未知の人物を招き入れなければならないという彼の意思に反する行為のせいと、失踪から二週間ぶりにようやく見つかったマリアの態度のせいだった。それがマリアのせいではないとはわかっていても、あれだけ懐いていたマリアが知らない者を見るような視線すら自分に向けないという態度は、彼にとって、きついものだったのだ。
 なぜなら、アルフレートにとって、マリアは特別な存在だった。
 アルフレートとマリアは、血のつながっていない兄妹である。厳密に言うなら兄妹ですらない。彼は、今は亡いマリアの両親の友人の子なのだ。よくある話だが、彼の両親が亡くなり、身寄りのない彼を二人が引き取ってくれた。アルフレートが九才の時のことである。その時マリアは三才の幼児に過ぎなかったが、はじめて身近に接する幼子の屈託のなさは、多忙な養い親に代わって彼の悲しみを慰めてくれるものだったのだ。以来、八年、アルフレートにとってマリアは、特別な存在でありつづけている。だから―――――――
 ――――オックスフォードに留学していた彼が一年ぶりに夏期休暇で家に帰ってみれば、マリアが失踪したという騒動がおきていた。
 家出か事故か――それとも誘拐かと、慌てる使用人と彼らに指示を飛ばすゲオルグ叔父とは別に、彼は居ても立ってもいられない思いのままに、誰にも内緒で探偵を雇ったのだ。
 なぜなら、ゲオルグ叔父が、『誘拐だった場合を考えれば、警察にとどけるのはマリアの命を危険にさらすことだ』と、頑なに警察の介入を拒んだためだった。
 彼の勝手な行動を知ったゲオルグに詰られ殴られもしたが、結果オーライだったろう。
 結局、マリアを見つけたのは、彼が雇った探偵だったのだから。
 しかし、ポーカーフェイスの彼が内心喜びいさんで迎えにいったものの、現実は、彼にとって無情なものだった。
 記憶をなくしたのかどうかもわからず、自閉してしまったマリアは、事実記憶をなくしてしまっている異邦の青年にしか口を開かないという。微笑みかけないという。
 孤児院の応接室で、自分に向けられた極上のエメラルドのまなざし。その奥に何一つとして、慕わしそうな感情をたたえてはいなかった、無機質な鉱物を彷彿とさせる、一対の瞳。その冷ややかさが、彼の心を冷ややかな湖底めいた心の奥底へと沈みこませていた。
 そうして、アルフレートは黙したままで車に身をあずけていたのだ。が、何気なく見せた先ほどの青年の、身のこなし。それが、アルフレートの心に警鐘を鳴らしたのだ。
 もう一度アルフレートが彼を見返したとき、彼は人形めいた容貌を窓の外に向けていた。アルフレートが見たのは、彼の白い襟足だけだった。
 アルフレートが、漠然とした恐怖を、青年に対して覚えた瞬間であった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 ブラナダンの屋敷は、眼下に街を見下ろせる山の頂上にあった。
 自然の高低に沿って、欝蒼とした木々が陰影を見せる。その中央に、ゴシック様式の、石造りの館がたっていた。
 空に向かって口を広げた異形の存在を刻み出した雨樋が、屋敷の周囲を取り巻いている。それは、屋根の尖り具合や教会と住居との違い、それに国柄による建築洋式の差こそあれ、パリのノートルダム寺院をイメージさせるものだった。

to be continued
start 9:02 2002/10/08
up  22:02 2003/07/03
あとがき

書きはじめた日を見てもわかるとおり、終わるかどうか不安な一本。
ええ。珍しく、高遠くん記憶喪失という。しかも、たぶん、はじめちゃんは登場しません。
久しぶりのオリキャラですが、極道ですね。
女の子の名前をマリアにしたのは、外国名でもっともポピュラーだろうといういたって簡単な理由です。たぶん、キリスト教圏なら何処でもある名前でしょうし
 少しでも楽しんでくださるといいのですが。
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