人形の夢 |
それは、夏休みにはいってほどなくのことだった。 「はっじめー」 フミの元気な声。しばらくして、 「ぐえっ」 と、強かな衝撃にカエルめいたうめき声がはじめの喉の奥から迸った。 「フ〜ミ〜」 からだの上に圧し掛かっていたフミに何しやがるんだこのやろうと、低い声で唸る。 「わざわざ持ってきてやったんだから、怒らなくたっていいじゃん」 八才下の従兄妹はプンプンと怒って自分の部屋に消えていった。 「なんだよいったい」 ベッドの上で惰眠を貪っていたはじめが、ようやくよっこらしょと起き上がる。 その弾みではじめの上にフミと共に体重をかけていたものが、ずるりと床に滑り落ちる。それは、大きな荷物だった。 縦が約二メートル、横幅が七十センチくらいか。高さも同程度ある。二階に運ぶのに、四苦八苦しただろう。そう、重さもかなりのものだ。おおよそで十キロはありそうだった。 (フミのやつよく運べたよな) 九才の少女には重すぎる荷物だったろう。そんな事を思いながらはじめは箱を調べる。 差出人の名前は、ない。 首を傾げてみるものの、宛名は金田一はじめ様とある。 (通販を申し込んでたっけか?) 考えてみるが、通販を申し込んだ記憶はなかったりする。 (懸賞で何か当たったのかぁ?) あとは、それくらいしか思いつかない。 (こんなにおっきなのって賞品にあったっけ?) なかったような気もするが、とりあえずいつまでも床に座り込んでてもしかたがない。悩んだって自分宛てなのに変わりはないのだし。 (今まで一回も当たったことないからちょっと不安ってか?) 自分で自分に突っ込みを入れつつ、はじめが包装を解いてゆく。しばらくの間、紙の触れあう軽く乾燥した音だけが部屋に響いた。 「げっ!」 声が喉の奥でへしゃげた。喜べばいいのか、びっくりすればいいのか、それとも困惑でもするべきなのか。複雑な表情を貼りつけたままで、はじめは、それを見下ろした。 まるで外国の柩の中に横たえられた人間のように見えるもの。それは、等身大の人形だった。 丁寧に植えられている襟足の短い、黒くさらさらの頭髪。白くなめらかに整った容貌は、角度によって表情がいろいろに変化する。赤すぎるくちびるが、この人形の性別を不透明にしていた。しかし、百八十センチはあるだろう身長と凹凸のない胴の部分が、この人形の性は男なのだと想像させる。 (ま、洋服も男物みたいだしな) 白いシャツブラウスの生地は、上質のシルクだろう。合わせが男合わせ、左前になっている。深いボルドー色のスラックスも、たぶんシャツと同じ生地に違いない。手触りが吸いつくようだ。腰に巻いた黒いサッシュベルト。スラックスと同色の革の靴。 「これって、メチャクチャ高い人形だよなぁ…どう考えたって、こんなの、申し込んだ記憶ないんだけど」 ほぼ人間と同じだけの関節が自由に動かせるようになっている手の込んだ作り。胸の上で組まれている手指の一本一本、一関節ずつまでもが、動かせるのだ。 下手をすると壊してしまいそうで、そろりと人形の指を解いてゆく。と、小さな名刺大のカードがすべり落ちた。 『金田一はじめ様へ』 そっけない手書きの文字。 「これだけ???」 陽に透かしてみても、他には何もなかった。 「う〜ん」 首を傾げて眉間に皺を寄せる。腕を組んで考えてみるものの、何が思い浮かぶわけでもない。 「ま、いっか」 なんと言っても、考える材料が少なすぎる。領収書も請求書も入っていないところを見ると、押し売りというわけではなさそうだ。 はじめは、人形を箱から取り出し、ぐるりと部屋を見渡した。 「もらっといてなんだけど、おまえってちょ〜っとでかすぎだよな」 等身大の優美な人形を飾るにしても、整理整頓とは縁のない散らかった室内では、置き場所に困ってしまう。 「ベッドに乗っけるのは、いちいち動かさないと駄目だし、邪魔っけだよなぁ」 人形を抱えて立ち上がり、しばらく悩んだ。そうしてはじめは結局、人形を勉強机の椅子に腰掛けさせることに決めた。 はじめは机の横のベッドに腰掛けて人形を眺めた。 ごちゃごちゃととっ散らかった部屋の中、人形だけが浮き上がって見える。 切れ長の、金泥で彩色されているらしい、アーモンドのような両眼。かすかに両端が持ち上げられている薄めの赤いくちびる。 「う〜ん。なんかエロティックな気がするなぁ…顔のせいかな。なんだか、本物の男に流し目を向けられてるような気になってくる」 独り語ちるとはじめはベッドに後ろざまに倒れこんだ。 「う…ん」 寝苦しさで寝返りを打とうとして、「えっ?」と、思った。からだが動かない。意識ばかりが先走って、からだが少しもついてゆかないのだ。 これが、有名な金縛りかと思いつつ、さして切羽詰った感じはなかった。 ぼんやりと考えていると、瞑っているはずの瞼の向こう側が見えるような。 錯覚なのか夢なのか。 どっちなのだろう。 わからないままで、部屋の隅々が目の前に見えるのだ。 (夢かぁ) そう思ったのは、自分が上向きのままベッドに沈み込んでいる状態で部屋の中が全て見えるからだった。いくらなんでも三百六十度すべてを見通せるわけがない。 (変な夢…) と、思いつつ、鼓動につれてからだが揺れる感覚に身をまかせた。 気だるくて気だるくて。眠っているはずなのに、眠れない。そんな、変な感覚。 自分が揺れる。 夢のスクリーンも、揺れる。 椅子から垂れているボルドー色のズボンと靴に包まれている人形の足までもが、揺れている。 なぜだか楽しくなってきた。 揺りかごがまるで海原にぽっかりと浮かんでいるみたいだった。ゆらゆらと揺れる感触が心地好い。 (え?) 気がつけばベッドの横に人形が、立っていた。 金泥で彩られている、とろりとねつい二つのまなざし。見下ろしてくる一対の瞳。 差し伸べられた白い手は、関節ごとのジョイント部分がくっきりとあらわに剥き出しになっている。 促されるまま、はじめは人形の手を取っていた。 どこからともなく『美しく青きドナウ』が聞こえてくる。 優雅な三拍子。 もういちど「えっ?」と思った時には人形のリードで、ワルツを踊っていた。 男同士(?)のダンスってなんだかなぁ…と思いつつも、 (夢だし、まぁいっか) と、リードされるままになっているはじめだった。 流れる水のような、なめらかな動き。無機質な人形の感触が、いつしかうっすらと熱をはらんだと感じたのは、おそらくは夢のご都合主義なのだろう。 いつのまにか寄せられていた頬のすべらかな感触にうっとりと目蓋を伏せていたはじめの視界一杯に、薄く形良い赤いくちびる。 慌てなかったわけではない。いくら人形とはいえ、それは間違いなく男を模して作られている。それが、ダンスならともかく、いくら夢だとはいっても自分にくちづけてくるのだ。 『男にそんなことをされる趣味はない!』 そう叫びたかったが、夢の中で声を出すことができない。動きすら自分の意識とはまるで異なっていて、どこか遠くで『ウソだろ』とつぶやく自分がいた。 鳥肌が立つような思いで『はやく目覚めろオレ』と自分を叱咤しているはじめとは別のところに、人形のくちづけを受け入れている自分自身がいた。 『ヒエッ』 と、はじめの喉から悲鳴が漏れる。 ひそやかに触れ重ねられたくちびるは、ひんやりと冷たい。なのに、そこから全身にしみわたるのは、間違いなく、熱だった。はじめの中に快感が呼び覚まされた証の、熱。ジンジンと全身が敏感になり、身悶えるほどの痺れがはじめをからめとる。 くちづけてくるのも、抱きしめてくるのも、まちがいなく人形なのに。 人形の手が、くちびるが、いつのまにか素肌の上をたどっていた。 何が起きようとしているのか、わかってはいる。しかしわかってはいるものの、その時には既に、はじめは快感にからめとられてしまっていた。 夢の中だというのに、鳥肌を立てて戦いた自分と人形のなすがままに身をまかせていた自分。二重に分かたれた意識がいつしか一つに戻り、はじめはただ与えられるものを心待ちにしているのだった。 ―ただ、与えられる感覚だけが全てだった。 カシャン! 軽いものが床に落ちるような音。 目覚めは、あまり心地好いものではなかった。 できれば、このまま惰眠を貪っていたくて。しかしそんなわけにもいかない。今日は美雪と約束があった。映画を見に行くのだ。なのに、焦ってはみるものの、恐ろしいほどのからだの重たるさに、起き上がれない。 どうして。 風邪でもひいてしまったのだろうか。 ありがたくはない予感。 そういえば、全身が妙に冷たいような気がしてならない。 はじめはひとつ大きな溜息をついた。 (体温が低くて、血圧が下がってる………心拍数もゆっくりになってるってったってなぁ…) 天井の木目を睨みながら、ベッドで仰臥したはじめがぶちぶちと文句を並べる。 三日間、食欲もなければベッドから起き上がることもできなかった。さすがにのんびり屋の両親も焦ったらしく、今日になってかかりつけの病院に行って来たはじめだった。 (原因もわからないって…ヤブめっ) 精密検査をしましょうかと、銀の髪と赤い瞳のハンサムな医者が言ったのを思い出す。 (マッド・ドクターめ。検査したくってたまらないって顔に描いてあったよな) 誰がっ―と喰って掛かりたかったが、両親が是非と頭を下げたため結局あっちの検査室こっちの検査室と病院中をたらいまわしにされたのだ。 (ま、入院させられなかっただけましか) あいかわらず全身がだるくて動くのが辛い。 食欲もない。これは、ブドウ糖を点滴されたせいなのだろうか。 (せっかくの夏休みだってーのに………損してるよなぜったい) はじめの口から溜め息がこぼれた。 はじめは横を向いた。横を向けばそこには、椅子に座っている人形。安定が悪いのかどうしてなのか、何度正面を向かせても人形は椅子ごとはじめの方を向いてしまう。だから、今も、はじめの位置からは人形の顔がよく見える。 「おまえ、そこでじっと人のこと見てんなよな」 なんとなく人形相手に愚痴るはじめだった。 「まったく、おまえはいいよな。病気になんてなんないんだから」 と、はじめが口にした時、カシャンという乾いた音を立てて、人形が椅子から転がり落ちた。 ドキン! と、はじめの心臓が跳ねる。 「びっくりさせん、な…よ………!」 はじめの鳶色のまなざしがこれ以上なく大きく見ひらかれた。収斂した瞳孔が、一点を凝視する。 心臓が肋骨の奥で信じられないくらいの速さで波打っている。 そこに、人形の手など乗っていなかったはずなのに…。関節部分のはっきりとした、それでも先細りの優雅な指が、はじめの目の前にあった。 人形の指一本一本に力が入る。ベッドマットが、シーツが、撓み皺を刻む。 「あ……」 あまりの恐怖に目を瞑ろうとして、はじめは見てしまった。 ――なにを? 起こりうるはずのない現象を。 それは、ゆるゆるともたげられた人形の頭部。丹精こめて作り上げられたのに違いない美しい人形の頭部が、金泥で彩色されているアーモンドのような瞳が、すっと通った鼻筋、かすかに両端が笑みを描く赤いくちびるが、はじめの目の前に現われたのだ。 あまりにも信じられない出来事に、目を瞑ることなどできなかった。魅せられた者のように、はじめは自分に据えられている金泥のまなざしを呆然と見返した。 白い蛇めいた動きで人形の腕がはじめの首に伸ばされる。 ひんやりと冷たい無機質な掌の感触に、夢の中ではほんのりと温かかったのに―と、場違いなことを考えていた。 「ぐっ」 人形の手が、はじめの首を絞めあげる。絞めあげながらはじめの顔を覗き込み、そうして酸素を求めて開いていたくちびるを塞いだ。 その、赤いくちびるで―。 ガンガンガン…と煩いほどの鼓動の音が、耳を聾する。 くちびるの合わさったところから、なにかが少しずつ奪い取られているような感覚がある。徐々に、意識が遠くなってゆく。 視界が青黒い帳に覆われて………。 間近に迫った死をひしひしと感じながら、はじめが藻掻く。 何故人形に殺されなければならないのか、理由も何もかもわかりはしない。それでも、こんなことで死にたくはなかった。 どうして、殺されなきゃならない? それも、人形に。もしも仮に人形に誰かの恨みが移ったとしても、そんな強烈なほどに怨まれるだなどと、心当たりすらない。自分に恨みを残して死んだ知り合いなどいない。少なくとも、物心ついてこのかたはじめが経験した身近な死は、祖父のそれだけだったのだ。 万年落ちこぼれの自分に嫉妬するような人間に、心当たりもない。美雪との関係だって、面倒見のいい幼馴染みがずぼらな自分を見捨てられなくて世話を焼いているようにしか見えないらしい。現に、自分という存在があるにもかかわらず―少なくとも、外野がどう受け取ろうと、互いに幼馴染み以上恋人未満ではあると意識していたりするのだ―美雪は告白をされたりラブレターを貰ったりしている。 そうして、人形に命を吹き込むことができるような人間など、知りもしない。 人形の腕をどうにか掴んだ手は虚しいまでに力ない。 逆に、まるで万力のような人形の手の力。 (イヤダッ! 死ニタクナイ) 割れ鐘を叩くような聾がわしい鼓動の音が遠ざかってゆこうとする。 ひときわ強く人形がはじめの喉首を絞めつけた。 はじめの全身が弾跳する。 苦痛のあまり瞼にたまっていた涙が目尻からこぼれ落ちる。 ブラック・アウトしそうな意識。 「い、やだ………死にたくない」 最後の最後、グッと渾身の力をこめたその時、フッと人形の手から力が抜けた。 何が起きたのか。 何がどうなったのか。 それらを究明するよりもなによりも、まずは酸素だった。 ギリギリと痛む喉。焼けつくような痛み。それでも、新鮮な空気が肺を満たし、全身の細胞へと鼓動に乗って送り届けられる。酸素はもちろんはじめの脳細胞へも運ばれた。はじめの意識が少しずつクリアになってゆく。 ゲホゲホと咳き込むたびに喉は痛んだが、死が遠退いてゆくのが感じられた。 『はじめ…』 穏やかな響きのテノールが、はじめの脳裏に直接響いた。 目の前には、金泥の彩りが印象的な、美貌。 赤く染められた唇はわずかも動いてはいない。 それは、直感だった。混乱した頭で、それだけを感じ取ることができた。 脳に直接響く声なき声。そは、まぎれもなく人形の声なのだと。 『はじめ………』 はじめの窺い知ることができない、なにかの感情がこめられている、深味をはらんだ声音。 こめられているなにかが、はじめを震えさせる。 近づいて来る顔。 恐怖だろうか。 乾いた木々がぶつかる音をたてながら、腕がはじめに絡み付いてくる。 嫌悪なのか。 いずれにしても、逃げられなかった。 突き飛ばすことさえも意識には上ってこず、はじめはただ人形の深い響きの声に呪縛されていた。 やがて人形のくちびるがはじめのくちびるに重なり、後にはただはじめの意識だけがとり残されたのだ。 そうして――― 気がつけば昼だった。 「夢………?」 カーテン越しの昼の光。 薄ぼんやりと照らし出される室内。 しかし、だとすれば、どこからが夢だったのか。 椅子の上に座ってこっちを向いているはずの人形。その影も形もない。 (え? ってことは、人形が送られて来たとこからが夢…なのか?) 人形とワルツを踊ったのも、人形に殺されかけたのも、人形とキスやそれ以上をしてしまったのも、全てが―夢だったのか。 なんとはなくほっと安堵の吐息をついたはじめが上半身をベッドから起こす。と、人形が夢であったのだからはじめが原因不明の病気にかかったことも夢のうちだったのだろう、目覚めてすぐの気だるさは残るものの苦痛はどこにもなかった。 「腹へったぁ……」 階段を下りたはじめは、居間から聞こえてくる母とフミの楽しそうな笑い声に足を止めた。よくよく耳を澄ませれば、ふたりの声に穏やかな響きの男の声が混じっている。 (誰か来てんのか?) そう思ったはじめが無造作に居間の戸を開ける。 木枠にガラスの嵌まっている戸がスライドする音。 (っ!!) 「はじめにーちゃんおそよう」 「もう昼よ。夏休みだからっていつまでも寝てるんじゃないの」 フミと母の声が遠く聞こえる。 はじめの視線は、全ての意識は居間の一点に集中していた。 居間の座卓。その上座に座ってお茶を啜っていた人物が、ゆっくりと顔を上げる。 「!」 心臓が激しく波打ち耳のすぐ奥に血管を流れる血の音が響く。 気がつけば、冷や汗をかいていた。 「そ、そいつ、誰だよ」 はじめの歪んだ声が居間に波紋を描く。 フミと母が顔を見合わせるのを視界の隅に捉えながら、はじめはその人物から目を離すことができなかった。 喉が渇く。 全身が小刻みに震える。 なぜなら、その人物は、夢に出てきた人形とそっくりなのだ。 さらさらの黒髪も、白い細面も、その中で絶妙のバランスを保っている造作すら、すべてが夢の中の人形その ものだったのだ。 はじめの視線を受けて怯まない薄い色のまなざしが、庭から射しこんでくる陽光を弾いた。 刹那、瞳は見紛いようもなく金泥の色を宿した。 ドクン! はじめの心臓が跳ね、背筋を奇妙な痺れが這いずった。 男の、男にしては赤すぎるくちびるがクッと持ち上げられ、笑を形作る。 それらは全て一瞬の出来事だった。 凝りついた空気は、突然吹き出した母とフミとによって破られた。 「なに言ってんの〜」 きゃらきゃらと腹を抱えてフミが笑う。 「ほんとに。はじめあんたがなに拗ねてるのか知らないけど、高遠くんのこと忘れたふりしてどうすんの」 「へ?」 「高遠くんはあなたの恋人でしょ」 「は?」 思いも寄らぬことばに、絶句する。 「すみません。ボクがはじめくんを好きになったばかりに」 響きのいいテノール。 「いいのよ。高遠くんは、誠実だったんだから。問題は、うちのバカ息子。恋人のこと忘れた振りをするなんて、どう言う了見なんでしょうね」 「こ…恋人って」 やっと息を吹き返したはじめが反論をしようとするが、 「美雪ちゃん泣かして高遠くんを選んだのはあんたなんだからね」 母の言葉に眩暈がする。 「オレの大事な人ですなんて紹介された時、かーさんどうしようって思ったんだから。そりゃ、高遠くんはいい人だけど、男同士の恋愛っていうのがあるっていうことも知ってたけど、よもや自分の息子がって焦ったんだからね」 (い、いつそんなことをオレが言ったって?) 口を開けたり閉じたりするものの、声にならない。 あまりのわけのわからなさに焦ったはじめがその場にへたり込む。 クスクス………。 はじめの混乱を面白がっているような笑い声。 しかも声は、直接頭に響いた。 顔を上げると、色の薄いまなざし。 視線をはずすことも瞼を閉じることもできず、はじめは高遠の瞳を見返した。 どれくらいそうしていただろう、母の声が遠くなり、まるで魂を抜かれるような浮遊感がはじめを襲った。 くらりと撓む視界。 しばらくして視界は闇に包まれた。 ※ ※ ※『さあこれで完成。君の名前は…そうね、高遠、高遠遙一くん。私と………の、愛しい息子』 意志の強そうな、それでいて優しさを滲ませた、女性の声にはじめの意識が目覚めた。 (たかとう?) 『そうね、君にはわたしの家の一番いい場所を提供しよう。いらっしゃい』 女性が話し掛けているのは、自分なのに、他人事のような気がしてならなかった。 抱き上げられて運ばれる、全身が揺れる感覚。固定された視界が捉えるのは限られた範囲だった。しかしそれは、はじめの見知らぬ場所。はじめの記憶にあるはずのない光景だった。 (ああ、これは、人形の…過去………なんだ……) 自分は、人形とシンクロしている。はじめはぼんやりとそう理解した。 女性がやさしく話し掛けてくる。その日にあった楽しい出来事を。そのたびに、ぽっかりと空いたからだの中に、あたたかな何かが積もってゆく。 それは、はじめをうっとりとさせる心地好いものだった。 過ぎてゆく日々。 日々折々に与えられる愛情が混ざり合い、そうして虚ろなからだの中に宿ってゆくのをはじめは感じていた。 それらは、まさに至福と呼べる時だったろう。 はじめが陶然となっていると、突然光景が一転した。 月光が射し込む居間。 『なにをするの』 陶器の砕ける音。 何かが倒れる音。 そうして、女性の悲鳴が夜のしじまを引き裂いた。 とろりとあたたかな”母”の血潮にひたりながら、己が身を呪う。 生々しいまでの己自身への憎悪が、はじめの意識に襲いかかった。 それは、人形の感情であると同時に、はじめの感情でもあったのだ。 恐怖に顔を引きつらせた髭面の男の首が、口の端から血をしたたらせ落ちる。 鈍い音を立てて重々しく胴が床に倒れた。 首を切り落とした瞬間の厭な感触が、掌に残っていた。 赤黒い血潮が床に広がる。そこに映ったのは、ナイフを手に持った彼――だった。 (……これが、僕…ですか…………) (やめろ…やめるんだ) はじめの意識は涙を流していた。それは、彼の代わりに流す涙だったのか。悲痛なまでの悲しみに囚われていながら、彼は人形であるがゆえに、涙を流すことすらかなわない。それが、彼を憎悪に駆り立てたのだろうか。 しかしはじめの流す涙は、彼には届かなかった。 まだ人形のままの自分を心の奥底で残念に感じながら、彼は手にしたナイフを顔へと持ち上げた。 ないはずの舌が、ナイフの鋭さとまだ温かい血の味を感じる。 絹を引き裂く悲鳴をあげて洋館を逃げ惑う女性に対して、容赦はなかった。 まだ若い男の断末魔を眺めていた彼は、ふと気づいた。ひとり殺すごとに自分の体の動きが楽になってきていることに。 (まさか…) (もうやめてくれ………オレにこんなことを見せるな) はじめの悲鳴も、彼には届かない。 (!!) 最後の男が、彼の右手を引き千切る。 もとより痛みはない。しかし、衝撃が彼に襲いかかった。 カチャリ。 かすかに視界が左側に傾いだ。 それでも、彼は手にしたナイフを男に向かって、投げた。 反転する視界。 倒れてゆく男の姿を認め、彼は満足感を覚えていた。 後は母と同じ世界に行ければ、もうそれでいい。 彼は静かに意識を手離した。 (お母さん………) (ばかやろう…) それは、過去の記憶と知りながらも、彼を止められなかった自分に対する怒りだったのだろうか。それとも、殺戮のかぎりをつくした彼に対する怒り、ただそれだけだったのか。はじめにはわからない。ただ、とても、悲しくて。そうして、腹立たしかったのだ。 ふと気がつけば、雨。 情け容赦なく降る雨が彼を濡らしていた。 (ここは……) ゴミの山に、彼は捨てられていた。 『おまえ、人になりたいか』 突然の声に、彼は動かないはずのくちびるの端をかすかにもたげた。 『人になりたいのなら』 (だれだよ…こいつは) 声の主が示す先には、楽しそうな一家団欒の光景が映し出されていた。 父と母だろう年配の男女。母親によく似た鳶色の瞳の少年と少女。 『金田一はじめというあの少年』 (!!) 自分の名前が出てきたことに、はじめがよく特徴を捉えられない相手を凝視した。 ギャアギャア。 しかし、突然のカラスの叫びに、はじめは夢から目覚めたのだった。 誰かが目元をやさしく撫でている。 かすかに霞む視界に、白皙の美貌。 (ああ、こいつは………) 「はじめくん。どうしました?」 高遠の声に、はじめは我に返った。 肩にかけられていた手を思わず振り払い、壁際にいざり逃げる。 泣いていたのだと気がつき、乱暴に涙を拭う。そうして、高遠が自分の涙を拭っていたのだと気がついた。 「うわっ」 荒い息。 壁に背中をぴたりと合わせて、高遠を凝視する。 呆れたようなフミと母が居間を出てゆく光景が視界の隅に映った。 (ひとりにしないでくれっ) 叫びたかったが、声にならなかった。 目の前にいるのは、母親の敵を討った人形なのだ。 そうして、おそらくはその彼が見せたのだろう、過去の出来事。そのラストに突然現われた何者ともわからない介在者。その存在が高遠に示した、はじめの家族の映像。あまつさえ、はじめを名指ししさえした。 そうして、はじめのもとにやって来た人形。 あれは、人形が自分のところにやってきてからの出来事は、夢などではなかった。すべてはなかったことになってはいるが、それらを記憶にとどめているはじめにとって、あれは、あくまでも現実のこと…だったのだ。はじめはそれを、感覚的に理解していた。 「お、まえっ、オレを、殺すつもりだなっ」 怖かった。 高遠の感情の全てを追体験していながら、それでも、 殺されかけた恐怖のほうがより勝った。 無意識にはじめの手が喉に当てられる。 恐怖に引きつったはじめの目の前で、白皙の美貌がゆったりと笑みを湛えた。 「殺すつもりなら、とっくに殺していますよ。それに、こんなに手間な段階を踏んだりしません」 どこか皮肉気な、それでいて全てを楽しんでいるような、ゾクリと背筋が震えるような微笑。 「だ、だったら…」 「ボクはね、はじめ。君のことが気に入ったのですよ」 耳元で囁かれ、はじめが固まる。 「最初は、君に取って代わるつもりだったのですけどね」 クスリ…。 楽しげな笑とは反対に、物騒な言葉。 「取って代わる?」 「そう。君が人形は病気にならなくていいと言ったあの時。あのままボクが君を縊り殺していれば、ボクは君に、君はボクになっていたのですけれどもね」 人形はいいな…という一言が入れ代わりのキーワードだったんですよと、高遠がつづける。 「………だったら、どうして、今、おまえは人間の姿なんだ」 高遠の含み笑いが深くなる。それは、まるで人形の面(おもて)めいていて、はじめはこの顔の人形に縊られかけた瞬間を思い出していた。 「それは、ボクが君を愛していると気づいたからです」 思いもよらない台詞に、はじめの表情が空白になる。 「だから、ボクは、君を殺すことをやめた。そうして、替わりに、ボクは何をしましたっけね」 「おまえが、した、こと………っ!」 はじめの顔が朱に染まる。 高遠の手が、くちびるが………自分のからだの上を這った感触をまざまざと思い出した。 「愛せなければ殺せばいい。それで入れ代わりは成功です。けれど、愛してしまったら、入れ代わりなど無意味です。人形の君を愛しても…ね。かといって、人形のままのボクを君が愛してくれるとも思えませんでしたし。だとすれば、方法はひとつ。無理にでもボクを受け入れてもらうこと。童話の昔から、愛の成就は奇跡を呼ぶのですからね」 「………」 一方的にまくしたてる高遠に圧倒されていたはじめだったが、 「あ、愛の成就ってな…一方的な愛の押し付けに意味なんかないっ!」 ようやくのことで息を吹き返し、高遠に食ってかかることができた。 「おや? ではこれは? ボクが人間になれたということは、逆説的に言えば、ボクの愛情が一方的なものではなかったのだということになりませんか」 「………」 何度目かの空白。しかし、はじめは、 「オ、オレは人形を愛したつもりも、男好きって性癖も、ないっ!」 と、叫んだ。 はじめの剣幕に薄い色のまなざしが、大きく見開かれた。 そうして、次の瞬間、高遠の笑い声が居間に満ちた。 おしまい |
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