夕間暮れだった。 児童公園と住宅とに挟まれた、間遠な間隔で街灯があるだけの、細い道を金田一はじめは家路についていた。 ひときわ激しい寒風に、 「うわっぷ」 思わず目を閉じたはじめが、顔を振って目をしばたかせた。 と、いつの間に現われたのか、目の前にひとりの青年が立っていた。 「やっぱり、君の瞳、いいですよね」 宵闇の降りかけた、彼は誰刻(かわたれどき)。すべてがぼんやりと現実味をあやふやにする、逢魔が刻。まるで、どっちつかずの薄暮をあざ笑うかのように、際立つ闇をまとった青年に、ぞわりと、はじめの背筋が逆毛立つ(そそけだつ)。 年のころなら二十二から五くらいか。女の子に騒がれそうな、整った顔に似合わない倣岸な口調は、ねとつくようだった。 薄闇に浮かぶ白い顔は、笑っていても、その目は、決して笑ってなどいないと、わかる。 剣呑な、まさにそうとしか呼びようのない雰囲気をまといつかせて、青年は、はじめの目の前に立っている。 「た、たかとーよーいち」 やっとのことで、相手の名を呼ぶ。それは、稀代の犯罪者、地獄の傀儡師と恐れられている男だったからである。 声が、震えるのも仕方がない。以前、彼自身の演出による彼の母親のための復讐劇を、はじめが邪魔をしたといういきさつがある。その際、高遠遙一に、強制的に排除されかけたのだ。――すなわち、殺されかけたのである。以来、何かにつけて、高遠は、はじめに絡んできた。最近では、上海での事件が記憶に新しい。 名前を呼ばれて、高遠がにやりと笑った。 ずいっと、無言のまま一歩はじめに近づく。 気圧されて、はじめが一歩後退する。 ガサリと、公園の植え込みにはじめの背中が当たった。 逃げなければ――そう思うのに、からだが思うように動かない。 それは、紛れもなく、恐怖だった。 からだは少しも、動かない。 冷たい脂汗だけが、滴り落ちてゆくむず痒さ。 不意に、目の前まで迫っていた白い顔が、嘲りの笑みを深くした。 ひたり――と、動けないでいるはじめの頬に、乾いた掌が当てられた。 パシッ! 小気味よい音が響いて、高遠が手を引く。 「お久しぶりですね。お元気そうで何より」 クスクスと嗤う高遠に、厭な予感が湧き上がる。 「な、にを…………」 「ああ、大丈夫、大丈夫。ただ、お願いにきたんですよ。君の大事な警視どののことなんですけれど、ね」 含むものがありそうな口調に、はじめの瞳に、厳しい色がはかれた。 キッと見上げる視線の先で、 「やぁ、勘もいいね」 と、何かを考えるような顔つきになる。 「ふうん……君に僕のお願いを聞いてもらうためには、君を脅すしかないだろうと思ってるんですけど………。何を言っているか、わかるよね?」 「っ!」 ねっとりと独り語ちるそのことばの裏に、よくないものが潜むのを感じ、はじめがくちびるを噛みしめる。 「ほんと、聡いね、君」 なにを言うつもりだと緊張に強張った視線の先で、忍び笑いをもらしながら、高遠は、手を翻すようにはじめの耳へと移動させる。 「くぅ!」 突然両方の耳を力まかせに引っ張られ、痛みに呻いたその後に、噛みつくようにくちびるに触れたもの。 あまりのことにはじめが藻掻く。しかし、口内に忍び込んできた舌のぬめりに、足から力が抜け、無様に腰を落とした。 無理やりのくちづけに煽られて、不本意な熱が、からだにともったのだ。 酸素を求めて抵抗するはじめの顔を仰向けて、その欝金の双眸が、はじめの視野を占拠する。 警視の瞳の色とは違う、深い闇をたたえた、邪眼。 クラクラと、視界が、揺らぐ。 見ていたくなくて目を閉じようとしたはじめの目の前に、滾りたつ金のまなざしが迫っていた。 「っ!」 目を放すことができない。 闇を宿した金の瞳はあまりに蠱惑的で、はじめは、意識ごとすべてを奪い去られるような錯覚を覚えた。 「そういう顔をしていると、色っぽいですよ、君。………警視どのは、君を、可愛がっているようですね」 その一言で、はじめは、現実に立ち返った。 信じられないものを見るかのように、高遠を凝視する。 「僕が知っているのが、不思議ですか?」 もちろんだ。 誰にも知られないように、細心の注意を払って、明智とはつきあっている。警視庁きってのエリートである明智が、未成年の男子高校生と付き合っているなどとバレようものなら、懲戒免職どころか、それから先の明智の人生は、崩壊の一途をたどるよりないだろう。たとえ、それが、はじめ自身も望んだ関係だとしても、世間はそんなことでは許してくれない。 そこまで一瞬で考えて、はじめは、その鳶色の瞳を大きく見開いた。 「そう。証拠も握っていますよ」 翻る白い手。一瞬の後には、その手に、扇のように開かれた、数葉の写真が握られていた。 そこに写されているのは、はじめと明智との、きわめて親密な画像だった。 「これを、ばらまけば……そうですね、警視庁なら、効果絶大ですよね。ともかく、僕がいろいろと手間をかけなくても、警視どのは、破滅です。……多分、君も、ね。名探偵くん」 高遠が、悪戯そうに片目をつむる。しかし、見開かれたままの目には、悪魔もかくあらんばかりの、悪意がとぐろを巻いていた。 ぞっと、全身が震える。 最も知られてはならない人物に、少なくとも後数年は隠し通さなければならなかったことを、知られてしまったのだ。 「いったいっ!」 いったいなにが目的なんだ! 「……叶えていただけるのなら、言いますけどね?」 暗に、叶える気がないのなら、写真をばら撒くと匂わせながら、クスクスと人の悪い笑いをこぼす。 「えげつないよな」 吐き捨てる。 「おやおや。今更ですよ。忘れましたか? 僕は、邪魔になるだろうというだけで、君を底なし沼に落とした男ですよ?」 ねっとりとまとわりついてはなさなかった、湖底の泥。 全身の穴という穴から入ってくる、冷たい、水。 空気を求めて伸ばした手の虚しさ。 あのときの苦しさ、恐怖、焦り、ありとあらゆる感情が、よみがえる。 ――そうだった。端正な、歪みなどないような白々とした顔をしていながら、だれよりも、深い狂気にとらわられている男なのだ。やろうと思えば、なんだって、どんな酷いことだって、やってのけられるだろう。 「どうしてもイヤだと言うなら、君の意識を縛る方法もあるのですけれどね」 それは、イヤだ。 あの、上海での事件のときのことを思い出す。 この男は、催眠術も使えるのだ。ひとを縛り、意のままに動かす。 自分で自分のしたことを覚えていない恐怖。 自分が、ひとを傷つけたと、思い込んでいたときの、耐え難さ。 首を振るはじめに、 「なら、いいですね?」 金色の瞳が、悪意を潜ませて、はじめの鳶色のまなざしを覗き込んだ。 「?」 ―――冷たい風に胴震いをして、はじめは気がついた。 ずきずきと鼓動に連動するかのように疼く頭痛。しかし、頭が痛いからと、いつまでもここに呆けていたのでは、風邪をひく。 のろのろと起き上がり、はじめは、家に帰ったのである。 風呂場には暖色系の光がともっている。 鏡の中の自分の顔を映す。 青ざめ口角を自嘲に歪めた自分の顔があった。 自分で、自分の目を見返せない。 ひどいプレッシャーがある。 心臓が乱打し、からだが震える。 瞼を下ろしたくて、しかし、確認せずにはいられなかった。 脳裏に刻み込まれた、とろりと重い、金のまなざし。 あれが、自分の瞳にかぶさっているような気がしてならないのだ。 はじめは、おそるおそる、視線を上げた。 目。 鏡の中から、自分を見返しているのは、明るい鳶色の、目のはずだ。 なのに、二重写しの写真のように、金色の瞳が、見える。そのまなざしの命じることばもまた、はじめの脳裏に直接響いているのだ。 ――――ひとおもいに、殺されていたほうが、ましだった。 いや、それでは、あのひとを守ることができない。それどころか、あの、金目の犯罪者が、あのひとを、破滅させるかもしれない。 そんなことになるくらいなら。 死ねない。 なにがあっても、あのひとを守りたい。 傍にいて、あのひとが輝くのを、この目で見ていたいのだ。 それには、この自分の目にかぶさって見える金の目は、あまりにも、邪魔だった。 なら? なら、自分にできることは? とるべき道は? こくり――と、はじめは唾を飲み込んだ。 鏡の中を凝視し、 「おまえの思い通りには、ならない」 高遠に告げるともなく語りかける。 そうして、はじめは、指を――――― 指をまさに、自分の目につきたてようとしたそのとき、はじめの手を掴む者があった。 狂気をまとった青年が、はじめを背後から抱き込んでいる。 「は、なせっ」 藻掻くはじめの耳に、 「なんてことするんです」 あきれたような声が届く。 「まぁ、君がこうするだろう可能性もフィフティ・フィフティだとは思っていたのですけれどね」 肩をすくめる。 「そんな情の強い(こわい)ところに……萌え、ですね」 高遠はつぶやき、無造作に、はじめの膝裏を掬い上げた。 「な、にを……」 「君、少し、無粋ですよ」 そう言うと、高遠は、はじめの眉間に、その形のよい人差し指を当てた。 気がつくと、目の前には白い顔と金の瞳。 覚えのある身を苛む熱に、 「あけ……ん?」 つぶやいた途端、 「ひっ……あ………や、やめっ」 咎めるように激しさを増した動きに、現実を思い知る。 自分を抱いているのが、誰なのか。 どうして、こうなったのか。 ――狂気と闇とをまとった青年、高遠は、はじめを脅したのだ。 はじめが自分の目を抉ろうとしたあの後、今と同じように、目覚めた。 高遠が、自分を苛んでいる、悪夢。 目覚めて、見る、悪夢だった。 「気がついたんですね」 硬直したはじめの耳に、 「まったく。こまったひとですね。せっかく君を傷つけずに済まそうと思っていたのに」 (では、オレは殺されるのか) はじめの思考をまるで読んだかのように、 「どうしたんです? いつもの賢明さはどこへいったんでしょうね。そんなに、僕の暗示は、甘かったですか? さすがに、混乱しましたか? この僕が、あんな面白味のない状況で、君を殺すと思いますか?」 面白味のない状況――と、そう言った高遠のことばに、はじめがゆっくりと目を瞬いた。 カーテン越しにはいってくる街灯の明かりで、高遠の顔がはっきりと見える。 ―――見たくないのに。 心のままに、はじめが閉じようとした瞼を、乱暴に、抉じ開けて、とろりとした金色が彼の瞳を覗き込んだ。 「言っておきましょう。君は、僕のです。僕の暗示は、どこまでも、どこに君がいても、君を縛めつづけていますから。それに、どんなことをしても、解くことはできませんよ」 あまりの現実に、はじめの心を絶望が浸してゆく。 「よほどのアクシデントで、もし仮に、解けたとしても、すぐに、暗示をかけなおす準備はありますから。だから、あまり、手間をかけさせるんじゃありませんよ」 (イヤだ。誰が、おまえの言うことなど) キッとばかりに睨みつけると、にやりと、冷酷そうな笑みをたたえて、 「次に、手間をかけさせたら、君の大切な警視どのの目の前で、君を喘がせてみせましょうか」 そう、止めを刺したのだ。 あれから、幾度、こうして、抱かれたのか。 忌々しい熱に浮かされたような頭で、はじめは考える。 まさか、こういうことまで、日常的に強いられるとは、思ってもみなかったはじめである。 あの日のあれは、この青年独特の、ジョークだと、そう思い込んでいた。 なのに、違ったのだ。 決まって、警視に抱かれた次の日、この、青年は、自分を抱きに来る。 警視の愛情にくるまれた、幸せな記憶を、打ち砕くために。 逃げることはできないと思い知らされ、諦め、受け入れることを覚えた。 後に、じくじくとした自己嫌悪を噛みしめることにも、慣れた。 裏切り者だと、苦い思いにも、いつか、慣れる日が来るのだろう――か。 けれど――と、はじめは決意を新たにする。 けれど、必ず―――――と。 この身は、高遠の傀儡(くぐつ)と堕ちようと、最後には、必ず、明智さん――あなたのために、この身を投げ出してみせるから。 (そのとき、オレは、笑って死んでゆけるだろう) 知らず、はじめが、その口角にやわらかな笑みを刻んだ。 見下ろす金目が、それを見咎め、刹那、剣呑な光を宿す。 「う……ぐっう」 激しさを増した高遠の動きに、はじめの涙腺から、涙がとめどなく流れた。 「懲りませんね、君も。今、君の相手をしているのは、僕でしょ? 警視どののことを考えるなんて、マナー違反ですよ」 クスクスと意地悪そうに嗤いながら、高遠が、耳に声を吹き込む。 はじめは、からだの奥に、高遠の滾る熱が弾けるのを感じ、意識を飛ばした。 狂気と闇とをまとった青年が、自身そうとは気づかない、なにがしかの感情をたたえたまなざしで、はじめを抱きしめた。 熱が冷めた後、青年の姿をした漆黒が、 「君は、僕の――ですから、ね」 ねついものを含んだ声で、囁いたのを、はじめが知ることは、ない。 深い闇が、しんしんと、音もなく、はじめと高遠とを包み込んでいった。 END
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高遠くんが、何をはじめちゃんに暗示をかけたのか。なぞです。なぞのまま。ただ、明智さんを裏切っているというその事実だけが欲しかったので。
まぁ、また魚里がはじめちゃんを苛めてると、思ってくださっても、いいですxx
相変わらずのスライドSSになってしまいましたが、少しでも、楽しんでいただけるとうれしいです。だ、大丈夫でしょうか?