ごめんね 2 |
◆◆◇◆◆「あ、れっ」 金田一はじめと名乗った少年のからだが、片側に傾いでゆく。 倒れると思い、手を差し伸べようと立ち上がった高遠の目の前で、少年の姿が掻き消えるようになくなった。 倒れた椅子だけが、部屋に大きな音を響かせた。 目の前で消えた少年に、高遠遙一も、執事の長崎も、しばらく言葉を失っていた。 先に我を取り戻したのは、長崎だった。軽く咳払いをした後に、 「……お茶のおかわりをお持ちいたしましょうか」 と、高遠に訊ねた。 「たのみます」 まだ転がったままの椅子を凝視している高遠に一礼して、長崎はティー・セットを持って部屋から出て行った。 (残念ですね………) 高遠は、暖炉の前から離れ、ソファに腰を下ろした。 大きな鳶色の瞳が印象的な少年を思い返しながら、高遠の視線は、いまだ少年が倒した椅子に向かっている。 どこから入ってきたのか、屋敷の中からしか出入りできない構造になっているアトリエの池の中に少年を見つけた時、 高遠が連想したのは、以前西洋の書物で読んだことのある、ウンディーネやシレーンなどの水妖だった。 ―――男を虜にする妖たち。 つまり、一目で、あの少年に、魅せられたのだ。 (できれば、絵のモデルになってほしかったのですけど) どうやら、あの少年は、本当に妖のたぐいだったらしい。 着衣一式を残して、消えてしまった。 高遠は、ようやく椅子から視線を外して立ち上がり画帳を持ってソファに引き返した。 おかわりを持って戻ってきた長崎が目にしたのは、夢中になって画帳に筆を走らせている歳若い当主の姿だった。 ◆◆◆◆◆バスタブにつかりながら、はじめは、ぐらぐらと揺れていた。 (しんじらんね〜) 自分が着ていたのは、夢だと片づけていたあの時に着がえたものだった。 明治二十五年。 百年以上昔である。 いったいどうしたらあんな目にあうのか、わからない。 ただ、あれが、現実だったのだ―――と。それだけが、はじめにわかる全てだった。 湯を掬い、顔にかける。 (それにしても、高遠もビックリしてんだろうなぁ) あの、信じられないくらいきれいな顔が、自分が消えた瞬間、どんな表情をしていたのか。 それを考えれば、自然と笑いがこみあげてきた。しかし、はじめは、自分が笑っていることに、気づいてはいなかった。 (でも、まぁ、あんなことは、もう起きないだろうな。起きたとしたら、それって) それって、ただの偶然じゃなく、必然ってことになっちまう――とつづけようとして、思わず湯船に縋りついた。 なぜなら、バスルームが大きく揺れたのだ。 マグニチュードにすれば四くらいだろうか。バスタブの湯が波立っている。 こんな格好ではヤバイと、慌ててバスルームから飛び出したはじめは、シャツに袖を通しただけという格好で、その場に硬直した。 「っ!」 一対の珍しい色の瞳がはじめを凝視している。 「君、金田一、はじめくん」 しっとりと落ち着いた美声が、はじめの耳朶をくすぐった。 「お……おまえ」 息を吹き返し、はじめは周囲を見渡す。 そこは、記憶にある部屋だ。 暖炉も衝立も、窓も、テーブルも椅子も、記憶にあるとおり。しかし、暖炉に火は入っていないし、絨緞の色も違う。それに、窓辺のソファから立ち上がって近づいて来る相手は、 「も、しかして、たかとー?」 琥珀色に光るまなざしに見下ろされた。 「育ったなー」 高遠は青年になっている。 「君は、少しも変わっていませんね」 「ったりまえだろ」 高遠にとってあれから何年が過ぎたのかは知らないが、はじめにとってはたった数時間ほど前の出来事に過ぎない。 「いい香がしますね。シャボンですか」 顎に高遠の手指があてられ、顔が持ち上げられた。 目と鼻の先に、高遠の整った顔がある。 「なにすんだよ」 咄嗟に手を払ったはじめに、 「すみません。でも、君の格好も、かなり不躾ですよ」 「オレの格好?」 何気なく自分を見下ろして、 「うわっ」 真っ赤になった。 慌ててボタンをあわせるはじめだった。 「見、見てんじゃねぇよ」 こちらを眺めている高遠に毒づきながら、どうにかこうにか着換えを終えたはじめは、手招かれるままに、ソファに腰を下ろした。 逆らえないような威厳が、高遠にはあったのだ。 「ひとがましい妖ですね、君は」 「あやかし〜? って、オレが?」 「違うのですか?」 「ふつーの人間だよ」 「そう、それはよかった」 「?」 「普通の人間なら、八年前のように突然消えたりしませんでしょう」 「八年?!」 「はい。君が突然私のアトリエに現われて、掻き消されるように消えてから、八年が過ぎました」 「それは、また」 「長い八年でしたよ」 「そーだろーな」 「それでも、私は諦めてはいませんでしたよ」 「なにを?」 「君のことを」 「は?」 「突然現れたのだから、いつかまた、突然現れるかもしれない。そうして、それは、今日叶いました」 「よかったな」 「ええ」 にっこりと満面の笑みをたたえて、高遠がはじめの瞳を覗き込む。 腹立つくらいきれいなツラしてんだよな――と、はじめはぼんやりと高遠を見返していた。 と、突然手を握られた。 「なに?」 自分の手を握っている高遠の手と顔とを見比べていると、高遠の顔が近づいて来る。 ほとんど反射的に避けようとしたはじめの後頭部に、高遠の手が添えられた。そうして、 「逃げないで」 形のよいくちびるが、背筋がぞわりと逆毛立つような、なんともわからない響きをふくめたささやきをこぼす。 「愛しています」 そのひとことが、はじめの意識にとどめをさした。 真っ白になったはじめの、かすかに開かれたくちびるに、高遠の過ぎる赤を宿したくちびるが押し当てられたのだ。 八年前の不思議な出来事の後、高遠は情熱の迸るままに、記憶に残るはじめの面影を画帳に留めつづけた。 そうして、納得のできる一枚をもとに、画布に下絵を描き、油絵の具を乗せた。 ―――それは、偶然、名のある画家の目にとまり、彼は、画壇にデビューしたのだ。 伯爵家の若き当主が画家としてデビューしたことは、当時の社交界や画壇にセンセーショナルを巻き起こした。 爾来八年、高遠は画家として伯爵家の当主として、多忙な日々を送っていたのだ。 「なんで帰れねーんだ」 気怠いからだをベッドの上に起こして、はじめは、呟いた。 あれから、三日が過ぎた。 はぁ………。 深い溜息が、はじめの口からこぼれ落ちた。 もうじき長崎とかいう執事が朝食を運んでくるだろう。 毎日毎日、絵のモデルをさせられて、はじめは疲れていた。 モデルなんて簡単と思っていたのは最初の数分だけ。長時間同じポーズをとりつづけることは、かなり重労働だった。もともと運動とは相性のよくないはじめにとって、普段使わない筋肉を酷使するモデルは、拷問とさして変わらない。 それに………。 高遠がはじめの世話を長崎に命じたこともあり、至れり尽せりの贅沢な毎日ではあるが、なんというか、ある種の危機感があったりする。 あの日の、キスと告白だ。 「なんでオレ? あんだけのツラにこんだけの財産なんだから、なにもオレに拘らんでもいいと思うんだが………高遠にしても、明智さんにしても、歪んどる」 明智さんにもそういえば告白されてたなと、はじめは、肩を落とした。 その時、 「明智?」 聞きなれてしまった美声が降って来た。 顔を上げたはじめは、ドアのところにトレイを持ったまま佇んでいる高遠を見つけて、どんな顔をすればいいのかわからなくなった。 白い顔はこわばっているようだった。 どうやら、独り語とを聞かれたらしい。 脱力しきって、口をきく気力もなくなったはじめに、 「明智という男も、君のことを好きだと?」 しかし、その台詞に、はじめは、弾かれた。 「なんで男って!」 「わかりますよ」 「なんでよ」 「君の魅力は、女性にはちょっと判りにくいでしょうからね」 ようするに、自分は女の子にもてないと、この御仁は婉曲ながらそう断言しているのだ。 あんまりといえばあんまりな内容に、 「なんだよそれっ!」 はじめはそれだけを言うのが精一杯だった。 しかし、食ってかかるはじめの隣に腰を下ろした高遠は、 「君は、そのままでいいんです」 そうささやいた。幾分か擦れ気味で艶めいているような声の響きに、言葉の意味を理解しようと首を傾げたはじめだったが、 「君を女性や、ましてや見も知らぬ他人に渡したくありませんからね」 「そーゆーっ」 そうして、抱きすくめられて、キスを奪われたのだ。 (変わってやる!) (変わって、そしてもててやる!) 思わずそう決意するほどに、高遠のキスは濃厚だった。 毎回こんな風にキスを奪われている。 ファーストキスを奪われてから何度目になるのか、数えることすら放棄してしまった。 救いは、キスから先には進まないことだった。 しかし、それも、いつまでのことか。 考えると、こんなところでじっとしていられない気分になってくる。 かといって、どうすれば、もとの時代に戻れるのか。運を天に任せるしかない己が身を嘆きたくなるはじめなのだった。 「おまえが?」 突然の、声。 振り返ったはじめは、どこか高遠に似た面差しの青年を見出した。 高遠のアトリエで、当主としての用事を済ませた高遠が来るのを待っていたのだ。 「あんたは?」 ここに厄介になって五日目になるが、はじめて見る顔だった。 高遠に似ていると感じたのは、最初の瞬間だけで、高遠よりも顔の造りは大雑把に見える。どこか、愛嬌があるような、ある種のとっつきやすさがあるのだが、いかんせん、態度が最悪だった。 「おまえが、従兄上(あにうえ)の稚児?」 (稚児ってなんだ) 稚児というのが何なのか、あいにく、その辺の知識は、はじめにはない。ただ、蔑むような口調が、勘に触ってならなかった。 大股ではじめに近づいた青年は、あきらかに見下した態度ではじめの顎に手を当て上向かせた。 デ・ジャ・ヴュ。しかし、高遠は、もっとやわらかな仕草だった。力まかせに、ひとのことを考えずに上向かせたりはしなかった。 「従兄上も物好きな」 くちびるの端を歪め、青年が吐き捨てる。 「あの絵のモデルだと言うから、期待したんだが」 それが、どの絵を指しているのか、わかった。 それは、高遠が画壇にデビューするきっかけになったという、はじめを描いた絵のことだろう。 『君の特徴をよく捉えているでしょう』 そう言って見せてくれたのは、深い、ほとんど黒に近い緑の中に浮かび上がった、琥珀色の光の中の少年の図だった。 線の細い、頼りなげな風情の、自分に似た少年。 思わず背筋が粟立った。 『思いっきりドリームはいってるって』 『そんなことありませんよ。八年前の君は、こんな風だったのですから』 『お、オレはこんなじゃねー』 高遠には八年前かもしれないが、自分にはほんの数日前のことに過ぎないのだ。 痒くなりそうで、喚かずにはいられなかった。 「従兄上の目も、たいしたものじゃないな」 青年のことばに、回想から現実に立ち戻り、はじめはまだ顎を掴んだままの手を叩き、振り解いた。 「いつまでひとの顎掴んでんだよ」 「無礼な」 はじめが叩いた手を押さえ、短く叫ぶ。しかし、 「なにがだよ。あんたのほうがよっぽど無礼じゃんか」 「……小僧。華族に向かってその口の聞き方はなんだ」 「あんたって、同じ華族っていう身分にしたって、高遠とは全然違うよな。高遠はあんたみたいなこと言わないぞ。ちっとも偉ぶらないしな」 呟いたはじめに、青年の顔が怒りに染まる。高遠と比べられること、それが、どうやら、青年の逆鱗であったらしい。 「なにをしているんです」 高遠の鋭い制止の声。しかし、それは少しばかり遅きに過ぎた。振りかぶられた手は、そのままはじめの頬で弾けたのだ。 「金田一くん」 「あ、ああ。へーき」 じんじんと痛む頬を押さえながら、はじめは立ちあがろうとして、できなかった。 叩かれた瞬間、バランスを崩して、はじめは数個の植木鉢に足を取られ後ろざまに倒れたらしい。そのまま気を失ってしまったのか。はじめの頬をしたたかに叩いたあの男は、どこにもいなかった。 (なさけねーの) 結果、なにやら木の植わっていた鉢は、壊れてしまった。 「ごめん」 後頭部に手をやると熱をもってかすかに腫れた箇所がある。 「いいんです。植え替えればすむことですし。それより、君は、怪我をしませんでしたか」 「これくらい、大丈夫だ」 「それは、よかった」 心配そうだった高遠の表情が、花がほころびるように安堵にゆるむ。思わずそれに見惚れてしまって、はじめは、 「あんにゃろ。思いっきり叩きやがって」 と、毒づかずにはいられなかった。 「よっ」と、高遠に手を引っ張られ、立ち上がったはじめの頬に、高遠の掌が触れた。 「ああ、みごとに赤くなってますよ。これは冷やしたほうがいいですね」 ひんやりと冷たい掌の感触が、はじめの頬の痛みをやわらげる。 (気持ちいいかも) 知らず、はじめは瞳を閉じていた。 どれぐらいそうしていたのか、ふと視線を感じてはじめが瞼をもたげると、真剣そうな琥珀のまなざしとぶつかった。 はじめの鳶色の瞳が、大きく瞠らかれる。 怖いくらいに、真摯な、高遠の瞳。その奥に、ねついなにかがゆるゆると対流しているのもまた、はじめは感じ取ったのだ。 どくんとひとつ、はじめの心臓が波打つ。 「そんな無防備な態度をとられると、勘違いしてしまいますよ」 かすれた声が、はじめの耳朶をかすめる。 「え……と」 「いいですね」 「その………」 吐息がかすめるほどの間近に、高遠の琥珀の瞳が迫っている。 どうしてか、視線を逸らすことも、ましてや『否』と言うことも、はじめはできなかった。 思いつきもしなかったのだ。 まるで、琥珀のまなざしに呪縛されてしまったかのようだった。 そうして―――― (な、ながされてしまった………) どんよりとした溜息が、はじめの口からこぼれて落ちた。 高遠は、しあわせそうな顔をして、自分を掻き抱いて眠っている。ご丁寧にも腕枕である。 「………」 高遠の整った顔を見ていると、怒りともなんともつかない感情が芽生え、思わず手を振りかぶった。 「っ!」 とたん、思いも寄らぬところに痛みを感じ、眠りに陥る前の出来事を思い出してしまったはじめである。 ねちっこいとでも評すのが相応しいだろう高遠の愛撫と、それによって育てられた未踏の快感。他人の手によって何度も追い上げられては、落とされた。なにがどうなったのかわからないままに、高遠を受け入れさせられた、あの、灼熱を伴った激痛。それに、事の後で、風呂にふたりしてはいって、あまつさえ手当てまでされてしまったのだ。その後も、人形のように高遠手ずから寝巻きに着替えさせられて、抱き上げられてベッドに運ばれた。 まざまざと思い出してしまった一連の経験に、頭の中が真っ白になる。 こんなに痛いこと、二度としたくないと思う。 しかし、痛みは痛みとして、嫌悪を感じていない自分というのがまた、ショックで、 「がーっ」 はじめは、両手で頭を引っ掻いた。途端、自己嫌悪の原因の一端をになっている箇所が、再び引き攣れて痛んだ。 「………」 薬がきれたのか、傷がじくじくと疼く。せめてアスピリンでも飲みたかったが、動くことのほうが、辛そうで、動きたくない。しかし、痛みも気になる。泥沼のような堂々巡りに自棄を起こしたはじめは、思い切って起き上がった。と、 「どうしました? もう少しやすんでらっしゃい」 寝起きとはとうてい思えない、涼やかな声がかかり、同時にたおやかそうでいながらしっかりと筋肉のついている腕が、腰骨に回された。 「さ、さわんなっ」 動けば痛いから、動きたくはない。はっきり言って起き上がるだけでも相当痛かったのだ。 上半身をやはり起こした高遠が、 「つれないことを。私としては、もう少し余韻を楽しんでほしいのですけどね」 と、琥珀色の瞳で顔を覗き込んでくる。 お返しとばかりに睨(ね)めつけ、 「ばかっ! こんな痛いのに、なにが余韻だ」 大声を出すと痛かったので、結局小声で言わざるをえない。 「ああ。少し無茶をさせてしまいましたからね」 にっこりと微笑む高遠に、 「わかってんなら、変なこと言うなよっ」 息があがる。 「薬、塗ります?」 まるでテレビのCMのシーンのように、軟膏の入ったビンを掌に乗せた高遠が、訊ねてくる。 クラリ……と、眩暈がしたが、 「お、おう」 ここで怯んでは痛いばかりだと、手を差し出した。 「君はなにもしなくていいんですよ」 「?」 「痛むのでしょう?」 コクコクと頷くと、 「私が塗ってあげましょう」 さぁ、横になって―――と、肩に手を当てられた。 「いやっ、いい。遠慮するから。自分、自分でする」 「遠慮することはありません。私は君のからだの隅々まで知っているのですから。君が知らないところまで、ね」 「………ひとことよけーだーっ」 叫んだと同時に、はじめは、あまりの痛みに、ベッドに懐くはめになったのだ。 to be continued
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