白 梅


 この山に咲く白い梅の木々は、数百年の寿命を誇り、村人から信仰に近い思いを捧げられていた。そうして、村人は白梅を、山の名で呼んだ。
 高遠という名を与えられた白梅は、長いまどろみの後に、とろりと目覚め、また、すぐに、ゆるゆるとした眠りに戻るのが常だった。
 まだ、咲けよ――と告げる声は聞こえない。
 木々の中で一番初めに花咲き初める花である。
 花開くわずかの期間だけ、木は、完全に目覚めるのが常だった。
 しかし、あの夜は、常とは何かが違っていた。
 深夜、夜の帳に穿たれたかぎ裂きのような細い月が、しんしんとした光を投げかけている山に、重い、ひとの足音があった。やがて、それは、木の根元まで来て立ち止まった。
 どさりと、かなり重いだろうものが下ろされる気配があり、白梅は、目覚めた。
 なにものかは、根元を掘り返している。
 ひとの男のようだった。
 根を傷つけられはしないだろうか。
 白梅の危惧などもとより知りはしないと、男は、深く、根元を掘りつづける。
 やがて、大きく息を吐く音がしたと思えば、どさりと、再び何か重量のあるものが、穴の底に落とされる音が響き、木の根に当たった。
「う……」
と、声が聞こえたような気がしたのは、気のせいだったろうか。
 なにものかが、今度は、穴の中に土を戻しはじめた。
「うっ」
 やはり、穴に落とされたものは、生きている。
 生きながら埋められようとしているのだ。
 ざわり――と、木の髭根が、蠢いた。
 どれほどのときが過ぎたろう、やがて、男は、木の寝方を執拗なほど踏みしめて固めた。そうして、後も見ずに、まろぶように山を降りていったのである。
 後には、何事もなかったかのように、ただ静かな梅林が、月の光に照らされていた。

 髭根から伝わる、生きている気配。
 どれくらい、それを感じていただろう。生きている気配は、やがて、ぱたりと、途絶えた。
 そうして、土の中の、小さな生き物たちに、それは、少しずつ、少しずつ、分解され、じわりとにじむしたたりが、木の根を伝い、養分となった。
 とろりとした、甘いしたたりを吸い上げながら、そこに残る、この、生きものであったものの感情を、感じた。
 そうして、木は、生まれて初めて、絶望を知った。悲しみを、憐れみを、憎しみを知ったのだ。
 とろりとろりと地中に染みこんでゆくしたたりを吸い上げながら、怨嗟をも、木は、飲み込んでいったのである。


 戦雲が赤黒く空にわだかまる。
 どんよりと重たげな空である。
 焼け焦げた、景色。
 累々と横たわる、戦人(いくさびと)の、馬の、屍。
 流れる血。
 野犬が、鴉が、死肉をあさっている。死人から金目の物を奪う、やはり傷つきさらばえた人の影。
 喘鳴が、絶え絶えに、怨嗟の尾を引く。


 大きな戦だった。
 破れ戸が哀れげな侘び家が点在する田中の田舎道を、大量の血が流された一日の終焉にふさわしい、赤銅の夕日が照らしている。禍々しいばかりの光景の中、とぼとぼと、戦装束の男たちが落ちてゆく。血にまみれ、からだに刺さった矢さえそのままに、足を引きずるようにして歩くのは、今日の戦に破れた側の武士なのだろう。
 小さな明り取りの窓の隙間から、幾対もの怯えた瞳が、彼らが村を通り抜けてゆくのを凝視していた。落ち武者を匿おうものなら、勝利者側の理屈で累は村にまで及ぶ。勝者側の武士に村が蹂躙されるのだけは、なんとしても、避けなければ。――たとえ柄杓一杯の水であれ、求めた武者が戸を叩く音などは聞こえないと、村人もまた必死の覚悟で心を鬼にせざるを得なかった。


「はぁ……」
 土手に腰を下ろし、その武者は、溜息をついた。
 戦のさなかに疾うに失った兜の下の髪がざんばらと乱れ、血や汗または煤や土に汚れた頬にかかっている。わずかばかりの倦怠に彩られたその顔からは、なにがしかの品がかいま見える。まだ年若い少年である。
 煤や血、泥に汚れているが、その身にまとう武具一式は、一介の雑兵ずれがまとえるような、その辺で手に入れるようなできではない。山を登る際に使った、その刃こぼれした刀すら、見るものがいれば、名のある名刀と見るだろう。
 夕日の落ちた雑木林から、残照に照らされて山裾の村が見える。
 まだ春は遠い。
 村人たちは肩を寄せてこの厳しい日々を過ごしているのだろうが。
(酒でもあれば……)
 あまり得手はしないが、末期(まつご)の酒としゃれこむこともできるだろう。
 腹の傷の焼け付くようだった痛みも、既に、感じられない。
 背もたれた木に深く凭れなおし、若武者は、軽く目を閉じた。
 その時、深く抉られた脇腹から、再び流れ出した血が、地面に滴った。


 気がつくと、そこには、白い手が、顔が、あった。
 ぼんやりとかすんだ意識の中、ほっと、吐息をつく。
 死ななかったのか――と。
 馥郁としたかおりに思う。
 それとも、ここは、浄土なのか―――と。
 芳しいかおりにつつまれて、うつうつと、水面に揺られているかのようだった。
「気がつきましたか」
 額に当てられて冷たさに、目覚めた。
 同時に、玲瓏とした声が、降ってきた。
 ほのかに立ち込めているのは、梅のかおりだった。
「オレは……」
 上半身を起こし、脇腹に走った激痛に、ことばをなくした。
(無様だよな)
 そう思っていると、
「助かってよかったですね」
 耳ざわりのよい声が、再び耳に届いた。
 惹かれるように、顔を向けると、そこには、白い顔。まるで、ひとならざるもののような、白皙の美貌があった。
 形良い柳眉、その下の、心持ち目尻の下がった色の淡い瞳。すっと通った鼻筋に、口角の持ち上がった、薄めの朱唇。
 なぜか、背中が逆毛立った。
「おまえは……女か、それとも」
 そう言うと、
「どちらでも」
 お好きなように――と、吐息をこぼした。
 含み玉でも含んでいるのか、梅の花のような涼やかな匂いがただよった。
 見惚れる先で、ほのかに青みがかった白い着物をまとった細身の姿が立ち上がる。
「水を持ってきましょう」
 まるで踊るかのように優雅な挙措で立ち上がった、すんなりとした細腰の後姿を見送った。
 やはり、男にも女にも見える。
 いや、どちらにも見えないと言った方がより正確だろうか。
「なんとも不思議な………」
 彼は、今度は脇腹の傷を刺激しないように、ゆっくりと布団に身を横たえなおした。
 

 田舎には不似合いな、趣味人の別宅のような趣のある林の中の館には、高遠と自分だけの気配しかない。
 しかし、食事の膳や、古風ではあるが明らかについ先ほど仕立てられたばかりと見える新しい着物など、いつの間にか整えられている。
 姿の見えない家人がいるようなのだ。
 もっとも、不思議とは思えど、気味が悪いとは思わない。
 敗軍の将とはいえ、彼――はじめは、あまり物事にこだわらない少年だった。


 不思議なほどはやく、傷は治った。
 死を覚悟したほどの傷だったというのに――である。
 今は、脇腹に、うっすらと色づいたあとがあるだけだ。
「はじめ」
 呼び捨てにされることにも、慣れた。
 おそらくは、高遠と名乗ったこのものは、ひとではありえないのだろう。それは、身近に過ごすうちに、感じたことだった。
(う〜ん、むじなかなぁ、それとも、きつね? たぬきって感じじゃないよな)
 ひとではなさそうだが、だからといってあやかしの類にしては、ひとがましい気がしないでもないが。
(まぁ、オレだって死にぞこなったことだし)
 自分も似たようなものだろう。いっそすっぱりと、切って捨てる。
「なんだ、高遠」
「湯を沸かしたんですけど、風呂、使いますか?」
 高遠がそう訊ねてきた。
「ありがたい」
 傷に障らないていどには、毎日からだを拭いてくれてはいたが、さすがに、髪を洗いたかったのだ。
「背中流しましょう」
 肩を貸してくれながら、花のかおりのする吐息を漏らした。

「ちょ、ちょっと、たかとう」
   肩にかけられた白い手に引っ張られた。
 抵抗しても、すっかり体力が落ちているせいか、あっけなく高遠に抱き寄せられた。
 首筋に齧りつくようにしてくちびるを寄せられ、腰を抱き寄せられた。
「うわっ!」
 衣の下に手をしのばされ、はじめの声が、変な風に、爆ぜる。
「すみません」
 高遠の謝罪に、
「ばっか……やろ」
 はじめは、しがみついた。
 なにかの花が花開くかのような、好いかおりが、浴室に満ちた。

「どうして、出てゆかないんです?」
「追い出すってか?」
 共寝の夜着の中で、ふと高遠がつぶやいたことばに、はじめはけだるいからだを起こし、己の首の下に腕を入れた。
「あんなことをしたんですけど」
 示唆されたことに、はじめが真っ赤になった。しかし、寝室は闇に閉ざされている。幸いなことに、高遠には気づかれない。
「いや、まぁ、最初はびっくりしたけどさ。あんたが、あんなことするってのにな。オレだって、武士だから? そういう関係を知らないってわけじゃないし」
「誰か、私以外の相手を?」
 きつい口調に、これ以上されてはたまらないと、
「ち、ちがうって! 武士の嗜みってやつがあるって、知ってるってことだ。オレは、ちょっと、そういうの、考えられなかったから……誘われたことあっけど、断ったし」
 慌てた。
 すると、そうですか、と、緊張を解いた声で、戦が恋しくはないのですか―――と、つづけられ、はじめは目を見開いた。
「忘れてたな」
 漆のような闇の中、高遠の手を探る。
「それに、オレってば元来、ものぐさだからな」
 こうしてあんたといるほうがいい――――ささやく声に、高遠ははじめを引き寄せた。

 丸い月が、木々のこずえを照らし出す。
 まだ、梅の花が芽吹く気配はない。
 しんとつめたい空気を、笛の音が高く低く震わせる。
「いい腕だよな」
 高遠の膝を枕に、目を閉じていたはじめが、ふと目を開いた。
「不思議な男だよな。あんたって」
 ついと伸ばしたはじめの手に、笛の音が途切れた。
「あなたは、可愛い――ですよね」
 そう言ってクスクスと笑う高遠に、はじめは、真っ赤になった。

 ゆったりと流れる穏やかな日々が破れたのは、館の周囲の木々に、小さな花芽の芽吹いたころだった。

 昨日の雨で、かすかに温かくなったのか。
 木の下に立つと、かすかに花の香がただよう。
 庭に出たはじめの、和らいでいたまなざしが、険しくなった。
 ひそやかに足音を忍ばせて、数歩。
 ひときわ立派な木に回り込んだ。
「いてぇっ! このやろう、はなせっ」
 離しやがれと暴れる八つくらいだろう少年の、襟首を掴んで引きずり出す。
「あんただれだ」
 訊いたところで、わかるはずもなかったが。
「はじめ。どうしたんです?」
 庭に現われた高遠の姿に、少年の反抗が、ぴたりとやんだ。
 見れば、高遠に見惚れている。
 顔を赤らめ、口を開いて、ぼけらとしているさまに、はじめが、笑う。
「その少年は?」
  「いや、そこの影からこっちを見てたから」
「何の用です?」
 間近に高遠の顔を見たせいだろう、いっそうのこと顔を赤らめて、口ごもる。
「悪いようにはしませんけど」
 ほんのりと、やわらかな笑みをたたえると、
「そ、そのっ、」
「ん?」
「薪を……」
「ああ。薪を取りに来たわけですか。……でも、昨日の雨で、濡れているでしょう。少しでも乾いてるのが欲しくて、探して、道に迷った? そうですか。大変ですね」
 せわしなく頷く少年に、乾いた薪を分けてあげましょう―――そう言って、高遠が白い手で差し招く。少年が高遠についてゆくのを見送りながら、はじめは、漠然とした予感に、からだを震わせた。

 日一日と、梅のつぼみがふくらんでゆく。
 もうあと少しで花開くだろうという、ある日、はじめの予感が、現実となった。

 何の前触れもなく突然、館の静寂は、破られたのだ。

 大挙してやってきたのは、 槍や刀を持った、十人あまりの雑兵たちだった。
「金田一はじめ」
 がたがたと震えている男たちの後ろから、三人、立派な身なりの武士が現われた。
 中でもひときわ立派な体躯の男が、
「よもやおまえが、このようなところに隠れ住んでおったとはな」
 しゃらりと音をたてて、刀を抜いた。
「命を貰い受けたい」
「しつこいなぁ」
 ふとい笑みを口の端に刻み、はじめがつぶやいた。
「ぬしが生きておると、我が主が安心しなさらん」
「まったく。小心者の君主を持つと苦労するよな」
「ぎゃっ」
 笑みを深くし、手近の雑兵から槍を奪い取る。
「はじめっ」
「来るなっ。逃げろ!」
 騒ぎを聞きつけて現われた高遠を制止し、隙を見逃さず襲い掛かった武士を槍で貫く。息絶えた男から、刀を奪い、構えた。
「はなせっ」
 高遠の悲鳴に、はじめに隙が生まれる。
「はじめっ」
 はじめの腕から流れる血に、高遠が駆け寄ろうとするが、雑兵に縛められている身では、ままならない。
「はなせっ」
 下卑た男たちの手が、息がかかるのに、背筋を震わせる。
 赤が、はじめの赤い血が、高遠の、脳裏に、何事かをよみがえらさせようとしていた。
「だめだっ」
 思い出したくない―――。
 思い出すな―――。
 首を振りながら、それでも、はじめから目を離すことができなかった。
「ちっ。なまくらな」
 武士の太刀を受け流し、砕けた刀に、舌打ちをする。
   役に立たない刀を捨て、振り下ろされる刃を、両手で、受けた。
 しかし、それは、いまひとたりの敵に背中を向けることに他ならなかった。
「はじめっ」
 ひときわ鋭い高遠の絶叫に、はじめの瞳が細められた。

 その瞬間、自分に向けられた、やわらかなまなざし。
 そうして息絶えたと見えた、はじめに、高遠の、閉ざされていた記憶が、堰を切ってあふれ出した。

「うわっ」
 突然の突風に、雑兵たちが、はじめを討ち取った武士が、悲鳴を上げて、倒れふす。
 しかし、高遠と、彼の目指すはじめの周囲にだけ、風は吹いていなかった。
「はじめ」
 幾度も睦みあった男の頭を抱き上げ、高遠がささやく。
「た…かと……」
 今にも絶えゆきそうな声が、高遠の耳に届いた。
「愛してる」
 高遠のことばに、はじめのまなざしが大きく見開かれた。
「知っている
 口角に最後の笑みをたたえた。
「……愛してる、愛してるんだっ。だから………」
 しかし、どんなにかきくどいても、こときれたはじめは目を開けない。

 高遠の嘆きに同調したかのように、風が、いっそうのこと、強くなる。
 はじめを襲った男たちは、風に、吹き飛ばされないようにと、必死だった。

 愛したものに裏切られ、遂には殺された自分を哀れんでくれた、白い梅が、ざわざわと、身をよじらせる。
 ただその根方に埋められたという縁だけで、憐れみ、命を与えてくれた。その、慈悲深い、樹木の精が、身をよじらせて、嘆いている。

 高遠は、はじめの骸を抱いたままで、立ち上がった。
 そうして、中でもひときわ立派な木の根方に、腰を下ろして背もたれた。
 秀でた額を隠すはじめの褐色がかった髪を撫でながら、高遠は、瞳を閉じた。
 ―――いまひとたびの生を?
 どこからともなく、やわらかな声が聞こえてくる。それが、白梅の精だと、高遠は、感じた。
 静かに首を振る。
「もう、充分です」
 ―――ほんとうに?
「ええ。いままで、ありがとう」
 そう言うと、高遠は、はじめを抱きしめたまま、瞳を閉じた。

 ぴたりと、風がやんだ。
 突然のことに、雑兵たちが、ざわめく。
 武士が、慌てて立ち上がり、はじめの首級を――と、視線を巡らせた。
 ひときわ立派な梅の木の根元に、ふたりの男の姿があった。
 駆け寄ろうとしたふたりは、しかし、途中から、どうしても前に進むことができなかった。
 なぜだと、その不思議に目を剥くふたりの前で、はじめと高遠の姿が少しずつ消えてゆく。まるで、その木が、ふたりを包み込むかのように、枝を伸ばし、幹を広げる。
 ひらり――と、白いはなびらが、散る。
 狂ったように花開いた、白い小さな花たちが、涙をこぼすように、そのはなびらを散らせてゆく。
 そうして、ふたりの姿は、遂には、彼らの目の前から消えたのだ。

 男たちは、雑兵たちまでも、顔を見交わした。
 いずれの顔も、負けず劣らず、青ざめていた。
 じわりと、後退さる。
 パキンと、誰かの足が、木の枝を踏み折った。それに弾かれるようにして、男たちが、この場に背中を向けた。
 まろぶようにして山から降りてきた男たちに、村人たちは、山での不思議を知り、件(くだん)の白梅の近くに、小さな祠を建てたのだ。


 歳月は過ぎ、いつしか、高遠の梅は、恋人たちの守り神として、有名になった。


「はじめくん、はやく」
「まったく、相変わらずタフなんだよな」
「あなたは相変わらず運動不足ですよね」
「わるかったなー。あんたみたいな化け物と一緒にすんなよな」
 今日も今日とて、どこかでこの木のことを知った恋人が、自分たちの幸せを願って、この木を目差すのだった。

おしまい

あとがき

 相変わらず極道な、スライドSSです。
 微妙っちゃ微妙なんですけど、最近高金書いてないなぁとおもって。
 少しでも楽しんでくださるといいのですけど。
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