待ちびと来たりて



(遅いですね………)
 腕時計を見ると、既に約束の時間を三十分も過ぎていた。
 高遠のいるカフェは混んでいる。それもそのはず、今日は休日、今は、昼近い時刻である。ざわめきが小波のように響いてくるテラス席で、ベーグルサンドとアイスティを前に、高遠は溜息をついた。
 小説のアイデアが湧くたびに、メモを取る。だから、そんなに暇をもてあましているわけではないのだが、やはり待ち合わせている相手がなかなか現われないのでは、気もそぞろになろうというものだ。
 頬杖をついて、ストローでアイスキューブをつついていた高遠の、神経質そうな眉間が、
(そういえば………)
 ふと思い出した事柄のせいで、ほんのわずかばかり強張りつく。
 待ち合わせに割ける時間で、相手に対する愛情を計ることができるという、ある種の心理学のようなものだった。
(他愛のないことですけど……………)
 憮然とストローに口をつける。
(なにやら、妙に、腹が立ちますよね)
 愛情を計るなどという連想をしてしまった自分自身にか、そういう連想を自分にさせてしまう相手になのか、見た目そうとはわからぬほどではあるものの、高遠は、不機嫌になっていた。


「お、いるな」
 目当ての人物を見つけ、猪川の常にはシャープなフェイスラインが弛んだ。
 背筋のスッと伸びた長身が、店内を進み、テラス席へと向かう。
 単なるキザか、剣呑な職種の人間なのか、悪趣味一歩手前の麻の上下姿の猪川の足が、ふと、止まった。
 高遠は、猪川には気づいていない。だいたいが、店内に背中を向けているのだ。それでも、一目見るなりそうと気づく猪川である。
(愛だよなぁ)
 火をつけていないタバコを咥えたままで揺らめかせながら、内心で嘯く。
 しかし、軽そうな独白とは反対に、瞳は少しも笑ってはいない。運悪く通りがかったウェイターが思わずルートを変えるくらいには、視線の鋭さが彼の感情を現していた。
 猪川の視線の先で、彼の見知らぬ女性と高遠とが話しをしている。もちろん彼が見ることができるのは高遠の背中だけなのだが、高遠が相手を嫌っていないことが猪川には感じられたのだ。
 頬を染めて、高遠に笑いかけているのは、短い髪、ふっくらとした顔立ちの、可愛らしい印象の、女性である。
「くっ」
 タバコをむしりとり、握りつぶす。ぱらぱらと落ちるタバコの残骸を、手近のテーブルの灰皿に捨てた。
 内臓がよじれるほどの不快感が、あの笑っている女性に対する嫉妬なのだと、猪川にはわかっていた。


 目の前の女性の顔が、ふっと強張った。
「さとみさん?」
 首を傾げた高遠の肩に、
「よっ! 待たせたな」
 力任せに降ってきた骨ばった手の持ち主を振り返った高遠の表情が、いぶかしげに顰められた。
 見下ろしてくる猪川のまなざしのきつさに、厭な予感を覚えた。
「一時間も遅れるなんて、まったく。携帯くらいいれてくださいね」
 不安を打ち消したくて、口調がつっけんどんになる。
「携帯が苦手なのは、おまえのほうだろう」
 降ってくる声は、深い響きを宿して耳に心地がいいほどではあるが、いかんせん、猪川の視線がすべてを裏切っている。
「お気遣いどうも」
 にやりと、頬の辺りによからぬ笑いを貼りつけて、
「それで、そちらは?」
 猪川が、水を向けた。
 正面を向いた高遠が勧めるよりも早く、隣の椅子に座った猪川が、タバコを口に咥える。
「残間さとみさん。僕の、大学時代の後輩です」
「はじめまして、残間さん。猪川といいます」
 猪川がにっこりと笑って、はじめて、女性の表情が笑顔になった。
 こんにちは――と、挨拶する彼女に、
「こいつの、恋人です」
と、手を差し出した。
「なっ」
 横で絶句している高遠の表情に、にんまりと溜飲を下げながら、よろしく――と、彼女の手を握って軽く振る猪川だった。


「なんてことを! あの店、もう行けないじゃないですか」
 気に入っていたのにと食ってかかる高遠に、ふふんと鼻で笑いながら、
「浮気なんぞするからだ」
と、腕を掴んで、ひねり上げる。
 痛みに引き攣る高遠のくちびるに、猪川が、噛みつくようなくちづけを落とす。
(浮気ってなんです、浮気って)
 言いたいことは山のようにあるものの、封じられてしまっては、どうにもならない。せめてもの意趣返しに、口内を這い回る舌を、噛む。
 不快な感触に後頭部が逆毛立つが、腹が立っているのだ。
 ひとを待たせた挙げ句、久しぶりに会った後輩との談笑を邪魔された。しかも、一方的なカミングアウト―猪川のよく通る声―のおまけつきである。その上、今日の予定をすべて取りやめて、いきなり猪川の家の寝室に連れ込まれたのだ。これで腹が立たない人間など、いないにちがいない。
「チッ」
 小さな舌打ちが聞こえたとほぼ同時に、高遠は、ベッドに放り投げられていた。
 揺れるベッドと、全身を打った衝撃に、視界が眩む。
 衣擦れの音が耳を打ち、
「ちょ、なにしてるんです。猪川っ! やめなさい!」
 気がつけば、両手を、それまで猪川の首に下がっていたネクタイでベッドヘッドに括りつけられていた。
 あまりといえば、あまりなしうちに、高遠の全身が、怒りに震える。
 しかしそれも、のしかかってきた猪川の表情を見るまでだった。
「っ」
 情けなく悲鳴をあげそうになり、くちびるを噛みしめる。
 能面のような無表情の中、常には意志の強さを宿している濃い色の瞳が、炯々と底光りしている。舐めるような、焼き尽くされそうな、きついほどの視線に、全身に粟が立つ。かすかに猪川が笑った気配に、自分が彼を恐怖したことを知ったのだと、悔しさに顔を背けた。
 頤に猪川の手を感じ、仰向けられまいと力をこめる。
 しかし、
「………………」
 耳元で囁かれたことばに、高遠の意地が、挫ける。
 猪川に向けた高遠の顔からは、血の気が失せていた。
「いいな」
 念を押す猪川に、高遠はようやくのことでひとつ頷いた。
 それをきっかけに、獰猛なまなざしが、猛々しい情欲が、高遠を、巻き込み、喰らい、飲み込んでいった。



おわり

up 040907

あとがき
 う〜ん。
 コメディで行こうと思ったのに、終わらせてみれば、何故か、シリアスかもしれない。
 締めのイノッチの台詞は、お好きにご想像くださいね。下手に書くと、変になりそうだったので、わざとです。
 少しでも楽しんでいただけると嬉しいです。

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