ただ、佇んでいた。
住むものを失った、その部屋の中に。
がらんとした狭い部屋の中には、シングルのパイプベッドと、小さな机がひとつ、そして、今は何も入ってはいない、作り付けの本棚があるだけ。
開け放した窓からは、二月の冷たい風が、吹き込んでいた。
いつから掛けっぱなしになっているのかわからない、色褪せたカーテンが、風に煽られ、大きく弧を描きながら揺れている。
無機質な白い壁には、いくつもの押しピンの穴と、周りの壁よりも、その部分だけが白く四角く、浮き立つように残っていて。けれど、そこに何があったのか、今では推し量ることすら、出来ない。
まるで、初めから何も無かったかのように、彼の気配は、綺麗に消えて無くなり、虚無感だけが、その空間を、支配している。
高遠がベッドに腰掛けると、スプリングがギシギシと、まるで、拒絶するかのような、機械的な悲鳴を上げた。
こんな音がしたんだ、と、今さらながらに、気付く。
何度と無く、ここで彼に触れていたのに、今まで、気付かなかった。
逆説的に考えれば、それだけ、彼に夢中だった、と言うことになるのだろうか。
高遠の口元に、自嘲するような笑みが、浮かんだ。
結局、自分は、本当の意味で、彼を手に入れることはできなかった。
誰を愛しているのか、彼は、一言も言わなかった。
そしてそれは、たぶん、自分以外の誰か、なのだ。
綺麗な月の色を宿した瞳が、微かに眇められる。
…でも、もう、終わったことだ。
今日は、この学校の卒業式。
それが終われば、この学び舎を後にして、もう、戻ってくることは、無いだろう。
柄にも無く、高遠の脳裏に、幾つかの思い出が、浮かんでは、消えてゆく。
さして楽しくも無い、思い出の数々。
その中で、ひと際異彩を放っているのは、やはり、彼と過ごした短い夏の記憶、だろうか。
そう言えば、彼との出会いは最悪だったと、高遠は遠い眼差しを、窓の外に向けた。
十字架を掲げた礼拝堂の尖塔が、冬の透き通るような青空を背景に、カーテンの陰に、見え隠れしている。
「だから、高遠さんの靴を綺麗にしろと、言ってるだけだろう?」
緩くパーマをあてているらしいウェーブが掛かった長髪の上級生は、目の前の気の弱そうな眼鏡をかけた下級生に向かって、厳しげな言葉を投げつけていた。
嘲るような眼差しが、それが、単なる嫌がらせだと物語る。
「ご…ごめんなさい…許してください」
今にも泣き出しそうな顔で、眼鏡を掛けた気の弱そうな下級生は、何度も頭を下げていた。しかも、土下座だ。
彼は一体、何をしたと言うのだろう。
広い校内を結ぶ、一階の渡り廊下横の、パティオが設えられている中庭で、その光景は繰り広げられていた。
色とりどりの花が植えられ、綺麗に刈り込まれた常緑樹の生垣に囲まれているそこは、確かに人目には付き難い。上の階からの視線は、パティオがカバーしてくれている、という寸法だ。
下級生の周りを囲む、数人の上級生の口元には、皆一様に、薄笑いが浮かんでいる。
その中で、周りの人間とは明らかに纏うオーラの違う上級生が、ひとり。
長めの前髪をセンターで分けた漆黒の髪に、透けるような肌を持ち、怜悧な美貌には、それに相応しい赤く薄い唇。そして、長い睫に縁取られたその少し下がり気味の眼には、月の光を集めたような、不思議な色を湛えた虹彩が輝く。
細身だが、絶対的カリスマを感じさせる存在感が、そこにはあった。
まるで体温を感じさせない、その作り物めいた美貌が、不機嫌そうに、冷たい眼差しを下級生に注いでいる。
「別に、無理にとは言いませんけどね?」
赤い唇が、静かなテノールで、言葉を紡ぐ。腕を、組みながら。
「まあ、今後、君の立場が、悪くなる程度でしょうか?」
下級生の顔色が、青ざめる。ここでの立場が悪くなる、と言うのは、実質、学校にいられなくなる、と言うのも同然だった。
日本では初めて、と言えるほどの、本格的な英国方式のパブリックスクール。まるで、そのシンボルのように、礼拝堂まで設えられてはいるが、カソリック系の学校、というわけではない。
中高一貫方式の全寮制のこの学校は、政治家や、医者、法律家、そして有数の実業家などの子弟らが多く集う名門校である。
今では珍しい男子校で、その中でも、トップクラスの頭脳が集まる、有数の進学校としても有名であった。ここにさえ来れば、名門大学は約束されたも同然、などと、まことしやかに囁かれるほどの実績は、確かに残している。
新しい情報を取り入れながらも、独自のカリキュラムを組み立て、魅力的な選択肢を数多く提供している点も、人気を集めている理由の一つだろう。
「高遠遥一」は、この学校の理事長の孫に当たる人物である。
頭脳明晰、容姿端麗、その存在感も申し分なく、学校中の人間から、一目置かれているといっても、過言ではない。
ただし、良くも、悪くも。
彼は、その性格に、問題があるのだ。
一見、線が細く、繊細なイメージで捉えられることの多い彼だが、その実、キレると手に負えない激しさを持っていた。
何度と無く問題を起こし、その度に祖父である理事長がうまく処理して、事件をもみ消して回る。それが無ければ、きっと今頃は、警察の世話になっている事も、一度や二度では無いだろう。
早くに両親を亡くし、祖父母に甘やかされて育ってきた弊害、というものなのだろうか。
高遠遥一は、人間として、何かが欠落しているような、そんな存在だった。
今も、「頭は優秀だが問題のある生徒たち」とつるんで、あちらこちらでいざこざを起こしていた。
そして、今日もまた、犠牲者が。
「さあ、どうしますか?」
高遠の言葉に、くすくすと、周りを取り囲んでいる上級生たちが、含み笑いを洩らしている。下級生はぐっと手のひらを握り締めた。
「早くしろよ、舐めて綺麗にしろって、言ってるだけじゃん?」
短髪を、金色に染めた上級生が、嫌な笑いを口元に貼り付けながら、言う。
「わ…かりました…」
下級生は、目に涙を溜めながら頷くと、ゆっくりと、高遠の靴に顔を近づけた。
「佐木! そんなとこで、何やってんだあ!」
もう少しで靴に届くと言う所で、タイミング良く、声が掛けられた。
「き、金田一センパイ!」
弾かれたように、佐木と呼ばれた下級生は顔を上げた。金田一という少年は、上級生に囲まれている後輩の下へ、怖気づくことも無く、そのままやって来る。
へえ、度胸があるんですねえ…
高遠は、この金田一と言う少年に対して、内心、こんな感想を持った。
普通なら、皆、自分に火の粉が降り掛かるのを恐れて、見て見ぬフリをしながら通り過ぎてゆくと言うのに。
一見、だらしなく服を着崩し、ぼさぼさの髪を無造作に後ろで括って。
けれど、その大きな眼は、穢れの無い、澄んだきらめきを湛えているような気がして。
高遠は、この少年に、興味を覚えた。
「おまえ、こんなとこで、一体何やってんだよ」
全く周りの状況を無視して、平然と後輩に声を掛ける金田一に向かって、上級生の一人、長髪の由良間が声を荒げる。
「なんなんだ、おまえは! いきなり来て、おれたちに挨拶も無しか!」
「あ、すいませ〜ん。こんにちはv センパイ方v こんなところで、後輩いじめですか?」
「なんだと!」
由良間が金田一の胸倉を掴んで、拳を振り上げようとした。その時、
「やめたまえ」
静かな声が響いた。
高遠だった。
「高遠さん! なんで、こんなやつ…」
高遠が手で制すと、由良間はぴたりと口を噤んだ。そして、金田一を掴んでいた手を離す。
どうやら、高遠の命令は、絶対のようだった。
「金田一くん、というんですか?」
高遠が、やさしげに金田一に向かって、話しかける。
「え、うん…っと、そう、です。えと、あの、佐木…こいつ、何やらかしたんですか? 土下座までさせられて」
金田一が、高遠に向かって、その大きな黒目がちの瞳で、曇りの無い視線を投げかける。それは、恐れも何も無い、ただ真っ直ぐな、眼差し。
一瞬、高遠の眼が眩そうに、微かに眇められた。
「…ああ、その子がぼくの靴に、砂を掛けたんですよ。走ってきて」
「で、でも、わざとじゃないんです! たまたま、側を通った高遠さんに掛かってしまって…」
佐木が、慌てて、言葉を挟んだ。
「そんなこと、知ってますよ。ぼくは、今、金田一くんと話しているんです。横から口を挟むのは、よくないですねえ」
冷たい月色の眼差しが、佐木を捉え、竦むように口を閉ざさせた。
「えっ、そんなことで、こいつ、土下座までさせられてんの?」
「それだけじゃないですよ? ぼくは、舐めて掃除してくれと言ったんです」
クスクスと、嘲るように笑う高遠の目の前で、金田一の顔が引き攣る。それを楽しげに眺めながら、高遠は、次に彼がどんな行動に出るのかと、興味深く観察していた。が、金田一は突然、失望したような色をその瞳に浮かべると、ポケットからクシャクシャのハンカチを取り出し、そしてそのまま、高遠の足元にしゃがみ込んで、そのハンカチで彼の革の紐靴を綺麗に拭った。
「これで、勘弁してやってくれないかな?こいつも、悪気があってしたわけじゃないから」
立ち上がった金田一は、なぜかもう、高遠を見ようとはしなかった。
そんな金田一の態度は、まるで自分を蔑んでいるかのように感じられて、高遠の身の内に、激しい苛立ちが沸き起こる。そうして彼の捩れた精神は、そのことに対する償いを、対象に求めようとするのだ。
「…そうですね、きみの後輩思いに免じて、彼は許してあげましょうか」
ほっとした顔をして、佐木と金田一が顔を見合わせる。
「ただし、金田一くん。ぼくは、きみに興味が湧きました。きみが彼の変わりに、ぼくに付き合ってください」
金田一の顔色が変わる。佐木も、再び泣きそうな表情になった。
「き、金田一センパイ…」
「…大丈夫だよ…心配すんな。おまえは、もう行け」
そうして、金田一は、佐木の背を押した。
心配そうに、何度も振り返りながら帰ってゆくその背中に向かって、由良間は釘を刺すことを忘れない。
「誰かに、このことを喋ったら…わかってるな!」
佐木の、細い背中が、大きく震えた。
05/09/15
『あさじふ』の竹流さまよりいただきました〜♪
しかも、連載してくださるということで、魚里も続きがとっても気になっているのです。
メールで、色々と萌え話をしていて、何気にパブリックスクールで学生してるふたりの話題が出たのがきっかけで、いただけることになっちゃいました。どうしましょう。嬉しくって、顔がにやけてしまいました。
つ、つづき、気になりますよね♪
その1からその3まで、一気にアップです。
エビ鯛で、いいのかしらと思いつつ、心よりの感謝を、竹流さまへ!