Love Song 3







はじめが、高遠の傍で暮らすようになってから、ひと月あまりが、経っていた。

はじめの学校での周りの環境は、あまり代わり映えしなかったが、やたら順応性の高いはじめ自身が、そのことに慣れつつあった、ある日のこと。

はじめが校舎脇を歩いていると、突然、上から、大量の水が降ってきた。が、当然、雨などではない。

空は、ものの見事に、雲ひとつ無い晴天。

晴れた夏空の下、はじめだけが、まるで服のままプールにでも飛び込んできたかのように、頭からびしょ濡れになってしまっていた。

人間、不思議なもので、唐突に思いもしない出来事が起こると、思考も行動も止まってしまうものらしい。それは、はじめもまた、例外ではなかった。

…え〜っと、これって、わざと…だよなあ?

などと立ち止まって、ぼんやりと考え事をしていると、さらに、バケツまで落ちてきて、はじめの頭に直撃する。

「いてっ!」

目の前に星が散るような衝撃に、頭を押さえて、その場に蹲まった。

はじめに対する嫌がらせは、沈静する気配すらなく、むしろエスカレートしてゆく一方だ。

最近、学校にいる間も、高遠がはじめに対して妙な執着心を見せていることが、また、それを増長させている原因の一つでもあるだろうか。

…夜は夜で、高遠にいじめられるし…

そう考えると、なんだか涙が出そうになる。

「大丈夫ですか、はじめくん」

不意に、ハンカチを持った手が差し伸べられ、見上げると、生徒会長の明智健悟が、色素の薄い髪を陽の光りにキラキラさせながら立っていた。

「明智さん…」

相変わらず、キラキラしてんな〜、という言葉は、一応、言わないでおいた。

明智は、いわゆる幼馴染みだ。親同士が知り合いで、小さな頃から顔は知っている。

いや、そんなに、親しいってわけじゃ、無いんだけどさ…

内心、ひとり語ちながらも、結局、明智の言うままに学校からタオルを借り、気が付くと、公園のベンチで一緒に座っていた。

木漏れ日が、地面に多様な模様を浮き上がらせながら、揺れている。眩い光りの陰影は鮮烈で、もう、そろそろ、蝉が鳴き始めるかも知れない季節を、感じさせた。

濡れた身体の上で遊ぶ、陽の光が暖かい。

「まったく、酷い事をする人もいるものですね」

濡れ鼠になったはじめを見ながら、明智は嘆息していた。はじめはというと、別に落ち込む風でもなく、濡れた髪を拭くべく、髪を纏めていたゴムを外してごしごしやっている。

「あ〜、もう慣れてっから平気。明智さんが心配しなくてもいいよ。大丈夫だから」

言いながら手を下ろすと、いつものように、屈託の無い明るい笑みを浮かべた。

湿って乱れた長い髪が、濡れて肌に張り付いたシャツに掛かっていた。

薄っすらと、白いシャツ越しに透けて見える肌色が、妙に艶かしく思えて、明智は思わず視線を逸らしてしまう。

「どうした?」

明智のそぶりがおかしかったのだろう、はじめはきょとんとした表情で、首を傾げた。

昔からはじめは、そういうことには疎くて、いつも何処かしら幼さを感じさせたのだが、考えてみると、今のはじめは高遠の…

気を落ち着かせるように眼鏡を指で押さえながら、明智は、あの自分勝手で我侭で残酷な男に、怒りを禁じえなかった。

こんな、何も知らないような少年に、あの男は!

もっと早くに自分が気付いていればと、明智は、自身を責めてもいた。

高遠の差し金だったのだろうが、自分には、うまく情報が隠されていたのだ。はじめが高遠の元で、愛人同然の生活をしているということを明智が知ったのは、ごく、最近のこと。

学業と、生徒会の仕事で忙しかったのは確かだが、そんなことは言い訳にもならない。

明智は、意を決したように、口を開いた。

「はじめくん、きみは、いつまでこんなことを我慢しているつもりなんですか?」

はじめは最初、何のことを言われているのか、ぴんと来なかったらしい。

「いやがらせのこと?」

首を傾げたまま、明智を見つめる。その眼差しは、幼い頃と変わらず、穢れの無い光を湛えているように思えた。

「…違いますよ…」

眼鏡の奥で、眩しげに眼を細めながら、明智は言いにくそうに答える。

明智のその言葉に、さすがにはじめも察しがついたのだろう。すぐに、顔を赤らめると、それを隠すように、タオルを頭に掛けて俯いた。

「だって…どうしようも…無いじゃん。…おれ、ここ出たら、行くトコ無いし…さ…」

そう言うはじめの声は、明智が今まで聞いたことも無いような、大人びた空気を感じさせた。タオルの影から覗く、少し伏せられた長い睫が、諦めたような、そんな雰囲気を纏う。

はじめの家庭環境は、少し複雑だ。

彼が幼いころに、はじめの実の母親は死んでおり、後添えとしてやって来た若い後妻は、はじめを嫌い抜いていると、明智は昔、両親から聞いたことがある。はじめの父親は、そんな後妻には何も言えず、ただ、彼に我慢を強いているのだと。

けれど、そんな環境の中でも、歪むこともなく、真っ直ぐにはじめは育ってきたのだ。

口には出さないが、きっと、たくさんのつらい経験をしてきたに違いない。屈託の無さそうな、明るい笑顔の裏に、一体、どんな思いを抱えているのか。

それはきっと、明智には、想像も付かないことなのだろう。高遠の、愛人然とした生活に耐えてまでも、家には帰れないというのだから…

事情を知っているだけに、明智は余計、はじめが不憫でならなかった。

「彼が離してくれるまで、我慢するつもり…なんですか」

はじめは、黙ったまま俯くだけで、否定も、肯定もしなかった。

「ぼくが、父に言って、何とかしてもらうという手もありますが…」

明智の父親は、警視総監という肩書きが付いている。ここの理事長とも、懇意にしているらしいというのは、はじめも前々から知っていた。高遠が、今まで警察の手を逃れてきたのは、この明智の父親の力もあったのだろう。だから、なんとかできるかもしれないと、>明智の言葉には、そんな意味合いが込められていた。

明智自身は、出来ることなら、父親の力を借りるようなことはしたくないのだが、この際仕方が無いと、ドライに割り切れる頭を持っている。どちらかというと、楽観的に見えるはじめの方が、色々なしがらみを割り切れない性質だろうか。

「明智さん、それって…」

弾かれるように顔を上げて、明智を見たはじめの瞳には、複雑な色が浮かんでいる。

「きみが、嫌がっているのに、無理やり…というのは、犯罪ですよ。はじめくん」

明智の真剣な眼差しに再び俯くと、何事かを考えるように、親指の爪を噛んだ。そして、暫くの間黙っていたが、やがて、意を決したように顔を上げ、明智の耳元にくちびるを寄せて、何事かを囁く。

何を聞かされたのか、明智の眼が、驚きに、見開かれた。

囁く声が離れると、呆然とした顔をして、はじめを見つめる。

「きみは…」

何かを言いかけた、明智の言葉を遮るように、はじめは淡く微笑むと、タオルを首に掛けなおして、勢い良く立ち上がった。

「じゃあな、明智さん。心配してくれて、ありがとな」

キラキラと輝く木漏れ日を背景に、はじめの濡れたままの髪がそれを眩く反射させている。

見上げる形の明智からは、逆光になって、はじめの表情が、よく見えなかった。

立ち去ろうとするはじめの背中に向かって、明智は声を掛けていた。

「それでいいんですか? きみは!」

はじめは、立ち止まり、けれど、振り返らなかった。

「うん、いいんだ…これで…」

それだけ言い残して、はじめは駆け出して行く。

明智は、その小さな背中が見えなくなるまで、ただじっと、見送るしかなかった。





そんな二人のやり取りを、偶然、高遠は目にしていた。

放課後、はじめを探して、たまたま通りかかったところで、公園のベンチに座っている二人を見つけたのだ。相手は、この学園の現生徒会長であり、警視総監の父親を持つ、明智健悟。高遠も、そうそう手を出すことの出来ない相手だった。

咄嗟に、木の陰に隠れてしまっていた。

何故そんなことをするのか、自分でもわからないままに。

明智が出てきた所を見ると、恐らく、自分とはじめの関係を聞きつけたのだろう、とは、察しが付いた。もう、ひと月もこんな状態を続けているのだから、いくら噂に疎い生徒会長だとて、気が付きもするだろう。高遠自身、こんなにも長くはじめとの関係が続くとは、>あの時は思っても見ないことだったのだ。

けれど、生徒会長が出てきたとしても、今の自分は、はじめを手放す気などは無い。彼の父親が干渉してきたとしても、これだけは、譲れない。

よく見ると、なぜかはじめは、服も髪もぐっしょりと濡れ、しかも長い髪を下ろしていて、随分と艶かしく見える。

自分以外の男の前で、無防備にそんな姿を見せているはじめに、いらだちが募った。

何を話しているのかまでは聞こえなかったが、はじめが明智の耳元にくちびるを寄せて、何事かを囁いているのを見た瞬間、高遠は、目の前が真っ赤に染まるような感覚を覚えた。

ぱきり、と、手元の小枝が折れていた。

高遠が、力任せに握り締めたために。

穏やかな木漏れ日さえ、煩い光りの瞬きにしか、感じられない。

彼の頭の中では、先日のはじめの様子が、蘇っていた。



その日、部屋で夜、勉強をしていたとき、はじめの部屋から、微かな歌声が聞こえてきた。

へえ、珍しい。何か、いいことでも、あったんですかね…

少しの間、微かに聞こえるその声を、聞いていた。彼の歌声は、意外と甘くて、心地良い。

けれど、切れ切れに聞こえる歌声は、その曲が何なのかを教えてはくれない。気になって、高遠は、自分の部屋とはじめの部屋との間にある扉を、そっと開けて様子を窺った。

それは、ほんの、興味本位でしかなかったのだけれど。

全開に開け放した窓辺に凭れかかって、ぼんやりと夜空を見上げているはじめの横顔が、細く開けた扉の向うに見えた。

部屋の灯りは落とされ、月明かりだけが、彼の姿を青白く浮かび上がらせている。

彼は、呟くように、甘く切ないメロディーを、口ずさんでいる。

それは、高遠も聞いたことのある、古い洋楽のラブソングだと、わかった。

普段の、生意気な口ばかり利く彼には、一番似つかわしく無いと思える選曲。けれど、高遠は、思わず息を飲んで、その場に立ち尽くした。

…はじめは、泣いていた。

まるで、止まる事を知らないように、彼の目から零れてゆく幾つもの涙の雫は、拭われること無く、彼の頬を濡らしては、細い顎先から落ちてゆく。

夜空を見上げているその眼差しは、けれど、他のものを捉えているように、切なげで。

だから、夜空に向かって歌われているその曲は、はじめが、誰かを想って捧げているものなのだと、わかってしまった。

そのまま、気付かれないように、そっと高遠は扉を閉じた。

なぜか、軽いショックを覚えていた。

はじめは、自分のもので、自分の玩具で、その中に、自分以外の誰かを想う心があるなどと、今まで、考えたことも無かったのだ。

はじめに、好きな人が、いる。

そう理解した途端、高遠は、酷く苦しいと、感じた。

息ができないわけではない、身体に何も、問題は無いはずだ。

なのに、胸の奥が、苦しい。

はじめは、あんな切なげな眼差しで、自分を見たことは、無い。

一度も。

その夜は、もうそれ以上、勉強なんて手に付かなかった。

ただ、はじめの身体を求めた。

自分が手に入れられるのは、それだけしかないのだと、言い聞かせるように。

はじめに対する執着が酷くなったのは、この後から、だったろうか。





高遠に見られているとも知らずに、はじめは親しげに、明智となにやらやりとりをしたあと、ベンチから立ち上がり、そして、明智に向かって、少し、哀しげな切なさを滲ませた微笑を浮かべた。

高遠の中で、確信にも似た思いが湧き上がる。

明智と別れ、駆けて行ったはじめの後をつけるために、高遠は、静かにその場を離れた。



                                         05/09/15

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