Love Song 4







「きみが好きなのは、あの男なんですか?!」

 

濡れた衣服を身に着けたまま、はじめはベッドに押さえつけられていた。

強い力で手首を掴まれ、高遠に上から圧し掛かられて、身じろぐことすらできない状態だった。

シャワーでも浴びて着替えようと、宿舎に戻って来たはじめは、自分のすぐ後から現れた高遠に捕まってしまったのだ。

高遠が酷く不機嫌なのは、考えるまでも無い。おそらく、明智といる所を見られてしまったのだろう。

 

高遠の独占欲の強さは、一緒にいる間に、いやと言うほど思い知らされていた。

普段は、あまり物事にこだわらない性格のくせに、執着しているものに対しては、異常なくらいの従属を強要してくる。それではじめは、何度、泣かされたことか。

機嫌の良いときはやさしいが、一つ間違うと、何をしてくるかわからない暴君。

高遠は、そんな男だった。

けれど、はじめも負けてはいない。

何度泣かされても、理不尽な要求などに屈したことは、一度として無かった。

 

「そんなの、あんたに関係ないだろ!」

キッときつい眼差しで、真っ直ぐに高遠の金茶色の瞳を、睨みつけていた。

「きみは、ぼくのものだ!」

「だから! 身体は、あんたにくれてやってるだろ!」

組み敷いている者と、組み敷かれている者が、睨み合っていた。立場としては、当然、下にいる者の方が、分が悪いだろう。

でも、はじめは、決して退くつもりは無かった。

何をされても。

人には、絶対に譲れないものがあるのだと、この男は知るべきだ。

何でも、自分の思う通りになど、なるわけがないのだと。

 

ぎりり、と、締め上げるように握り締められたはじめの手首から上が、血の気を失って、白くなってゆく。

 

「玩具なんだろ! おれは! 玩具に、心まで求めんなよ!」

言いながら、はじめの大きな茶褐色の眼に、涙が浮かんだ。

何を、思い出したのかは、想像に容易い。

「おれの心は、おれだけのものだ! 誰を好きになろうと、おれの勝手だ! あんたにどうこう言われる筋合いは無い!」

それだけ言い終わると、はじめはフイっと、顔を背けた。もう、話す事は無いと、言わんばかりに。

拭うことの出来ない涙が、眦から零れ落ちてゆく。

 

「…まったく、気の強い…」

忌々しげに呟くと、高遠ははじめの手首を離して、今度は顎を捉えた。

「そう言えば、キスはしたこと、ありませんでしたよね。きみがいつも、嫌がるから」

そして、無理やり自分の方へと、向かせる。

はじめの顔が、強張った。

「い…やだ」

「どうして? 身体はもうすっかり、ぼくに馴染んだでしょう? キスぐらい、どうってこと無いと思いますけど?」

高遠は、さも当然といった物言いで、顔を近づけてくる。身体も、自分が無理やり奪ったことなど、なんとも思っていないかのようだ。

「いやだ! 高遠、やめろ!」

はじめが、自由になった両腕で高遠の肩を押さえて拒絶すると、途端に、高遠の口元が、奇妙な笑いの形に引き攣れる。まるで、嘲るように。

「キスぐらいは、好きな人のために取っておきたい? ハッ! 可笑しい! いつもぼくに、いいようにされてるくせに!」

 

パンッと、小気味良い音が鳴った。

 

 

 

一瞬、何が起こったのか、高遠は理解できなかった。

口の中に、錆びのような味が広がってゆく。

目の前で、はじめが大きな眼を見開いて、自分を見ていた。小刻みに、震えながら。

「…あ……たかと…血が…」

はじめが青ざめながら、高遠の頬を叩いた手で、今度は慈しむようにその頬に触れている。

まさか、くちびるを切るとは思わなかったのだろう。高遠の口元に滲む血を見つめながら、再び、涙を浮かべた。

「ごめ…、まさか、切れちゃうなんて…ごめん…」

けれどその様子は、自分に怯えての行動だとは、高遠には思えなかった。ただ、純粋に心配しているように見えて、錯覚してしまいそうになる。

 

はじめは、本当は自分を、愛しているのだと。

 

くっと、口元に苦笑が浮かぶ。

馬鹿なことを考えると、自分でも可笑しくなる。誰が好き好んで、無理やり自分を犯して、今もその身体を好きにしている男を愛するというのだ。

それぐらいの自覚は、高遠にもあった。はじめに、嫌なことばかり強要しているということも、頭ではわかっていた。

でも、どうしようもなく、独り占めしたいという想いが、自分を突き動かしている。

あの夜から。

はじめに、好きな人がいると、知ってしまったときから。

けれど、はじめが頑なにくちづけを嫌がるのは、きっと、そんな自分に対する反発もあるのだろう。

 

もしかしたら、本当に、あの男なのかもしれない。

はじめが、想いを、寄せる相手は。

 

そう考えるだけで、苦い思いが、高遠の胸の中に広がる。

でも…と、心が軋んだ音を立てている。

 

…本当は、ぼくは、きみの心が、欲しいんだ…

 

高遠は、はじめの身体を抱きしめると、その胸に顔を埋めた。濡れたはじめの身体は、酷く冷たい。

けれど、どうしても放したくなくて、ぎゅっと、腕に力を込めた。

誰にも、渡したくない。触れさせたくない。

どうしようもない、焦りにも似た想いが、自分を駆り立てている。

不安で、仕方がなかった。はじめが、今にも、何処かに行ってしまいそうな気がして。

そんなことを考えていると、突然、髪に、何かが触れる感覚を覚えた。

はじめの手が、躊躇いがちに、そっと、高遠の髪を撫でていた。

静かに、何度も何度も、それは繰り返される。

はじめの胸からは、規則正しい、穏やかな鼓動が聞こえていた。

ただ、それだけで、波立っていた気持ちが、不思議なほど、落ち着いてゆく。

やさしく触れてくる、はじめの手の感触が心地良くて、高遠はそのまま、目を閉じた。

 

穏やかだと、思った。

いつも苛立って、何かを傷つけずにはいられなかった、自分の中が。

そう、考えると、不思議だった。普段の自分なら、ぶたれて黙っているはずが無いのだ。

相手が誰であろうと、絶対に殴り返し、立ち上がれなくなったら、今度は蹴りつける。

相手が血を吐いて、意識を失うまで。

そんなことばかり、繰り返してきた。

 

なのに、何かが、おかしかった。

けれど、それが何なのか、わからない。

 

いつもと同じ、単なる、遊びのつもり、だったのに。

自分は、一体どうしてしまったのだろう。

どうして、こんな気持ちになるのだろう。

 

けれど、もう、知ってしまったこの穏やかさを、手放したくは無かった。

だから、はじめの心が、欲しいと思った。

自分から、離れていかないようにと。

その気持ちが、自分の中の、何処から来ているのかも知らずに、ただ、高遠は願った。

はじめが、ずっと、自分の側に、いることを。

祈るように。

 

 

意識が浮上したのは、熱を感じたからだろうか。

暗闇の中で目覚めたとき、はじめはまだ腕の中にいた。

まだ、微かに湿り気を感じる衣服を、身に着けたまま。

高遠が、抱きしめたまま眠ってしまったから、着替えることも出来なかったらしい。

けれど、高遠が驚いたのは、その身体の熱さ。

はじめは、かなり高い熱を出していた。

呼吸も苦しいのか、微かに唇を開いたまま、浅く早くを繰り返している。

「はじめ? 苦しいんですか?」

額に手を当ててみると、熱さと共に、薄っすらと汗を掻いている。

部屋の明かりを点けて、はじめの顔を覗き込むと、薄く眼を開けた。

「…た…かと…」

力の無い声で、はじめが自分を呼んだ。

 

そのはじめの声を聞いてから、高遠は自分が何をしたのか、じつは、よく覚えていない。

気が付くと、はじめを自分のベッドに寝かせ、着替えさせ、傍に付いて看病していた。

 

なぜ、自分はこんなことをしているのか…ぼんやりとした頭で、考える。

誰かが、自分のために動くことはあっても、自分が誰かのために動くなど、今まで考えたことも無かったのに。

なのに、目の前で、苦しそうに息を吐くはじめを、放っては置けなかった。

はじめが熱を出したのは、自分のせいだという自覚もあった。

今まで、したことも無い『後悔』という二文字が、頭を過ぎる。

「…ぼくのせい…ですよね…」

はじめの、熱を孕んで赤く染まっている頬に触れながら、高遠は呟いていた。そのまま、荒い息を繰り返して、微かに開かれている唇に、誘われるように指を滑らせてゆく。

そっと触れると、はじめの吐く息は、酷く熱くて、くちびるは、高熱のせいでなのか、少し乾燥しているように感じた。けれど、その柔らかな感触に、思わず顔を寄せて、触れようとして。 …直前で、思い止まる。

こんなことをしたら、はじめは、本当に許してくれない。

そんな、気がした。

 

「…何をしているんでしょうね…ぼくは…」

 

自分らしくない自分に、自嘲を込めた笑みを浮かべながら、けれど、そんな自分が、高遠は嫌いではない。そして、自分にこんなことを思わせるはじめが、不思議で仕方なかった。

 

 

 

はじめが重い瞼を開けると、見慣れない白い天井が視界に入ってきた。

自分の部屋よりも、はるかに広いその天井に設えられた、シャンデリアと呼んでも遜色の無い照明が、今は明かりを灯されることも無く、静けさを保っているのが見えている。

すぐ側の窓辺から差し込む光りが、小鳥の囀りと共に、穏やかな朝の訪れを告げていた。

 

…高遠の、部屋、だよなあ? …なんで、おれ、こんなトコに、いるんだ?

 

まだ、目覚めきらない頭の中で、ぼんやりとはじめは考えていた。

考え事をするときの癖で、右手で頬を掻こうとして、腕が上がらないことに気付く。いや、腕が動かなくて上がらないわけではなく、上から何かに押さえつけられているようだ。

恐る恐る、首をそちらに巡らせて、驚いた。

そこには、高遠が、椅子に座ったまま、ベッドに突っ伏して眠っていた。

 

開け放たれたままの、窓から入ってくる風に、高遠の長い前髪が揺れている。

長い睫は閉じられ、まるで白磁で出来ているかのような肌に、影を落としている。

過ぎる赤さを湛えた薄い唇は、けれど、微かに微笑むようで、その表情はどこかしら、まだ、幼さを止めている気がした。

 

その、絵に描いたような美貌を見つめながら、はじめは、涙が込み上げてくるのを、止められなかった。

昨夜、苦しくて、熱が高かった記憶は、おぼろげながらある。霞む視界に、何度と無く、高遠の顔を捉えていたような気もする。

額には、今も、溶け切らない氷の入った氷嚢が当てられ、側には、眠る高遠。

恐らく、高遠が一晩中側にいて、自分を介抱してくれていた、ということなのだろう。

 

「…なんで、優しくするんだよ… おれは、あんたの、玩具なんだろ? おれは絶対に、あんたの欲しがってるものを、あげることは、出来ないんだよ…」

 

ぽつりと、そう呟くと、はじめは声を殺して、泣いた。

 

 

                           05/09/26

                              

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