「きみが好きなのは、あの男なんですか?!」
濡れた衣服を身に着けたまま、はじめはベッドに押さえつけられていた。
強い力で手首を掴まれ、高遠に上から圧し掛かられて、身じろぐことすらできない状態だった。
シャワーでも浴びて着替えようと、宿舎に戻って来たはじめは、自分のすぐ後から現れた高遠に捕まってしまったのだ。
高遠が酷く不機嫌なのは、考えるまでも無い。おそらく、明智といる所を見られてしまったのだろう。
高遠の独占欲の強さは、一緒にいる間に、いやと言うほど思い知らされていた。
普段は、あまり物事にこだわらない性格のくせに、執着しているものに対しては、異常なくらいの従属を強要してくる。それではじめは、何度、泣かされたことか。
機嫌の良いときはやさしいが、一つ間違うと、何をしてくるかわからない暴君。
高遠は、そんな男だった。
けれど、はじめも負けてはいない。
何度泣かされても、理不尽な要求などに屈したことは、一度として無かった。
「そんなの、あんたに関係ないだろ!」
キッときつい眼差しで、真っ直ぐに高遠の金茶色の瞳を、睨みつけていた。
「きみは、ぼくのものだ!」
「だから! 身体は、あんたにくれてやってるだろ!」
組み敷いている者と、組み敷かれている者が、睨み合っていた。立場としては、当然、下にいる者の方が、分が悪いだろう。
でも、はじめは、決して退くつもりは無かった。
何をされても。
人には、絶対に譲れないものがあるのだと、この男は知るべきだ。
何でも、自分の思う通りになど、なるわけがないのだと。
ぎりり、と、締め上げるように握り締められたはじめの手首から上が、血の気を失って、白くなってゆく。
「玩具なんだろ! おれは! 玩具に、心まで求めんなよ!」
言いながら、はじめの大きな茶褐色の眼に、涙が浮かんだ。
何を、思い出したのかは、想像に容易い。
「おれの心は、おれだけのものだ! 誰を好きになろうと、おれの勝手だ! あんたにどうこう言われる筋合いは無い!」
それだけ言い終わると、はじめはフイっと、顔を背けた。もう、話す事は無いと、言わんばかりに。
拭うことの出来ない涙が、眦から零れ落ちてゆく。
「…まったく、気の強い…」
忌々しげに呟くと、高遠ははじめの手首を離して、今度は顎を捉えた。
「そう言えば、キスはしたこと、ありませんでしたよね。きみがいつも、嫌がるから」
そして、無理やり自分の方へと、向かせる。
はじめの顔が、強張った。
「い…やだ」
「どうして? 身体はもうすっかり、ぼくに馴染んだでしょう? キスぐらい、どうってこと無いと思いますけど?」
高遠は、さも当然といった物言いで、顔を近づけてくる。身体も、自分が無理やり奪ったことなど、なんとも思っていないかのようだ。
「いやだ! 高遠、やめろ!」
はじめが、自由になった両腕で高遠の肩を押さえて拒絶すると、途端に、高遠の口元が、奇妙な笑いの形に引き攣れる。まるで、嘲るように。
「キスぐらいは、好きな人のために取っておきたい? ハッ! 可笑しい! いつもぼくに、いいようにされてるくせに!」
パンッと、小気味良い音が鳴った。
一瞬、何が起こったのか、高遠は理解できなかった。
口の中に、錆びのような味が広がってゆく。
目の前で、はじめが大きな眼を見開いて、自分を見ていた。小刻みに、震えながら。
「…あ……たかと…血が…」
はじめが青ざめながら、高遠の頬を叩いた手で、今度は慈しむようにその頬に触れている。
まさか、くちびるを切るとは思わなかったのだろう。高遠の口元に滲む血を見つめながら、再び、涙を浮かべた。
「ごめ…、まさか、切れちゃうなんて…ごめん…」
けれどその様子は、自分に怯えての行動だとは、高遠には思えなかった。ただ、純粋に心配しているように見えて、錯覚してしまいそうになる。
はじめは、本当は自分を、愛しているのだと。
くっと、口元に苦笑が浮かぶ。
馬鹿なことを考えると、自分でも可笑しくなる。誰が好き好んで、無理やり自分を犯して、今もその身体を好きにしている男を愛するというのだ。
それぐらいの自覚は、高遠にもあった。はじめに、嫌なことばかり強要しているということも、頭ではわかっていた。
でも、どうしようもなく、独り占めしたいという想いが、自分を突き動かしている。
あの夜から。
はじめに、好きな人がいると、知ってしまったときから。
けれど、はじめが頑なにくちづけを嫌がるのは、きっと、そんな自分に対する反発もあるのだろう。
もしかしたら、本当に、あの男なのかもしれない。
はじめが、想いを、寄せる相手は。
そう考えるだけで、苦い思いが、高遠の胸の中に広がる。
でも…と、心が軋んだ音を立てている。
…本当は、ぼくは、きみの心が、欲しいんだ…
高遠は、はじめの身体を抱きしめると、その胸に顔を埋めた。濡れたはじめの身体は、酷く冷たい。
けれど、どうしても放したくなくて、ぎゅっと、腕に力を込めた。
誰にも、渡したくない。触れさせたくない。
どうしようもない、焦りにも似た想いが、自分を駆り立てている。
不安で、仕方がなかった。はじめが、今にも、何処かに行ってしまいそうな気がして。
そんなことを考えていると、突然、髪に、何かが触れる感覚を覚えた。
はじめの手が、躊躇いがちに、そっと、高遠の髪を撫でていた。
静かに、何度も何度も、それは繰り返される。
はじめの胸からは、規則正しい、穏やかな鼓動が聞こえていた。
ただ、それだけで、波立っていた気持ちが、不思議なほど、落ち着いてゆく。
やさしく触れてくる、はじめの手の感触が心地良くて、高遠はそのまま、目を閉じた。
穏やかだと、思った。
いつも苛立って、何かを傷つけずにはいられなかった、自分の中が。
そう、考えると、不思議だった。普段の自分なら、ぶたれて黙っているはずが無いのだ。
相手が誰であろうと、絶対に殴り返し、立ち上がれなくなったら、今度は蹴りつける。
相手が血を吐いて、意識を失うまで。
そんなことばかり、繰り返してきた。
なのに、何かが、おかしかった。
けれど、それが何なのか、わからない。
いつもと同じ、単なる、遊びのつもり、だったのに。
自分は、一体どうしてしまったのだろう。
どうして、こんな気持ちになるのだろう。
けれど、もう、知ってしまったこの穏やかさを、手放したくは無かった。
だから、はじめの心が、欲しいと思った。
自分から、離れていかないようにと。
その気持ちが、自分の中の、何処から来ているのかも知らずに、ただ、高遠は願った。
はじめが、ずっと、自分の側に、いることを。
祈るように。
意識が浮上したのは、熱を感じたからだろうか。
暗闇の中で目覚めたとき、はじめはまだ腕の中にいた。
まだ、微かに湿り気を感じる衣服を、身に着けたまま。
高遠が、抱きしめたまま眠ってしまったから、着替えることも出来なかったらしい。
けれど、高遠が驚いたのは、その身体の熱さ。
はじめは、かなり高い熱を出していた。
呼吸も苦しいのか、微かに唇を開いたまま、浅く早くを繰り返している。
「はじめ? 苦しいんですか?」
額に手を当ててみると、熱さと共に、薄っすらと汗を掻いている。
部屋の明かりを点けて、はじめの顔を覗き込むと、薄く眼を開けた。
「…た…かと…」
力の無い声で、はじめが自分を呼んだ。
そのはじめの声を聞いてから、高遠は自分が何をしたのか、じつは、よく覚えていない。
気が付くと、はじめを自分のベッドに寝かせ、着替えさせ、傍に付いて看病していた。
なぜ、自分はこんなことをしているのか…ぼんやりとした頭で、考える。
誰かが、自分のために動くことはあっても、自分が誰かのために動くなど、今まで考えたことも無かったのに。
なのに、目の前で、苦しそうに息を吐くはじめを、放っては置けなかった。
はじめが熱を出したのは、自分のせいだという自覚もあった。
今まで、したことも無い『後悔』という二文字が、頭を過ぎる。
「…ぼくのせい…ですよね…」
はじめの、熱を孕んで赤く染まっている頬に触れながら、高遠は呟いていた。そのまま、荒い息を繰り返して、微かに開かれている唇に、誘われるように指を滑らせてゆく。
そっと触れると、はじめの吐く息は、酷く熱くて、くちびるは、高熱のせいでなのか、少し乾燥しているように感じた。けれど、その柔らかな感触に、思わず顔を寄せて、触れようとして。 …直前で、思い止まる。
こんなことをしたら、はじめは、本当に許してくれない。
そんな、気がした。
「…何をしているんでしょうね…ぼくは…」
自分らしくない自分に、自嘲を込めた笑みを浮かべながら、けれど、そんな自分が、高遠は嫌いではない。そして、自分にこんなことを思わせるはじめが、不思議で仕方なかった。
はじめが重い瞼を開けると、見慣れない白い天井が視界に入ってきた。
自分の部屋よりも、はるかに広いその天井に設えられた、シャンデリアと呼んでも遜色の無い照明が、今は明かりを灯されることも無く、静けさを保っているのが見えている。
すぐ側の窓辺から差し込む光りが、小鳥の囀りと共に、穏やかな朝の訪れを告げていた。
…高遠の、部屋、だよなあ? …なんで、おれ、こんなトコに、いるんだ?
まだ、目覚めきらない頭の中で、ぼんやりとはじめは考えていた。
考え事をするときの癖で、右手で頬を掻こうとして、腕が上がらないことに気付く。いや、腕が動かなくて上がらないわけではなく、上から何かに押さえつけられているようだ。
恐る恐る、首をそちらに巡らせて、驚いた。
そこには、高遠が、椅子に座ったまま、ベッドに突っ伏して眠っていた。
開け放たれたままの、窓から入ってくる風に、高遠の長い前髪が揺れている。
長い睫は閉じられ、まるで白磁で出来ているかのような肌に、影を落としている。
過ぎる赤さを湛えた薄い唇は、けれど、微かに微笑むようで、その表情はどこかしら、まだ、幼さを止めている気がした。
その、絵に描いたような美貌を見つめながら、はじめは、涙が込み上げてくるのを、止められなかった。
昨夜、苦しくて、熱が高かった記憶は、おぼろげながらある。霞む視界に、何度と無く、高遠の顔を捉えていたような気もする。
額には、今も、溶け切らない氷の入った氷嚢が当てられ、側には、眠る高遠。
恐らく、高遠が一晩中側にいて、自分を介抱してくれていた、ということなのだろう。
「…なんで、優しくするんだよ… おれは、あんたの、玩具なんだろ? おれは絶対に、あんたの欲しがってるものを、あげることは、出来ないんだよ…」
ぽつりと、そう呟くと、はじめは声を殺して、泣いた。
05/09/26