授業が終わってから、保健室に向かうと、すでにはじめの姿は無かった。
保険医は、高遠の代理だという生徒がやって来て、はじめを連れて行ったのだという。
いやな、予感が、した。
この学校内に置いても、高遠の敵は多い。
直接、高遠に手出しすることの出来ない連中が、はじめに何らかのアクションを起こすことは、十分すぎるほどに考えられた。
一体、誰が、何のために、はじめを連れて行ったのか。
考えられることは、最悪の結論。
ぎりり、と、唇を噛んだ。
ましてや、今、はじめは熱を出して弱っている。大した抵抗も、出来はしないだろう。
高遠は、歩き出しながら、思い巡らせた。
人目に付かず、鍵が掛かり、人気の少ない場所。
けれど、この広い学園の敷地内に、そんな場所はいたるところに存在した。
高遠が思いつくだけでも、かなりの数に上る。ひとつひとつ当たっていたのでは、時間など、いくらあっても足りないだろう。
高遠が、焦りを含んだ様子で考えを巡らせていると、後ろから唐突に声を掛けられた。
走ってきたのか、その声は、激しく息が切れている。
普段なら有り得ないことなのだが、考えに集中していて、誰かが後ろに来たことにすら、高遠はまったく気が付かなかった。
振り返ると、下級生が一人、肩を上下させながら立ち尽くしている。
細身でひょろりと背の高い、真面目を絵に描いたような雰囲気を持つ、気の弱そうな少年。
けれど、その顔には、確かに覚えがあった。
はじめと自分が、こうなるきっかけになった、下級生。
「…佐木…くん、でしたよね? どうしたんですか?」
佐木の様子に、高遠は何か感じるものがあったのだろう。自分から、声を掛けていた。
「た、高遠さん! 先輩が、金田一先輩が…」
必死の形相で、佐木は高遠の腕を掴んだ。
「はじめが、どうかしたんですか?!」
「あの人たちに、連れて行かれるのを、ぼく、見たんです!」
「あの人たち…?」
「あの日、高遠さんと一緒にいた…」
高遠は、血の気が引く思いがした。
まさか、彼らが、今朝の自分の態度に、はじめを逆恨みして…?
考えられないことでは、無かった。
「連れて行かれた場所が、わかりますか?」
高遠の言葉に、佐木は、力強く頷く。
「ぼ、ぼく、後をつけましたから…あ、案内します!」
「では、行きましょう!」
「あ、あの…」
早く案内して欲しい高遠に、佐木はまだ何か言いたそうに口を開いた。
「まだ何か、あるんですか!」
苛立ちを隠せない高遠の声に、一瞬、びくりと肩を震わせた佐木だったが、すぐに気を取り直して、こう言った。
「せ、先輩を…助けてくれます…よね?」
その言葉に、高遠は、自分が彼らからどういうポジションで見られていたのかが、よくわかった。それでも、この下級生は、勇気を持って助けを求めに来たのだ。
他でもない、自分に。
自分なら、すぐにでも、はじめを助け出してくれるかも知れないと、信じて。
高遠は、知らず、口元に笑みを浮かべていたらしい。
「当然ですよ」
目の前の、佐木の顔が赤くなったのを、高遠は、好意的に受け取っていた。
「こ、ここです。ここに入るのを見ました!」
そこは、今は使われていない、古い倉庫だった。
校舎からも、宿舎からも離れていて、普段から誰も近寄らない。なるほど、少々悲鳴が上がった所で、誰に聞かれる心配も無いだろう。
入り口の戸に手を掛けると、すんなりと開いた。外側から、厳重に掛けられていたのだろう鍵は、その鎖と共に、足元の草むらの中に埋もれている。奥には、まだ扉があるようだ。
「ここから先は危険ですから。きみは帰りなさい」
高遠は声を潜めると、佐木に告げた。自分の後始末くらい、自分一人で着けるつもりだったのだ。相手は、恐らく四人。それくらいならば、なんとかなる。
けれど佐木は、首を横に振った。
「ぼ、ぼくも、一緒に行きます! ぼくは、これ以上、先輩を傷つけたく…ないんです…」
微かに、語尾が、震えていた。けれど、それは、言葉の裏に込められている真剣な想いを、感じさせるに充分な重みを伴っている。
「…きみは」
はじめが好きなのか…と言いかけて、高遠は口を噤んだ。聞いて、どうするというのだ。
すべてを無理やり奪い去った自分に、それを聞く資格など、どこにも有りはしない。もし本当にそうなのだとしたら、この男は、自分のことを殺したいくらい、憎んでいるだろう。
高遠は、そう、理解した。
「…では、行きましょうか。くれぐれも、足手まといにはならないでください」
高遠は、あえて佐木に背を向けて、先に入り口の戸を潜った。
中は窓もすべて塞がれているためか、酷く暗く、湿ったカビのにおいがした。床には白く積もった埃が一面を覆い、閉ざされた年月を物語っている。その中に、幾つかの真新しい靴跡が、入り口から差し込む光りに浮き上がって、奥へと続いているのが見えた。正面には、板張りの古びた壁があり、その向うに部屋はあるらしい。何処からともなく、言い争っているような、何かが物にぶつかって砕けるような、そんな音が、くぐもって聞こえている。
高遠は、黙ったまま壁に手をつくと、それに沿って暗い中を歩き出した。佐木も、同じように後をついて行く。古い床が立てる、低く軋む音を足元に踏みしめながら、二人は静かに歩いた。
部屋の中からは、何かが壊れるような音が、聴こえている。
角を曲がると、直ぐにドアはあった。大きな曇りガラスをはめ込んだ、古びたドア。ゆっくりとノブを回しても、開かないところを見ると、中から鍵を掛けてあるのだろう。
それは、外からの邪魔を遮るためなのか、それとも、獲物に逃げ出されないようにするためか。
争っているような声が、さっきよりも大きく聞こえている。
「た、高遠さ…」
佐木が、何かを言いかけたが、高遠はそのまま、ドアをノックして見せた。
普通に、ちょっと、用事があるとでもいうように。
佐木からは、暗くて、その表情は、見えない。
けれど、さっきまでとはまるで違う、心臓が凍りつくような、圧倒的な何かが高遠から感じられて、佐木は震えが止まらなかった。
瞬間、中から聞こえていた、言い争うような音が途絶えて、はじめの声だけが、響いた。
「いやだああっ! たかとお! 助けてっ!」
佐木は、その時、なにが起こったのか、よく、わからなかった。
それは、頭で理解する前に、結果が提示されたためだろうか。
はじめの声が聞こえたと思ったときには、目の前の高遠が、無言のまま、素手でガラスを叩き割っていたのだ。かなり、厚みのありそうなそのガラスを、自分の手が傷つくことも、厭わずに。
呆然と見ている佐木の目の前で、高遠は、傷を負った手を気にすることも無く、残った破片を取り除くと、ガラスが無くなったその空間から内側に手を入れて、やすやすと部屋の鍵を開けてみせた。中にいる者たちが、凍りついたようにその様子を見つめている。
ドアは床同様、酷く耳障りな音を立てながら、それでも、ちゃんとドアとしての役目を果たすべく、開いた者に道をあけた。
部屋の中は、廊下よりはまだ、幾分か明るい。それが、窓を塞いでいる板が、何枚か取れているせいなのだと佐木が気付いたのは、帰る間際になってからのこと。
このときは、そこまで気を回している余裕など、無かった。
「た…たかとお…さん…」
一番ドアの近くにいた金髪の男が、呆然としながら、口を開いた。
手には、デジタルのハンディカムが握られている。
「おや、中川くん、こんなところで記念撮影ですか?」
聞きようによっては、上機嫌とも取れる声音で、高遠はそのカメラを手にした男に近寄っていった。
「貸していただけます?」
高遠が手を出すと、まるで操り人形のように、中川はそれを渡す。
青ざめて、震えながら。
「へえ、さぞかし、いい画が撮れたんでしょうね?」
言いながら、高遠は無表情のまま、ハンディカムを持った手で、いきなりその男の頭を殴りつけた。その行動に、躊躇という言葉は意味を成さないだろう。
悲鳴と共に中川はその場に崩れ折れ、そこから飛び散った血が、高遠の白い顔に赤い筋を引く。
鬼気迫る、というのは、こういうことを言うのだと、佐木は、改めて思い知っていた。
目の前の高遠は、まさに、笑いながら、平気で人を殺せそうな気さえした。
月の色を宿した虹彩が、充血して、奇妙に黒く、そのくせそれは、闇の中でも、猫の目のように光っている気がして、恐ろしい。
立ち上る殺気が、濃密な気配として、辺りを支配する。
「う…うわあああ! た、たすけてくださいっ! お、おれたち、由良間に言われて…手伝っただけで…ゆ、ゆるしてくださいっ!」
はじめの手足を押さえつけていた二人が、恐怖に耐え切れなくなったのか、床に頭をこすり付けるようにして土下座した。その身体は、激しく震えている。
「佐野くんに、荒田くん、何か勘違いしているんじゃないですか?」
高遠が、ことさら優しげな声で諭すように声を掛けると、二人は、伺うように恐る恐る顔を上げた。
そんな二人に、にっこりと、それは美しい笑みを浮かべながら、高遠は言う。
「…そんなことで、ぼくが許すような人間だと、思ってるんですか?」
床に投げつけられたハンディカムが、ガシャリと鈍い機械音を上げて砕けた。それを高遠は足で踏みつけながら、楽しそうに口元を歪める。
「ぼくのものに手を出そうなんて、命知らずもいいところだ。あまつさえ、このぼくに、怪我までさせるなんて…ね」
あくまでも、穏やかな声音で、さっき、窓を割ったときに切った傷口から流れ出る血を、その赤い舌で舐め取ると、暗い愉悦を、その瞳に浮かべた。
「さあ、どうやって償っていただきましょうか?」
二人は座ったまま、壁際まで後ずさりながら、ただ、震えるしかない。その頭の中には、高遠に対して抵抗する、といった言葉は皆無のようだった。
高遠の本気の恐ろしさを、彼らは今まで、身近で見て知っている。だから、この人数で高遠に歯向かうことが、どれだけ無謀なことなのかということを、理解しすぎていた。
その顔に浮かんでいるものは、恐怖と、後悔。
ただ、それだけだった。
下がった二人を横目に、高遠ははじめに目をやった。
痛ましい、と、言うより他に、言葉が無い。
かなり抵抗したのだろう。シャツはぼろぼろに引き千切れ、身体のいたるところに、殴られたか、蹴られたと思しき痣が出来ていた。頬は赤黒く腫れ、唇からは血が流れている。
しかも、ズボンからベルトは外され、そのファスナーは下ろされている。レイプされかけていたのは、明らかだった。
「…はじめ…」
その瞬間、高遠はこの場所に来てから、初めて、人間らしい感情を露にした。動揺したかのような揺らぎが、その冷たい瞳を過ぎる。
はじめを組み敷こうとしていた状態のままで固まっていた由良間が、それを見咎めたかのように、身体を起こして高遠を睨みつけた。
その瞳に浮かんでいるのは、確かな怒り。
しばしの間、高遠と由良間はにらみ合っていた。
「佐木くん」
突然、佐木は自分の名を呼ばれて、飛び上がった。今まで、高遠の恐ろしさに、他の者同様に震え上がっていたのだから、無理も無い。
「はじめを…」
少し、振り向いた高遠の眼差しは、厳しいながらも、はじめを頼むと、語っていた。
こくりと、佐木が頷くのを確認した高遠は、また、由良間に視線を戻して、彼に近づいた。
「これは、どういうことなんでしょうね? 説明してもらいましょうか」
いきなり、胸倉を掴んで立ち上がらせる。
自分より体格の良い男を相手に、この細い身体の何処にこんな力があるのだろう。けれど、由良間はなぜか、高遠に逆らうような真似はせずに、大人しくしている。
佐木は、その間にはじめに駆け寄って、その身体を抱き起こした。
「佐…木…おまえ、どうして…ここに?」
はじめが、その痛々しい唇から、掠れた声で問いかける。
「すいません、先輩。…ぼくは…ぼくが、勇気が無いばっかりに、先輩をこんな目にばかり合わせてしまって …本当に、ごめんなさい!」
佐木の目から、涙が零れ落ちる。
はじめは、その涙が零れ落ちてゆく様を、ぼんやりと見ていた。意識がはっきりしないのか、まるで夢を見ているような、眼差しで。
けれどその眼が、高遠の声を聞いた途端、大きく見開かれるのを、佐木は見逃さなかった。
「何故、黙ってるんですか?!」
高遠の、苛立ちを隠せない声が、辺りに響く。
「…わかりました。そんなに、話したくないのなら、二度と話せないようにして差し上げましょう」
高遠の目つきが、さらに暗く狂気を帯びたものに変わると、胸倉を掴んでいた白いしなやかな指が相手の首へと回され、そしてそれは、手の中のものをきつく締め上げ始めた。
傷口から流れ出す血が、由良間の白い襟元を汚してゆく。
「くっ! うう…」
高遠は本気なのだろう。由良間が苦しげな声を洩らして高遠の手を掴むが、そんなものではびくともしなかった。見る間に、由良間の顔が赤く鬱血し始める。
誰も、声が出なかった。恐ろしさのあまり。
高遠は、圧倒的に強く、そして、狂っている。
そうとしか、思えなかった。
「やめろよ!」
声を上げたのは、はじめだった。
その声に反応して、高遠の首が、ゆっくりとそちらへ向けられる。
「…はじめ、どうしてこんなヤツを庇うの? きみを、そんな目に合わせた連中を?」
狂気を孕んだ眼差しで、高遠ははじめを捉えていた。
「もう、やめてくれよ! 高遠! もう、誰も、傷つけないでくれ! お願いだから!」
自分の方が、ぼろぼろに傷つきながら、けれど、必死にはじめは訴えかける。
「おれの持ってるものなら…何でもやるから! あんたに全部、くれてやるから! だから、助けてやって!」
「はじめ…どうしてそこまで…」
高遠の手から力が抜けると、由良間は激しく咳き込みながら、その足元にへたり込んだ。
咄嗟に、その身体を蹴り上げようかと考えた高遠だったが、はじめの言葉がそれをさせなかった。
「…そいつは、あんたのことが好きなんだよ。…だから、おれが、憎かったんだ…もう…こんなことばかり、繰り返さないでくれよ…」
「…由良間が…ぼくのことを…?」
高遠が、驚いた視線を足元の由良間に投げかけると、由良間は喉を押さえたまま、涙を堪えきれなくなったのだろう。俯いたまま、ポロポロと、目から雫を零した。
「…なぜ…」
掠れた声が、その喉から搾り出される。
「…なぜ…なぜ! なぜ、あいつなんですか! どうして、ぼくじゃないんですか! ぼくじゃ、駄目なんですか! ずっと、あなただけを見て来たのに!! ずっと…っ!」
そして、声を上げて、彼は、泣いた。
「…由良間…」
高遠は、ただ呆然と、立ち尽くすしかなかった。
その瞳には、正気の光りが、戻っていた。
風が、吹いてきたのだろう。
古い建物は、今にも壊れそうに、全体がぎしぎしと不安な音を立て始める。けれど、それでも倒れまいと、懸命に堪えている。
誰にも、見向きすらされなくなっても、それが、まるで、本能であるかのように。
閉ざされた暗闇を、身の内に、抱えたまま。
誰もが、一言も口を聞かなかった。
怪我をした者は、誰かに肩を貸してもらって、暗い廊下を歩いた。はじめは、佐木に抱えられるようにして、ゆっくりと歩いていた。
高遠は、はじめに触れなかった。
外へ出ると、中の暗さが嘘のように、日差しが目に痛いほど眩しくて、皆一様に目を細めた。もう、夕刻も近い時間だというのに。
けれど、その明るさに救われたように、皆、安堵の息を洩らしていたのは、確かだろう。
はじめが何気なく振り返ると、朽ちかけた建物がオレンジ色を帯びた光を浴びながら、そ
の扉をゆっくりと閉じてゆく所だった。もう、戻って来てはいけないと、それは、拒絶しているように思えた。
横を見ると、高遠も、同じように振り返っている。
その、不思議な色の目に映る景色を、彼はどう捉えているのか、感情を表さない表情からは、読み解くことなどできはしない。けれど、今、彼が何を感じているのか、はじめには、わかる気がしていた。
はじめが見ていることに気が付いた高遠は、そちらに顔を向けると、柔らかく微笑んだ。
「とりあえず、保健室に逆戻りですね」
そう、言いながら。
05/10/09