LOVE SONG ]
一日のうちで、一番、闇が深い時刻。
それは、夜明け前。
まるで、明け始めようとする世界を拒絶するかのように、暗闇の中に隠された何かを、手放すまいとするかのように、空間が深く沈黙する、時間。
何かに怯えるように、びくり、と、身体を震わせて、はじめは目を覚ました。
いつの間に、眠っていたのだろう。
何度か目を瞬(しばたた)きながら、はじめの頭は静かな覚醒を促す。
そうしているうちに、身体にぴったりと寄り添っている温もりがあることに気付いて、緩やかに首を巡らせた。
狭いシングルベッドの中のこと、少し動いただけで、それを確認することが出来る。
すぐ横で、綺麗な白い顔が、安らかな寝息を立てているのが、目に入った。
はじめの身体を、抱え込むように腕を回して、静かに彼は眠っている。
見つめながら、まるで、作り物のように綺麗な顔だと、はじめは思う。
この寝顔を見るのは、二度目、だったろうか。
確か一度目は、熱を出して、高遠のベッドで目を覚ましたときだったはず。
はじめは、自分を抱え込んでいる高遠の腕を静かに外すと、そっと、白い頬に触れた。冷ややかそうな見た目とは違って、意外と温かい、その感触。
と、高遠が、微かに身じろぐ。
起こすつもりは無かったのだが、彼の眠りが浅かったのだろうか。
途端、ピクリと、高遠の瞼が震え、ゆっくりと長い睫が擡げられていった。
「あっ…、ごめん、起こした?」
はじめのセリフに、けれど寝ぼけているのか、最初は何の反応も無く、ただ、ぼんやりとした眼差しを向けていた高遠だったが、やがて、はじめを認めると、穏やかに、幸せそうな笑みを浮かべた。
「…おはよう…はじめ」
言いながら、はじめの身体を、自分のほうへと抱き寄せる。
再び、高遠の腕の中に閉じ込められて、温かい素肌の感触に包まれて、はじめは目を閉じた。
以前は、恐怖にしか感じなかった腕が、やさしい温もりを与えてくれるものに変化したのは、いつだっただろう。
はじめを見つめる高遠の眼差しが、柔らかなものに変化して、どれくらい経つのだろう。
確かな安らぎが、ここにはあるような、そんな気がして、はじめも高遠の細い身体に、腕を回した。
互いの鼓動が、感じられるくらい、身体を密着させて。
ただ、静かに、抱き合って。
何も身に纏わない素肌の温もりに、なぜか、泣きたいような、切ない気持ちを抱きながら。
どれほどの時間、そうしていたのか。
「なあ、たかとお…」
ぽつりと、まるで独り言のように、はじめが、高遠の腕の中で、小さな声を洩らした。
静寂を破ることを、恐れるように。
その声が、あまりにも頼りなげに聞こえたからだろうか。高遠は、抱きしめていた体勢から、はじめの顔を覗き込むべく身体を起こすと、空いている方の手で、はじめの前髪を軽く掻き揚げた。
「…なんですか?」
言いながら、何度と無く、その動作を繰り返す。そして、はじめの眼差しが気持ち良さそうに、うっとりと眇められるのを、高遠はいとおしげに見つめた。
はじめは、もう一度、その柔らかな唇を、開いた。
「…たかとお、おれ、あんたに、ひとつだけお願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
思っても見なかったはじめの言葉に、少し、驚く。
今まで、一度たりとも、はじめの口から我侭の類など、聞いたことは無い。
「…ぼくに、できることなら」
頭で考えるよりも先に、言葉が、口をついて出ていた。
はじめの願いなら、どんなことでも、叶えてやりたかった。たとえそれが、どんな無理難題であったとしても、叶えてやりたい。
そんな想いが、胸の中に、溢れていた。
はじめは、高遠の言葉に、嬉しそうに笑みを浮かべると、少し、躊躇うように、唇に言葉を綴った。
「…今のままで…今のままのたかとおで、いて欲しいんだ。もう、以前のような、荒れたたかとおには、戻らないで…」
高遠は、目を見開いていた。
なぜ、はじめはこんなことを言うのだろう。
そんなことが、はじめの、願い?
「…きみ無しで…?」
「うん…」
「…きみがいなくても…まっとうに生きろと、言うんですね?」
「…うん… 今のたかとおになら…できるだろ?」
迷いの無い、眼差しで。
澄んだきらめきを湛えたままの、眼差しで。
自分に、何のメリットも無い願いを、口にして。
いつも、自分よりも、人のことばかりを考えて。
一番、傷ついているのは自分なのに、人の心配ばかりして。
平気なふりをして。
…そんなきみだから、ぼくは、惹かれたのかもしれないね…
高遠の手が、壊れ物にでも触れるように、はじめの頬に触れて、そっと、撫でた。
その手が、微かに震えていると感じたのは、はじめの気のせいだったろうか。
「じゃあ、ぼくからもひとつだけ、願いがあります。叶えて…くれますか?」
「…なに…?」
「いつかまた…ぼくと会ってほしい…ぼくが、きみの言う通りに生きていたら、いつか…」
はじめは、少しの間、何かを逡巡するような色を、その瞳に浮かべて。
そして、次に泣き笑いのような、表情を浮かべた。
「…いいよ。ずっと、ずっと、遠い未来でなら…また、逢ってやるよ…」
「約束ですよ?」
「うん…やくそく…な」
そのまま、口づけを交わして。
何度も、何度も、繰り返し。
まるで、離れることを惜しむ、恋人同士のように。
窓の外では、世界は蒼く、明け始めていた。
最後の夜は、もう、終わりを告げていた。
その朝、いつもはだらしなく制服を着ているはじめに、高遠はきちんと制服を身に着けさせていた。「一番上までボタンを留めると苦しい!」などと文句を言いながらも、はじめは結局、高遠の好きにさせてくれた。
綺麗に髪を梳いて、はじめに内緒で付けた首の後ろのキスマークを隠すため、髪は括らずに、下ろしたままにして。
けれど、そんなはじめの姿を目にした高遠は、奇妙な既視感を覚えていた。
真面目に制服を着て、長い髪を下ろしたままの、はじめ。
以前にも、どこかで、見たような…
食い入るように、はじめを見つめたままの高遠に、はじめは不思議そうな顔をする。
「なに、変な顔してんだよ」
「えっ?あっ、いや、なんだか、前にもこんなきみを、見たことがあるような…気がして」
そう答えた高遠に、はじめは、一瞬だけ、酷く驚いた表情を浮かべて。
そして次の瞬間には、なぜだかとても嬉しそうに、恥ずかしそうに、顔を綻ばせた。
まるで、花が開くような、そんな鮮やかな、初々しさで。
今も、高遠は、そのときのはじめの顔が、忘れられない。
たぶん、この先もずっと、忘れることはないだろう。
それは彼が、高遠に対して初めて見せた、心からの笑顔、だったと思うから。
終業式が終わって、高遠が部屋に戻ってきたときには、もうはじめの荷物は、すべて綺麗に持ち去られていた。
何もかも、消えてなくなっていた。
最初から、何も無かったかのように。
高遠は、そのまま扉を閉めると、しっかりと鍵を掛けた。
思い出をすべて、閉じ込めてしまうように。
あれから高遠は、はじめに一度も会ってはいない。
はじめが、どこの学校に変わったのかすらも、わかってはいない。
誰も教えてはくれなかったのだ。
教師に聞いても、校長に聞いても、わからなかった。
適当に誤魔化され、うやむやにされてしまうことが、何度もあったりした。
自分と、はじめの関係は、みんな知っていたはずだから、答えるわけにはいかなかったのかもしれない。
高遠自身も、自分が思いつく限りの手段を講じてはみたけれど、はじめの消息を知ることは、ついに出来なかった。
まるで、目隠しでもされているかのように、何一つ掴めないまま、今日に至っているのだ。
高遠が、はじめの部屋で懐かしい思い出に浸っていると、突然、ノックの音が、響いた。
まだ、朝、早すぎる時間。
こんな時間に、だれが?
それも、今は無人だとわかっているはじめの部屋を、廊下側のドアからノックされることなど、あるわけがないのに。
「…まさか」
……はじめ?
あるはずの無い微かな希望を抱いて、高遠は掛けてあった鍵を外すと、慎重にノブを回した。
胸の鼓動が、鼓膜のすぐ傍で鳴っているかのように、耳にうるさい。
ずっと、閉ざされていた扉の蝶番が、僅かに、軋んだ音を立てながら、開いてゆく。
その先には…
「こんな時間に…何の用ですか?」
憮然とした声が、口から零れ出ていた。
一気に、熱が下がったような感覚があった。
高遠の目の前には、色素の薄い髪を、妙にキラキラさせる技をマスターしているとしか思えない、元生徒会長が立っていた。
はじめが、想いを寄せているかもしれない、男。
自然と、表情が険しくなるのは、無理も無いことだろう。
「やっぱり…こちらに居ましたか…」
露骨に、ワザとらしく、目の前の明智はため息をついてみせる。
高遠が、黙ってそのまま扉を閉めようとすると、不敵な笑みを浮かべて、明智は言った。
「はじめくんのことを、知りたくはありませんか?」
ぴたりと、高遠の手が止まる。
「今日、きみがここにいたら、教えて差し上げようと思っていたのですがね」
射るような厳しい明智の眼差しを、睨みつけるように冷たい視線で受け止めながら、高遠はその薄い唇を開いた。
「…どうしてあなたが、はじめのことを知っているんです?」
「ぼくの家は、はじめくんのところとは、家族ぐるみの付き合いをしていますから」
勝ち誇ったように薄笑いを浮かべる明智に、無表情に向き合った高遠は、もう一度扉を押し開くと、身体を退けた。
「どうぞ」
苦々しさを含みながら、けれど、渇望に抗えない切実さを含んだ声で、高遠は言った。
「ひとりで…はじめくんのことでも、思い出していたんですか?」
「あなたには、関係の無いことだと思いますけど?」
部屋の中に入ってきた明智に椅子を勧めながら、自分はベッドに腰を下ろすと、長い足を組んで意味深に高遠は口の端に笑みを浮かべる。
「確かに、そうかもしれません」
椅子に掛けながら、明智は窓から見える、礼拝堂の尖塔に視線をやった。
「…ここからはじめくんは、いつも何を思って、あれを見ていたんでしょうね」
「どういう意味ですか?」
「…本当に…きみは、何も知らないんですね」
言いながら、明智は、今度は高遠に視線を移した。
窓から流れ込んでくる風に、明智の髪が揺れている。髪同様に色素の薄い、その眼差しの真剣さに、高遠は、居心地の悪さすら覚えたほど。
「きみは、はじめくんにあんなことをしておきながら、何一つ、知らないんですね」
責めるような響きを持つ明智の言葉に、高遠の胸の内に、形の無い不安が芽生える。
思わず、口を開いていた。
そんな思いを、誤魔化そうとするかのように。
「それは、どういう意味です?わけのわからない事を言って、この前の雪辱でも晴らしたいんですか?」
一月下旬にあった、実力考査。
実質、この学校で受ける最後の試験を、高遠は明智を抑えて、トップの成績で終えることが出来た。それは高遠が、はじめとの約束を守って、彼がいなくなってからも、真面目に生活をしていた証に他ならない。
今現在、すでに終わっている共通一次も、間違いなく通っているはず。自己採点では、納得のいく数字を叩き出せていた。
今の高遠にとって、はじめとの約束が、心の縁(よすが)になっていることは否めない。
離れてみて、自分がどれほどにはじめを愛していたのかを、改めて思い知ったといっても、過言ではない。
はじめの願いを、彼からの初めての要求を、自分は叶えてやる事でしか、彼と繋がる術を持たない。
いつか、逢えると信じて。
その時、彼に対して恥ずかしくない人間に、なっているために。
でも、それは、いつ?
はじめは、本当に、ぼくと逢ってくれるの?
明智の言葉は、高遠の中に、奇妙な影を落としていた。
何かが、引っかかる。
それは、はじめといた頃にも、感じたことのある、不安。
酷く嫌なものが、胸の奥に、重く冷たいものを感じさせていた。
「くだらないことを言う」
明智は呟くと、軽蔑するようなため息を吐いた。
「…あなたは一体、はじめの何を知っているというんです?」
苛立ちを隠せない高遠の言葉に、明智は哀しげな揺らぎを、一瞬だけ、その瞳に浮かべた気がした。
「そうですね、きみの知らない真実を、知っていますよ」
風に煽られたカーテンが、ふたりの間を遮るように、ばたばたと激しくはためいた。
窓の外からは、まるで、打ち寄せる波のさざめきの様な、常緑樹の葉擦れの音が聞こえてくる。
上空で唸る風の音は不安げに響き、すべての温もりを、容赦なく奪い去って行くかのように感じられた。
「窓を閉めても構いませんか? 少し、冷えますね」
明智はそう言うと、高遠の返事を待たずに立ち上がり、流れるような動きでそれを閉める。
室内に、突然降りる、静寂。
まるで息絶えたように、カーテンは、その活動を止めていた。
何も言えないでいる高遠を前に、もう一度椅子に座りなおした明智は、一冊の本と思しき代物を上着の中から取り出すと、高遠に差し出した。
「…なんですか?これは?」
怪訝な顔をしてそれを見下ろす高遠に、明智は、とても静かな表情で、口を開く。
「これは、はじめくんの『心』ですよ」
言っている意味を図りかねて、高遠は明智の顔を見つめた。
静かで、そしていつも自信満々の明智らしくない、どこか哀しげな空気を纏いながら、彼はじっとその本に視線を落としている。それは、鍵のついた、かなり重厚な造りの、分厚いもの。
「高遠、これははじめくんの、日記です」
「はじめの…?!」
「ええ、受け取りますよね?」
明智の言葉を聞くまでも無く、高遠は黙って手を差し出すと、それを受け取った。
かなり使い込んだのだろう、角の擦り切れたそれは、黒い皮の表紙に守られて、すべての秘密を閉じ込めているかのように、沈黙している。
「なぜ、あなたが、これを…?」
受け取った日記を、大事そうに手の中に収めながら、高遠は聞いていた。
「…もっともな質問、ですね。…それは、はじめくんから、直接ぼくが預かったものです。ぼくの判断で、きみに渡すのかどうかを、決めてくれ、と」
「なぜです?」
高遠が顔を上げると、明智は厳しい表情を浮かべて、真っ直ぐな視線を向けていた。高遠も、負けじと視線を返す。
しばしの沈黙が、凍てつく空気を、張り詰めたものに変えていた。
室内だというのに、互いの吐く息は、白い。
「…なにを…どう話せばいいのか…」
明智が視線を窓の外に逸らせた瞬間、張り詰めていた空気が、緩んだ気配がした。
高遠は、迷い無く答えた。
「すべてを」と。
05/12/08
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すいません、話の都合上、この学園の卒業日程を、通常の高校とは
違うものに変えてあります。
お話だということで、笑って見逃してやってください(汗)。
−竹流−