LOVE SONG ]T
「きみは、はじめくんの母上が、彼がまだ幼い頃に亡くなったことを、聞いていますか?」
明智が、何の脈絡も無く、そんなことを言い出した。
そんなことが、今のはじめに何の関係があるのかと、高遠はいぶかしんだが、とりあえずは話をしてもらっている身。否と、素直に答えておいた。
「…そう、ですか… 彼は本当に、何も、きみには話さなかったんですね…」
明智は、高遠に視線を戻すと、少し複雑な色を、その瞳の中に混ぜた。
「そう、さっきから何度も言われなくても、わかっていますよ。はじめは、ぼくには何も言いませんでしたから」
睨みつける厳しさを持って、明智の眼差しを受け止めていた高遠だったが、突然、ふっと視線を逸らすと、寂しげに呟いた。
「…嫌われていたのかもしれない…とは、何度も、考えました。…彼には、酷いこともしましたからね…」
酷薄な笑みを、その紅い唇に、浮かべて。
なのに、そんな高遠の姿は、明智の目には、酷く苦しげに映った。
常に自信に満ちた、不遜なまでの態度を見せる普段の高遠は、今は、影も見当たらない。
明智の、まだ知らない感情に苦しんでいる一人の男が、目の前にはいた。
「…はじめくんを、本気で愛していたんですか?」
明智の言葉を聞いた途端、傍目にもわかるほど、高遠は身体を強張らせた。
そのまま数瞬が過ぎて、やがて、ゆっくりと、高遠は明智に顔を向けた。
氷を思わせるほどに冷たく、そのくせ、燃え盛る炎を感じさせる瞳が、明智を映している。
月の色を映した虹彩が、暗く鮮やかな光を纏っているのを、明智はただ、見ていた。
「…あなたが、それを聞くとはね…」
感情を抑えた声で、高遠は言う。
はじめに愛されているという自信がそんなことを言わせるのかと、表面の冷静さとは相反する、憎悪にも似た感情が、高遠の胸の内に沸きあがる。
と、明智が、口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。
「きみは、何か勘違いをしているようですね? ぼくとはじめくんとは、ただの幼馴染で、それ以上のことは何もありませんよ?」
きみのようにはね…
言外に、含みを持たせた物言いに、高遠は神経質そうに片眉を上げたが、それ以上、反論はしなかった。
「…あなたの言うとおりですよ。ぼくは、はじめを愛してる。今も、ずっと変わらずに…」
そう言って、瞼を閉じた。長い睫が、高遠の白い肌に影を落とす。
微かに、震えているように見えるそれが、彼の想いの深さを代弁している気がして、明智は少し、視線を逸らせた。
「その言葉を聞いて、安心しました。まあ、今、きみがここにいることこそが、その証拠なのでしょうけどね」
冷たく狭い、無人の部屋には、暖房器具など置かれてもいない。2月の、この寒い時期に、あえて今、ここにいる理由。
はじめを想って。彼の面影を、求めて。
それ以外に、あるはずも無い。
「だからこそ、その日記を渡したんですから…」
明智は、高遠の手に渡った日記帳に視線を落とした。
「…そうですね… ぼくが、最後に彼と会ったときのことを、話しましょうか…」
記憶の糸を手繰り寄せるためになのか、明智は静かに、眼を、伏せた。
明智がはじめに会ったのは、八月の最後の週末だった。
蜩が、命の限りとばかりに、夏の終わりを告げていた。
盛夏の頃とは違う、少しばかり秋の気配を感じさせる風が、吹き始めていた。
夏休みも、あと僅かというその日の朝、朝食の席で、突然、明智は父親から「はじめくんがおまえに会いたがっている」と聞かされたのだ。
はじめの父と親交の深い、自分の父。
何を知っているのか、「会ってきなさい」とだけ言い、その場所を明智に告げた。
こんな言い方をする時、父親は何を聞いても答えてくれないのを、明智は経験上よく知っている。だから、そのまま何も聞かずに、不思議な思いで、教えられた場所に向かった。
なぜ、こんなところにはじめがいるのかという疑問が、明智を急き立てたのかもしれない。
午後から入っていたゼミは、すべてキャンセルした。
そこは、都内でも有名な、国立病院。
半信半疑で訪ねたその病室のネームプレートには、確かに、はじめの名前が書かれている。
信じられない面持ちで、明智はそのドアをノックした、が、返事は聞こえない。
開けてみると、手前にバス、トイレ付きの少し上等な個室で、その向うに、ベッドが設えてあるのが見えた。
一歩、病室の中に足を踏み入れると、微かな歌声が聴こえた。
聞き覚えのある歌だと、その瞬間、明智は思った。
そのまま静かに、明智が中に入ってゆくと、濃茶の髪を無造作にひとつに束ねた少年が、電動で動くのだろうベッドを、背もたれの高さにまで起こして、何を考えているのか、ぼんやりとした眼差しを、開け放したカーテンの向うに投げている。
呟きほどの微かな声で、古い愛の歌を、口ずさみながら。
晩夏とはいえ、まだまだ夏の眩さを残した光が、彼の姿を照らしていた。
なのにその姿は、今にも消えてしまいそうなほどに、儚く見えて。
一瞬、明智はその場から動けなかった。
気を取り直して、明智が部屋の壁を軽くノックすると、少年は、大きな眼をさらに大きく見開いて、明智の方に顔を向けた。
その瞳には、さっきまでは無かった、現実を映す光が宿っている。
「明智さん?」
はじめは、瞬間、疑問を投げかけるような声で、明智の名を呼んだ。
「すみません、驚かせましたか。一応、ドアをノックしたんですが、返事が無かったので勝手に入らせてもらいました」
明智は穏やかに微笑みながら、はじめの傍に寄ると、持ってきた見舞いの品を、軽く持ち上げて見せた。
小さな籠に入った、果物の盛り合わせだ。
「花がいいかな、とも考えたんですが、きみにはこっちの方がいいと思いましてね」
明智の言葉に、はじめは、クスリと小さな笑みを洩らす。
「ありがと。こっちが呼んだのに、なんだか、気を使わせちゃったね」
はじめは、痛々しく、点滴のチューブを絡ませた腕を差し出すと、それを受け取った。
明智の目には、その腕が、随分と細く映った。いや、腕だけじゃない。今、目の前にいるはじめは、明智が記憶しているそれよりも、明らかに痩せている。
抜けるように白くなっている肌は、はじめがこの夏の間中、ずっとこの病院に入院していたことを物語るのだろう。
酷く、血色の悪い顔色が、その日に焼けていない肌を、さらに青白く感じさせた。
「ごめんね、今、誰もいないんだ」
「じゃあ、ぼくが、何か剥きましょうか?」
はじめの手から、また籠を取り戻すと、サイドテーブルの上にそれを置きながら、明智は言った。普段と変わらない態度をと、意識しながら。
「ううん、お客さんが何言ってんだよ。気持ちだけで嬉しい。とりあえず座ってよ。あっ、それとも、なんか飲む? そこの冷蔵庫に、適当にジュースとか入ってるから」
「ああ、ありがとう。でも、咽喉は渇いてませんから、お気遣いなく」
はじめ自身は、今までとなんら変わらない口調で話し、明るい笑顔を見せている。
明智も、おどけた口調で笑顔を返していた。
なのに、そんなはじめを見ながら、胸の中で不安な想いが頭を擡げるのを、明智は止めることが出来ない。
なぜ、はじめはこんな所に入院しているのか。
なぜ、今まで、黙っていたのか。
なぜ、今になって、父親ははじめに会って来いと、告げたのか、と。
窓辺の棚には、少し萎れかけた花束が、無造作に、白い陶器の花瓶に活けられている。
それ以外には、特に飾り気も無く、寂しい病室。
それは、見舞いに来る人が殆どいないことを、示唆しているかのよう。
明智は、気まずくなりそうな雰囲気を払拭しようと、何気なく、さっきはじめが歌っていた曲のことを聞いた。
「さっきの曲、随分と古い歌を知ってるんですね。バッドフィンガーの『without you』でしょう? なんだか、きみらしくない歌で、ちょっと、驚きました」
明智が、そう話を振ると、はじめはなぜか、少し、寂しそうに笑った。
「…ああ、うん。親父がさ、おれがガキの頃によく聴いてて、覚えちゃったんだよ」
「おじさんが?」
「うん、母さんが死んでから、家にいるときには、いつもあれを、繰り返し聴いててさ… あの人は、死んだ母さんのことが、とても好きだったんだ」
そう言って、明智が見たことも無い、哀しげな、大人びた表情を浮かべる。
「ガキの頃には、どんな内容の歌なのか全然知らなかったけど、『あなた無しでは、生きてゆけない』って、歌だったんだよね…」
明智が、まずいことを聞いたかと、困っていると、ふいに、はじめが口を開いた。
「…おれ、じつは明智さんに…頼みたいことがあってさ」
突然、はじめは、穏やかな眼差しで、明智を見つめた。
けれど、逸らすことすら許さない真剣な光が、その瞳の中には、潜んでいる気がして。怖いくらいの決意を秘めた光が、その瞳の中には、隠れている気がして。明智は、思わず、息を飲み込んでいた。
「…なんでしょうか? ぼくにできることなら、お手伝いしますよ?」
自分の中にある不安を、はじめには悟られないようにと、明智は言葉を選んだ。何を緊張しているのか、快適な温度に保たれているはずの室内で、背中には汗が伝っている。
「ありがと、明智さんなら、そう言ってくれると思ってた」
嬉しそうに微笑むはじめを見ながら、けれど、胸の内の不安は、なおも大きくなってゆく。
微笑み返す自分の笑顔が、強張っていないことを祈りながら、明智は子供の頃、はじめによくそうしていたように、よしよしと彼の頭を撫でた。
明智の行動に、一瞬、目を見開いて。それでもすぐに、懐かしそうな表情を浮かべて、はじめは目を閉じた。
「おれ、ずっと、明智さんが兄さんだったらいいなあって、思ってたんだ」
目を閉じたまま、小さな声ではじめは言う。
その声に、諦めの色が滲んでいる気がして、明智ははじめの顔を、見つめた。
そうして、はじめの意外と長い睫が、少し、湿り気を含んでいることに気付く。
瞼は、潤んだ瞳を隠すために閉じられたのだろう。
明智は何も気付かない振りをしながら、言葉を返した。
「ぼくは、きみのことを、本当の弟のように思っていますよ?」
「ほんと?」
明智の言葉に、はじめの瞼が、まるでばね仕掛けのおもちゃみたいに開かれて、大きな褐色の瞳が明智を捉えた。零れない程度の涙が、目の端に溜まっている。
「ぼくも、一人っ子ですからね、兄弟が欲しかったんです」
やさしげに微笑む明智に、はじめもまた、微笑み返して。
「うん、…ひとりは…寂しいもんね…」
そう、答えながら、視線を逸らすと、大きな瞳を微かに眇めて、窓の向うの空を見つめた。
「はじめくん?」
「ごめんね…おれは、明智さんの弟には…なれないや」
口元に、笑みを止めたまま、悲しそうな声音で、はじめは諦めたように呟く。
「一体どうしたんですか?」
あくまでもやさしい明智の声に、堪え切れなかったのだろう。
はじめは、一粒だけ、涙を零した。
「…明智さん、何も言わないで、おれの話を聞いてくれる?」
零した涙を拭いもしないで、再びはじめは、真剣な眼差しを明智に寄越した。
まるで、ガラス細工のように、儚げな透明感を湛えた瞳は、今にも壊れてしまいそうで。そのくせ、何処か、すべてを超越した力強さも、感じさせてその不確かなアンバランスさを内包したまま、はじめは明智を見つめている。
こんなにも、綺麗な少年だったのかと、明智は、たった今、気がついていた。
いつも、日に焼けて、少年らしい笑顔を見せて、人懐っこくて、少しだらしなくて。何処にでもいる、普通の少年だと、思っていた。ただ、誰よりも澄んだ瞳で、確かな正義感を、その胸の内に秘めた少年だとは、知っていた。けれど、目の前のはじめは、そんなものでは括れない、そんな単純な存在ではないのだと、明智に思い知らせる。
小さな頃から、知っていたはずなのに、自分は一体、彼の何を見ていたのだろう?
高遠は…確かにぼくより、見る目があるのかもしれませんね。
明智は、はじめの頬に零れた涙を、そっと親指で拭ってやると、微笑んだ。
「いいでしょう。恋の悩みでも何でも、聞いてあげますよ。きみのお兄さんですからね」
明智の言葉に、本当に嬉しそうに。
けれど、今にも泣きそうに。
はじめは、口元を歪めた。
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4ヶ月ぶりの「LOVE SONG」です。
長いこと、放置状態ですみませんでした(汗)。
まだ、もう少し、続きます。
長いお話になってしまい、申し訳ありません!魚里さま!!
−竹流−