LOVE SONG ]T



「ねえ、明智さんは、親に愛されてないんじゃないかって…考えたこと、ある?」

どんな話でも驚くまいと心構えをしていた明智だったが、いきなりの質問に、少々面食らっていた。しかも、想像もしなかった質問だ。
「黙って聞けというから、そのつもりでいたんですが、まさか質問から入ってくるとは、少しばかり意表を突かれましたね」
右手で眼鏡を押さえながら、明智は正直な感想を漏らした。
「そう言えば、そうだね」
口元に苦笑めいた笑みを浮かべながら、まだ湿り気を帯びた瞳で、はじめはこちらを見ている。けれど、その眼差しが、その答えを真剣に求めている気がして、明智は思わず居住まいを正した。
「ぼくは、父母の愛情を疑ったことは、一度もありませんよ?」
思ったことを包み隠さずに告げながらも、はじめが何を聴きたいのかを図りかねて、明智は疑問を呈するように語尾を少しだけ上げた。
「そっか。そうだよね」
なのに、返ってきた言葉は淡々としたもので、全くと言っていいほどに、はじめらしくない。納得できない思いではじめを見つめていると、彼の顔から、ふいに表情が消えた。
「はじめくん?」
戸惑いが、きっと声にも含まれていたのだろう。そんな明智の声を聞いたとたん、我に返ったかのように、はじめは寂しそうに微笑んだ。

「…おれね、父さんに愛されてないんだと、ずっと思ってたんだ…」
「どうして、そんな馬鹿なことを考えていたんですか」
「うん…」

はじめは、明智から視線を逸らせると、黄色みを帯びた午後の日差しを注いでいる窓の外を眺めるように、再び顔をそちらへと向けた。
光の中には、小さな埃が氷の結晶を想わせるきらめきを纏いながら、ふわりふわりと頼りなげに漂っている。
そんな光の中で、はじめの姿は今にも消えてしまいそうに、儚げに浮かび上がっている。
襟元から覗く鎖骨が、その痩せた身体を際立たせるように、目立つ陰影を形作っている。

見ているだけで、痛々しい気分になってしまう。はじめの痩せ方は、そんな病的な痩せ方だ。
なぜ痩せてしまったのか、その理由を、正直なところ、明智は知りたくない。
それを知ってしまうのは、とても恐ろしい。
けれど、自分は知らなくてはいけないのだろう。ここへ呼ばれたのは、きっと、そのためなのだから。
明智は自分にそう言い聞かせながら、ベッドの傍らに置かれた椅子に、じっと腰掛けていた。
数瞬の沈黙が、酷く長く、重く感じられた。
膝に置いた手が無意識のうちに、関節が白くなるほどに硬く、拳を握り締めていた。

やがて明智の見ている前で、はじめの手が明智のそれと同じように、身体に掛けられている毛布の白いカバーをぎゅっと握り締めた。その手が微かに、震えているのがわかる。
それから、何かをためらうように、何かを決意したように、厳かにくちびるは開かれた。

「…明智さん、あのね。おれ、母さんと …同じ病気なんだ」

穏やかな声だった。
けれどその言葉は、はじめ自らの死を宣告するも同然の意味を伴っていた。
それは、今もまだ治療法のわからない、遺伝性の不治の病。一度発症してしまうと、手の施しようのない、死に至る病。
はじめの母は、そのために、早くに亡くなっている。

まさかという思いと、やっぱりという思いとを同時に感じながら、それでも、今聞いた言葉を事実として受け入れられなくて、明智は一瞬、絶句した。
今現在、目の前にいる人間が、そんなに遠くない未来、この世からいなくなってしまうという、その事実の持つ重みの、実感の無さ。
しかもはじめは、まだまだこれからという年齢の若者ではないか。
信じたくない思いが勝って、明智はただ、十分すぎる間を取ってから、
「えっ?」
と、間抜けな声を返すことしかできなかった。
固いはずの床が、グラリグラリと足元で不安定に揺らいでいる。
そんな現実感の無い感覚が、眩暈のように明智の身体を捉えていた。

「ホントは、おれがここにいるって知ったときから、そうじゃないかって思ってたんじゃない? 明智さん、鋭いもんね」
はじめは、なんでもないことのように、ことさらに明るい声を出して、また、明智に顔を向けた。
その顔は、人懐っこく微笑んでいる。
それは普段と変わらない、見慣れた笑顔。
「いや… ぼくは…」
そんなはじめに、明智のいつもの歯切れのよさは、鳴りを潜めてしまっていた。どう答えていいものなのか、言葉すら見つからない。と、目の前で、くすくすと笑う声。
「明智さんでも、そんな困った顔をすることがあるんだね。おれ、はじめて見た」
まるで、すべてが冗談だとでも言うように、はじめは明るく笑って見せる。けれど、はじめが話したことは、おそらく事実なのだ。
性質の悪い冗談を言うような少年ではないことぐらい、幼い頃から知っている。
何よりも今のはじめの姿が、それが真実なのだと、物語っている。

点滴につながれている細い腕を見ながら、明智は胸に鈍い痛みを感じていた。
やりたいことも、夢も希望も、その腕にいっぱい抱えていたことだろう。
未来への扉は、誰にでも無条件で目の前に開かれているものだと、今まで単純に明智は信じていた。けれど、彼の扉だけは、すぐ目の前で閉ざされているというのだ。
自分の責任ではないのに、もう、おまえの未来は無いと宣告されることほど、残酷なことは無いに違いない。
自分よりも年下で、まだ、人生を何も始めてなどいない年頃で。
なのに、全てを諦めて、はじめはここにいるのだろうか。
ただ、ベッドに縛り付けられながら、そのときを待っているのだろうか。
知らず、奥歯をかみ締めていた。

自分は彼に、何もしてやれない。いや、してもこなかったではないか。

「…はじめくん…」
「ああ、ごめん。そんな顔しないでよ。明智さんを困らせるつもりじゃないんだ。ただ、誰かに聞いてほしかっただけなんだ。もう、おれには、時間が無いから…」
また少しだけ、寂しそうな笑みを浮かべると、はじめは自分の手元に視線を落とした。
握り締められたままの白いカバーが、引き攣れながら深く複雑なしわを刻んでいる。それを見つめながら、はじめは、小さく息を吐いた。

「おれ、嘘つきだから、平気なふりして誰にも黙ってたけど、…本当は、母さんが死んでから…ずっと、寂しかったんだ…」

明智はかける言葉も見つからないまま、はじめの言葉を聞いていた。
微かな空調の音が、白い無機質な病室の中に響いている。
完全防音とまではいかないらしい窓ガラスが、屋外の車の騒音を、僅かだが室内に届けてもいる。
そんな風に、まったく音が無いわけではないのに、なぜだか怖いくらい静かだと、明智は感じていた。
悲しい静寂が、この部屋には満ちている。
そんな気がして、仕方が無かった。




はじめの母が亡くなったのは、はじめがまだ五歳になったばかりの頃。
そのせいなのか、はじめは母の顔を、写真でしか知らない。
亡くなった原因は、先天性の遺伝病。未だ原因の分からない、難病だった。
まだ、随分と若かったらしい。葬儀の時、父が激しく泣いていたのを、はじめはぼんやりとだが、覚えている。
泣いて泣いて、黒いスーツを纏った大きな背中を震わせながら、棺にしがみついていた。
そんな、淡く、おぼろげな記憶。
そして、その日から、だったろうか。
父親が、はじめを見てくれなくなってしまったのは。

父は、はじめを祖父母に預けたまま、スケジュール帳の隙間も無いほどに、日々、仕事に明け暮れはじめた。たまに珍しく家にいるときも、自室に篭ったまま、同じ音楽ばかりを繰り返し繰り返し、壊れたプレーヤーのように聴いていた。
それは、幼いはじめが耳で聞いて、すっかり覚えてしまうほどに。
その外国の曲が、切ない愛の歌だとはじめが知ったのは、中学になってから。それまでは、意味もわからずに、よく、口ずさむようになっていた。
父が好きだと思う音楽を歌うことで、母のいない寂しさを、少しでも紛らわせようとしていたのか。それとも、父に喜んでもらおうとでも思ったのか。当時の自分が何を思ってその曲を覚えたのかは、はじめ自身、わからない。
ただ、どうしようもなく寂しかった。けれど、寂しいとは、決して口には出さなかった。
年老いた祖父母を、心配させたくは無かった。なによりも、母を失って泣いていた父を、心配させたくは無かった。
なのに、そんなはじめの気持ちも知らずに、父はますます仕事にばかりのめり込み、ふり向いてくれることは、一度も無かった。
祖父母はとても優しかったし、大好きだった。でも、はじめが大きくなるにつれて、逆に、年老いた祖父母は、小さくなってゆくような気がして。

いつも、どこか、不安で。
いつも、どこか、孤独で。
いつか、母と同じように、無くしてしまうんじゃないかと。

怖くて。
怖くて。

けれど運命は残酷で、はじめが小学四年生になる前に、その不安は現実のものとして、目の前に突きつけられてしまった。
祖父母が亡くなってしまったのだ。
それは、まさかの不慮の事故。
突然の喪失に、はじめはどうしていいのかわからず、泣いて、拠り所を求めて、はじめて父親にすがろうとしたのに、なのにその時、父は言った。

「…おまえも、おれを置いて、先に逝ってしまうんだろう? 母さんと同じ病気で、おまえも… なんでいつも、大事なものは、おれを置いていってしまうのかなあ… 愛するものに置いていかれるのは、父さんは、もう、イヤなんだよ…」

言いながら、父は、泣いていた。

一度に、両親を亡くした悲しみもあったのだろう。
酔っていたせいもあるのだろう。
かなり、自棄に陥っていたせいもあるのだろう。

けれどそれは、決して言ってはならない、一言だったのに。

その時、はじめは、すべてを理解してしまった。
父が、自分を愛してくれない理由を。
仕事にばかり、逃げてゆくそのわけを。

それは、はじめ自身が、先に置いてゆく側の、人間だからなのだ…と。

止めどなく涙は零れるのに、感情が空っぽになった気がしていた。
そう、まだ幼い心のままに、はじめは、知ってはいけないことを、知ってしまったのだ。



その次の日から、不思議なくらい、はじめは泣かなくなった。
辛いことなど、何も存在しないかのように。
相変わらず、父は、はじめに関わってはこなかった。けれど、もう、それでよかった。
家の中でも、自分のことは自分でやり、住み込みでやって来た家政婦さんにも、手を煩わすことの無い、いい子で通し続けた。
誰とでも、当たり障り無く適当に付き合って。そのくせ、親しく馴れ合うことだけは、しなかった。
誰にでもいい顔をするくせに、付き合いの悪いやつだと、嫌がらせをされたこともある。
シカトされて、仲間はずれにされたこともある。
けれどはじめは、誰にも、何も言わなかった。

父の手も、誰の手も、煩わせてはいけないんだ。
だって、おれは…

六年生になる前に、幼馴染でひとつ年上の明智が、私立の全寮制の進学校に入ったという話を聞いたはじめは、そこへ行こうと思い立った。
父の傍を、離れよう。
それが、きっと、一番いいこと。
まだまだ子供のはじめが、こんなことを考えていたなどと、誰も気付きはしなかっただろう。
だから、はじめが中学を受験すると言い出したときも、幼馴染がいる学校へ行きたいのだろう、ぐらいにしか、大人たちは捉えていなかった。
けれど、はじめには、頑なに決心していることがあったのだ。

そして、ちょうどその頃だったろうか、父親が一人の女性を連れてきたのは。
その人は父と同じ弁護士として働いている人で、新しい母親になる人だと紹介された。けれど、はじめは一度も、その人のことを『お母さん』とは呼ばなかった。
まるで一線を引くように、決して踏み込もうとはしなかった。
母が欲しくなかったわけじゃない。新しい母だという人に、反発していたわけでもない。
ただ、深く関わることを避けたかった。父と同じように。
ずいぶんと、可愛げのない子供だったはず。それでも、彼女は何も言わずにいてくれた。決して必要以上に、接しようともしてこなかった。
傍から見れば、冷淡にすら見えたかもしれない。歩み寄ろうとするそぶりさえ見せないふたりに、無責任な悪いうわさを立てられているのもうすうす知っていた。おかしな同情の言葉を掛けられたことも、何度かあった。
けれど、そんな距離のある関係は、はじめにとってはとても楽だったのだ。

今になって、はじめは思う。
彼女は、もしかすると、自分の気持ちを一番理解してくれていたのではないだろうかと。
心無いうわさに傷つけられることもあったかもしれないのに、彼女は、本当に何も言わないでいてくれた。
強い人だと思う。だからこそ、安心して父を任せられるのだとも思う。
自分がいなくなっても。

そうしてはじめは、翌年、中学受験を受け、明智と同じ学校に入学した。
そのことについては、じつは周りの者たちは、心底驚いていた。
元々、そんなに成績が良い方ではなかったから、どんなにはじめが頑張ったとしても、あのレベルの高い学校に入るのは、とてもではないが無理だろうと、学校の教師たちは考えていたようだ。
受けるだけ受けても、いい経験にはなる。どうやら、そんな目で見られていたらしい。
大体が、中学を受験するつもりであったのなら、普通四年生時には、それなりの塾に通い始めているものなのだ。それが六年になってから、しかも、最高レベルの競争率を誇る学校を受けると決めるのは、傍から見ればさぞかし無謀に映ったのだろう。
だが、一旦目標を決めたはじめの記憶力は、凄まじいものだった。ほんの短期間で、すべての教科を網羅し、さらにハイレベルな問題までこなせるほどに、急速な伸びを見せたのだ。教師どころか、親がつけてくれた家庭教師でさえも、舌を巻くほどに。

合格が決まった日、家庭教師は言った。
「よく頑張ったね。きみが本気を出せばここまでやれるんだから、きっと、いい大学まで行って、好きな職業に就けるよ。それとも、お父さんの跡を継いで弁護士になるのかな? 将来有望だね」
そして、陽気に笑った。
はじめも、曖昧に微笑み返した。でも、返事はできなかった。

どうして、はじめがこの学校を選んだのか。
その理由を、誰が理解できるというのだろう。

父が何度も聴いていた曲が何だったのかを、はじめが知ったのはこの頃のこと。
「あなた無しでは、生きてゆけない」と何度も繰り返す、60年代の古い洋楽の、哀しい愛の歌。
はじめが、そらで歌えるようになってしまうほどに、繰り返し父が聴いていた曲は、母を想う父の心、そのままだったのだろう。
父がどれほどの想いで、母を愛していたのか、はじめは良く知っている。
愛する人を亡くした人間が、どんな風になってしまうのかを、その悲しみを、知っている。

だから自分は、誰にも愛されないように、生きよう。
誰も、愛さないで、ひとりで生きよう。
そう、決めていた。

もう、傷ついて苦しむ人の姿を、見たくはなかった。
傷つくのは、自分だけで充分。
だって自分は、置いてゆく側の人間、なのだから…

悲しい決意を胸の奥に秘めて、はじめは中学の門をくぐったのだった。

to be contenued

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