LOVE SONG ]V





「はじめくん!」
突然の、明智の怒ったような声に、はじめはハッと現実に意識を戻した。
どうやら、話しながら、その頃の記憶の中に埋没していたらしい。
「えっ? な、なに?」
戸惑いをはらんだ声が零れ出るのを、どこか他人ごとのように聞きながら、はじめは明智をその茶褐色の瞳の中に捉えていた。

「きみは、…ぼくに一言も相談しないで、ひとりで全てを抱え込んでいたんですかっ!」
握った拳を震わせながら、悔しそうに唇を噛み締めて、明智はそこに立ち尽くしていた。その背後には、彼が掛けていた椅子が倒れている。立ち上がった勢いで倒したのだろうが、そのことにすら、明智は気がついていないらしい。
「ぼくは…何も知らないで… きみの表面だけを見て、何の悩みも無いのだとばかり… 高遠とのことだって、もっと早く、ぼくが気付いてさえいれば…」
深く後悔を滲ませた声が、明智の喉から絞り出されている。
自分自身を許せない。
そんな声すら、明智の身体の中からは、聞こえてきそうだった。
まるで自分に絶望したかのように、眉間には皺が寄せられ、苦しげな眼差しではじめを強く見つめている明智。
なのに、はじめはというと、驚きに目を見開きながら、珍しいものでも見るように呆然と明智を眺めていた。いつも冷静な明智が、こんな風に激情を露にしているところを見るのは、長い付き合いの中でも初めてだったからなのだが。
「はじめくん、ぼくは…」
さらに何かを言おうとした明智に、はじめはようやく我に返った。明智の激高はそれほどに、はじめを驚かせたということらしい。
「あ、明智さん、待って、そんなに自分を責めんなよ。言わなかったのは、おれが自分で勝手に決めてたからなんだって」
慌てて凭れかかっていたベッドから身体を起こすと、握り締められたままの明智の拳を両手で包む。
「でも、ありがと。おれ、すごく嬉しいや」
「はじめくん…それでも、ぼくは…」
なおも自分を責めようとする明智を、はじめは明るい瞳で見上げると、今度は、なぜか白い歯を見せて笑った。
「大丈夫だよ。おれ、何も死ぬわけじゃないもん」
「えっ? でも…きみは…」
「あはは、ごめん。今までの話だけ聞いてたら、そう思っちゃうよね」
何がなんだかわからないという表情を見せる明智を尻目に、はじめは、さらに続けた。
「うん、死ぬわけじゃない。でも、お別れなんだ、明智さん」
言いながら、明智の拳を包んでいた手を、はじめはそっと放した。

「死なないけど… でも、もう逢えないかも知れない…」
それは、少し、寂しいね…
そして、明るく笑っていた顔に、微かな切なさを浮かべた。

「一体、どういうことなんですか?」
当然の疑問だろう。不治の病に侵されていて、なのに死ぬわけではなく、けれどお別れだというはじめの言葉に、まるで一貫性は無いように思える。明智を慰めるための、ただの適当な言い訳と捉えられないことも無い。
はじめを見つめる明智は、真剣にその答えを欲した。
「う〜ん、そんな風に訊かれるとなあ…」
はじめは、いぶかしげな色に染まる明智の眼差しを受けて、困ったように頬を掻いている。
「びっくり…しないで聞いてくれる?」
ちらりと、叱られはしないかと顔色を伺ういたずらっ子のように、上目遣いで明智を見るはじめに、さらに困惑の度合いを深めながらも、明智は頷いた。

「じゃあ、とりあえず、立ってないで座んなよ、明智さん。あっ…椅子、起こさないといけないけど…」
はじめの言葉に振り返ると、背後には、乱暴に倒れた椅子がひとつ。
その時初めて、立ち上がりざまに、自分が倒したのだということに気がついた。
自分らしくないなと、明智は内心苦笑を漏らした。病院内であるまじき失態だと、自分でも思う。はじめの話を聞いているうちに、いつもの冷静さを失ってしまったということなのだろう。
それほどに、はじめの話は、明智にとってショックだったのだ。
幼い頃から知っていたはずなのに、あまりにも自分が、何も知らない幸せな子供だったことを、思い知らされて。
もしも、自分がはじめの立場だったらと、考えることすら、おこがましい。

「すみません、少しばかり感情的になりすぎてしまったようです…」
椅子を起こすと、気を落ち着けるように深く息を吐いてから、明智はもう一度座り直した。両の手はきちんと膝の上にそろえられている。
そんな明智に、はじめは優しく微笑んでいた。



「どう話せばいいのかな?」
そう、口を開いたはじめの話は、またしても、明智が想像していたよりも唐突だった。

「明智のおじさんと同じように、学生時代から親しく付き合ってる父さんの友達の中にさ、『MIT』の研究室に勤めてる人がいるんだ」
「『MIT』…というと、『マサチューセッツ工科大学』のことですか?」
それは、世界でもトップレベルの超有名工科大学の略称だ。世界有数の優秀な頭脳が集まるその大学を、人は学校名ではなく、『MIT』と敬意を込めて呼ぶのだという。
だが、突然、何の脈略もなしに出てきたその大学の名と、はじめが言いたいことの接点が、明智にはわからない。
「うん、そう。でね、そこでは、もう随分前から冷凍(コールド)睡眠(スリープ)の研究がされてんだって」

そこまで聞いて、明智はピンと来た。だが、それはあまりにも荒唐無稽な気もする。
しかし、そうだとするならば、確かにはじめの言っていた言葉と符合するのではないか。
「…まさか」
思わず、言葉に出てしまっていた。
はじめが、その声に反応して、明智に顔を向けた。
穏やかに、静かな表情で。

「うん。その『まさか』だよ」
確認するように、一言ずつ区切りながら、はじめははっきりと肯定した。

「おれね、冷凍(コールド)睡眠(スリープ)することになってるんだ。この病気の治療法が確立するまでって期限で」
「待ってください。もしかして、それはまだ、実用段階ではないのでは…?」
冷凍睡眠の技術が確立したなどという話は、未だ聞いたことがない。
けれど明智の言葉に、はじめは笑った。大丈夫、平気だよ、とでも言いたげに。
「一応ね、動物実験は全部クリアーして、すでに人体実験も行ったそうなんだ。一ヶ月ほどの短期間だけどね。それは、成功だったって」
「でも…長期間の保障は…」
明智の疑問を遮るように、はじめは言葉を続ける。
「その実験体になったのが、父さんの友達なんだぜ? なんか、すげえじゃん」
明るく言いながら、なのになぜか、はじめは涙を浮かべた。
それは見る間に零れ落ち、幾つもの雫となってはじめの頬を伝う。
はじめは慌てて俯くと、細くなった腕でそれを拭った。
明智は、なぜはじめが泣くのかわからないまま、ただ見ているしかなかった。

「おれ、バカだった」
流れる涙を止めることもできないまま、何度も何度も涙を拭いながら、それでも言いたいことがあるのか、涙声ではじめは話し続けた。
「おれが死ぬのをわかってるから、父さんはおれを愛してくれないんだと思い込んでた。仕事ばっかりしてさ、おれから逃げてるんだって、ずっと…」
「はじめくん…」
「…ねえ、明智さん。まだ、一般に公開されてもいない装置を使わせてもらうのに、どのくらい金がかかると思う?」
「それは、見当もつきませんが、でも、実用段階でないのなら…」
「うん、実験体としての形なんだから、本当なら金なんかかからないのかもしれない。おれも良くわからないんだけどさ。ただ、他にもおれと同じような理由で験体になりたいって話は、いくらでもあったんだって。験体になれるのは、ほんの数人だけなのに…」
「まさか、そのために?」
「うん、すげえ額の金を積んだみたいだよ。寄付金って名目で。一生、必死で働かなきゃ返せないくらい」
そこまで話すと、はじめは、震える息を吐いた。
「おれ、本当にバカだった。入院する少し前に、急にこのことを知らされてさ。それまでずっと、おれは生まれてきたのが間違ってたんだって、全部諦めてたんだ。愛されないんだって、愛されちゃいけないんだって。誰も、愛しちゃいけないんだって。でも父さんは、ちゃんとおれのこと考えてくれてた。父さんなりの形で、愛してくれてたんだ」

はじめは、顔を上げた。
涙に濡れながら、綺麗に微笑んでいた。

「生きろって、おれに未来をくれるって、諦めるなって」

明智は、穏やかに微笑み返すと、はじめの頬に流れる涙を、ポケットの中にあったハンカチで拭った。はじめは、されるがままに明智を見つめていた。

「寂しいなんて、おれのわがままだった。おれ、誰よりも、愛されてたんだよ…」
そう言って、また、新しい涙を浮かべた。
胸の奥で、幸せを噛み締めるように。

そう…
全部、諦めなきゃいけないと思っていたのは、おれの思い込みだったんだ。
これは、父さんが掛けた一縷の望み。おれに未来を与えるための、最後の希望。
だから、たとえ失敗したとしても、何の後悔もないよ。

でも、ただひとつだけ、心残りが、あるんだ…

「ねえ、明智さん?」
明智から借りたハンカチで顔を拭いながら、なぜか突然、はじめは頼りなげな声を出した。
「なんでしょう?」
「じつは、頼みが…あるんだけど…」
言いながら、ベッドのすぐ横に備えてある棚の引き出しから、一冊の本のようなものを取り出す。
角の擦り切れた黒い皮の表紙の、鍵のついたそれを見た瞬間、明智は日記だと直感した。
「日記、ですか?」
「さすが明智さん、鋭いなあ」
はじめは笑いながら、その表面を撫でている。いとおしげに。
「おれね、嘘ばっかりついてたけど、ここにはおれの本音が書いてあるんだ。中学に入ってから、今までずっとつけてた日記だから…おれの『心』、みたいなものかな?」
「それを、ぼくにどうにかして欲しいんですか?」
家族に渡すのは憚られるから、燃やして欲しいとでもいうのだろうと明智は考えたのだが、はじめは緩く首を振って、それを否定した。
「これを…高遠に、渡して欲しい」
「高遠に?」
思ってもいなかったことを言われて、明智は内心、驚いていた。
「うん… でも、渡すかどうかは、明智さんが判断してくれればいいよ」
「それは、どういうことです?」
「もしも、高遠がおれのこと忘れてなかったら…渡して欲しい。でももし、高遠が忘れてたら、新しい恋人とかいたら、これは燃やして欲しい。お願い…できるかな?」
はじめはおずおずと躊躇いがちに、明智にその日記を差し出した。
「…今日、ぼくを呼んだ一番の理由は、もしかして、これですか?」
受け取りながら、明智は訊いた。

もしかすると、大変な役割を自分は託されたのではないだろうか。
手の中の分厚い日記帳の重みは、違う意味の重さをもはらんでいるのではないのか。
そんな気がしていた。

「最後に、明智さんにだけは会っておきたかったんだけど… 確かにそれもある…かな…」
申し訳なさそうにトレードマークの太い眉を少し寄せながら、はじめはまた、頬を掻く。これは、バツが悪くなったときにも、出る癖なのだろう。
それから、どこか遠い眼をして、はじめは明智を見つめた。
明智を見ながら、明智を通して違う誰かを見ているみたいに、切なさを抱いた眼差しで。
そんなはじめの姿に、明智はようやく何かを、理解した。

「彼には…」
明智の言葉に、はじめが視線の焦点を合わせる。
「彼には会わないんですか?」
愚問だと、明智自身わかっていた。会うつもりなら、日記など自分に託しはしないだろう。それでも、言わずにはいられなかった。それで、いいのかと。
目の前のはじめは、瞳の中に一瞬の揺らぎを垣間見せて、それから、また、ゆっくりと首を横に振った。何かを、硬く決意している、そんな空気を纏いながら。
頑なに何かを閉ざそうとしているはじめに、明智はさらに言葉を続けた。
「以前、きみが制服のまま水に濡れていた日、高遠とのことをどうにかしましょうかと、ぼくがきみに話しましたね」
はじめは、素直に頷いている。
「あのとき、きみは言いましたよね」

もう少しだけ、待って、明智さん。
おれ、高遠のことを、なんとかしてみせるから…

「ああ… うん」
懐かしそうに、はじめは少しだけ、眼を眇めた。
もう、随分と昔のことのように思えるけれど、まだ、ほんの3ヶ月ほど前のことだ。
それなりに激動の人生だったと思える自分の人生の中でも、とくに激しい時間だったなと、今思えば、笑える気さえする。

「あれは、どういうことだったんですか? あの後、確かに彼は変わりました。やはりあの言葉は、高遠とのことを自分でどうにか解決するという意味ではなくて、『高遠自身を変えてみせる』ということだったのではないのですか?」
明智の、眼鏡の奥の眼差しは、なぜか労わるように優しい。
「…さあ、どうだろう…」
答えながら、はじめは少し苦しい。
周りの心ある人たちに、心配ばかり掛けていたのはわかっている。
それは一見、高遠のせいでありながら、本当は、自分のわがままでもあったのだ。

「きみの全てを投げ出してまで。なぜそこまで出来たんですか?」
率直な明智の言葉に、はじめはそれ以上答えられなかった。
もう、自分の中では決着がついている。他の誰にも、何も話さないと。
真実は、日記の中にだけ閉じ込めてある。自分がいなくなってから、彼にだけ知ってもらえれば、それでいい。
彼が、自分のことを、忘れていなければ…

こう考えられるようになっただけでも、凄い進歩だとはじめは思うのだが、でもそれは、誰にもわかってはもらえないだろう。
本当は、全部、誰にも秘密にして、逝こうと想っていたのだから。
あの頃の自分は、人を愛する資格も、未来も無いと、思っていたのだから。

「はじめくん、きみはやっぱり」
「それは、明智さんのご想像にお任せするよ。おれには、何も言うことなんてないんだ」
はじめは笑った。
なのに、少しだけ、その眼が潤んでいる気がするのは、明智の気のせいではないはずだ。
後悔しないんですか、と、言いかけて、明智は口を噤んだ。
きっと、はじめは何も答えないだろう。彼自身、全てを考えつくして、出した結論なのに違いない。

けれど。
やはりそれは、とても悲しい決心だと、明智には思えて仕方がなかった。

「随分と、日が傾いてきたね」
窓の外を見て、はじめが驚いたように声を上げる。
いつの間にか、部屋に差し込む日差しは茜色へと変わっている。白いはずの病室の壁の色が、夕日と同じ色に染まりながら、灰色の影を長く引いている。
窓の向こうに見えるビルの谷間越しの夕空を背景に、黄昏色に染まるはじめの姿は、まるで一枚の絵のように、印象的で美しい、と明智は思った。
線の細い、儚げな姿は、今にも黄昏色の世界に溶けてしまいそうだ。

「ああ、こんな都会の夕空でも、とても美しいものですね」
明智の言葉に、はじめが振り向いて微笑む。
何の打算もない、そのままの無垢な命の煌めきを、湛えながら。

これが最後なのかもしれない。

そんな思いが、自分の中でハザードランプのように明滅している。夕焼けのせいだけではない切なさが、こみ上げて来そうになる。けれど、ここは泣くところではないはずだ。

はじめくんは、きっとまた、帰って来るのだから。
またいつか、逢えるのだから。
明智は、何度も自分にそう言い聞かせて、微笑んだ。

「随分と長居をしてしまいました。そろそろお暇しましょう」
「今日は来てくれて、嬉しかった。いろいろ話を聞いてくれてありがとう。明智さんのおかげで、すっきりした気分で『眠れ』そうだよ」
はじめが、細い手を差し出す。
「それは、お役に立てて何よりですよ」
明智も、その華奢な手を力強く握り返した。
「はじめくん、良い旅を。そして、いつかまた、会いましょう」
「うん、ありがと。明智さんも元気でね。また、会えるといいね」
「きっと会えますよ」
「そっか、そだね」

最後に見たはじめの笑顔は、本当に明るかった。
何の屈託もない、心からの笑顔だった。




「それが、彼と会った最後です」
明智の言葉に、高遠は固まったかのように動かなかった。手の中にある、黒い皮表紙の日記帳の表面を、じっと見つめたまま。
「高遠?」
泣いているのかと、一瞬、明智は考えた。けれど、そうではないらしい。
黙ったまま、けれど、何を考えているのか、高遠の表情は酷く静かだ。
そんな高遠から視線を逸らせると、明智も黙って、窓の外に見える礼拝堂の尖塔を見つめた。
はじめは何を祈って、あの尖塔の十字架をこの部屋から眺めていたのだろう。ここにいた頃の彼は、ひとり傷つきながら、全てを諦めていたはず。
自分の命を、未来を諦めながら、この部屋で彼は何を望み、祈ったのだろう。
でも、それはきっと、そういうことなのだろうと、明智は想う。
いつも、誰かのために、自分が傷つくことを厭わなかった彼。その最後の願いは、自分の全てを掛けて、愛するもののために捧げられたに違いない。
そう、理解している。
彼がいつから、そんなことを考えていたのかは、わからない。
けれど。

「彼は…はじめは…」
突然、静寂を遮った高遠の言葉に、明智は物思いから引き戻された。声の主へと視線を向けると、さっきと変わらず、手の中の日記帳を見つめ続けている。
「もう…眠っているということですか?」
高遠の声は、少し掠れていた。
「そうですね。八月の最後の日に、日本を発ったと聞いています。病状があれ以上進行するのは、望ましくなかったんでしょう」
「そう、ですか…」
また、沈黙が落ちる。

カタカタと、小刻みに風に揺れている窓の音を聞きながら、この部屋を照らす角度に入った太陽の光が部屋の中を満たして行くのを、明智は眺めていた。吐く息は変わらずに白いが、冷たく凍えていた室内の空気は、わずかに温度を上げた気がする。

「さて、そろそろ戻りますよ。彼との約束は、これで果たしましたから」
立ち上がろうとした明智は、ふっと、高遠が笑いを漏らしたのを聞き逃さなかった。
「…なにが可笑しいんですか?」
そのまま立ち上がった明智は、視線を険しくして高遠を見た。
「いえ…そう言えば、ぼくも、はじめと約束を交わしていたなと思いましてね」
高遠も、顔を上げて明智を見る。でもそれは、いつもの挑戦的な眼差しではなく、とても穏やかに凪いだものだった。
「はじめくんと、約束を?」
「ええ、彼にはそれを、果たしてもらわなくては」
ぜひともね。
言いながら、高遠も立ち上がった。

「明智、ぼくは今まであなたに張り合って、法学部に進学しようと考えていたんです」
明智は検事を目指して、法学部を志望している。高遠は、それなら自分も法学部に入って、弁護士になろうという魂胆らしかった。
「…きみという人は…」
「仕方ないでしょう、こういう性格なんですから」
今までの屈託が嘘のように、高遠は明るく笑ってみせる。
「でも決めました」
「何を、ですか?」
明智の問いに、高遠は不敵な笑みを口元に浮かべた。
「ぼくは、医学部に進みますよ」
明智は驚きを隠せない。そんな明智の反応に満足したのか、高遠はさらに続ける。
「必ず医者になって。何年かかっても、絶対に彼の病気は、ぼくが治してみせます」
「高遠…」
「ぼくは、ぼくの願いを諦めない。絶対に」
今まで見たことも無いほどの、真剣な眼差しだった。

高遠という男は、頭も切れるし見た目も美しいが、どこかしら酷薄な印象が拭えない男で、明智はどうにも信用できないと、ずっと思っていた。だからこそ、こんな卒業式の当日ぎりぎりまで、はじめの日記を渡さずに自分が持っていたのだ。
高遠の想いを、見極めたいがために。
だが今の高遠なら、十分、信に足ると明智は感じていた。明智が考えていたよりもずっと、この男は真剣なのだろう。
一見、冷たそうなこの男のどこに、これほどの情熱が隠れていたのかと、思えるほどに。
それとも、これこそが、高遠という男の本質なのか。
目の前で、はじめの日記帳を大事そうに抱えながら立つ男に、明智は初めて好ましい感情を持った。

「頑張ってください。きみになら、きっと出来ますよ。はじめくんを頼みます」
その言葉に、今度は高遠が驚いたような顔をして、明智を見た。まさか、そんな言葉が返ってくるとは思ってもみなかったのだろう。
「明智…」
「おやおや、そんな顔は、きみらしくありませんね」
「どういう意味ですか、それは」
「別に、深い意味はありませんが?」
軽口を叩き合い、互いに目線を交わして笑い合う。
朝の光に満たされた部屋の中で、ついさっきまで、ふたりの間に流れていた凍えた空気は、今はどこにも感じられない。穏やかな連帯感にも似たものが、いつの間にか、そこには存在していた。

「じゃあ、また後で。式典でお会いしましょう」
最期に明智はそう言って、部屋を出ていった。
前生徒会長だった明智と学年トップの高遠には、卒業式での仕事がいくつかある。今まで練習の度に、互いに嫌そうな感情むき出しのままで顔を突き合わせていたのだが、どうやら今日の本番は、和やかに過ごせそうだ。
「はじめのおかげ、なのかもしれませんね」
高遠は、口元に笑みを浮かべながら、今日の式典の会場となる礼拝堂に視線を投げた。
窓の向こうに見える尖塔の十字架が、陽の光を反射して眩く輝いている。
それを眺めながら、思い出していた。

最後の日、はじめは「いつか会って欲しい」という自分の願いを聞いて、きっと困っていたのだろう。今なら、それがよくわかる。
でも。
それでも、彼は約束してくれた。「遠い未来でなら」と。

何も知らずに、彼を傷つけるだけ傷つけた、自分のために。
何も言わずに、全てをひとりで抱え込んで。

本当は、今日この部屋へ来たのは、自分の気持ちを整理するためだった。
消息の掴めないはじめに、自分はやっぱり嫌われているのだと、諦めようとしていた。

でも、もう、諦めない。終わったことだなんて、思わない。
神に誓ってもいい。この命を掛けてもいい。
自分は、あの日約束したはじめの願いを、必ず叶えてみせる。
真面目に勉強して、立派な医者になって。
そして、彼を目覚めさせて、彼の病気を治して、自分の願いも叶えてみせる。
そのためになら、どんな努力も惜しみはしない。

「何も、終わってなどいない。ぼくは諦めませんよ、はじめ」

まるで、高遠の決意に答えるかのように。
朝の礼拝の時間を知らせる鐘の音が、神聖な静謐さを持って。
美しく晴れ渡った冬の青空に、響き渡った。


   07/05/28
改定 09/07/03

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