祭りの夜



 神――人ならざる存在との契約。
 それは、絶対のもの。
 契約を違えれば、その報いは確実に降りかかるだろう。
 人ならざる存在は、交わした約束を忘れない。
 しかし、人は簡単にそれを忘れることができるのだ。時が流れるにつれ人は老い、子を残し、孫を残し、死んでゆく。一代一代、世代は移ろいゆく。移ろうたびに、交わした約束は変化し、そうしてついには忘れ去られる。――こともある。


明治も末の出来事である。


太陽が最後の挨拶を投げかけ、山の稜線へと消えてゆく。
 もう後少しすれば、境内に築かれた舞台の上で、能が始まるだろう。
 桜の森の祭りの日。
 今年は京都から、名のある能楽師が招かれていた。
 そのために、舞手が決まるまで、二転三転した。
 村人有志の能の練習。それで決まっていたのは、今年18才になる村長の孫息子。村長が目の中に入れても痛くないくらい可愛がっている―――昭良。なのに結局、由良間という、若手では京都で一、二を争う能楽師に決定した。
 故郷に錦を飾った、金満家の陣野がわざわざ連れてきたのだ。
 それを快く思わないのは、村長や村の重鎮と呼ばれる長老たち。彼らと、金満家の陣野とは、むかしから犬猿の仲だったらしい。噂では、陣野は村を出たのではなく、彼らに追い出されたのだ。だから、長老たちが見る陣野が故郷に飾った錦には、復讐の文字が見え隠れしていることだろう。今、東京から遠く離れた田舎の小村は不安な空気に満ちていた。
 しかし、それは、大人たちの間でのこと。少なくとも、子供たちには直接関係のないことだった。


「はじめー、美雪姉ちゃんもはやく」
「フミはしゃぐなって。祭りは逃げない」
 篝火に照らし出される夜の能舞台はたしかにきれいだが、子供たちにとっては退屈な出し物でしかない。子供たちの楽しみは、参道にずらりと並ぶ出店の群である。はじめの従妹のフミも、ませたことをいうわりには子供っぽくはしゃいでいる。
「ま〜だまだガキだよな」
「なんかいったか?」
 じろんと睨まれ、
「い〜え、べつに。ほら行けよ。こけるなよ」
 しっしと、手を振る。
 祭りの日のために新しく買ったポックリ下駄を、チリリリ…カコカコと鳴らしながらフミが参道を駆けてゆく。
 お守りは大変だよな――と独り語ちながらも、実を言えばはじめだとて能舞台よりも出店のほうが楽しみだったりするのだ。
 クスクスと美雪が笑う。
 参道の両脇にずらりと並んだ提灯の明かりに染まって、妙になまめかしい。
 きものの襟から後頭部へといたる襟足が、白くなめらかそうな頬のラインが。紅をさしたぽっちゃりとしたくちびるが。そうして、胸のまろみが。
 すべてが、はじめの意識をさらう。
 はじめの心臓がどきりと大きな鼓動を刻んだ。
「みゆき…」
 変にかすれた声。
 気づかれただろうか。
 振り向く美雪の瞳が大きくなる。
 そっと、手をとる。
 美雪の手が、はじめの手の中で怯えたように震えた。
 その時境内で、大きなどよめきが起こった。
 参道をいくらも進んでいないはじめたちにも届くほど、それは大きな歓声だった。
「なんだろ、はじめちゃん」
 残念なような、ほっとするような、複雑な感情が湧きあがる。
 はじめは美雪の手を引いて石畳を駆けた。


すっかり日が落ちた広い境内には、篝火が焚かれ、人いきれや時折り吹く風に影が揺れる。
 花冷えの寒さを忘れるくらいの人ごみ。この村の住人だけではない。もちろん、この桜の森の祭りは、近在の村々にも有名な祭りだったから、この三夜の人口は3倍以上にふくれあがる。
 そんなおびただしい人ごみの中心に、舞台はある。
 遠くからでもよく見えるようにと、3尺くらいの高さに床がある。
 その上で、ひとりの楽師が舞っていた。
 羽衣を模した織物が舞台に置かれているところを見れば、演目は『羽衣』だろうか。
 天女の羽衣。
 しかし、舞っているのはひとりだけ。相手役の姿は、ない。
 それでも、その、天女を演じる楽師の舞だけで、充分だった。
 人ではない。
 人には見えない。
 人を超越した存在。
 ぞわりと身内を駆け抜けたものは、恐怖かそれとも感動か。
 そんなことはどうでもよくなる。それほどみごとな舞が、眼前で繰り広げられている。
 はじめは、見惚れた。
 それは、境内に集った観客のすべてが、現実を忘れたひと時だった。
 あわただしい複数の足音が、夢幻の時を破るまで、その舞は、観客を虜にした。
「下りろ! 舞台から降りるんだ!」
 叫ぶのは、手に扇と面を持った若い楽師だった。
 舞台を睨みつけ、真っ赤になって震えている。
 無理矢理現実に引き戻された人たちのざわめきが境内に満ちる。
 それは不満の声であり、怒りの声だった。
 しかし、
「下りないか、引き摺り下ろされたいかっ!」
 裏返りそうな高い声で楽師が罵った時、舞台上でみごとな舞を披露していた存在が、ふわりと宙に浮かんだ。――と、見えた。人々が呆気にとられ、次いで後ずさる。
 ゴォ………
 突然一陣の強い風が吹き篝火を大きく揺らめかせた。人々がそちらに気をとられ、はっと舞台を振り仰ぐ。
 篝火に照らされる舞台の上、楽師の姿は消えていた。
「はじめちゃん? どこ?」
 傍らから消えたはじめに気づき、美雪が叫ぶ。
 しかし、はじめの返事はなかった。


※ ※ ※


「あれは、長老たちの嫌がらせだ」
 立ち上がった男が叫ぶ。
「陣野さんを村から追い出しておいて」
 村に残っていた陣野派の男たちは、これまでの鬱屈を晴らすべく口々に喚く。
 村にただ一軒の旅館の座敷、陣野は床柱を背に腕組みをしている。
 ぎょろりと大きな瞳が、下座に座る男たちを見渡した。
「そうですよ。今日は、僕の舞台ですよ。それを、台無しにして………」
 線の細い若者が、甲高い声で訴える。由良間という、陣野がパトロンをする能楽師だった。
「こんな田舎で、この僕が舞うのですよ。能楽界の貴公子と呼ばれているこの僕がっ! なのに、あいつっ」
 わなわなと震える由良間の肩を抱き宥めるように軽く背中を叩きながら、
「まぁまぁ、由良間さん。そう怒らないで」
 陣野の眉間に刻まれた縦皺が、彼の内心を物語っていた。


「あの楽師は、いったい誰が連れてきたんです。まるで人間じゃないみたいだった」
 神主が、長老たちを見て尋ねた。
 神主の自宅である。
「それが、誰も心当たりがないんですわ」
 長老たちを代表して、村長が答える。
「あれで、陣野の鼻を明かせましたからな。よしとしませんか」
 常々小面憎い陣野だった。そう。村の陣屋の直系と言うことで、何かと逆らってきた存在だ。
 陣野を村から追い出せた時は、清々したものだ。それが、東京で成功したといって大きな顔をして戻ってきたのだ。しかも、これみよがしに能楽師まで連れて。
 村人有志の能の練習。本来なら、今年の舞台は、村長の孫のものだった。
「できれば、あの楽師に残りの二夜も踊ってもらいたいものですがの」
 神主が呟く。
「何を言います! 当初の決定どおり、儂の孫、昭良に舞わせます」
 立ち上がった村長が、足音も荒く部屋を出てゆく。
 それを見送る一同の顔は、一様に複雑だった。


※ ※ ※


「たしか…このあたり」
 満開の桜。
 桜の森の中で立ち止まり、周囲を確かめる。
 森の中にまで篝火は焚かれていない。薄ぼんやりと、かろうじてものの形がわかるほどの、闇。だけに、いっそうのこと人は不安を覚えずにはおれなくなるのだろう。彼は誰刻であればなおのこと………。
 さわさわと、葉擦れの音。
 ぶるり
 はじめの全身が、震える。
 しんとした花冷えの寒さのせいなのか、薄闇の桜の森に独りでたたずむ不安のせいなのか、それははじめにもわからなかった。
 きょろきょろと、周囲に目を凝らす。
 一陣の風が吹いた時、あの楽師は確かにこっちのほうへと来たのだ。
 逃げた――わけではないのだろう。
 何故追ったのか。
 あまりにみごとな舞だったから、どうしても舞った本人を確かめたかったのかもしれない。
 優美な足どりは、まだ舞の続きを演じているかのようだった。が、それも束の間。森の闇に溶けるように消えたのだ。
「誰かお探しですか」
 玲瓏と――声。
 ビクンと、はじめの全身が震える。
 ギクシャクと声のほうへと顔を向けるはじめだった。
 金糸銀糸も目にあやな、能装束。しかし、なによりも人目を惹きつけずにおれないのは、舞台の上では面の奥に隠されていた容貌だった。
 闇の中だというのに、はっきりと見てとれる顔。
 それは、男のものだった。すっきりと整い、わずかの甘さすら窺えない、背筋が震えるほどの、美貌。
 灼熱に融けた金のまなざしが、男が人ならざるものであると告げる。
「あ、あんた、誰だっ!」
 オヤ? と、男の口の端が持ち上がる。とたん、冷たいまでに整っていた顔が、人がましいまでの人の悪さをたたえたモノへと変貌を遂げる。感情の窺えなかった金の瞳に、面白いものを見つけたとでも言いたそうな色が宿った。
 もとより、つけられるような愚をおかす自分ではなかった。なのに―――。
 (たかが人の子ふぜいにこのわたしが)
 相手にせずに森から追い出せば済むことだった。記憶を消すまでのことも、ない。
 しかし、震えながらも自分を睨み据える気丈なまなざしに興味がそそられた。
「この地は、我が母を祭る土地。母の眠りを守る地であろう。それにあのような男の奉納舞では、我が母は喜ばれぬ。母の眠りを不浄な楽師の舞で乱されるくらいならば、母の子であるわたしが母を慰めよう」
 抗いがたい、威厳。
 古風な、言い回し。
 だから、理解するまでに少しの時間が必要だった。
 (我が母? 母を守る土地? ってことは………)
 ぎょっと男を凝視する。
「りゅ、竜神?!」
 思わず指で指し示し、かすれた声で叫ぶ。
「…指差しは止めてほしいですね」
 そっと、自分に向けられている手を握りこみ、後退さろうとするはじめを一本の桜の幹に追い詰める。背けようとする顔を固定して、瞳を覗き込んだ。
 褐色のまなざしが、彼の視線から逃れようと、ゆらゆら惑う。
 全身の震えが、面白いくらいだった。
「君の名前は?」
 はじめの全身が跳ねる。
「さあ」
 幼子のようにイヤイヤをするはじめの顎を掴み、
「質問には答えるものですよ。違いますか?」
 口調に甘さを加える。
「イ…イヤだっ」
 はじめの拒否に、彼の眉根がもちあがり瞳がかすかに瞠らかれる。それは、感心しているようにも不快を覚えたようにも見える表情だった。
「素直でない子には、お仕置きが必要ですね」
 剣呑な台詞を、やさしいと言っていい口調でさらりと流す。
 しかしその口調には、背筋が逆毛立つに充分な、何かが含まれていた。
 嫌な予感、もしくは、悪い予感。第六感といわれるものの中でも、こういう予感は基本的に外れない。それは、人間が本能だけで生きていた時代の名残りなのかもしれない。
 はじめの全身の血が下がる。
 (こんな状況で気絶してどうする)
 自分で自分を叱咤して、はじめが男の手を逃れようと藻掻く。
 (え?)
 何を思ったのか男が手を弛めた。その隙を逃さず、駆け出す。後ろも見ずに、ただ、森から出ることをだけ考えて。
 (変だ………)
 しかし、いつまで経っても参道に辿り着かない。篝火すら見えてこないのは、どう考えても変だった。
 息があがる。もとより活動的なたちではない。走るのだってできるだけ遠慮したい性格である。
 (も、ダメ。限界…………)
 はぁはぁと、肩で息をつきながら、桜の幹に背中を預ける。そのままずるずると、根方にしゃがみこむ。
 ぼんやりと白く光る桜の花を見上げた。
 満開の桜。
 時折りの風に舞う花びら。
 ひらひらとはじめにも降りそそぐ、かすかに湿ったようなひんやりとした感触。
 昔々のおとぎ話を、はじめは思い出していた。


桜さまと呼ばれる竜神が、この地の守り神だった。


桜の花を愛で、四季折々の出来事を愛する、慈悲深い竜神。桜さまはその昔、水害に苦しんでいたこの村の人々を救った。村人を救う代償に、桜さまは永い眠りについたのだ。だから、村人たちは桜さまを慰めるために、桜さまの愛した桜の木を植えた。そうして、一年に一度、桜の咲く季節に3日3晩の祭りを行う。自分たちを水害から助けてくれた桜さまの眠りが安らかであることを願い、舞を捧げるのだ。それは、桜さまが眠りにつく前に村人たちに頼んだことなのだと伝えられている。それを怠れば桜さまは永い眠りから目覚め、村は水に沈むだろう――――と。


(まだ、何か、約束があったよな………。それを犯しても確か、ダメだったはずだ。なんだったっけ? …なにか、大切なことだったはずなんだ。……………ああ、血を流しちゃダメなんだ。少なくとも境内で。そう、だから、人が多いくせに、喧嘩なんか起きないんだよな、この祭りって。やさしくても、桜さまだって結局は竜神さまだから、だから、血に狂うんだって、聞いた記憶がある。桜さま…桜さまのこどもか。あいつ、あの楽師のこと、不浄な者とか言ってたよな。そんな人が舞ったら桜さまが喜ばないとか…。だから代わって舞を舞ってくれた。……あれ? ということは、いい竜神なのか? )
 混乱する。   
 わからない。
 本当に竜神が存在していたってことだけでも、びっくりものなのに。
 下生えを踏みしだく音もたてず、目の前に、桜さまの子供が立っている。
 はじめは、ただ相手を見上げた。さきほどまでの恐怖は、なぜか失せていた。
「もう逃げないのですか」
 白い手が伸びて、はじめの顎を軽く掴み上向かせた。
「君の名前は?」
 金色のまなざしが見下ろしてくるのを避けることなく受けとめる。
 はじめはひとつ深呼吸をした。そうして、唾を飲み込み、
「金田一はじめ。あんたは、竜神さん」
 ぞんざいに答える。
「手間をかけさせる子ですね、君は。わたしの名前は、そう、高遠とでも」
 耳元でささやき、ついでとばかりにくちびるを寄せた。
 はじめが硬直するのもおかまいなく、くちびるを落とす。思いのほかやわらかな、はじめのくちびる。はじめのからだから伝わる、小刻みな震えが心地好い。
 ドンドンと何度も背中を叩きつける拳からも、しだいに力が抜けてゆく。
 息が苦しく酸素を求めて開けたくちびるから、スルと舌が滑り込んでくる。そのぬめる感触に、はじめがおののく。
 ぴちゃりと、生々しい音がしてくちびるが離れてゆく。
 ほっと安堵の息をつくよりも先に、名残りを惜しむようについてゆこうとする自分。それに気づき、カッと赤くなる。
「へ、へんたい………」
 そんなはじめの反応に、
「意外とおくてなんですね。とっくに経験済みだと思っていましたよ」
 と、クスクスと笑う。
「わるかったなっ」
 そっぽを向くはじめに、
「拗ねることないでしょう。誰にでもはじめてという瞬間はあるものなんですから」
 高遠はささやき、耳の後ろをきつく吸った。
 高遠が吸いついているところを中心に、全身がジンジンと疼く。信じられないような熱に煽られ、自然はじめの全身が小刻みな痙攣を繰り返す。どうすればいいのかわからなくて、思わず高遠にしがみつくはじめだった。


「はじめ、おっそい! 美雪ねーちゃん心配してたんだぞ」
「フ…ミ……?」
 気がつけば、家の玄関だった。
「あほっ! あたしが他の誰に見えるんだよ。メシは?」
「いらない」
 らしからぬはじめのようすに、フミが目を剥く。
 フミの手が、額に当てられる。
 ピクンと震えるはじめだった。
「すっごい熱じゃんか。医者を呼ばないと。……おば」
「待て、待てって、フミ。オレはだいじょーぶだからさ。内緒にしてくれないか」
 あまりに辛そうなはじめのようすに、フミからいつものちゃっかりしたところがなりをひそめる。
「わかったよ。」
 ギクギクと歩くはじめに、不審な視線を投げるフミだった。
 万年床に飛び込みたかったが、そんなことをしようものなら、自殺行為である。
 (へんたい竜神め)
 ふつふつとこみあげてくる怒り。
 信じられない行為を強いられて、行き着くところまで行き着いてしまったはじめだった。
 快感にのたうった自分。あまりにも恥ずかしすぎる記憶に、どうにかなってしまいそうで。
 机に手をつき、息を詰めて腰を落とす。そうして四つん這いで布団まで進んだ。
 (くっそ〜!)
 布団を思いっきり殴りつけたとたん、腰に激痛が走る。
 はじめは思わず布団にしがみついた。
 そのとき、懐から何かが転がり落ちた。
 ハマグリのような小さな貝だった。ただ、ご丁寧なことに漆が塗られ金蒔絵までほどこされている。
 一目見るなり、はじめの顔が真っ赤に染まる。
 それには、高遠がはじめに塗ろうとした薬が入っている。
 何もわからない時ならまだしも、意識を取り戻した後に、あんなところにあんなものを塗ろうとされたのだ。
 『塗らなくてもいいと? 後で困るのははじめ、君ですよ』
 あまりの恥ずかしさに、はじめは痛みも忘れて高遠を殴ろうとして、できなかった。
 『ま、いいでしょう。辛いのは君ですしね』
 深い溜息とともに、高遠がそう独り語ちたのをはじめは覚えている。
 (あれは絶対嫌がらせに決まってる!)
 そう。わざわざ塗り薬でなくても、竜神だというのなら、傷ぐらい治せると思う。
 それをせずに、軟膏をよこすあたり、あの竜神の本性がわかろうというものだ。
 (高遠のばっかやろうっ!!!)
 怒鳴りたくて怒鳴れない。
 (もう絶対に会わないからな)
 そう決意するはじめだった。

クスクスクス………
 水晶珠に映るはじめを眺め、高遠と名乗った竜神が笑う。
 肌を合わせたのは、気まぐれ。はっきり言ってしまえば冗談のようなものだった。もちろん、はじめが彼の好みに合ったからの行為ではある。そうそう誰とでも肌を合わせるような趣味は、彼には、ない。しかし、思ったよりもはじめとのからだの相性は良かったらしく、気が漲る。
 はじめの魂の輝き。それは、たとえるなら太陽に似ている。闇が深さを増すためには必要な、光。光がなければ、誰も闇を畏れないだろう。そうして、闇がなければ誰も太陽を敬いはしないのだ。互いに互いを補い合う存在。
 (これは、儲けものかもしれませんね)
 はじめは、そうとは知らず、自分に名前を明かした。
 人ならざるものに名前を明かす。それは、明かした相手に囚われること。もしくは、従属することにほかならない。もっとはっきり言ってしまえば、妻となることなのだ。
 人にとっては、すでに失われた習慣なのかも知れないが。
 (君は、わたしのものですよ)
 きっかけはどうでも、神意となる。
 神の意思。
 一方的に神意を向けられる人間にとっては、迷惑に他ならなくとも。
 神に対する信仰が薄れてゆく時代であれ、神意は絶対である。
 ((高遠のばっかやろうっ!!! もう絶対に会わないからな))
 はじめの決意が、高遠に届く。
 (それは、ダメ、ですよ)
 クックック………
 楽しそうな、それでいて人の悪そうな笑い声。
 喉の奥で噛み殺した笑い声が、高遠の棲む空間にこだまする。
 こだまが消える寸前、高遠の姿は空間から掻き消えていた。


うつぶせのままはじめは布団をかぶっている。
 寝返りをうつのすら辛い。
 どうにか止んだと思えた痛み。それがぶり返すたびに、
 (高遠のアホ。バカ。へんたい)
 ぶちぶちと悪口を口の中で呟く。
 (寝れない)
 一日で、食事の時間の次くらいにはじめが好きな時間。
 なのに、眠れない。
 痛くて。
 ズキズキと、少しでも身動きするたびにぶり返す痛み。
 どうして流されたのか。
 快感の嫌いな者はいないから、仕方がないといえば仕方がない。しかし、その後でこんなに痛い目を味わうのだと知っていたら、流されなかったにちがいない。
 絶対。
 (もう二度と、こんなことしてたまるもんか)
 ギリギリと、くちびるを噛みしめてはじめが決意する。
「それは、ダメですよ」
 突然降ってきた声。
 忘れられない、声。
 さっきの今で、どうして忘れることができるだろう。
 (げっ)
 振り向こうとして、
 (ぎゃっ)
 あまりの痛みに布団にしがみつく。
「そんなに痛いですか」
 どこか楽しそうな声に、
「痛いわっ!」
 痛みも忘れて叫んだはじめは、もう一度布団に沈んだ。
 からだがばらばらになりそうだった。
「だから、手当てをしてあげるといったでしょう。それを拒んだのは、君ですよ、はじめ。これは自業自得ですよね」
 (ばかー。あんたのせいだろうが!)
 怒鳴りたかったが、何度も同じ愚を繰り返すのも業腹で、胸の中で罵るにとどめた。
 息を詰めて痛みが去るのを待つ。
 どれくらいの間そうしていただろう。高遠の手の感触を、布団越しに背中に感じた。
 緊張しながらも動かなかった。
 下手に動いては、また痛みに襲われる。
 そんなはじめの背中から腰へとからだの線をたどった手が、患部に触れた。
 さすがに触るな――と叫ぼうとして、不思議な熱がそこを中心にからだに染みとおってゆくのを感じた。
 熱くはない。
 温かな、熱。
 そうして、熱が染みてくるのにつれて、痛みが引いてゆくような気がするのだ。
 (気持ちいい………)
「こんなものでしょう」
 高遠の声が、はじめを現実に引き戻す。
「いかがです? もう痛くないでしょう」
 恐る恐る身を起こしてみれば、なるほど痛みは嘘のように消えていた。
「で?」
「で? とは?」
「なんだって、あんたがここにいんだよ」
「もう痛いところはないでしょう」
「う〜」
「礼もなしですか。竜神手ずからの治療ですよ」
「う〜う〜」 
 握り締めた拳がプルプルと震える。
「礼儀知らずですね」
 そのひとことに、はじめが切れた。
「誰のせいだよ誰のっ!! あんたがあんなことするからだろーがっ」
 肩で息をする。
「もとはといえば、君がわたしの後をつけたからですよ。そう考えれば、やはり、自業自得でしょう」
 しれっと言ってのけた高遠に、誰が礼なんか言うかと、頑なになるはじめだった。
 プンッと、そっぽを向く。
 (可愛いですね)
「言えないのなら、くちづけひとつに換えましょうか。もちろん、君から」
 金色のまなざしが、はじめを見据える。
 口調の軽さとは反対に、抗うことなど許さないとでもいうかのような、強いまなざしがそこにある。
「………」
 一回きりと、自分で自分をいなしながら、顔を近づけてゆく。
 (これっきりだ。これっきり……)
 緊張のあまり震える全身。
 しかし、膝の上に両手を突っ張って、顔を前に出した格好のままで固まってしまった。
 それ以上動けない。
 進むもならず、退くもならず、脂汗ばかりがだらだらと滴る。
 そんなはじめに、高遠が忍び笑いをこぼす。
 顔を突き出して目をつむっているから、まるで、誘っているように見える。
 はじめのからだの、小刻みな震え。
 高遠の瞳が、糸のように細く眇められる。
 高遠の白い手が、すっとはじめの頬に触れた。
 ビクンと全身が震える。と同時にはじめの褐色の瞳が、高遠を捉えた。
「自分からは、できない? しかたありませんね」
 あくまでもはじめが我儘だと言いたげな口調で、高遠が溜息をつく。
 カッとなるが、仕方がない。
 震えは止まない。
 近づいて来る黄金色のまなざしを見返しながら、 覚悟を決めて、はじめは高遠のくちづけを待った。


※ ※ ※


 会議は踊る。
 簡単に決着のつく議題というのは、ありえないのだろう。
 それは、規模が大きかろうが小さかろうが、変わりなく。
 村長派と陣野派が、睨みあう。
 村長の孫昭良と由良間の、争い。
 どちらが境内の舞台で能を舞うか。
 考えてみれば、些細な問題なのだが。
 どちらも譲らず、ただ時間ばかりが過ぎてゆく。
 今日は誰、明日は誰で、順番を決めて舞えばいい。そう思う村人もいるにはいた。が、そんな「なぁなぁな決着」は許さないとでもいうような雰囲気が、その場にはあった。


※ ※ ※


「今日、奉納舞するのかなぁ」
 美雪のことばにドキンとはじめの心臓が跳ねる。
「昨日の夜の楽師さん、すごかったよね」
 両手を組み、こころもち頬を染めてうっとりと呟く。
「おばあちゃんも言ってたよ。あんなにすごい楽師さんってはじめてだって。でも不思議なの。誰も、あの楽師さんのこと知ってるって人いないのよ」
 (そりゃあそうだろーよ。あれは、楽師どころか、人間じゃない。桜さまの子供なんだよ。つまりは、竜神)
 喋れればいいんだろうが、信じやしないだろう。
 ロマンティックなことを好むわりには、 意外に現実的な美雪である。
 きっと、「はじめちゃんってば」と笑われるのがおちだ。
 もし、仮に、信じたとして、どうしてそんなことを知ってるのかと問い詰められたら、自分はごまかすことができるだろうか。
 わからない。
 ぼんやりと考え込んでいると、
「はじめちゃん、どうしたの」
 美雪の可愛らしい顔が目の前にあった。
「………べつに」
「変なはじめちゃん」
 ドキッと、心臓が鼓動を刻む。
「へんか? オレ」
「うん。なんか、いつものはじめちゃんじゃないみたい」
 (変わったのか、オレ) 
 不安になる。
 女の人のような扱いをうけたのだ。
 人じゃない存在の気を受けた。
 しかも、昨夜一晩で、何回もだ。
 結局、あの後、高遠は自分を押し倒した。
 どんなに喚いても、誰も来ない。
 結界を張っているとかで、声すら部屋からこぼれなかったのだ。
 それをいいことに高遠は………。
 しかも、
 (オレのこと…サイだとぉ! ふざけるなっ!! どこの世界で、男を妻にすることができんだよ)
 思い出してワナワナと震える。
 (オレは、美雪が好きなんだぞ)
 なのに、
 『他の人に手を出してはダメですよ。君はもうわたしのものなんですから。そう。言ってみれば、君は、わたしの妻(サイ)なんですからね』
 と、高遠は言ったのだ。
 竜神の一晩きりの気まぐれ―――だと思いたかったのに。せめてそういうことなら、納得してみせる。忘れることができるかどうか、わからないけれど。そのうち、記憶の奥にしまいこむことができただろう。なのに、
 『君が誰かに手を出せば、逆でもかまいませんが。その人間は、男だろうと女だろうと、死にますよ。竜神の妻に手を出すわけですからね』
 (なんでだー???)
 叫びたかった。
 (いったいオレのどこを気に入ったっていうんだよっ。オレって、もう普通の人生を過ごせない?)
 頭の中が、ワヤだった。
「はじめはいっつも変だよ」
「フミちゃん」
「美雪お姉ちゃんこんにちわ。はじめはいつも変なんだから、お姉ちゃんが心配することないって」
 庭から入ってきたフミが、
「美雪おねえちゃんが来てくれてるのに、ぼーっとすんなよはじめ」
 ぽかんと、一つ拳固をくれた。
 いつもだったらそんなフミに食ってかかるはじめなのに、何の反応もない。
「変でしょ。今朝からずっとこうなんだよ。いつも三杯飯かっ食らうはじめが、昨夜からなーんも食ってないの」
「なんにも?」
「そ」
 呆れたように肩を竦めるフミだった。
「はじめちゃんが?? それって、病気じゃない?!」
 慌ててはじめの額に手を当てる。
「ちょっと、高いかな」
「こんくらい、びょーきじゃねーって」
「寝てたほうがいいよ、はじめちゃん」
「どーってことない」
「でも、食べないと治んないよ」
「ほしくねーの」
 空腹を感じないのだ。
 それが不安のもとだった。
 (オレ………)
 イヤイヤをするように、首を振る。
 不安なようすではじめを見ている美雪のことも、フミのことも、はじめの意識からは消えていた。


※ ※ ※


 散った花びらで、地面が桜色に染まる。
 拾った花びらは、おままごとに、針と糸で首飾りや髪飾りに。もしくは、そっと本の間にしのばせて押し花を。
 風に舞う花びらを追っかけて、子供たちが喚声をあげる。
 その、夢幻郷のような、光景。
 しかし、そこから離れた桜の森では、今にも諍いがおころうとしていた。
 桜さまへの奉納舞台の舞人に選ばれることは、名誉であり晴れがましいこと。踊り上手でなければならず、その上村一番の美男でなければならない。もちろん、祭りが終われば、女の子たちにもてるのは必定で。しばらくの間は、この世の春を謳歌できるというものだった。
 舞台に立つには、七日七晩の潔斎が必要で。三日三晩を含めると、十日十晩の潔斎。
 稗粟麦…などの五穀粥と少しの野菜。魚と肉などは口にしてはならない。それで、過ごすのだ。
 若者にはきつい十日間。しかし、後を思えば我慢もできる。動機は不純だが、それでも、桜さまは怒ることはない。その証拠に、これまで村は平穏無事に水害にあうこともなくきているのだ。
 (なんだって、オレが選ばれた年に!!)
 昭良は腹立たしさに、桜の木を蹴飛ばした。
 ひらひらと落ちてくる花びら。
 花びら越しに、舞台の上で練習をしている由良間が見える。
 (我が物顔だなくそっ!)
 しかし、踊りの腕では、
 (負けない)
 と、思うのだ。
 昨夜の楽師にくらべれば、格段に人間臭い重怠さがある。そんな動きで京で一、二を争っているというのだから、若手たちの実力など知れようというものだ。
 (楽師ふぜいがっ!)
 幕府が解体されて、かつては能や歌舞伎などの後援をしていた大名たちの力も以前ほどではなくなった。どこの大名公家にしても、道楽で楽師の後援をできるほどの財力はない。だから、楽師たちは新たなパトロンを求めて汲々としているはずなのだ。
 (腹が立つ)
 昨夜の楽師が舞うというのなら、我慢もできた。あの楽師に適うとは思わない。足元にも及ばないだろう。しかし、相手が由良間では、苛立たしさに拍車がかかる。 
 (田舎田舎とバカにしてんだから、さっさと帰ればいいものを)
 まだどちらが舞うか決まっていない。
 その苛立ちもあった。
 自分たちのほかには誰もいない、神社の境内。
 気が散るといってとりまきたちを追い払った由良間と、隠れてそれを見ている自分だけ。
 吹き抜ける風。
 舞い散る花びら。
 (なんてきれいなんだろう。こんなふうに舞えたら………)
 (舞いたい。誰よりもうまく)
 (由良間が、怪我でもすれば………)
 昭良の心にふつりと芽生えた、害意。
 (そうすれば、こんな思いなどしなくてもすむ)
 昭良がそう思って踏み出したのとほぼ同時に、由良間が舞台から飛び降りた。


(え?)
「きゃっ」
「地震だっ」
 ぐらりと、大地が揺らいだ。
 花曇りの空が暗く掻き曇り、黒味をおびた雲が渦を巻く。
 風が地上を打ちすえる。
 木々がしなり、枝をもぎ取られ、花を散らされる。
「な、なにこれ………」
 美雪の不安そうな声。
「こわいよ〜」
 フミは、震えて庭木にしがみついている。
「きゃー」
「いやー誰かっ」
 さきほどの比ではない揺れに、その場から逃げられない。
「危ないっ」
 美雪を突き飛ばすはじめ。
「きゃーはじめちゃんっ!!」
「はじめっ!!」
 ガラガラと音をたてて瓦がはじめの後頭部を直撃した。


昏い空間。
 ぼんやりと目を開けたはじめは、
(死んだのか、オレ)
「死んでいませんよ。君は…ね」
 含むところのありそうな、声。
 ゆるりと声の主を見る。
「たかと・お………」
 声の主の金のまなざし。
「ここ、どこだ」
 後頭部が痛い。
 さすりながら起き上がったはじめは、周囲を見渡した。
 何も、見えない。ただ、高遠だけが、見える。
「わたしの家ですよ」
「家?」
「ああ、明かりが必要ですか」
 そう言い終えるか終えないかの瞬間、ポッと軽い破裂音が響いた。と、周囲が明るく照らし出された。
 板敷きの広い部屋の中ほどに、薄い布で囲まれた畳を敷いた空間がある。そこに、はじめは横たえられていたのだ。
 巻き上げられている御簾。その向こうは、夜。紫紺の夜空に、金銀の砂をこぼしたような星がまたたく。しかし、月はなかった。流れる小川、咲き乱れる白い花々。
「すっげー」
 (きれいだ)
「水を飲みますか」
 差し出される湯のみ。
 ぼんやりと受け取り、一息に飲み干す。
 甘く癖のない冷たい水が、食道を通り抜け胃の腑におさまる。
「なんだってオレこんなとこにいんの?」
 疑問。
「こんなとことはご挨拶ですね。助けてあげたのですよ」
 穏やかな、高遠の雰囲気。
「助けて? ああ。このコブのこと」
 後頭部をなでさする。位置が位置だけに、下手をすれば死んでいたかもしれない。
「ありがと」
 とりあえず礼を言うはじめに、
「それも間違いではありませんけどね。母君が、目覚められたのですよ」
「はい?」
 高遠の返したことば。
 意味をとるまでに、かなりの時間が必要だった。
(さっき高遠はなんて言った?)
 『死んでいませんよ。君は…ね』
 はじめの血が下がる。
「見ますか?」
 青ざめたはじめの目の前に、高遠が水晶珠を差し出した。
 食い入るように見つめるはじめの視線の先で、怯え逃げ惑う見知った顔々。
 すべてを呑み込もうと迫る、巨大な津波。
 海からは遠く離れた山間の土地に、どうして津波が迫るだろう。その悪夢は、まさに、神との約定を人間が破ったための、報いだった。
「な、ん、だよこれっ」
 高遠の襟首を握りしめ、問い詰める。
「言ったでしょう。母君が目覚められた…と」
 水晶珠に映し出された景色が変わる。
 それは、境内だった。
 いつもよりもいっそ静かな境内は、血に染まっていた。
 倒れている2人の若者。
 豪華な能装束もまた、血にぬれて。
「あれは…」
 はじめよりも一つ年上の村長の孫も、倒れている。
 2人とも、疾うに息をしていない。
「約定は破られました。母君の祭りは血で汚された。血は母君を目覚めさせました。村は水に沈むでしょう」
 淡々と、なんの感情もこもらない口調。
「そ、そんな………こと」
 美雪が、フミが、両親が逃げ惑っている。
 自分を呼ぶ声が、悲鳴に混じって耳を射る。
 大好きな幼馴染み、生意気な従妹、煩わしいと思いつつも愛している両親。彼らが、水に呑まれる。呑まれてしまえば、おそらく、助からないだろう。
(そんなのっ)
 生まれ育った土地、馴染んだ人々。すべてを呑みこみ、そうして、水は、湖となるのだろうか。
 自分独りをとり残して……。
 からだが大きく震える。
「た、助けてくれよ。あんたも、竜神さまなんだろ。桜さまの子供なんだろ。だったら、たのむ。なんだって、あんたの言うとおりにするから。だから、だからっ、みんなを助けてくれよぉ…………」
 小刻みに、震える。
 全身の震え。
 どうすればいいのか、わからない。
「たのむ。たのむから。たかとおっ」
 金の瞳を覗きこむ。
 感情の読み難い、欝金のまなざし。
「………そんなに、助けたいですか」
「助けたい。助けてくれよ。お願い。お願いだから。…オレ独り残されるくらいだったら、オレが死んだほうがマシだ」
 必死に自分を掻き口説こうとするはじめ。
 今にも泣き出しそうな、表情。
「君の家族は、君のことを忘れてしまうでしょう。君という存在、そのすべての記憶が、家族から奪われても、……それでもかまわないと?」
「いい! かまわない」
「淋しいですよ。それでも?」
「みんなが助かるんだったら、それでいい!」
「自己犠牲は、そう簡単に口にするべきではありませんよ。後で悔やまないとも限らない。あの時、あんなことを言わなければ良かった――と」
「いいって言ってんだろ! みんなが助かるんだったら、オレはなんだっておまえにやる。オレを喰らいたいと言うんなら、喰らえばいい」
 がたがたと震えながら、それでも決然とした態度で、はじめが高遠を見据える。
「わかりました。自分の妻の願いを叶えるのは、甲斐性というものでしょう」
 高遠がはじめの手をそっと襟首から離す。と、次の瞬間には高遠の姿は消えていた。


水晶珠の中、山間の村に津波が迫る。
 逃げ惑う人々。
 津波の背後に、白い竜の姿を認めたものがどれほどいただろう。
 ましてや、少し遅れて現われた黒い竜の姿を認めたものは、それよりも少なかったのにちがいない。
 絡まりもつれあう2頭の竜。
 しかし、すべては一瞬の後には掻き消えた。
 すべては白昼夢だったのだとでも言うかのように。
 はじめは、食い入るように水晶珠を凝視していた。
 2頭の竜が消え、津波が消える。
 パタパタとその場に倒れる人々。気絶しているだけなのだと、知れる。その中にはじめは両親と従妹と幼馴染みを認めた。
(よかった………)
 鼻が痛くなり、涙腺が熱をはらむ。
 もりあがった涙に、水晶珠の中の景色が歪む。
 堪え切れなかった涙が、水晶珠に滴り落ちた。
「何故泣くのです」
 背後から抱きしめられ、はじめはからだを固くした。
「あなたの望みどおり、母君は再び眠りにつかれました。人間たちが再び愚かな真似をしないかぎり、母君が目覚めることはないでしょう」
「ごめん。高遠は母さんに起きていて欲しかったんだよな」
 安心したことで、はじめはそこに思い至ったのだ。
「竜神の眠りですからね。眠っていようと、意識は常にあらゆることを理解しています。竜の姿では動けませんが、その気なら人に化身して出歩くこともできますから。さして不自由はないんですよ」 
「そういうもんなんだ」
 ふ〜ん、と、納得するはじめだった。
「納得してくれたところで、わたしとの約束を果たしていただきましょうか、はじめ」
 故意に甘さを含ませた声音で名をささやかれ、背筋が震える。
「え? え? あっ」
 首筋に高遠のくちびるが当てられた。きつく吸われ、電流が走ったように全身がおののく。
 きものの合わせをくぐり、白い手が胸元へと差し込まれた。胸の小さな花芽を抓まれ、はじめが身をよじる。
「君は、ここでわたしと暮らすのですよ。永遠にね」
 はじめが目を瞠らく。
「そ、んな、ム…リだよ」
「約束をたがえるというのですか?」
「ち、違う。そんなこと言ってないって」
 高遠の手を押さえ、からだを離す。
 高遠に向き直り、
「永遠なんてムリに決まってんだろ」
 荒い息の合い間に、言う。
「た、ただの人間が、どーやって、永遠にあんたといんだよ。オレのほうが先に死ぬに決まってんじゃんか」
「ただの人間? きみが、ですか」
 クスクスと高遠が笑う。
「な、なんだよっ! オレのどこが、人間じゃないってんだよっ!!!」
 はじめの手を引き、鮮やかに抱き込む。
 膝の上に抱きしめる体勢で、耳元でささやく。
「竜神の気を2度も受けておいて、人間でいられるわけがないでしょう。君は、年をとりませんよ。死ぬこともありません」
「あ、あんた、なんてこと、それを知ってて、オレにあんなことしたって?!」
「そうですよ、だから、永遠に一緒に暮らせますよ。よかったでしょう」
「な、なにがよかったでしょうだっ。ばかっ。へんたい。高遠のバカやロー!!!」
 腕の中で罵詈雑言の限りを尽くすはじめを抱きしめて、高遠は楽しそうに笑った。


倒れていた村人たちが一人一人起き上がり、そうして家路に着く。
「フミちゃん、起きて」
 美雪にからだを揺すられて、フミが起き上がる。
「あれ、美雪おねーちゃん」
 キョロ…と周囲を見渡すフミに、
「どーしたの?」
 美雪が尋ねる。
「はじめは?」
「はじめ? だれだっけそれ」
「美雪おねーちゃん? はじめだよ、はじめ。わたしの従兄で」
 フミが、はじめの両親を見上げる。
「……おかーさん、はじめだよ、はじめ」
「………フミちゃんに従兄なんていないでしょう。ねぇ? あなた」
「…ああ。いないよ」
「夢でも見たんじゃない、フミちゃんってば」
「そかな?」
「そうだよ。でも、はじめって、なんか懐かしい響きのする名前だよね」
 刹那全員の胸を過ぎったのは、同じ少年の顔だった。
 しかし、それを知るはずもなく。
 それぞれがなにか大切な存在を失くしたような喪失感に囚われながら、家路に着いたのである。


はじめは水晶珠を覗き、大切な人たちが家路に着いたのを見てそっと胸を撫で下ろした。
「さみしいですか」
 高遠の素肌の感触を背中に感じながら、うなづく。
「しかたないよな。約束だから」
「ええ。契約は絶対ですよ。それに、君には、わたしがいるでしょう、はじめ」
「ああ」
「いつまでもこんなものを覗いていないで。さあ」
 水晶珠をはじめの手から取り上げ、高遠がはじめを抱きしめる。
 はじめは、高遠にからだをあずけると、瞼を閉じた。


こうしてひとりの少年が、人知れず黒い竜の棲み処に迎え入れられたのである。
おわり
start 12:51/2001/29/03
up 15:31 2001/04/17
あとがき◆
 『桜闇』の最初のバージョンということですね。まあ、途中で挫折して、『桜闇』ができたわけです。これが、ああなる。
 興味がある人は、時猫さんのサイトで開かれている桜キャンペーンにお邪魔してみてください。もう一つの高遠竜神さまと村の少年はじめちゃんに出会えるでしょう。
 こっちのほうが、ヤらしいかな?? どうだろう。
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