夏草

 酒盃を重ねること幾杯目であったろう。
 独り手酌で呷るワインは、いっかな酩酊を運んではこなかった。
 待ちびとは現われない。
 またひとつグラスを重ね、高遠は口角を引き上げた。
 深紅の滴がするりと喉をぬけ、胃の腑で炎となる。全身を灼こうとするかのような、刹那の焔である。目に見えることのないフレアは瞬く間に勢いを失い、チロチロと臓腑を舐める燠へと変化した。
 しんと静まりかえった離れの和室は、いつしか宵闇に閉ざされていた。しかし、高遠には灯をつける気はなかった。
 眺めを楽しむために、縁側のガラス戸も障子も開け放ってある。
 庭を挟んだ母屋から、ほかの客たちの騒ぐ声が聞こえてくる。庭にもうけられている人工の小川のせせらぎと蛙の鳴き声とに交じるさんざめきが、離れの静寂を一層のこと強調する。
 重苦しいほどに暗い夜の空には、またたく星のひとつも見当たらない。
 庭をぼんやりと照らしているのは、小川のふちの燈籠と、母屋からもれている明かりだけだった。
 まとわりつく湿気と酔いの熱とに、汗がにじむ。高遠は夏の浴衣の衿を、無造作にくつろげた。
 風ひとつない夜の、なまあたたかな空気が、肌を舐める。
 不快さを払おうと、高遠がデキャンターに手を伸ばす。
 ふと、何かが視界を過ぎり消えた。
 もう一度。
 闇の中、頼りなげに揺れながら光の尾がながれてゆく。
 気がつけば、黄や緑の儚い流れが、ゆるりとたなびいては消える。
「ホタル……か」
 ホタルは死人の匂いがする――――そんなことを言ったのは誰であったのか。
 不意に思い出したそのことばに、高遠の脳裏によみがえったのは、いまだ癒えきらぬ苦痛だった。
 ――――悲しみだった。
「―――」
 音にせず、つぶやく。
 絶望が、苦くにじむ。
 高遠は、かけていた眼鏡を外し、天井を仰いだ。
 どれくらいそうしていただろう。
 ひとの気配に、高遠の全身に緊張が走る。
 顔を正面に向けた高遠は、己が目を疑った。
 高遠のひとみが、大きく見開かれてゆく。
 彼の全身から、力が抜ける。
 壁を背に、高遠は、呆然と、そこに佇む人影を見上げていた。
 そのひとは、裾に夏草をあしらった白い単をまとい、やわらかに笑んでいた。
 つい―――と、ホタルが飛んだ。
 ホタルの描く軌跡が、まるで、天女の羽衣のように、彼女にまとわり消えてゆく。
 知らず、高遠は手を差し伸べていた。
 呼びかけは音にはならず、口の中で消えてゆく。
 ゆるり――と、高遠の差し伸べた手を、彼女が両手で包み込む。
 たしかなぬくもりを感じた気がして、高遠は、空いたほうの手を彼女の頬へと伸ばした。
 なめらかで、やわらかな感触。
 まるで猫のように、彼女が、高遠の手に頬をすりつけた。
 そうして、
 遙一――――
 ―――愛しているわ。
 はたりと、高遠の手が膝の上に落ちる。
「お母さんっ」
 まるで夕顔がほころぶような笑みを残して、彼女は、消えた。
  残された高遠は、ただ呆然と、ホタルが乱舞する闇を視界に映していた。
  
「こちらでございます」
 やがて聞こえてきた女将の声に、高遠は、我を取り戻した。
 待ちびとがようやく到着したのだ。
 足音が近づいて来る。
 高遠は、眼鏡を取り上げ、かけた。
 女将が灯をつけるのをそのままに、高遠は、グラスにワインを注いだ。
 そうして、
「遅かったですね。金田一くん。そんなところに突っ立っていないで。……ああ、日本には、こんなことばがありましたね。かけつけ三杯やってください」
 満面の笑顔で、高遠ははじめにグラスを差し出した。


 小川のせせらぎと蛙の鳴き声に、時折り交じるさんざめき。
 夏草に宿ったホタルが、静かに、まだ見ぬ恋人にラブコールを送っていた。

2003/06/28


あとがき

 時猫さまに差し上げさせていただいた、SS。スライドなんですけどね。
 サイト閉鎖のため、こちらにアップ。
 時猫さま、おつかれさまでした。
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